三好達治bot(全文)

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「上海雑観」

 十月○○日午後五時長崎出帆、翌󠄁○○○日正午頃船󠄁中に次の如き揭示が出された。

今日午○○時ヨリ敵機空襲區域ニ入リマスカラ本船󠄁自衞上燈火管制ヲ施行シマス。船󠄁客各位ハ右ニツキ充分御注󠄁意󠄁下サイ。上海丸

 同日午○○時頃吳淞沖に停船󠄁。風なく波も穩やかで空にはぎつしり星が出てゐる。その上やがて海上に大きな月が浮󠄁び出た。これでは折角の燈火管制も無效に近󠄁からうなどと案じながらふと顧󠄁みると船󠄁尾の方角間近󠄁な距󠄁離に○○○らしい浮󠄁城の姿󠄁を認󠄁め得てひと安心、なほ瞳をこらして見るとその後方に○○○らしきものの船󠄁影が幾つか數へられる。いづれもみな航行をやめてゐるのである。
 ――この間はここまで敵機がやつてきまして○○○から高射砲󠄁を射ちました。
 とボーイが話して行く。
 やがて數刻して夜が更󠄁けると、○○粁餘りの遠󠄁方に二た處火炎が起󠄁つた。一方は火勢が頗る旺んでいつまでも炎々と燃えつづき、一方は微かにそれと認󠄁められるばかりのものであつたがやがてに闇に沒してしまつた。砲󠄁聲が聞えてくる。靑白色の閃光が遙かな地平󠄁線の處々に明󠄁滅する。船󠄁客達は悉く半舷に集つて、とりどりの評󠄁定をしながらそれを見物してゐるのである。この見物人の間には、先に上海を逃󠄂げ出して○○あたりに避󠄁難してゐた人達のうち、恐󠄁らく生計のためであらう、再び海を渡つて彼の地に還󠄁らうとする者が少くない。通󠄁りすがりに彼らの雜談の一片を耳にしただけでもだいたい事情󠄁は推察が出來るのである。これらの人々は決して屈强な若者達壯者達ばかりではない。その身なりや擧止から一見して彼女達の職業を判󠄁斷するに難くないうら若い女性達もまじつてゐる。彼女達は彼女達の住󠄁み慣れた土地へ歸つてゆくのである。彼女達の職業を求めて還󠄁つてゆくのである。
 夜半を過󠄁ぎて、さしもに衰へを見せなかつた火炎もいつの間にか消󠄁滅して、砲󠄁聲も杜絕え、閃光もまた認󠄁められなくなつた。
 翌早朝󠄁停船󠄁地を發して約󠄁一時間の後、前󠄁方に濃霧の停頓󠄁せるため、船󠄁は再び航行をやめた。甲板には秋の陽ざしが一杯に照りつけて、頭上の空は眞靑に澄んでゐる。たいへん氣持のいい好晴日には相違󠄂ないが、上海へは初めての旅である私にとつては、前󠄁途󠄁の不案內が何とはなし私の氣持を騷がせるので、折角の陽ざしも妙に不安心なまぶしいものに思はれた。船󠄁は濁水滔々たる上に氣永に停つてゐたが、やがて進󠄁航。
 兩岸に建󠄁築󠄁物が見え始める頃には、右舷の方には進󠄁行中の○○○や休養󠄁中の兵士の姿󠄁が散見する。勿論その度に甲板には歡呼の聲が湧くのである。そこに斷續して見える建󠄁築󠄁物は一つの例外もなく悉く砲󠄁擊を蒙つて破壞してゐる。多くは倉庫や工場の類らしい建󠄁築󠄁であるが、それ位のことがわづかに想像のつく位の程󠄁度にまで根こそぎ破壞されてゐるのである。敵前󠄁上陸の敢行されたのはあそこであらうここであらうといふやうな評󠄁定が暫く續く。ある處では赤煉瓦の大きな煙突のそつくりそのまま孤立してゐるその眼三分位のところに砲󠄁彈が命中して、うまい工合に圓窓を穿つて、行過󠄁ぎに向ふの空がちらりと見えた。護岸工事の毀れたところや、敵軍の燒却した碼頭や、沈沒船󠄁や、壁だけになつた建󠄁物や、それから何とも譯の分らないものの堆積や、それらが次々に眼前󠄁を掠めてゆく。將校を乘せた馬が二頭堤防の上を步いてゐる、ゆつくりと尻尾を動かしてゐるのまで見えるのである。自動車を驅るのに最も快適󠄁だといはれてゐる軍工路の美しい並木はやはり七分まで薙ぎ倒されて、無殘な樹幹がぽつんぽつんと杭のやうに續いてゐる。これはまた私の眼をひとしほ痛ましめた。江南秋色空落落莫、と位の話ではない。
 反對側の左舷に向つた眺望󠄂は、ただ平凡に工場地帶らしい建󠄁物の散見するつまらないものであつたが、水邊近󠄁く手車を操つてゐる支那󠄁人の姿󠄁を見かけたのは、土地柄󠄁を辨へない私の眼には意󠄁外であつた。頭上に日本の飛行機が飛び眼前󠄁に日本の艦船󠄁が航行してゐる間近󠄁のところ――甚だ間近󠄁な眼と鼻󠄁の距󠄁離で、彼らは悠然と――少くとも打見たところは悠然と彼らの生業に就いてゐるのである……。なるほど支那󠄁人といふ者は大した國民である。私は何とはなしに彼らの姿󠄁に愕いた。私は若い頃ある種の老人の生き方に就ては屡々不氣味な愕きを感じたものであるが、それに似た一種不可解な愕きを今この國民の前󠄁で覺えるのである。ここではこれ以上詳しく說くまい。私の短い上海滯在中に、なほこの問題には恐󠄁らくきつと立戾る機會があるだらうから。
 午前󠄁十時上海着、同盟󠄁通󠄁信社の車に投じて同社記者溜り「新月」に到り、更󠄁に舊英租界太北ビル同社上海支局事務所󠄁に到る。支局長山上正義氏に刺を通󠄁ずるためである。
 晝食を喫󠄁してゐるとしきりに窓外に爆音󠄁が聞える。事務所󠄁內の人々は一瞬仕事をやめてただ顏つきだけで「やつとるぞ」といふやうな容子をする。私もそれに釣󠄁りこまれて「やつとるぞ」と思ふ、だが何をやつとるのか詳しい樣子は嚥みこめない。そこでただぽかんとして力めて落ちつき拂つた顏つきをしてゐると、
 ――屋上へ出て見ませう。
 と勸められる。乃ち人々の後に從つて屋上に出て見て漸く事情󠄁が嚥みこめた。
 閘北の空浦東の空に、前󠄁者には二機後者には四機の我が飛行機の旋囘してゐるのが、指呼の間に認󠄁められたのである。
 ――落しますよ、あすこで落しますよ。
 さう注󠄁意󠄁をされて瞳を凝らして眺めてゐると、閘北の空の編󠄁隊󠄁中の一機の腹から、キラリと何ものかが光つて落ちた。一直線に落ちると見る間に、すぐにそれは私の眼には見失はれてしまつた。一瞬二瞬、編󠄁隊󠄁は機首を揃へて大きな圓を描いて右に旋囘しようとする、さうしてなほ一二瞬を過󠄁ぎた頃、ドカンと轟音󠄁が空氣を顫はす。敵の機關銃がタンタンタンと連續音󠄁を轟かす。勿論我が飛行機を射擊してゐるのである。翼を連ねた攻擊機は既に機首を旋らし終つて先の地點には機尾を向けて次第に距󠄁離を增してゆく。その時分に爆擊地點――閘北一帶の方角から、黃褐色の砂塵が濛々と卷き起󠄁つて、ビルディング街の高層建󠄁築󠄁の櫛比した間に入道󠄁雲のやうに見え始める。その噴煙は天に冲しつつ風に靡き、やがて空一面に擴がつて霞のやうに薄れてゆく。攻擊機はと見ると、遙かの空に小さな機影を連ねて、整然とした編󠄁隊󠄁のまま、大圓形を描きながら再びこちらへ歸つてくる。
 ――歸つてきましたよ。
 と誰かが云ふ。機影は見る見る大きくなる。發動機の音󠄁が聞える。機影は目前󠄁に逼つてくる。
 ――落しますよ、あすこでまた落しますよ。
 さういふ私語が起󠄁ると間もなく、敵機關銃の音󠄁が聞え、先程󠄁と寸分違󠄂はない位置で編󠄁隊󠄁は徐ろに機首を轉ずる、爆彈は既に投じられたのである。今度は何も見えなかつた。しかし間もなく轟音󠄁が起󠄁り、砂塵の入道󠄁雲が、前󠄁囘と全󠄁く同じ方角、同じビルディングの肩󠄁のあたりから見え始める。
 ――高度はどれ位でせう。
 ――さあ、二千米位でせうかな、あれ位の上空から、針の孔で狙ふといふんですからね、たまりませんよ。――ダイヴィングはやらないんですか。
 ――近󠄁頃は餘りやらないやうですね、あれで結構󠄁命るんですから。
 そんなことを喋べりながら浦東の方の空を見ると、一機が今しも見事なダイヴィングを始めてゐる。六十度ばかりの急󠄁角度で、爆音󠄁をたてながら驀地に下ろしてくるのである。
 ――掃󠄁射です、敵陣地の掃󠄁射をやつてゐるのでせう。
 しかし機關銃の音󠄁は聞えない。距󠄁離が遠󠄁いためである。ただ掃󠄁射を終つて上空に引きかへす時の激しい爆音󠄁が大きな唸りとなつて聞えてくるばかりである。その空にゐる他の一機は、上空から爆彈を投じてゐる。砂煙が揚つてやがて轟音󠄁の聞えてくるのは、眼前󠄁の閘北のものと全󠄁く同じ要󠄁領である。
 閘北の方では、更󠄁に三囘爆擊が繰りかへされた。さうしてその○機編󠄁隊󠄁は、一直線に○○基地に向つて歸つて行つた。
 地圖で見ると、太北ビル閘北の距󠄁離は約󠄁二粁、全󠄁く眼と鼻󠄁との間である。
 同日午後山上氏の東道󠄁にてパレス・ホテルに投じ旅裝を解く。ホテルは例のカセイ・ホテルに向合つて南京路の街角を占めてゐる。窓から見ると、カセイ・ホテルの表玄關は既に全󠄁く修復されて慘禍の跡を止めてゐないが、六階あたりの石壁中補綴のあたつた部分があり、その一區劃の石材の眞新らしいのが異樣な形見を殘してゐる。爆彈は路上玄關前󠄁に墜󠄁ちたのだが、その餘波がそこまで及󠄁んだのであらう。當時の慘狀に就てはここに說くまでもあるまい。今私の眼前󠄁にある光景は、しかし全󠄁く平常に復して、電車、繹自動車、人力車等の交通󠄁機關も絡繹として織るが如くに行きかひ、徒步の通󠄁行者も陸續と踵を接して續いてゐる。その繁華の程󠄁度は、東京大阪等のどんな區劃にも比類のないものであり、何となしにその殷賑の性質が日本內地のものとは少からず趣きを異にしてゐるかのやうに見うけられた。上海は物慾の都である、ここは文化󠄁の都市ではない、さういふことが、土地不案內な私の眼に一見して直ちに看取されるのである。さうしてこの所󠄁謂ビジネス・センターの繁華殷賑も、その物慾葛藤󠄁の盛󠄁上りとしての外貌を露骨に示してゐるのである、――少くとも私の眼にはさう見えた。私は暫くの間、窓下の光景を飽󠄁かずに眺めてゐた。そこにはその地盤としての支那󠄁とその上に積み重ねられた近󠄁代商業主󠄁義との二重の幻影がこんがらかり合つて蠢動してゐるやうに思はれた。この時、私が日本といふ國を顧󠄁みてそれをたいへん淸潔󠄁な美しい國だと思つたのは事質である。私は支那󠄁や支那󠄁人やこの上海の都などに就て全󠄁く無智な一旅行者にすぎない、從つてここではこれ以上のことを追󠄁及󠄁する力は私にはない。しかし私の直感――杜撰であるかも間違󠄂つてゐるかも知れないがその直感を云はせて貰へるなら、支那󠄁全󠄁土或は上海に於て日支兩國人間に間隙不和の事のあるのは、支那󠄁の側にも一つの根本的󠄁な缺陷、日本人の一種單純な理想主󠄁義的󠄁な氣質を受󠄁入れるといふ點で全󠄁く盲󠄁目的󠄁不感症に近󠄁い缺陷があるのではないかと、推測せざるを得なかつた。私は唯街上一刻の風景を顧󠄁望󠄂しながら、これは日本人にとつては困つた相手であると思つたのである。さうして、もし果してさうなら、私達は相手を充分に理解することによつて相手の無理解を扶けてやらなければならないだらうとも考へたのである。さう考へると、私は支那󠄁人といふものに對して無限の興味の湧き來るを覺えた。勿論私の(――敢て云はせて貰へるなら、私達現代日本の靑年達の)無智や無關心を、永い間の怠慢の結果を孔に入りたいほど恥ぢながら。
 頃刻の後再び山上氏に伴󠄁はれて同盟󠄁社に到る。今度はバンドをぶらぶらと步いて行つたのである。街上に出てみると、流石に身邊の異樣な空氣が甚だ薄氣味惡く全󠄁身の上にのしかかつてくるやうに思はれる。私はまづなるべく眼立たないやうな態度で步かうと考へる。通󠄁行者にぶつかつたり、他人(ひと)の足を踏んだりしては大變だと思ふ。さう思ふとどうしてなかなか自然な氣持では步けない。この邊を日本人が步くやうになつたのは、つい最近󠄁のことですよと、先刻山上氏が話してきかせた、それを思ふと、たいへんなところへ伴󠄁れだされたものだと感ぜざるを得ない。「なあに大丈夫ですよ」と山上さんは云つてゐたが、どういふ風にどれ位の程󠄁度に大丈夫なのか私にはとんと腑に落ちない。私はさしづめ沈默を守つてゐることにした。うつかり私達の言葉を聞きとがめられたりなどしては、都合の惡いことになるだらう、喧嘩でも吹きかけられてはおしまひだ、さう思ふと路上の支那󠄁人が、悉く私達二人の方を白眼視してゐるやうに思はれる、事實さうに違󠄂ひあるまい、彼らは妙な眼つきをしてゐる、あれが彼らの普段の眼つきであらうか、それなら私の眼つきなどさしづめ異樣に見えるに違󠄂ひない、困つたことだがこいつは急󠄁にはどうにもならない、さういへば步き方だつて彼らのやうな步き方はとても私には出來さうもない、そんな埒もないことを考へながら、山上さんの樣子を見ると、落ちつき拂つて口笛などを吹いてゐる。私の氣持は益々ぎごちなくなる一方だつた。稅關の前󠄁まで來かかつた頃、河岸つぷちで何とも知れない騷ぎが起󠄁つた。激しい轟音󠄁が妙な方角に聞えてゐる。何だらう、私は一瞬驅け出したいやうな恐󠄁怖を覺えた。
 ――浦東を射つてゐるんです、あすこの敵が河つぷちまで出かけてきて、機關銃で○○を射擊するので、そいつを追󠄁つ拂つてゐるんです。
 さういはれて私にも事情󠄁が噓みこめた。それにしても○○の○○砲󠄁は、ほんの手を伸せば屆くほどの距󠄁離の、二百米突ばかりの前󠄁方の敵を射擊してゐるのである、奇妙な戰況といつてよからう。奇妙なのはそればかりではない、道󠄁路を橫切つて、こちら側の河岸――稅關前󠄁の碼頭に走せ集つた群衆たちは、これまた二三百米突の距󠄁離から、その奇妙な眼前󠄁の戰況を、奇聲をあげて見物してゐるのである。群衆といふのは、勿論悉く支那󠄁人である。さうしてその後ろの步道󠄁を、私たち敵國のジャーナリストは肩󠄁を並べてぶらぶらと步いてゐるのである。何といふ奇態な情󠄁景だらう、私には眼前󠄁の現實を信ずるのに骨が折れた、さうして私は私の恐󠄁怖心から逃󠄂れ出ることが出來なかつた。南京路から愛多亞路まで、自動車では一跨ぎだつた距󠄁離が、何とその時は果しもなく遠󠄁く思はれたことか。
 この夜敵の飛行機は數囘虹口上空を襲つてきた。その度に猛烈な防空射擊が開始される。旅の疲れでぐつすり睡つてゐる私は、眼をさますとすぐ、突嗟に「ここは戰地だぞ、上海だぞ」と自分に呼びかける、さうして窓際に馳けつけた。窓からは何も見えない、ただ軍艦○○の甲板から上空を射擊する銃砲󠄁火のその片鱗だけが、建󠄁物の間に見えるのである。さうしてそれも三分間とは續かない、敵機はすぐに爆擊を諦めて引かへしてしまふのである。あたりはまた森閑とした夜にかへる。私もまた寢床にかへつて、次の空襲までの幾時間かを、ぐつすりと深く睡りこんだ、遙かな砲󠄁聲を聞きながら。
 翌󠄁朝󠄁寢床を離れて、直ちに窓際に行つてみると、勿論○○は昨日のままの姿󠄁で昨日のままの位置に悠然と錨を下ろしてゐる――。
 この日一日私はホテルに籠居してゐた。上海日報社の後藤󠄁和夫氏日高淸磨󠄁磋氏と、已むを得ない理由のためにつひに聯絡するを得なかつたからである。ホテルのボ―イ達は居室のものも食堂のものも悉く皆支那󠄁人である。それを思ふと私はまた昨日の恐󠄁怖心にとりつかれさうである。止宿中の日本人達もみんなどこかへ出かけてしまつた。私もまた散步にでも出かけてみようか、さうは思ひついても到底帽子をとり上げる勇氣はない。窓下の風景を眺めてゐるだけでも甚だ心細いのである。仕方がないのでぐつすりと書寢をしたらいささか氣持が落ちついた。この夜は空襲もなく靜肅。
 翌󠄁二十四日乍浦路「おきな」にて晝食を喫󠄁す。干鱈󠄁と味噌汁と澤庵、飯は丼にて二杯を代ふ、甚だ美味、その上腹をこはしさうな心配も絕無、代價六十仙。「おきな」はもともと喫󠄁茶店の造󠄁りつけで、椅子卓子壁間の裝飾󠄁等よろしき設備になつてゐた。そこで兵隊󠄁さんや新聞記者が入れ代り立ち代り味噌汁飯を食つてゐるのである。震災直後の東京風景を御存知の方には、その雰󠄁圍氣は容易に想像がつくであらう。街上の騷然たる景況もまた震災當時に彷彿としてゐる。茲には詳しく說いてゐる暇がないが後に再說するであらう。
 午後海軍航空隊󠄁○○基地を訪ふ。○○大學脇の小ゴルフ場を充用した甚だ狹つ苦しい飛行場である。そこに約󠄁○○臺の精銳機が集つてゐるのである。機翼と機翼とが相觸れんばかりにぎつしりと押合つて屯してゐる風景は、廣々とした飛行場を豫想してゐた私の眼には甚だ意󠄁外であつた。作業服󠄁を着た兵士達が、それらの機體に油を差したり、部分品の修理をしたり、操縱を試みたりしてゐる一方、準備の成󠄁つたものは猛烈な砂塵を捲き起󠄁しながら、右に左に場內の隙間を縫󠄁つてのろのろとした步き方で出發點に向つてゆく、出發點になつた縱長の空地では、次々と爆音󠄁をあげて○機編󠄁隊󠄁の一組づつが、滑走離陸を續けてゐる。さうしてその合間々々に、歸還󠄁機が入つてくるのである。その混雜とその秩序とは、それを二時間ばかりも眺めてゐた私の眼をあかしめなかつた。勿論出發するものは、悉く翼下に爆彈を備へてゐるのである。
 ――戰爭がすんだら閘北に行つて鐵屑を掘り出し給へ、いい商賣になるぜ、○○噸󠄁位は落ちてゐるから。
 新聞記者席の天幕に姿󠄁を見せた某少佐は、戰況發表の合の手にそんな冗談を云つて若い記者達を笑はせてゐた。この日午前󠄁中に南京空爆を終つて歸還󠄁した南鄕大尉は、飛行服󠄁のまま記者達に簡單な戰況を說明󠄁した。時に午後三時半󠄁、さうしてその發表解說は、この日の夕方六時頃戰況ニュ―スとしてAKから放送󠄁されたのを、私は私の宿舍で再び聽取した、それらのニュースは一言一句全󠄁く精確に傳達されてゐるのに感心しながら。南京上空にたまたま飛來したノースロップ一機が我軍の包󠄁圍をうけて擊墜󠄁されたといふあのニュースである、――讀者の記憶にもまだ新らしいことであらう。
 二十五日は、珍らしく午後三時頃に、敵の迫󠄁擊砲󠄁彈が虹口地帶に飛來した。私はその時用たしに出て街上をぶらぶら步いてゐたが、日沒前󠄁は敵彈は來ないものと聞かされてゐたので、現在眼の先百米突ばかりの近󠄁距󠄁離に敵彈が爆發した時にも、味方の爆擊だとばかり信じてゐた、お蔭で肝をつぶさずにもすんだのである。
 ――危ない危ない、近󠄁いぞ。
 誰かが街角でさう呟いてゐるのを聞きながらも、私にはまだその意󠄁味が解らなかつた。そもそも閘北の戰線が、私の宿舍から數町とは距󠄁つてゐないのである、味方の爆擊がそれほど間近󠄁に聞えたところで、何も不思議はないではないか。私はひとりぎめにそんなことを考へながら、步度を早めるでもなしに悠然と宿舍に歸つてきた、それにしてもあたりの氣配が何だか變な風だとは思ひながら。
 宿に着いて、人々の話を聞いて初めて私は遲まきながら一驚した。砲󠄁擊はすぐにやんだが、五時頃食事のために外に出るのは、私のためには今度は特別の勇氣を要󠄁した。
 この日午後六時頃、大場鎭陷落の報あり、虹口一帶は夜に入つて國旗を揭ぐ。
 ――大場鎭はすつかり落ちたのでせうか。
 ――いや一部分でせう。
 ――全󠄁部落ちたのさ
 ――いやまだ敵は殘つてゐるんだよ。
 ――それにしたつてもう時間の問題さ。
 ――まだ二三日はかかるかもしれない、何しろ堅固な陣地だから。
 そんな會話が會ふ人ごとに交はされてゐる。さうしてもう到るところで祝盃があげられてゐるのである。深夜に及󠄁んで敵機の空襲數次。
 二十六日。「日軍占領大場鎭」のアドバルーンが民團の屋上から揚つてゐる。上海ではアドバルーンが空に揭げられたのは、この時が始めてださうである。アドバルーンは交通󠄁事故を起󠄁すといふので、工部局の禁ずるところとなつたとか。上空に氣をとられて自動車に轢かれる支那󠄁人が多いので、禁止をされたといふのである。そのアドバルーンが今日は靑空に揚つてゐる、舊英租界からも閘北の敵軍からも、見まいと欲しても見ないではゐられないに違󠄂ひない。
 ――お目出度う、お目出度う。
 會ふ人ごとに手をとり合はんばかりにして祝辭がとりかはされてゐる。早くも江灣鎭の陷落が噂にのぼる。眞茹の無電臺も昨夜のうちに我軍が占領したといふやうなニュースが飛ぶ。
 ――閘北の敵はもう袋の鼠さ、今晚あたりはありつたけの彈を射つてくるぞ。
 ――大場鎭の方へは行つてみられないでせうか。
 ――駄目駄目、この追󠄁擊がすむまではとても前󠄁線へは出られませんよ。閘北の敵が引こんだらその跡へ行つてみませう。
 私は日高さんとそんなことを話し合つた。虹口一帶の空氣に慣れると、妙なもので、私のやうな臆病者も一寸前󠄁線へ出てみたいやうな氣持がするのである。
 この夜は豫期󠄁に反して、敵の迫󠄁擊砲󠄁は聲をひそめ、ただ敵機の空襲數次を見たのみである。どこかの空地に爆彈が落ちたとか。終夜砲󠄁聲殷々。
 二十七日朝󠄁ピアス・アパートの屋上に昇つてみる。閘北一帶の敵軍は昨夜のうちに退󠄁却し、今朝󠄁六時半、陸戰隊󠄁は鐵道󠄁管理局を占領してその屋上に軍艦旗を揭揚し、更󠄁に敵を追󠄁つて北進󠄁中だといふやうな評󠄁判󠄁が、屋上の人々の間に擴まつてゐる。眼前󠄁の管理局の建󠄁物には、その軍艦旗が破壞し盡された尖塔の頂上に翩翻とひるがへつてゐるのである。瞳をこらして眺めてみると、管理局より更󠄁に一粁餘りの前󠄁方にも、二つ三つ日章旗が遠󠄁く小さく翻つてゐる。さうして眼の及󠄁ぶ限りの前󠄁面は濛々たる黑煙に包󠄁まれて、幾里に亘るとも知れない地域が無慘な焦土と化󠄁し、なほ次々に新らしく黑煙の捲き起󠄁るのが眺められる。風は舊英租界の方から吹いて、煙は空に捲き上りつつ吳淞鎭の方に流れてゐる。さうしてその煙の奧に夜來の砲󠄁聲がなほ續いてゐるのである。
 この日午後三時頃漸く上海每日新聞社の車を得て同社の藤󠄁田氏と共に八字橋西八字橋方面に赴く。路上に砲󠄁彈の跡、爆彈の跡、地雷の跡(――その一つは昨日私の乘つてゐるこの車の眼の前󠄁で遽かに爆發したものだとか、)等無數にあり、トーチカ、土囊陣地、地下室等のなほそつくり原形をとどめてゐるものは、破壞を蒙つたものと殆んど相半ばしてゐるやうに見うけられた。攻擊軍の苦戰のほども察せられる譯である。まつ黑焦げになつた敵屍體二を見る。手榴彈は路傍に到るところに轉がつてゐる。とある半壞家屋の壁上には、白墨にて記された長文の○○文字が讀みとられた。
 薄暮車をかへす。路上には物資󠄁の運󠄁搬に從ふ兵士、道󠄁路補修に從ふ兵士、行軍中の兵士の姿󠄁が三三五々と眺められた。それらの兵士の軍紀の蕭然たるは私の眼にはいささかも疑ふ餘地がなかつた。さうして讀者諸君に、私はこの數語をお傳へ出來るのを甚だ喜ぶものである。さういふ點に關して、私は內地でいかがはしいデマを耳にしたことが絶無ではなかつたから。
 この夜敵空襲數次。防空射擊を見んものと四階屋上に驅け上つた頃には、敵機は既に飛び去つて、從つてまた砲󠄁聲やむ――
 火炎は終夜天を焦し、凄慘壯絕言はん方なし。
 二十八日、この日も每日新聞社藤󠄁田氏の斡旋により、正午頃漸く同社の車を得て眞茹方面に向ふ。同社の靑年記者河野君の東道󠄁なり。
 鐵道󠄁管理局、北停車場を初めて間近󠄁に見る。管理局は屋上及󠄁び四壁に爆彈砲󠄁彈を蒙つて、完膚なきまでに破壞されながら、なほ倒壞を免がれて巍然として聳えてゐる。北停車場はまつ黑焦げに燒盡して、僅かにプラットフォ―ムをそれと認󠄁めうるのみ。このあたりより、異臭紛々、黑煙地に匍つて、車中にあつても呼吸󠄁に苦痛を覺える。昨終夜燃えつづいた火災は、この一帶の家屋を既に燒盡したが、なほ火炎は處々に殘り、小家屋の倒壞するものしきりである。車は火氣の薄氣味惡くなま暖󠄁かい中を、疾驅――してほしいところだが、ごつたがへした道󠄁路上のこととて障害󠄂物をよけよけ遲々として進󠄁んでゆくのである。步哨の兵士に許可を求め、道󠄁順を尋󠄁ねながら、虹江路中山路を經て、行けるものやら行けぬものやら、それも解らずなりに眞茹の方へ向つて行く。東道󠄁役の靑年記者は、地理に通󠄁じた、血氣の前󠄁線ボーイであるが、周󠄀圍の風物が根こそぎ革まつてゐるので、どうにも見當がつきかねるものか、時には不安な顏つきをする。路傍の灰󠄁燼中には敵兵や土民の○○が累々と轉つてゐる、それらの殆んどすべては、既に少からぬ時日を經て、全󠄁身腐爛し、すべて激しい死臭を放つて、時には無數の蠅がその上に集つてゐるのである。就中正視に耐へなかつたのは、それもまた命拾ひをして生き殘つたものであらう、襤褸切れのやうに瘦せこけた野良犬が一匹、とある○○の○○のところを橫咬へに咬へて、通󠄁りかかつた私たちの車にも恐󠄁れず、平然として彼の空腹を滿してゐる情󠄁景であつた。
 ――早く早く、もつと早く走つてくれ。
 私は思はず運󠄁轉手を促したが、ポルトガル人のザビエルとかいふ名のこの運󠄁轉手は、奇妙な聲を發しながら、ハンドルの方はお留守にして、ぼんやりそれに見とれてゐるらしい樣子であつた、私にもまた見物をすすめるつもりであつたのだらう……。
 慘鼻󠄁を極めた情󠄁景と異臭と黑煙とに惱まされながら、それでもやがて車はたまたま市街の杜絕えた空地に出た。畠には豆の花󠄁や向日葵の花󠄁が咲󠄁いてゐる。綠草の色が何と新鮮に見えたことか。一隊󠄁の兵士達は、そこで辨當をつかつてゐた。今日は戰後の休日とでもいふのであらう、彼らは悠々と、宿る家もない焦土の中でではあつたが、一かたまりに寄合つて、雜談に耽りながら、赤飯の辦當を開いてゐた。私たちもまたそこで暫く車をとめて、携行した海苔卷の包󠄁みを開いた。眞茹站――卽ち眞茹停車場は、殆んど無疵のままそつくりとした姿󠄁で殘つてゐた。そのベンチにも兵士達の姿󠄁が見えた。鐵道󠄁線路に沿󠄂つた街道󠄁には、向ふからもこちらからも行軍中の小部隊󠄁が陸續として續いてゐる。步騎砲󠄁工すべての兵種の小部隊󠄁が移動し整理されてゐるのである。最前󠄁線はどのやうな樣子か知る由もないが、この附近󠄁では、戰後の休養󠄁日にも靜かな活動が續けられてゐる模樣であつた。墍南大學の構󠄁內には○○○○の○○司令部が設けられてゐた。乃ち車を駐󠄁めて、藤󠄁田○○○を訪ひ、田代○○○に會見す。專ら同乘の靑年記者の望󠄂むところに從つたものである。藤󠄁田田代兩氏の談話の要󠄁領は、ここに記すべくもないから略す。ただ兩氏に就て見た陣中に於ける武人の風姿󠄁態度は、私の眼にはたいへん賴もしいものに思はれた。幸ひに兩氏の武運󠄁の永へならむことを。
 後許されて同校構󠄁內大講󠄁堂中に收容されてゐる俘虜の一群を瞥見する。老若の土民と正規軍兵士との相半ばした四五十名ばかりのものが、講󠄁堂の椅子に腰󠄁かけて、次々に取調󠄁べをうけてゐるところであつた。彼らの不安に滿された眼は、突然そこに入つて行つた私達の上に、響きのものに應ずるやうに集中された。私は彼らの心を騷がせるのを憐れに思つたが、しかし私には彼らに言葉をかける自由もなく、またその言葉を私はまるで知らなかつたから、私はただ彼らの蒼ざめた顏を正視するに耐へず瞥見しただけであつた。さうしてその兵士達の、甚だしく智能の低くさうな容貌を見て、ここには詳しく說き難い多くのことを深思せざるを得なかつた。(十月二十九日夜八時)

 

 

三好達治「上海雜觀」『全集9』(S40.4刊)