三好達治bot(全文)

twitterで運転中の三好達治bot補完用ブログです。bot及びブログについては「三好達治botについて」をご覧ください

「私の好きな詩集」

  書店に出るのを待ちかねて買つた詩集、それが二册ある。二册きりのほか思ひ出せない。萩原朔太郞の『純情󠄁小曲集』と堀口大學の『月󠄁下の一群』。どちらも大正十四年の刊行で、前󠄁者は八月󠄁後者は九月󠄁と、刊記を見ると隣合つてゐるのにただ今氣づいた。八月󠄁の『小曲集』はそれを購󠄂つた店頭のさままではつきり思ひ出せるのは、暑中休暇で地方に歸つてゐたからであらう。ゲタの齒がアスファルトにめりこむゃうな暑い日であつた。店さきを出るとその日ざかりを西の方にむかつた、そんなことまでおぼえてゐるのは、道󠄁みちこの一册の詩集を讀み終󠄁つたからであつた。大通󠄁りの軒端づたひに、日中ぶらぶら讀みものの出來るくらゐに、そのころはまだ町中はのんびりとしてゐた。隔世の感をもつて、ただ今、私は神戶市元町通󠄁りの午後三時を思ひ起󠄁す。
 「このうすい葉つぱのやうな詩集」と著者自身のいふこの手輕な、さつぱりとした詩集は、私には萩原さんのどの他の詩集より親しみが深い。それより以前󠄁に出てゐたこの人の三册の詩集を私はもうくはしく讀んでゐたけれども、この葉つぱのやうな一册は、まつたく意󠄁外な方面から私を襲擊してくるやうな銳さと、高さと、におふやうなうひうひしさとをもつてゐた。詩集の前󠄁半「愛憐詩篇」は大正二年、後半「鄉土望󠄂景詩」は同十四年の作である。すなはち兩者はその間の十餘年に、『月󠄁に吠える』『靑猫』『蝶を夢む』三卷を一まとめにカッコに包󠄁む兩翼として妙な組合せを示してゐたそのことが、私には萩原朔太郞の全󠄁貌をはじめて明󠄁らかに敎へるものとして、――何といふかありがたかつた。私が何を領得したか、ちよつと簡單に思ひ出せないけれども、複雜な考へごとが、見渡しよく鳥瞰的󠄁にながめられる、そんな風の、登山者の喜びのやうな、すつきりとした滿足感がそこにあつた。
 當時の書生として、實は私は、十編󠄁ばかりの「愛憐詩篇」を最も愛讀したらうか。どうも、たしかに、そんな風であつただらう、とただ今思ふ。それらの作品は、この葉つぱにおいて、私に初見であつたといふだけでなく、大正二年のこの人の最初期󠄁作は、當時十四年ごろまだその後にもずつとわたつて、私にとつてはいつまでもみづみづしい眩しいくらゐのものとして心を奪つた。

 

    靜 物

 

  靜物のこころは怒り
  そのうはべは哀しむ
  この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる
  窓ぎはのみどりはつめたし。

 

 私の記憶は、もう四十年も古いものとなつてしまつた。この作品は今日すでに半󠄁世紀餘の歲月󠄁を閲してゐる。それでも私には、たとへこれが昭和三十八年の日付で發表されたとしても、いささかも奇異には感じないだらうと思へる。現代詩などといふものは、最も足ばやに時代のチリをかうむつて、古ぼけて見えるものの多い中に、異數といはなければならないだらう。さすがに「愛憐詩篇」の諸作も、今日たいていは何がしか古めかしい、時代色を帶びて、遠󠄁い彼方のものとして目に映る中に、「靜物のこころは怒り そのうはべは哀しむ」と歌つた心理的󠄁こまかさ複雜さだけが、ひとり獨立して新鮮に見えるのを、私は以前󠄁からそれをこそ奇異として受󠄁けとつてゐた。
 萩原さんの全󠄁集は死後に三囘刊行され、三度目のはつい先年完結した。私は僚友の伊藤󠄁信吉君とともに、同君のお手傳ひくらゐの役目を受󠄁けもつてこれに從つた。そんな仕事の間に、「靜物」その他「愛憐詩篇」になほ先だつころの草稿の、おびただしい分󠄁量を判󠄁讀した。すらりと讀めるものもむろん半ばしてゐたけれども、判󠄁讀に骨の折れるやうなものもそれに半ばしてゐた。さうして、萩原さんも苦勞をされたものだな、と思つた。何を苦しまれたものかその跡はたうてい追󠄁及󠄁することのできないやうな、複雜怪奇とでもいふ外のない滅茶苦茶な暗󠄁中模索がつづいてゐる。萩原さんはもう二十歲を幾つか越えてゐられた、その年齡の筆者のものとしてはあまりに亂暴なあるひは稚拙な、勉强ぶりと見えるものがまた少なくなかつた。いやたいへんにおびただしかつた。
 そんなものを見ていくうちに、先の「靜物」に關聯するらしく見えるもの、明󠄁らかに關聯すると見えるもの、それらの部分󠄁的󠄁斷片破片がいくつか目についた。それはさまざまな形で出口を誤󠄁つて出沒してゐた、ゐるらしく私には推察された。
 あの簡潔󠄁なひと息のやうな作品は、長い苦しい試作の後に、その積重ねの意󠄁外な結果として、あるひは幸運󠄁な偶然から、あのやうな形に結晶したものと、ただ今の私は信じてゐる。
 『純情󠄁小曲集』が、とり分󠄁け私に親しみ深く思へるのは、だから、以前󠄁にもまして今日では右のやうな推察想像をも色つけ加へて――

 

 

三好達治「私の好きな詩集」(『全集5』所収)