三好達治bot(全文)

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「半宵記」

 先日女流作家のO・Kさんが突然他界された。私は朝の新聞でそれを知つた時、同女史の――ほんの數囘私がお眼にかかつた、その時々の風采や擧止動作を次々に思ひ泛べた。友人達大勢と一緖にお宅で御馳走になつた時、銀座のどこかで行會つて簡單なお辭儀をしあつた時、ある雜誌社の座談會で同座した時、そんな折ふしのただ何でもない女史の姿を囘想したのである。故人を偲ぶ、といつても、これはたださういふ、ふとした情景を思ひ泛べたにすぎないのだが、やはり何か肅然として身に逼るのを覺えた。
 ――もうあの人とも、銀座でばつたり行會ふこともないのだなあ……。
 いつてみれば、ただそれほどの數語にも盡きる感懷なのだが、交りが淺ければ淺いだけに、淡如としたものではあつても、やはり何かととりかへしのつかない氣持である。
 ――もうあの人に會はない……。
 この短い言葉は、初めの間は、いつもきまつて、ある錯覺的な感情を喚び起すものである。さうではない、そんなことがあるのか、心はいつもさう叫びかへすのである。いつかひよつこり、忘れてゐた時分に、どこかの停車場か、街角か、喫茶店か、そんな人混みの中で、やあと聲をかけあふ、そんなことが決してない、とは誰がきめたのだ、といふ風な理由のない疑問も浮ぶのである。
 ――やあ。
 ――やあ。
 ――あなたはおなくなりになつたさうぢやありませんか。
 ――いやなに、みんながそんなことを言ふんですよ、あれは間違ひでしたよ。
 といふやうなことで、大笑ひになりさうな場合も空想されるのである。愛兒をなくした親達が、あの淸楚な、この世のものではない身仕度をして、廻國巡禮に旅立つ心の隅にも、遠いどこかの村里で、かういふ偶然にめぐりあふ希望をかくしてゐないだらうか。
 ――お父さん、お母さん、私はこんな田舍で遊んでゐましたよ。
 子供はさういつて駈けよつてくる、さういふ理性の許さない空想も、空想さながらのリアリティーで、親達の心を動かす力をもつてゐるだらう。
 それはとにかく、けれどもやがて時間がたち、歲月を經るに從つて、もうあの人に會はない……は、そつくりその言葉のまま、人々の心に落着くやうになつてくる。さうして先の錯覺を、もう再び繰返さなくなつてしまふ。私にもさういふ思ひ出は幾つかある。さうしてさういふ思ひ出は年ごとに數を增してゆく。親しき者故人の中に在り、私は時々かういふ言葉を呟いてみることがある。若い身空で年寄ぶつたことをいふ譯ではない。若いといつても、私位の年齡になると、もう新らしく友達の出來る機會はない、殆んどないといつてもいい。私のやうな頑なな性分の者、世間の狹い者は特にさうなのであつて、これもまた致し方のないことと思つてゐる。さうしてその數の乏しい友人達が、年々更に減じてゆく。病弱な私の番もおつつけまはつてくるだらうが、己れを思ひ故人を思うて、半宵感をなすのは近頃の私の嗜癖である。仕事らしい仕事、華々しい働きの一つも示しえないで、このまま碌々と生を終るのは、流石に私としても遺憾でなくはないが、己れの分を思へばそれもまた當然のこととして必ずしも忍び難くはない。たださういふ感懷に耽るごとに、私には一つのやみ難い希望がある。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 私は殆んど神に祈りたい氣持になつて、さう呟かないではゐられない。こんなことをここに記すのは、文筆家などといふ(不幸にして私もさういふものの一人である)賣文稼業のわざくれとして、まことに時世にならはない、考へてみるとはしたない仕方であるが、それはまあそれとして、せつかく執りかかつた筆である、もう少し先を書くことにしよう。
 私は先年、いささか病を獲て、さる病院に三ヶ月ばかり入つてゐたことがある。もともと私の病氣は、そんな病院にかつぎこまれるほどのものではない、ほんの輕症にすぎなかつたことは、度々醫師からもいひ聽かされ、自分でも十分承知をしてゐたので、そこに入院した當初の間、私は極めて平靜な、といふよりも寧ろ氣樂な休暇を思ひがけなく與へられた人のやうな、ほつとした樂しい氣持でゐたのである。さうして私は日々に疲勞を恢復し、體重を增し、間もなく熱もひいてしまつた。私の病氣はさういふ風に、さしたる出來事もなく快方に赴いたのにも拘らず、私はそこで慘めな憂鬱病にとりつかれてしまつた。それまでにもその兆のあつた神經性心悸亢進症といふ不名譽な厄介な病氣に、まるで蜘蛛の巢にからまつた昆蟲か何かのやうに惱まされたのである。この神經病の苦痛はその經驗者でなければ到底想像も及ばない慘めな殘虐なものである、私がさういふ疾患に陷つたのは、積年の不攝生に根ざしてゐたのはいふまでもないが、一つにはその病院の環境が直接の原因にもなつてゐたもののやうに思はれる。
 その古風な小さな病院では、狹い廊下一つを隔てて、私の病室の斜め向ひが、丁度屍體室に當つてゐた。それを私は、そこへ入つて一週間もすると、いつとはなしに悟つてしまつた。勿論私は、ずつと病床に就いたきりで、一步も室外に出かける譯ではなかつたが、臥たきりでゐても、案外さういふことはすぐに解つてしまふのである。
 靜かな夜ふけに、忙がしく氷を碎く音が聞える、看護婦や附添ひがそそくさと廊下を往復する。重症患者が危篤に陷つたのだといふことは、それだけでもうすぐに推測されるのである。ぼそぼそと人聲がする、何か器具をとり落す音が聞える、歔欷の聲も聞えてくる。どこの部屋のどういふ職業のどういふ年齡の患者が、どういふ病狀だといふことは、誰にきくといふでもなく、日頃から詳しく解つてゐるので、その夜のさういふ騷ぎが、どの部屋で起つてゐるかといふことも、すぐに想像はつくのである。その病室の中の樣子まで、手にとるやうに、まるでその場に立會つてゐるやうに解つてしまふのである。病院といふところは、お互の患者が、ベッドに就いたまま、千里眼か何かのやうに、お互の生活を透視し合つて暮してゐるところである。
 さういふ騷ぎのあつた翌日は、私の部屋の筋向ひに、しきりに人の出入りがある。それがさういふ種類の部屋だといふことは、だからすぐに私にも解つてしまつた。そこではしめやかな話聲が一と晚中つづいてゐることがあつた。低い聲でお念佛か何かの始まることもあつた。また柩の蓋をうちつける荒々しい槌の音の聞えてくることもあつた。ある時ふと、私の部屋に來てゐる看護婦が、そちらの方を顎で示して、こんなことをいつた。
 ――馬鹿だね、歌なんかうたつて、法被を着てゐるんですよ、あの人……。
 なるほど先ほどから、さういへばその部屋からは、つまらぬ流行唄か何かが、暫く中斷しては、またしても思ひ出したやうに聞えてゐた。私はただ何氣もなく聞きながしてゐたが、樣子を聞いてみるとかうであつた。その男は一昨晚、突然女房を車にのせて、病院の玄關に乘りつけてきた、前ぶれもなしにやつてきたのである。女房は既に危篤の狀態だつたので、病院でも面喰つたが、何はともあれ受けとつて手當を加へた。女房はその次の晚に息を引とつた。その枕頭に、あの男はああして法被姿で一人坐りこんで、あんな風に歌をうたつてゐるのである、といふのである。
 ――馬鹿だねえ、歌なんかうたつて……。
 と看護婦はもう一度繰りかへしたが、私の耳にはその言葉は何か聞きづらいものに聞えた。その部屋に運びこまれ、その部屋から運び去られる人の數は、私がそこにゐた三月ばかりの間に、十人をなほ幾人か越えた。私はその都度、だから、それぞれ樣子の變つたそれらのお通夜に、蔭ながら立會つたやうな譯であつた。おかげで私はすつかり滅入つてしまつたのである。
 私達の日常生活といふのは、見榮や外聞や、洒落つ氣や乃至は身嗜みや、さういふ風な娑婆つ氣で、その大部分が支へられてゐるといつてもいいやうである。氣持に張りがある、といふのも、つまりたいていは、その姿婆つ氣の何かなので、一たびその娑婆つ氣の支へが失はれると、たいていの人物がどういふことになるだらうか、彼らの演ずる相當意外な、滑稽な、見つともよくない情景も想像するに難くないやうに思はれる。
 先年H・T君の小說が文壇の話題となつた時分、ある私の知人は、あのやうな誇りを失つた悲慘な生活記錄を、小說だなどと稱して麗々しく世間に示す位なら、自分はむしろ死を撰ぶ、自分ならああいふ醜惡な病氣に罹つておめおめと生きてゐようとは思はない、自分には何よりも血の誇りが必要だから、と言ひ放つた男があつた。その男はさる名家の出であつたが、なるほど彼なら、血の誇り家系の矜持といふやうなものを平素私かに覺えてゐるのも、さるありさうなことだと思はれた。私はさういふ誇りを覺え颯爽たる誇りを以て生きてゐる人物の氣持を羨望もし讚美もする、それは美しいことに違ひない。どうか他日天與の機會があつて、さういふ誇りの中身が果してどういふものか實踐の上で私達の前に示してほしいものである。これは厭味でいふのではない。たださういふ日の來るまで、私はその男の書く文章を一切讀まないことにひそかに決めたのもまた事質である……。
 誇りを以て生き、誇りを以て死す、實際それほど美しいことはない。私のやうな意氣地のない氣持に張りのない者も、さういふ境地の美しさを想像し讚美することは出來る。けれども、どうも自分が現在さういふしやつきりとした氣持、さういふ何かの誇りに生きてゐるとは思へない。これは私の憐れむべき打明け話の一つである。
 私は先ほどのその病院で、先ほどのその例のお通夜を繰りかへしてゐるうちに、私といふものの隨分他愛ないことをつくづく悟らざるを得なかつた。死の恐怖、その前で私の精神がどんなに卑怯に尻ごみをし、どんなに醜態の限りをつくしたことだらう。私の惱んだ神經症狀も、殆んどその慘めな恐怖の結果だつたといつていい。
 この世間に於ける私達の生活、娑婆の生活は、多かれ少かれ、娑婆つ氣の支へで支へられてゐるものである。その娑婆つ氣の旺んな間は、たとへ健康を失つて病院に身を橫へようとも、隣室で慌だしく柩に釘が打たれようとも、不思議とさほど骨身にこたへないものである。その時分はまだ、從容として死に就く立派な勇氣が、どうやら自分にもありさうな氣持がするのである。ところがさういふ病院生活の日數を重ねるに從つて、世間の騷音が次第に耳から遠ざかり、無念安逸に慣れるにつれて、不思議に孤獨な精神が蘇つてきて、例へば廊下を通つて厠に通ふのもこはかつた子供の頃のやうな、心細い氣持を覺えるものである。一たびさういふ氣持の虜となると、達者で活動してゐる人々の姿が奇怪な幻影のやうに見え、友達の親切な手紙や勵ましの言葉さへも、得體の知れないたぶらかし乃至は挑戰のやうにも受けとられるのである。何といふ呪はれた氣持であらうと、時に自ら反省もしてみるのだが、さういふ反省自身が既に世間的なよそ行きのものであつて、いつかう無力なのを悟る位が落ちである。
 さういふ困つた氣持に惱んでゐた、その私の病室の窓からは、空地を隔ててその病院に附屬してゐる醫學校の校舍が見え、校舍の影には小さな平屋の建物があつて、そこには七十歲ばかりの頭の禿げた一人の老人が住つてゐた。老人は古くから其の學校に傭はれてゐる小使であつて、解剖室で解剖のあつた時にその跡片づけをするのが彼の役目だといふのであつた。その老人は時とすると私の部屋の窓口のところまで遊びにきて、
 ――なあに、肉屋や魚屋をみてごらんなさい、あれとおんなじぢゃありませんか、人間だつて、死んでしまつて切りさばかれりゃ、俺はいつもさういふんだ、鷄や魚もおんなじことさ、何を氣持惡がることがあるものかい……
 などといつてさも平然と陽氣に笑つて見せた。その頭のつるつるに禿げた小柄な老人は、そんな老齡にも拘らずどこかのお內儀さんと私通をしてゐるといふ噂で、時たまその平屋の小使部屋に出入する、襟もとにハンカチをかけた女の姿が見うけられることもあつた。
 私にはその老人自身も、看護婦たちがまたしても口にするそのつまらぬ噂咄も、二つながら甚だ氣持が惡かつた。食慾を失ひ、不眠に陷つて、ひどく氣分の滅入りこんでゐた私には、その老人のなりはひや生活ぶりが、どうにも氣味の惡い、その上何かしら威嚇的なものに思はれてならなかつた。私はさういふつまらぬ身近な見聞から、ただ意氣地もなく日々脅やかされた。――死の恐怖、つまりはそれだけのことに根ざしてゐたのであるが。
 アンリ・ファーブルの『昆蟲記』第十卷の最後の結びの一句には、ただ「働け」といふ一語が記されてゐる。この地上に生を享けた生きとし生けるものは昆蟲も人間も、ただ働くことによつてその生を完うするより外に道はない、それが自然の最上の命令だ、といふほどの意味であらう。それはあれほど丹念に緻密に自然を凝視したファーブルの多年の思索を要約した一語だといつても間違ひのない言葉である。私はふとある夜その言葉を思ひ浮べた。さうして私がこのやうに慘めな姿で、死の前に濡れ鼠のやうな憐れな姿で戰き慄へてゐるのも外でもない、甚だ抽象的ないひ方だが、私が働かなかつたからであらうと考へた。「働け」と自然が命じてゐる以上、働いた者は安らかな生の終末に惠まれる筈である。死を怖れる者は、その者が實は自然の命ずる通りに働かなかつた證據でもあらう。私はさう考へて私の心を落ちつけようと力めたが、私はファーブルの哲理には承服しても、それと共に私の苦がい後悔から脫け出すことは容易に出來さうもなかつた。私はまたある時はいくらか自暴自棄に、自分のさういふ慘めな姿を、どう救ひ上げようとも試みないで、自分の心をそのまま放下して一層慘めに醜いものとすることに、無關心でゐてやらう、よそ眼にはどんなに無樣に見えようともかまはない、私も一つ見物人のつもりでそれを袖手傍觀してゐてやらう、そんな風にも惡く度胸をきめてみたが、さういふことでどうなる譯のものではなかつた。結果は益々虛無的な空想が私を苦しめ私を不幸にするばかりであつた。私はもはや自らを憐れんで淚を流すほどの感傷癖も失つてゐたので、ただ氣力のない眼を見開いて溜息をつくよりほかに手だてを知らなかつた。人生の修養とか死生の覺悟とかいふものも、氣力の衰へた病弱の體軀では工夫の出來るものではない。それは健康時のしつかりした精神の上に立つ平素の用意に俟つべきものであるのを、私といふ愚か者はそんな時にあつて初めて氣づいたやうな始末であつた。臨終のことを習つて餘事に及ぶべしとはさる高僧の言である。エセーのモンテーニュも、哲學とは死の用意をすることに外ならない、と前置きしてあの語錄をその彼の用意の手だてとして書き記した。達人賢人の言は槪ね軌を同じうしてゐるのを思ふにつけても、私は自分の平素の迂闊さや橫着さをつくづく後悔しないでゐられなかつた。
 當時のそのやうな苦澁な經驗を經て、その後私がどれほどの變化をとげたか、それは私自身にも解らない。その後既に七八年の歲月を隔てたが、今日の私も依然として昔日の舊阿蒙であらうかと思ふと、私は時にまた慄然として身內に惡感の走るのを覺える。私は私の精神のあの一つの惡い季節からは恢復した、それは私の肉體が私の病氣から恢復するのと步調を合せるやうにして恢復した。私は恢復したけれども、私は何ものを克服し何ものを新たに獲得した自信もない。私はただ時間の經過につれて一つの負傷が自ら癒着するやうに恢復したのである。さうして私は再び俗世間に立戾つて、俗世間のヴァニティー、何の賴りにもならない娑婆つ氣といふものを多分に身につけて、日常の行動をそれによつて支配されそれによつて支へられてゐるのを覺える。だから私といふものは、もう一度その支へを失へば再びどういふ世界に沈淪するか、これはもう既に試驗濟なのだからそれを思ふと大變いやな氣持がする。私は必ずしも死を、死によつて私といふものが空無に歸することを怖れる譯ではない。(まして來世といふものがあれば、それも大變結構である。)私自身といふものは、私の肉體も私の仕事も、さほど惜しくはないのである。ただ私は死の苦痛と、私達には正觀することの出來ないあの虛無と、それらを以て樣々な風に脅やかされるあの混亂した氣持とを怖れるのである。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 これが私の希望であり私の祈りである。緩やかな坂路を下るやうに私は死の國へ下つてゆきたい。私は必ずしも長壽や老齡を希ふものではないが、それが死の國への緩徐な靜かな移行きである自然な通り路なら、私はそれをやはり自分の通り路としても撰びたいと思ふ者である。
 私の親しい友人達の幾人かは、この緩徐な手間のかかる、しかしながら靜かな自然な通り路をよそにして、彼らの急坂を遽だしげに驅け降りて、無慘な病魔󠄁にせきたてられて遠い地平に沒してしまつた。
 K君は、とある初夏の日の夕暮、ある街角で私の飛び乘つたバスに向つて、片手を擧げて微笑と共に別れの合圖を送つてゐたのが、そのままこの地上の最後の訣別となつてしまつた。
 T君は、ある夜ふけの橋の上でいやといふほど私の足先をふんづけて、私を不機嫌にしたのを記念にして、その後間もなく永遠に消息を絶つてしまつた。
 N君は、私の多年愛用したステッキの磨り減つて短くなつたのを、脊丈の低い彼には恰も手頃だと稱して所望してゐたが、そのうち私の宅まで受取りに來ると約束をしておいて、そのままたうとう來ずじまひになつてしまつた。ステッキは依然として拙宅の物置に殘つてゐる。
 またもう一人のK君は、眞夏の暑い日に私が病氣を見舞つて訪問すると、恰もその人らしく私の制止するのも聽き容れず枕許に端坐して、浴衣一枚の寢卷姿のままではあつたが、甚だ几帳面な應接ぶりで私を辟易させ、さうして彼といふ人物の印象を私のためにもはつきりと完成させて、その最後の終止符を打ちそへるやうに、玄關の閾際で極めて丁寧なお辭儀をした。
 O君は、ある田舍へ突然私を訪ねて來て、そのまま私の忠吿も聽かず更にその山奧の溫泉場へ傭ひ馬に搖すられながら入つて行つたが、その彼の何ものかに追はれるやうなせかせかとした後姿は、今日も私の眼底に殘つてゐる。
 このやうにして思ひ起してみると、これらの人々が私の記憶に殘していつた、それぞれのふとしたその最後の擧止や言動は、思ひなしか、みなそれぞれの深い運命の陰翳に隈どられた、何といつていいか、一種月光的なものとして思ひ起されるのである。死者らの姿の森嚴……それを森嚴と見る者は、多くの些事から成立つてゐる私達の日常生活をも、やはり同じやうに森嚴と見なければならない筈だらう。さう思ふと、暫くの間の病院生活ででも、あれほど心をとり紊した私のやうな凡愚の者の、日頃はどれ位迂闊に暮してゐるかといふことにも、小さからぬ且つは森嚴ならぬきを感ぜられるのである。

 

 

三好達治「半宵記」(『全集9』所収)