三好達治bot(全文)

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「半宵雑記」

――上海雜觀追󠄁記――

 

 私は先月二十六日朝󠄁佐世保に着きました。上海を發つたのは二十五日早朝󠄁、その朝󠄁はたいへん寒󠄁い朝󠄁で路面には霜が降りてゐました、虹口碼頭の棧橋も眞白になつてゐました。水溜りには薄い氷が張つてゐました。まづ汽艇󠄁で出雲に行き、それから騙逐󠄁艦○○に乘せて貰ひました。やがて空はからりと晴れて、うららかな朝󠄁日がさし、久しぶりに珍らしい好天氣になりました。私達――その朝󠄁驅逐󠄁艦に便乘を許された私達の一行は、新聞記者雜誌記者それから日本刀硏究會の會員達合せて十數名の一組でした、私達は間もなく艦が動き出し、靜かに黃浦江を下つて行く間、風當りをよけたとある甲板の片隅に寄り集つて、美しい空と朝󠄁霞の中に遠󠄁ざかつてゆく上海市街とを眺めてゐました。○○機や○○機が編󠄁隊󠄁をつくつて、次々にうららかな陽ざしの中を飛んでゆきます。
 私が上海に滯在した期󠄁間は、この出發の日を數へて丁度三十五日のほんの短い間でした。その間に大場鎭が落ち、閘北の敵が退󠄁き、蘇州クリ―クの戰線が突破され、杭州灣の大規模な敵前󠄁上陸が敢行され、浦東一帶の敵陣地が掃󠄁蕩され、南市が落ち、嘉定崑山蘇州が落ち、嘉善嘉興が續々攻略されました。さうして戰爭はなほ息をつく間もなく續けられてゐます。杭州が落ち南京が落ちるのはいつでせう。戰線は今ではもう上海を去る百キロばかりも遠󠄁方に押し擴げられてゐます。寒󠄁い冬󠄀が來ましたが、この分なら天候はもう大丈夫でせう、雨さへ降らなければどれほど戰爭の苦勞が省けるかしれません。
 キャセイ・ホテルの尖塔やブロウドウェイ・マンションの高層建󠄁築󠄁が次第に遠󠄁く霞んでゆくのを眺めながら、私は何かこの朝󠄁の印象を記憶に便利な一つの焦點の上にまとめようと、意󠄁識的󠄁に試みました。歸心矢の如し、――そんな氣持で私はこの朝󠄁の出發を心の底から喜んでゐるだらうか、私はさう自分に問ひかけてみました。私の心ははつきりした返󠄁辭はしません。私はふと田舍に殘してある小さな二人の子供のことを思つてみました。それでも心はさほど波立たうとはしないのです。昨夜は數人の友人達が私のために送󠄁別會を開いてくれました。送󠄁別會といつても、燈火管制の暗󠄁い電燈の下で、お酒は茶碗酒の冷や酒で、朝󠄁まで語り明󠄁した、――旅館のこととて隣りの部屋に遠󠄁慮をしながら始終小聲で語り明󠄁した、つまりそんな風な一種の夜更󠄁かしだつたのです。少しお酒がすぎました、それで私の頭はどうもぼんやりしてゐます。何を考へようにも、思考力がありません。だからこんな風に、私はただ、眼前󠄁に動いてゆく濁流と遠󠄁景とを眺めながら、うつけた氣持でゐるのだらうか、私はさうも思つてみました。しかしそれにしてもその時のうつけた氣持は、ただ酒のせゐばかりでもないやうでした。
 戰爭に就て私は何を見てきたか。それがはつきりしません。私はたくさんのものを見ました、私は每日忙󠄁がしく驅け𢌞りました、それぞれのものに私は驚愕し、感動し、時にはまた力めて私なりの觀察や解釋を試みようとさへもしました。三十幾日の間、私は日日の私の行動に必要󠄁だつた二三種の新聞の外、一册の書物を讀まうともしませんでした。そんな餘裕、氣持の餘裕も時間の餘裕もなかつたのです。私は力めて私の體軀を持ち運󠄁んで、私の眼に映るものを只管見て𢌞ることにしてゐました。草臥れなかつたか、退󠄁屈しなかつたか、後になつていろんな友人からさう云つて問ひかけられた時、私は相手の言葉を、そんな言葉を、珍らしい氣持で聞きとりました。さうして私は急󠄁いで相手の言葉を打消󠄁すやうにかう答へました、いやそれどころかい君。實際私は、日頃の私よりも、遙かに快活な活動的󠄁な氣持で歸つてきました。それはそれとして、しかし私は、戰爭に就て何を見てきたか、まして何を考へてきたか、あの上海を發つ日の朝󠄁も、この文章を書いてゐる今も、さう自分に問ひ尋󠄁ねてみると、いつかう筋路のたつた答へらしいものは答へられないのです。外に思ふところがあつて、構󠄁へてこんな風に、誤󠄁魔󠄁化󠄁しを云つてゐるのではありません。假りに云つてみるならば、たとへば私のやうに、自分の眼だけを賴りにしてそれを眺めた者にとつては、戰爭といふものは、到底そのまとまつた姿󠄁を、その意󠄁味の片鱗をも、示してくれないのかもしれません。しかし私は、私の見聞した限りの事ごとに、さうです、その一つ一つに就て、私の感情󠄁の、こればかりは紛ふ方なくはつきりとした、反應だけは確かめてきた積りです。勿論それは、貧󠄁しい小さな私一個の主󠄁觀です。しかしまた私も一人の日本人であり、今しも重大な時期󠄁にさしかかつた私たちの祖國の一員である以上、私の單純な主󠄁觀もまた、私は信じて疑ひません、私の視界を超えた偉大な聖󠄁なる意󠄁義の上に深く根祇してゐるのを、頭腦でよりも心臟で量つてみるのです、はつきりと云ひませう、私の感動を、さうして私はすべて肯定するものです、私自身のどんな懷疑よりも更󠄁に强く。いやこんな理窟をここに持出すのはもともと私の柄󠄁ではなかつたかも知れません。少々態度が混亂しました。私は先に書き洩した私の見聞錄の追󠄁記をここで書き足せばよかつたのです。それが目下の私に出來ることの、私の爲すべきことのすべてですから。


 十一月五日、この日は珍らしい晴天でした、私は數人の同行者と共に、重村大尉の薦めに從つて、陸戰隊󠄁本部に出かけました、廣中路の戰跡を訪ねるために、案內を乞ひに行つたのです。陸戰隊󠄁本部は例によつて、まるで取引所󠄁か何かのやうに、出入りの人數が混雜を極めてゐました。それでも幸ひ戰況に詳しい竹邊一等兵曹と大森一等水兵とが見つかりました。紹介狀を貰つていつた板谷中尉にも、間もなく路上で行き會ひましたので、私達は一つ車に重なり合ふやうに同乘して、ほど遠󠄁くない現地まで、隨所󠄁に土囊陣地のある戰跡の間を急󠄁行しました。廣中路の會戰――さう呼ばれてゐる陸戰隊󠄁○○部隊󠄁の戰鬪區域は、八字橋の西北閘北○○用地前󠄁方の地區から東體育路崇德女塾前󠄁面の地區に亙る、約󠄁三キロばかりの正面をもつた、その全󠄁體が陸戰隊󠄁本部のほぼ西北方に當つてゐる、眺望󠄂開闊な市街を出はづれたばかりの平坦な耕作地帶です。その中央を淞滬鐵路が走つてゐます。鐵路にほぼ平行して數百米の距󠄁離を置いて水電路が走つてゐます。廣中路はその兩者に垂直に交つてゐる道󠄁路です。さうして後者とは丁字路をなしてゐるのです。私達はその丁字路の附近󠄁に到着しました。そこで私達は板谷中尉から、會戰の模樣を、就中私達の立つてゐるその○○戰況に就て詳細に、說明󠄁して貰ひました。そこは畠でした、作物はもう枯れてしまつて畝の露はになつた畠です。そこに眞新らしい墓標が點々と立つてゐます。墓標はなしに、ただ鐵兜だけが土の上に置かれてるるのは、支那󠄁兵の屍體を埋めた跡ださうです。敵ながら不憫だから、葬つてやつたのだといふことです。その目標の鐵兜はあちらこちらに見つかります。日向に動いてゐる蟇蛙の背中も、そんな附近󠄁に見つかりました。
 肝腎の戰況は、甚だ複雜を極めてゐて、ノートのとりやうもありません。とても一度や二度聞いたのでは暗󠄁んずる譯に參りません。後に私は「廣中路會戰記」といふ刷物を一部貰ひました。それには簡單な大雜把な記錄しか載つてゐません。ここにはそれによつて、戰況のあらましをお傳へしませう。あらましでは、實は甚だ遺󠄁憾なのです、私は板谷中尉のやうな方にお願ひしておきます、どうか勤務のお暇が出來たら、詳細な記錄を作つて下さい、私達は私達の同胞󠄁の働きぶりを出來るだけ詳細に知りたいのです。さうしてそれを私達の後に來る者達にも、同じく讀ませなければなりません。私達の祖國の事業は、とても一朝󠄁一夕には到達しがたい、それほど遼遠󠄁な未來に向つてゐるのですから。
 八月十三日に始まつた廣中路の戰鬪は、言語に絶した凄慘極まるものでした。流石に任務に忠實な各社の新聞記者達も、當時この方面の戰線には、一人として近󠄁づきうる者がなかつたと云はれてゐます。漸く九月に入つてから、この方面の戰線はやつと記者達の訪問をうけ、その激戰の一班が世間に傳へられた位ださうです。だから最も感動的󠄁な最も熾烈を極めたこの廣中路の戰鬪は、終ひに新聞ニュースの圈外にとり殘されてしまひました。
 「會戰記」には「八月十三日ヨリ十五日マデノ戰鬪」を略說して次のやうに記してあります。

 第○○隊󠄁○○餘名ハ北部戰線約󠄁三粁ノ間ニ配備ニ就キ、敵陣地トノ距󠄁離三四百米突近󠄁キハ百米突ニ相對峙シテ戰鬪ヲ繼續シ、時シモ惡天候ニシテ雨降ルコト頻リナリ、銃火砲󠄁火ハヤム時ナシ、戰鬪ハ畫夜ヲ問ハズ不眠不休ニ繼續セラレタリ。
 此ノ間ノ戰鬪ノ如何ニ激烈ナリシカソノ一例ヲ擧ゲン、第○○隊󠄁ノミニテ一畫夜ニ費シタル小銃機關銃ノ發射彈數十六萬發ヲ超エタリ、機銃ハ全󠄁ク燒ケテ眞赤ニナリ、「クリ―ク」ノ水ニ浸󠄁シテ冷却シ更󠄁ニ戰鬪ヲ繼續セル程󠄁ナリキ、如何ニ本戰鬪ノ猛烈ナリシカヲ語ルニ足ラン。

 八月十六日に入つて、愈々廣中路の戰鬪は凄愴極まりなきものとなりました。當時「敵の企圖」は凡そ次の如く推測されてゐます。

 敵ハ我寡兵ヲ以テ租界ヲ守備シ援󠄁隊󠄁未ダ來ラザルニ先ダチ一擧ニ我○○部隊󠄁守備線ノ突破ヲココロミ大兵一萬ヲ擁シテ陸戰隊󠄁本部ヲ衝カントスル企圖アリタルモノノ如クナホ漸次ニ兵力ヲ增加シタリ。

 そこで○○部隊󠄁は既述󠄁の正面に設けられた、A陣地よりF陣地に到る六個陣地を、援󠄁兵の未だ來らざるまま死守することになりました。○○部隊󠄁長は十五日夕刻夜戰に入るに先だつて、部下一般に次のやうな命令を與へました。
  一、敵ハ積極的󠄁ニ我陣地ヲ占領セントスル企圖アルモノノ如シ
  二、各陣地ハ夜戰ニ對シ充分ノ準備ヲナシ置ケ
  三、夜間敵ヲ充分引キ付ケテ一學ニ之ヲ擊滅スルヲ可トス
  四、各陣地士氣旺盛󠄁敵ヲ呑ムノ槪アリ、昨日及󠄁ビ今曉以上ノ奮鬪ヲ望󠄂ム
 午前󠄁三時頃敵兵約󠄁二、三百はまづ最右翼のA陣地に襲來しました。崇德女塾正面のA陣地は○○○隊󠄁長の指揮する○○○隊󠄁が守つてゐました。○隊󠄁長以下○○名の兵士は、前󠄁面三四十米突の近󠄁距󠄁離まで肉迫󠄁した敵に向つて、機銃輕機銃を以て沈着に應戰し、殆んど味方を包󠄁圍した敵に多大の損害󠄂を與へて擊退󠄁しました。「會戰記」には次のやうな記載があります。
  A陣地○○○隊󠄁長ハ敵總攻擊ニ遭󠄁ヒ全󠄁ク包󠄁圍セラレタルトキ、部隊󠄁長ヨリ「其陣地ヲ死守セヨ」トノ命ヲ受󠄁ケ、乃チ部下ニ令シテ曰ク、「最後ノ一兵ニ至ルマデ奮戰セよ、最後ノ一兵ハ兵器彈藥ヲクリークニ投ゲコミテ戰死スベシ」、部下ノ各兵ハ必死ノ奮戰ヲ續ケタリ、就中星兵曹ノ如キハ身ヲ挺シテ傍ラノ家屋ニ上リ、敵陣地ヲ偵察シ、特ニ開林公󠄁司危急󠄁ノ狀況ヲ看取報吿ス、再三○○○隊󠄁長ソノ身ノ危險ヲ注󠄁意󠄁スレドモ勇敢ニ觀測ヲ續ケ、部下ヲ指導󠄁ス、後陣地ニ就キ○○砲󠄁ニテ敵群ヲ砲󠄁擊中、敵砲󠄁彈ノタメニ戰死セリ。
 A陣地奪取を阻まれた敵の衆兵は左方に移動して開林公󠄁司に殺到しました。
  開林公󠄁司ニアリシ大石金子兩○○ノ指揮スル○○○隊󠄁ハ、階上窓口よリ輕機小銃ニテ猛射ヲ加ヘ、手榴彈ヲ投擲シ、更󠄁ニ階下ニ降リテ銃劍突擊ヲ決行セリ、敵ハソノ氣勢ニ怖レテ退󠄁却ス、時ニホボ午前󠄁四時ナリ。
 午前󠄁四時半󠄁頃に到り更󠄁に二、三百の敵は鉾を轉じてB陣地正面に攻擊してきました。
  守備中ノ○○○隊󠄁長ハ姉川○○以下○○○隊󠄁ヲ率󠄁ヰテ防戰大イニ力ム、タマタマ敵迫󠄁擊砲󠄁彈ノ集中ヲ受󠄁ケ、土囊陣地ハ吹キ飛ビ、一時ニ約󠄁十名ノ死傷者ヲ出シ、全󠄁ク苦戰ニ陷リタルモ、漸ク味方戰車裝甲車ノ來援󠄁ヲ得テ、堅忍󠄁ヨク前󠄁面ノ敵ヲ擊退󠄁セリ、此ノ時已ニ五時ヲ過󠄁ギ全󠄁線ノ活動活潑ヲ加フ。
 B陣地の左翼に當つて孤立した油公󠄁司の建󠄁物には、この時竹邊○○外八名の兵士が立籠つてゐました。竹邊○○は、私達と一緖に自動車に乘つてここまで出かけて來た私達の案內役の一人です。次のやうな戰況を板谷中尉が說明󠄁してゐる間、精悍無比なこの勇士は、畠の中にひと塊りになつて圓陣を作つている私達の傍らで、さも手持無沙汰の恰好で、左の脚を前󠄁に出したり、右の脚を前󠄁に出したり、丁度子供達がそんな時にさうするやうに、甚だ落ちつきの惡いもぢもぢとした態度に見えました。臍の下のところで兩手の指を組み合せ、額を伏せてぢつと地面を見つめてゐるのです。二三日剃刀もあてない髯で顏の半󠄁分は覆はれてゐます。陽にやけたその大きな顏は、眼にたつほど赧らんでゐます。この羞かみやさんの兵曹は、私の接した多くの勇士の中でも、とりわけ氣性の素直な好人物のやうに思はれました。
  油公󠄁司ニアリシ竹邊○○外八名ノ守備兵ハ、敵約󠄁二百名同公󠄁司ヲ包󠄁圍シ來ルヤ、乃チ○○ハ各兵二命ヲ與へ、屋上ニアリシ機關銃ヲシテ地上ノ敵ヲ猛射セシメ、自ラハ六名ノ部下ト共ニ機銃手榴彈ヲ携行シテ、既二三階ニ侵󠄁入セル敵兵ノ掃󠄁蕩ニ當レリ、卽チ階段上待チ構󠄁ヘテ、登リキタル敵ニ猛射ヲ浴セ、手榴彈ヲ以テ攻擊シ、更󠄁ニ銃劍ヲ揮ツテ「俺ニ續ケ」ト叫ビツツ階段ヲ降ツテ敵軍中ニ突入シ、机腰󠄁掛油鑵等ヲ手當リ次第ニ投ゲツケテ昇降口ヲ塞ギ、窓ニ據ツテ手榴彈戰ヲ行フ等、僅少ノ兵力ヲ以テ群ガル敵ニ交戰約󠄁二時間互ツテ奮戰シ、遂󠄂ヒニ之ヲ屋外ニ掃󠄁蕩シ、後味方○○○隊󠄁ノ來援󠄁ヲ得テ全󠄁ク敵ヲ擊退󠄁セリ。
 折から○隊󠄁長は公󠄁園坊附近󠄁の屋上に在つて大勢を觀望󠄂中、D陣地正面水電路畔󠄁の粤東中學方面に當つて、敵陣中に信號火箭數條が立昇るのを認󠄁めました。○隊󠄁長は直ちに全󠄁線に令して「敵總攻擊ノ兆アリ各陣地警戒ヲ嚴ニセヨ」と戒めました、時に午前󠄁六時半、間もなく敵はこの信號を合圖に全󠄁線一齊に攻擊を開始しました。
 D陣地――廣中路と水電路との相交るT字路附近󠄁、卽ち私達の停んでゐる畊地一帶に設けられた陣地は、その右翼のC陣地と共に、忽ち雲霞の如き敵兵のために蹂躙され、「D陣地全󠄁滅」「C陣地突破サル」等の悲報は、相次いで貴志○隊󠄁長の許に傳ヘられました。廣中路畔󠄁鐵路附近󠄁に在つた貴志○隊󠄁長は、直ちに戰況を○隊󠄁長に報吿せしめ、自らは豫備隊󠄁僅かに○○名を率󠄁ゐて、CD陣地の中間に進󠄁出、第一線部隊󠄁を指揮し、前󠄁面の敵を攻擊中敵彈のために壯烈な戰死を遂󠄂げました。
  廣中路水電路ヲ守備セル○○○隊󠄁ハ本戰鬪中最モ壯烈ナル奮戰ヲナセリ。
  敵兵午前󠄁六時頃起󠄁伏地(註、土饅頭樣のもの處々に在り)ヲ利用シテ突如陣地ニ襲擊シ來リ、次第ニ肉迫󠄁シ來リテ陣地前󠄁三四十米突ニ逼ラントスルヤ、○隊󠄁長ハ敢然逆󠄁襲ヲ決意󠄁シ、右翼陣地ニ機銃ノ猛射ヲ命ジ置キ、自ラハ手兵○○名ヲ率󠄁ヰテ左側ヨリ敵群ニ突擊シ、大白兵戰ヲ演ジタリ。敵ハコノ氣勢ニ呑マレテ次第ニ退󠄁散セルモ、○隊󠄁ハ粤東中學大華農園方面ヨリスル集中火ヲウケ、續々損傷アリ、漸ク所󠄁在ノ堆土ニ據ツテ殘員之ト應戰中、○○○隊󠄁續イテ○○○隊󠄁ノ應援󠄁ヲ得タリ。
 私達の案內役の一人、一等水兵大森弘君は當時を囘想して、
 ――まだその頃畠はこんな風に枯れてゐませんでした、豆の葉の繁つてゐる畝の間には、どちらを見ても支那󠄁兵の鐵兜がぎつしりと詰つて、腹匍ひながら蠢めいてゐました、その數はどの位あつたか一寸見當がつきません。
 と語り、また、
 ――彈はやたらに飛んできました、四方八方から滅茶苦茶に飛んできました、私は傳令に出されましたが、普段敎へられたやうに、腰󠄁を屈めて小さな姿󠄁勢をとつてみたつて始まらないんです、地物を利用しようにも、いつたいどちらから射たれてゐるのかまるで見當がつきません、私は大きな姿󠄁勢のまま滅茶苦茶に走つて行きました。
 ――傳令は二人づつ出されました、一人ぢゃとても駄目です、二人飛び出したつて、一人はすぐにやられます、傳令といふ傳令が、みんな着いた時は眞赤な血達磨󠄁でした。
 さう云つて溜め息をついてみせた。
 ――私なんかよくまああの彈に當らなかつたものだと思ひます、どう考へたつて不思議ですよ。○○○部隊󠄁○○○隊󠄁に續いて、○○○隊󠄁、○○○隊󠄁、○○○隊󠄁が來援󠄁し、夫々第一線に就き數次に亙つて襲來する敵と交戰、さしもに大軍を擁した敵の企圖を全󠄁く阻止して、遂󠄂ひに後退󠄁の已むなきに到らしめました。時に午後二時過󠄁ぎ、交戰實に八時間餘に亙つたのです。
 ――一時は陸戰隊󠄁本部でも、遂󠄂に廣中路は敵軍に突破されたものと、司令官以下既に覺悟を決められたさうです、あの時は一番心配したと、後になつて司令官もさう云はれました。
 板谷中尉は感慨深くさう語り終つて、私達の先にたつて畝を跳び越え跳び越え濘るみをよけてゆく、その後に私達も續いて次々に墓標を弔つて步きました。中尉は一つの墓標を指さして、
 ――この兼󠄁田一等水兵は、右手を敵彈に射貫かれて、銃劍を右脇にかいこんだまま、やはり突擊に加つて、ここのところでやられました。
 さういふのを引きとつて、大森君は、
 ――支那󠄁兵を一人突き刺したまま、ここに斃れてゐました。
 ――相撲の强い水兵でした。
 と竹邊兵曹もその時言葉を添󠄁へました。
 そこにはまた某少尉(名前󠄁を一寸失念)の墓標もたつてゐました。援󠄁隊󠄁を率󠄁ゐて來着したその靑年少尉は、水電路畔󠄁に飛び出して堆土に據つてゐる孤立無援󠄁の味方に機關銃彈を補給するため、自らトラックを運󠄁轉して、彈丸雨飛する中を、廣中路を突進󠄁、更󠄁に右折して水電路を敵に曝露して突進󠄁、目的󠄁地に車を乘りつけると同時に遂ひに敵彈に斃れたのださうです。車を驅つた距󠄁離は僅かに三百米突ばかりなのです。このやうな悲壯な奮戰談は枚擧に遑がありません。
   高橋二等兵曹ハ、挺身敵機關銃ニ向ツテ突進󠄁シ、之ヲ奪取シテ敵ヲ猛射中、敵彈ノタメニ斃レタリ。
  吉原一等水兵ハ、敵ヲ臺尾ニテ斃スコト數次、臺尾折レルヤ、繃帶ニテ卷キトメテ更󠄁ニ奮戰、遂ヒニ敵彈ノタメニ戰死ス。
  山田特務兵ハE陣地ニ在リシガ、○○○隊󠄁ノ進󠄁擊ヲ見ルヤ、自ラモ大華農園敵前󠄁近󠄁距󠄁離ニ進󠄁擊シ、敵ト三四十米突ニ相對峙シテ、猛烈ナル近󠄁距󠄁離戰ヲ展開シ、約󠄁七時間ノ後原陣地ニ復歸セリ。
 山田特務少尉の麾下にあつた奧山一等水兵の次の逸話は、殊にあはれ深く私の心をうちました。
  奧山一等水兵ノ如キハ、身ニ重傷ヲ被リテ垂死ノ際ニ臨ミ、戰友ニ吿ゲテ曰ク、更󠄁ニ我ヲシテ敵ニ一彈ヲ報イシメヨ、乃チ戰友ハ彼ニ一彈ヲ手渡セリ、彼ハ最後ノ力ニ之ヲ發シテ從容トシテ死ニ就ケリ。
大兵一萬餘を擧つて襲擊し來つた敵軍は、一も我陣地を突破し得ず、遂󠄂ひにその野心を抛棄して、二千に超える死傷と多大の損害󠄂を蒙り、鉾を收めて退󠄁却しました。右に略述󠄁したところが、廣中路會戰のあらましです。私の記述󠄁はごらんの如く杜撰なもので恐󠄁縮です、記憶が朧氣なために筆を省いた箇所󠄁も少くありません。他日精密な記錄の完成󠄁せんことを、終りにもう一度繰かへし希望󠄂しておきます。

 九日晴れ、前󠄁日上海に着いた改造󠄁社編󠄁輯部の水島治男氏と共に、海軍武官室に重村大尉を訪ね、丁度車が空いてゐたので、私達二人は重村さんの運󠄁轉で北四川路に出かけました。三義里小學校及󠄁びその附近󠄁の、土囊陣地と市街戰跡とを見せて貰つたのです。陸戰隊󠄁○○部隊󠄁の某大尉に案內をして貰ひました。
――どうです、こんな戰爭の模樣を一つ詳しく雜誌に書いてくれませんか。
某大尉にさう云はれて、私は意󠄁氣地もなく素直に兜を脫ぎました。
――書けません、いやとても書けません、こんなものを一々詳しく馬鹿正直に描寫をしたら、假りに私がそんな努力をするにしても、第一讀者の方で閉口するに極つてゐます。細胞󠄁か何かの顯微鏡圖を、一つ文章で現してみろ、と云はれるのと同じやうにこいつは難題ですよ。
私は今も、あの附近󠄁の戰跡風景を、假りにもここで說明󠄁しようとも、まして描寫しようとも、試みる勇氣はありません。それはせせつこましい區域の中で、敵味方の陣地が無限に複雜に錯綜してゐるのです。距󠄁離は眼と鼻󠄁の間です、時には全󠄁く壁一重のところもあります。陣地は、家屋の内部と路上と空地とに亙つて蜿蜓として連續してゐます。樣々の角度で曲りくねつてゐます。何のことだかさつぱり見當がつきません。現に交戰中も、彼我の兵士達が、雙方で、敵の陣地を味方の陣地ととり違󠄂へたといふ、滑稽な話が幾つも殘されてゐるほどです。カメラのレンズをどんなに巧みに操つても、この入組んだ複雜さを、一聯の長さや擴がりをもつものとして、捕へることは困難でせう、或は不可能かもしれません。殊に家屋の內部の、――三義里小學校の內部などは、その最も代表的󠄁なものださうです――全󠄁くラビラントそのもののやうな、猫の子でも出口に迷󠄁つてしまひさうな、八幡の藪知らずさながらの土囊陣地など、いや全󠄁くカメラの梃には合ひません。第一、どこを步くのにも懷中電燈の入要󠄁なほど、到るところが薄暗󠄁がりです。窓といふ窓には土囊がぎつしり積んであります。二階も三階も同じです。建󠄁物全󠄁體を、土囊の腸詰めとでも考へた方が、解りが早い位です。天井は弓なりに撓つてゐます。あるところでは壞れてゐます、土囊の重みに耐へられないで、――もともと頑丈な建󠄁物ですが。それらの土囊からはひよろ長い草が生えてゐました。濕氣た土の匂ひが家中を罩めてゐます。妙に冷めたい厭な空氣が、呼吸󠄁器を壓迫󠄁します。こいつはとてもやり切れたものではありません。そんな中で支那󠄁兵は二ヶ月の間も書夜をおかず戰つてゐたのです。銃眼のあるすぐ傍らに、窖のやうな寢所󠄁があります、藁の上に汚れた蒲團が敷いてあります。勿論そこは眞つ暗󠄁です、懷中電燈で照らしてみると、そんな寢所󠄁の一つに、犬ころが一匹、顫へながら睡つてゐました。武勇傳か何かの、講󠄁談本らしいものの散らかつてゐるところもあります。何といふ丹念な、頑丈な、さうして陰鬱な陣地でせう。制空權を敵に奪はれて、太陽の光のある間は、ひつきりなしに敵の飛行機が頭上に飛びかつてゐる下で、なるほどこれだけ手厚く土囊を積み上げてあれば、ひとまづ爆彈から保護されてゐるとは云ひ條、何としても、こんな中に土龍󠄁のやうに立籠つてゐるのには、考へてみると、一種獨特の勇氣を要󠄁することでせう。支那󠄁人の神經でなければ、とても我慢はなりますまい。云ひゃうもない氣持になつて、そぞろに戰慄を覺えながら、私は案內者よりもひと足先きに、その建󠄁物から出てきました。

十四日晴れ、この數日は每日アドバル―ンが上つてゐました。この日はしかもそれが二つになつてゐます。日軍肉迫󠄁蘇州、日軍佔領南翔󠄁。午後私は市政府に出かけました。途󠄁中の道󠄁路は鋪裝道󠄁路の坦々たる路です。小春日和の陽ざしの中を、上海合同新聞の若い記者達と無駄口を利きながら、ゆるゆる車を驅つて行くのは、流石にのんびりとした氣持でした。遠󠄁くに美しい村が見えます。恐󠄁らく住󠄁民はどこかへ避󠄁難した藻拔けの殼の村でせうが、かうして遠󠄁くから眺める分には、楊柳の茂つた平和な靜かな聚落とも思ひなすことが出來ました。路傍の棉畑には、棉が白く稔つてゐます、恐󠄁らく穫り收れ時はとつくに過󠄁ぎてゐるのでせう。
綠の甍と丹朱の柱󠄁をもつた市政府の建󠄁物は、いささか安手には見えましたが、聞きしにまさる厖大な建󠄁築󠄁でした。詳しくはここに說きますまい、讀者諸君もニュース映畫か何かで先刻御覽になつたことでせう。
建󠄁物の內部は、つまらぬものが少しばかり散亂してゐる外、三つの部屋が三つとも全󠄁くのがらん洞でした。この大きな壁の上に、私は次のやうな、稚拙な文字で書かれた、短い文章を讀みとりました。
○○町出身兵
義治ヨ元氣デ居ルカ
兄ハ元氣デ居ルゾ
この種の落書きは、壁といふ壁の上に無數に書き散らされてゐます。先のと少し離れたところに、私はもう一度次のやうな短い言葉を見出しました。
(義治體ヲ氣ヲツケヨ)
私達は更󠄁に車を驅つて、江灣鎭の競馬場に向ひました。そこには、殆んど破壞を蒙らない、そつくりとしたままの堅固を極めた敵の陣地が殘つてゐました。觀覽席のコンクリートのスタンドが、そのまま陣地になつてゐます。その前󠄁方に塹壕があり、鐵條網󠄁が𢌞らされてゐます。競馬場一帶の廣闊地がその前󠄁に展けてゐる譯です。丹念に土囊を積み上げた、堅固な陣地構󠄁築󠄁は、三義里小學校の場合と大同小異のものでした。陣地をやや五米突離れて落下した味方の爆彈は、恐󠄁らく陣地中の敵兵には、何の損傷も與へなかつただらうと思はれます。私はもう一度、支那󠄁兵の戰爭の仕方、陣地の作り方に呆れて舌を卷きました。

――次はある日の風呂場での二人の兵士との會話。私の泊つてゐた旅館江星館の風呂場で、ある日の夕方私は二人の兵士と一緖にお湯につかつてゐました。二人の兵士はいづれもその前󠄁日野戰病院を退󠄁院して、これから原隊󠄁に歸らうとする、負傷の癒󠄁えたばかりの若者でした。
――俺のと丁度同じところだね。
さう云つて一人が相手の創痕を調󠄁べてゐます。なるほど二人とも、耳の上の顳顬のところに、長い大きな同じやうな創痕をもつてゐます。
――どうだい痛まないかい。
――ちつとも。
――かうして觸ると、俺のは今でも少し痛むんだ、ほら、こんな固い筋が出來てる。
――隊󠄁まで歸るのに、幾日位かかるかな。
――さあ、何とか車を見つけるんだな、步いちゃたいへんだよ、二十里はあるつていふぜ。
――どこまで行つてるだらう、搜すのがたいへんだな。
――報道󠄁部へでも行つて、お訊きになつたらどうです。
私も口を插んだ。
――いや、そいつが解らないんです、さつき行つて訊いたんですが、體軀が少し弱󠄁つてゐるので、步くのが億劫ですよ。
――どこで怪我をされましたか。
――吳淞港󠄁クリークを渡つたところでやられました。私は二十三ですが、これでもう戰爭には三度も出てゐます、一度だつて彈になんざ當つたことはなかつたんですが、私の隊󠄁でも、私が一番度胸がいいつて、みんなに云はれてゐましたよ、腰󠄁なんか屈めたことはなかつたんです、そいつがたうとうやられました。
――はあ……。
――一發耳をかすつたんです、來やがつたなと思つてる間に、今度はぐわあんとやられましたよ。何が何だか皆目分らなくなりましたよ、氣が遠󠄁くなつたんですね、暫らく倒れてゐました。今度氣がついた時は、頭がやけに痛いんです。思はず聲をたてました、やられたつ……と怒鳴つたんです。するとすぐに、看護兵が一人、ようしつ……て飛んできました。そしてすぐに頭に繃帶をしてくれました。彈の來るところへは看護兵が來てくれないなんて、そんなことはありませんね。大丈夫だ、しつかりしろ、さう云つてゐるのが、やつとはつきり分りました。と、今度はその看護兵がやられました、卽死です、額をやられたんです、ばつたりそこへ殪れました、もうそれきりです。私は思はず屍骸にとりついて、男泣きに泣きました。暫くそこで泣いてゐました。この男は、俺のために死んでくれたんだ、さう思つたら、淚がとめどなく流れました。あんな悲しいことは、いや、とてもお話なんか出來ません。
さう云つてひと息息をついてから、話はまた續きました、
――その前󠄁から、私はひどく體軀が衰弱󠄁してゐました、とてもその看護兵を擔いで歸るつたつて、頭をやられてゐるのでそんな譯にゆきません、掌を合して拜みましたよ、そして屍體を置き去りにして、いつまでもさうしてゐてもつまらないので、クリークを游いで私は後方にさがりました。疵口よりも、體軀が衰弱󠄁してゐるので、病院でも暇がかかりました。
――おい、こんな疵は後腐れが惡いな、貫通󠄁銃創なんかと違󠄂つて。君はどうだい、俺は時々、今でもどうかすると、頭がふらついて氣が遠󠄁くなるぜ。
――いや、俺もさうだ、腦味噌がそつくりもとへ戾らないんだらうよ、こんなことで、頓󠄁馬に見られるのは厭だな、隊󠄁へ歸つても、そいつだけは氣になるよ、俺は。
先の私の話相手は、もう一度私の方にふり向いて、話しつづけました。
――ひどく痛いものですよ、鐵兜に彈が命るつてやつは、痛いものですよ、尤も鐵兜がなけれや、とても助かりつこはありません、こいつへ來て、妙なものですね、彈は骨を傳つて、こいつへ拔けました、後で鐵兜を見たら、入つた方の孔は、小指の頭ほどでした、それだのに後ろの拔けた方の孔は、こんなに大きくあいてゐました、妙なものですね。
さう云つて、私の話相手は、一錢銅貨󠄁大の大きさを、指で作つてみせました。
二人の兵士達は、病院の人らしい蒼白い顏色はしてゐましたが、私の話相手も、それからもう一人の殆んど默つてゐた若者も、いづれも快活さうに見えました。一度傷ついた前󠄁線へ、もう一度原隊󠄁を尋󠄁ねて歸つてゆく、その出發を前󠄁にして、彼らは平然としてゐました。私は何よりもこの二人の從容とした勇氣の前󠄁に、深い敬意󠄁を覺えました。

――君はあちらにゐて何か詩を書いたか。
私は歸來、いろんな友人からさう云つて質問されます。
――いや、書けなかつた、とても書く氣持にはなれなかつた。感傷的󠄁になつたり、詠嘆的󠄁な氣持になつたりするのは、厭だつたから、恥かしかつたから、詩なんかとても書けなかつた、――少くとも僕のやうな者には、書けないよ、書きたいとも思はなかつたよ、また。私はいつもさう答へてゐます。(十二月十五日記)

 

 

 

 三好達治「半宵雜記」『全集9』(S40.4刊)