三好達治bot(全文)

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「上海雑観 続」

 二十九日原稿草書、同夜九時海軍武官室に到り重村大尉を經て飛行便に托す。軍艦○○內火艇󠄁二、米國消󠄁防艇󠄁の乞ひに應じ、その側防に任じ蘇州河を遡らんとして、たまたま英艦との間に小紛爭を生ず。同日午後二時頃のことなり。
 三十日、午前󠄁中小雨、戰線にほぼ異狀なし。終日車を得ず、空しく虹口地帶を徘徊す。夜に入って軍艦○○の砲󠄁聲殷殷。
 この日軍報道󠄁部にて戰線通󠄁過󠄁の證劵を得。市內の寫眞店はいづれも陸海軍人派遣󠄁記者達の印畫現像のため、或は寫眞屋さん自ら戰線撮影に出かけるために多忙󠄁を極め、證劵に必要󠄁な寫眞など到底つくって貰へさうもないので、漸く大阪時事新報記者某氏の手で撮って貰った素人寫眞がやっと今日出來上ったのを呈󠄁出して、右の通󠄁行證を貰ひうけたやうな譯である。ただに寫眞屋さんばかりではない、市內の店といふ店が悉く多忙󠄁を極めてゐる。飮食店はおでん屋も喫󠄁茶店も酒場も小料理屋もうどんぜんざいの類を鬻ぐ小店、例外なく繁昌を極めてゐる。それらの店舖の數は決して乏しいと云へないが、それでまだ營業中のものは閉店休業中のものの數には遙かに及󠄁ばないやうに見うけられる。勿論虹口の人口は今日なほ二萬幾千の平時には較󠄁ぶべくもない少數であるが、その少數者は殆んど悉く妻子を故鄕に還󠄁した鰥夫暮しの人々である上に、兵隊󠄁さんや新聞記者のやうな特別なお客さんが雪󠄁崩󠄁れこんでゐる現在では、結局飮食店といふ飮食店がさほど勉强をせずとも自ら繁昌せざるを得ないやうな譯合になってゐるのである。上海は平素から內地に較󠄁べて飮食物の値段の高いところださうであるが、現在繁昌を極めてゐるそれらの店の品物は、決して安値だとは云へないやうに見うけられる。うどん十五仙、ぜんざい十五仙、うで卵子七仙、紅茶コーヒー二十仙、トースト・パン(煎餠のやうに薄い色の二片)三十仙、ちゃんぽん四十仙といふやうなのがだいたい通󠄁相場になつてゐる。このうちうどんぜんざいの如きは、私のやうな粗食に慣れた者でも一寸閉口する程󠄁度の品物である。物價はただに飮食物のみに限らず、酒と煙草を除いた外のものは悉く多少法外に高價のやうに思はれる。雜誌は二割󠄀增キャラメルは四割󠄀增といふ風な要󠄁領である、他の雜貨󠄁に就ても煩をいとつて說かないがほぼ同樣と見なしていい。さうしてそれらの品物がそれぞれの店頭で飛ぶやうな賣れ行きを示してゐる。家として戰禍を蒙らないもののないそれらの商店のかくの如き繁昌ぶりは、それがそのままの調󠄁子でいつまで續くかは私の推知しうる限りでないが、價格の法外なのはともかくとして、見た眼には何とはなしに賴もしげにも思はれないことはない。上海は既に復興の第一步を踏み出してゐるとも見えるのである、間近󠄁で砲󠄁聲の轟いてゐる中で。
 舊日報主󠄁筆後藤󠄁和夫さんの推測によると、事變當初以來虹口地帶に射ちこまれた敵彈の數は、恐󠄁らく二千發を下らないだらうといふことである。だから砲󠄁彈の命つてゐない家は珍らしいといつていいほど、どの家もみな屋根を射ち拔かれ壁を毀され窓や露臺を破壞されてゐるのである。飾󠄁窓の硝󠄁子なども滿足なものは殆んど見當らないと云つてもいい。それらの無慘な家々の續いたこの一帶では、しかしもはやすべての混亂はとり除かれて、街路は淸掃󠄁され、交通󠄁は整理され、流行病は完全󠄁に驅逐󠄁されて、逓信事務も殆んど圓滑に復活しつつあるのである。工部局の淸掃󠄁人夫――赤いちやんちやんこを着た苦力達は每朝󠄁トラックで運󠄁ばれてきて、終日仕事に從つてゐる。理髮店も店を開き、錢湯も既に營業を始めてゐる。「按摩󠄁あり」といふ貼紙も昨日初めて見受󠄁けられた。路上に穿たれた砲󠄁彈の孔は煉瓦のかけらで埋められ、崩󠄁れかかつた壁の上には「危險」といふ文字が記されてゐる。時計屋さんは腕時計の修繕に夜つぴて忙󠄁殺され、燈火管制中の眞暗󠄁な四つ辻󠄁には時として路に迷󠄁つた醉つ拂ひが何か譯の分らぬことを怒鳴り散らしてゐるといふやうな有樣である。大場鎭陷落以來、虹口一帶は日一日と、合同新聞の言葉を假りて云へば「明󠄁朗󠄃化󠄁されつつある」のは爭はれない事實である。
 三十一日、この日もまた雨、午後北四川路を經て徒步陸戰隊󠄁本部を訪ふ。
 ――北四川路はもう通󠄁れますよ、
 と誰かに敎へられて出かけてみると、いきなり步哨に呼びとめられて、通󠄁行を禁じられた。押問答は無用である、私は唯々諾々と命に從つて脇道󠄁にそれた、さうして暫く行つてから再び路上に出てみると、今度はそのまま通󠄁された。私は先に二度ばかり車でこの路を通󠄁つてゐる、しかしかうして一人でと見かう見しながら、陸戰隊󠄁の最後の防禦線となつたこの街路を步いてみると、流石にまた凄慘の氣の新しく身に逼るのを覺えないではゐられなかつた。路を挾んだ兩側の家屋店舖の悉く破壞され燒却されてゐるのは云はずもがな、辻󠄁辻󠄁には既に守る人のなくなつた堅固な土囊陣地がそのまま殘つてゐるそこここに、素木(しらき)の眞新らしい墓標が一基二基三基、折からの時雨に濡れて肅然と立つてゐるのである。「故海軍一等水兵何某君戰死之地」といふやうな簡單な文字がその小さな假そめの墓標の表面いつぱいに一行に記されてゐる。さういふ墓標が四基五基と一と所󠄁に寄り集つて立つてゐる所󠄁がある。墓標の前󠄁には硝󠄁子のコップ、東京などでは喫󠄁茶店で炭酸水を盛󠄁つて出すあの硝子のコップに、(そのコップは雨に敲かれた泥のためによごれてゐる、)半ばばかり滿された手向の水が供へられてゐる。さうして墓標を支へるために僅かに盛󠄁り上げられた新らしい土――一杯の土の上には黃白の菊花󠄁の間に燃え立ちさうな鷄頭の紅を交へた簡素な花󠄁束が、花󠄁筒もなしに、そのまま軟かい土に植ゑられて、從軍僧の供へたものであらう、小さな卒塔婆と共に危ふげに立つてゐるのである。戰車や貨󠄁物自動車が遽だしげに泥を飛ばしてその前󠄁を走り、燒け崩󠄁れた家屋と土囊陣地とがその後ろに續いてゐる。たまたま通󠄁りかかつた通󠄁行人はみなその前󠄁に停立して、默禱を捧げてゆくのである。東京の大震災當時、私は高等學校の學生であつたが、あの災禍の後の無慘な焦土をさ迷󠄁つて、我れにもなく、兩眼から滂沱として淚の落ちるのを禁じ得なかつた。今日もまたその同じ淚が、私の眼頭ににじみ來るのを覺えながら、私は力めて私の女々しい感傷癖を排しつつ路を急󠄁いだ。
 正面玄關の前󠄁に土囊を築󠄁き上げた陸戰隊󠄁本部の建󠄁物は、楕圓形の中庭󠄁をもつた長方形の見るから頑丈な高層建󠄁築󠄁である。それは兵器庫と彈藥庫と要󠄁塞と兵營とを一つに兼󠄁ねた、陸上に置かれた一艘の厖大な軍艦だと思へばだいたい間違󠄂ひがないであらう。刺を通󠄁じて本部副官某大尉に會ふ。
 訪問の目的󠄁を問はれて、(早速󠄁さう問ひかけられた副官の態度から推しても、近󠄁頃訪問者が夥しさうな氣配である、)私はただ半日の暇を得てお訪ねしたくなつたからお訪ねしたのであると答へると、それでは最近󠄁(二十九日前󠄁後)公󠄁表を許されたばかりの榊原中佐の事蹟でも雜誌に書いてくれませんか、書いてはどうです、これは當時發表を許されなかつたので、今からでは新聞記事としては既に時機を失したものか餘り歡迎󠄁されない傾きがあり、旁々あなた方の雜誌で報道󠄁して貰ふのが恰好かと思ふといふやうな前󠄁置きで、次のやうな內容の話を聞いた、聞きながら私は少年の頃橘中佐や廣瀨中佐の物語を何かの繪本で心をときめかせながら初めて讀んだ時のやうな感動を覺えた。(思ふに以下の如き中佐の記事はその後內地の新聞にも或は揭載されただらう、しかし、今の私には內地の樣子はいつかう分らないから、私の聞いたところをそのまま記しておくことにする。)
 榊原憲󠄁三中佐(當時少佐、岡崎市出身)は昨年十二月の定期󠄁移動で海軍砲󠄁術󠄁學校敎官から轉じて當陸戰隊󠄁司令部大隊󠄁長に任ぜられたのださうである。今度の事變が勃發すると同時に防空指揮官として、陸戰隊󠄁本部屋上の指揮所󠄁――この軍艦のやうな建󠄁物のマストのてつぺんともいふべき尖塔の頂上に在つて、八月十三日開戰の日から十月六日午後零時三十分戰死の時まで、寸時もその位置を離れず、五十幾日の間四疊半に足りないその狹苦しい一室(?)に起󠄁居し、そこで食事も攝ればそこで睡眠もするといふ風な鹽梅だつたさうである。屋上には勿論防空火器が土囊を積み上げた小堡壘の中に筒先を揃へてゐるのである。
 中佐は晝夜を分たず防空隊󠄁員の指揮に任じ開戰翌󠄁日の十四日以後、間斷なしに襲來する敵機の數は多い時は十三機に達し、時には五六機、三四機翼を連ねて夜といはず晝といはず陸戰隊󠄁本部を功名手柄󠄁の目標として飛來するのを、常に機宜にかなつた指揮によつて擊退󠄁し、遂󠄂に敵機をして一發の命中彈をも得しめなかつたのだから、それだけでも餘程󠄁の膽力と頭腦と技術󠄁とを兼󠄁備した天晴れな働きぶりだつたに違󠄂ひない。新聞記事によつて既に讀者諸君も先刻ご存じの通󠄁り、陸戰隊󠄁本部の位置は、閘北一帶の敵陣地の根據ともいふべき商務印書館や鐵路管理局の建󠄁物からは、僅々一粁ばかりを隔ててゐるのみである。それらの二つの建󠄁物は全󠄁く眼の先に聳えたつてゐるのである。況んやそこから延󠄁び出た敵の塹壕陣地は、文字通󠄁り眼の下にまで逼つてゐるのである。敵の銃砲󠄁彈が指揮所󠄁に向つて集中されるのはいふまでもない。ここに向つて飛來する十五糎乃至八糎の重輕砲󠄁彈の數は一日千發から五六千發にも達したといはれてゐる。しかも指揮所󠄁は全󠄁く無防禦の一小塔である。
 ――私が敵陣にあつたらただの一發で命中させてみせる。
 私に戰況を說明󠄁しながら何某大尉が髭を捻つてさう云はれたのも、なるほど尤もの言と聞えた。
 榊原中佐はこの彈丸雨飛の間にあつて、五十幾日本部を敵機の爆擊から護り通󠄁したばかりでなく、その間敵狀の動靜を監視し、友軍の戰鬪狀況を具󠄁さに觀察して、電話、傳令、無線等の聯絡機關を以て刻々に適󠄁切な報吿を司令部に齎し、重要󠄁な作戰の資󠄁料を提供して常に間然するところがなかつた。司令官始め幕僚は終始中佐の報吿に絕對の信賴を置き敏速󠄁果敢な作戰を運󠄁らしてしかも全󠄁く過󠄁つところがなかつたと云はれてゐる。
 中佐の指揮によつて擊墜󠄁された敵機は四、就中八月十五日には敵空軍の誇り閻海文の操縱するノースロップを遂󠄂に擊墜󠄁し、閻はパラシュートを用ひて降下する途󠄁中射殺された。痛手を負つて遁走した敵機の數は數十を以て數へられ、終に敵機はその後陸戰隊󠄁本部を敬遠󠄁して寄りつかなくなつたとさへも云はれてゐる。
 以上略述󠄁した中佐の武勳のほどから推察しても、一日として碌々寢食の暇もなかつたものに違󠄂ひない。中佐は顏色蒼然として兩脚は逢󠄁ひに起󠄁居も不自由なまでに脹れ上り、いづれ劣らぬ劇務に就いてゐる同僚の眼にも、到底默視するに忍󠄁びないほどの容子に見えたさうである。しかも休養󠄁をしきりに勸められつつ頑としてその戰鬪位置を離れなかつたばかりか、僅かに寸暇あるごとに、事變當初以來中佐の魔󠄁下にあつて(卽ち本部屋上及󠄁びその附近󠄁に於て戰死した部下の勇戰奮鬪の樣を具󠄁さに遺󠄁族に書き送󠄁つて、父󠄁兄妻子の悲しみを慰めるに甚だ懇切を極めた以下に揭出するが如きその書簡の簡勁素樸な好文字は、當時の戰況を委細に物語ると共に、英雄また兒女の情󠄁あるゆかしい一面を永く砲󠄁煙彈雨の間に留め得たるものともいふべく、斯人內に修むるところまことに尋󠄁常ならざる平素の用意󠄁のほどもひとしほ懷かしく忍󠄁ばれる心地がするではないか。手簡はその一二を後に示す。
 十月六日、同僚某氏がたまたま指揮所󠄁に登り來つて、暫く交替しませうと吿げるや、中佐は聲を勵まして君には君の戰鬪位置があるではないかと促して塔下に降らしめた時、眞茹鎭の方面より飛來した一彈は指揮所󠄁の鐵柱󠄁に命中し、中佐を始め附近󠄁にあつた五名を斃し五名を傷つけた。時に午後零時三十五分、中佐年三十五。遺󠄁族は鎌󠄁倉町大町に令室千代子さんが居らるる由。
 後に私は閘北の廢墟を尋󠄁ね、商務印書館の附近󠄁から陸戰隊󠄁本部を仰ぎ見たが、ほんの眼の先のその指揮所󠄁によくもまあ五十幾日も敵彈の中らなかつたのはまことに奇蹟中の奇蹟とよりは思はれなかつた。中佐の死は、萬死のうちに一生をも望󠄂み難いかかる戰況中にあつて、全󠄁く當然中の當然事と云はざるを得ないのを思ふにつけても、私はまた肅然として襟を正し、今ここに我々の前󠄁に傳說ならぬ現實の、さうして今は既になき、一人の「英雄」を見出たことを悲しみを以て喜び、喜びを以て悲しんだ。
 因にいふ、二十七日閘北一帶の敵軍が敗走した後に於て始めて禁を解かれて中佐の死が發表されたのは、中佐の存在が就中敵空軍の畏怖の的󠄁であり、友軍の信賴のかかつて繫がるところであつたからに因るといふ。
 左に戰歿將士の遺󠄁族に送󠄁られた中佐の手簡を揭げる。

 

 謹啓󠄁 既に電報にて御承知の事とは存じ上候今時事變に於て出崎貞一水兵には十七日勇戰奮鬪壯烈なる名譽の戰死を遂󠄂げられ候事は君國の爲武人の本分とは申ながらかへすがへすも痛惜の念感慨無量に候わけて朝󠄁夕本人の武運󠄁長久を祈りその凱旋の日を待たれし近󠄁親御家族樣の御愁傷痛嘆限りなきことと御推察申だに同情󠄁の淚禁じ難く候
 司令部大隊󠄁より忠勇なる將兵多數戰死傷者之有り大隊󠄁長を始め痛恨斷腸の思にて隊󠄁員一同と共に深く哀悼の敬意󠄁を表し居り候今や後續部隊󠄁の來着と陸軍の揚陸に依り皇軍の意󠄁氣愈高く暴戾なる支那󠄁軍を徹底的󠄁殲滅致す可殉職せる魂魄の復讐に一致結束盡忠報國の決心に御座候因に八月十三日早朝󠄁突如支那󠄁軍の不法發砲󠄁により俄然交戰狀態となり砲󠄁聲殷々轟々砲󠄁彈雨飛の激戰加ふるに猛火炎炎と市街を壓し慘烈なる戰鬪は數日畫夜繼續し八月十七日午前󠄁九時敵砲󠄁火猛烈となり當時出崎水兵は火藥庫警戒兵として敵彈雨飛の眞只中に自若として警戒中偶午前󠄁十時二十分敵の十五糎砲󠄁榴彈身近󠄁にて炸裂し爲に左頭部盲󠄁貫彈片創及󠄁頭蓋骨折兩下肢裂傷鮮血淋漓壯烈なる戰死を遂󠄂げられ永久に護國の神と消󠄁え申候本人は資󠄁性純眞篤實勤務拔群にして將來有爲の良兵にして同僚上司の信望󠄂厚く其の功績を嘆賞せざるものなく實に武人の典型と永久に後輩の龜鑑と存じ候
 開戰以來激戰十數日に亙り其の機を得ず延󠄁引ながら分隊󠄁員を代表し謹でお悔申上候

敬 白   

   八月二十八日
上海海軍特別陸戰隊󠄁司令部大隊󠄁長       
海軍少佐  榊 原 憲󠄁 三  
      出 崎 金 吉 殿

 

 謹啓󠄁既に電報にて御通󠄁報有之候事とは存じ上候
 今度事變の爲去る十四日の大激戰に於て御主󠄁人佐藤󠄁特務中尉には勇戰奮鬪の後壯烈なる戰死を遂󠄂げられ候事は君國の爲武人の本懷とは申し乍らかへすがへすも殘念愛着の念感慨無量に候わけて朝󠄁夕本人の武運󠄁長久を祈り凱旋の日を待たれし御家族の御愁傷さこそと御想像申上ぐるだに同情󠄁の淚禁じ難く候
 司令部大隊󠄁中よりも忠勇の部下佐藤󠄁特務中尉以下十數名の戰死傷を出し大隊󠄁長を始め斷腸の思ひにて隊󠄁員一同と共に深く哀悼の敬意󠄁を表し居り候
 一方暴戾なる支那󠄁軍の怨骨髓に徹し後續部隊󠄁の來着と陸軍の揚陸に依り皇軍の士氣益々旺盛󠄁に候
 今や攻擊前󠄁進󠄁の機を待ち國難に殉職せる魂魄の復讐戰には必ず殲滅致す可く花󠄁と散り靖國に永久に國守ります英靈に對し慰撫致す覺悟に候因に支那󠄁側の暴戾挑戰的󠄁なる態度に對し常に我が陸戰隊󠄁は隱忍󠄁自重し一觸卽發の孕み居り候上海も八月十三日より突如陸戰隊󠄁に對し支那󠄁軍の挑戰的󠄁不法發砲󠄁より俄然兩軍交戰狀態となり砲󠄁煙彈雨飛散し殷々轟々と砲󠄁銃聲四園に響き猛火炎々の裡に夜は明󠄁け十四日更󠄁に頑强にも敵は十五糎砲󠄁彈及󠄁各種榴彈砲󠄁等を以て我陸戰隊󠄁本部に集中且つ空襲十數囘の爆擊をなし戰鬪愈々酣となり午後三時より六時三十分此の間最も大激戰となり尚佐藤󠄁特務中尉は兵舍地區防備の重任を帶び本部正門附近󠄁に在りて敵砲󠄁彈爆彈雨下の眞只中に部下小隊󠄁を指揮し敵機擊攘に勇戰奮鬪中午後五時三十分敵十五糎砲󠄁彈身邊に炸裂し佐藤󠄁特務中尉外數名を斃し又戰傷者を出し候其の彈片は中尉の右肩󠄁甲頸部動脈を戰傷し鮮血淋漓も敢へて辭せず軍刀を握り眼光炯々として「敵機を擊攘せよ」と最後の命を遺󠄁し遂󠄂に力盡き病舍に收容致され候も軍醫官の言に依れば意󠄁識極めて明󠄁瞭なりしも動脈破傷流血夥しく如何とも術󠄁なく遂󠄂に午前󠄁一時三十分永久に國守る神と相成󠄁申候
 本人は溫厚篤實常に部下を愛撫し上長を敬し爲に上下の信望󠄂極めて厚く決斷英勇に富み小官の唯一の部下指揮小隊󠄁長として意󠄁氣投合懇親の間柄󠄁にて信望󠄂愈々深く候今囘の殉職に於ても司令官を始め幕僚各隊󠄁長の等しく愛惜同情󠄁を表せられ生前󠄁の美學戰功を歎賞せざる者なく眞に武人の典型後輩の鑑と存じ候
 謹みて御悔み申上候
 實は早速󠄁御通󠄁報申上ぐ可きの處交戰以來十數日不眠不休の戰鬪にて其の機を得ず延󠄁引乍ら右早々
   昭和十二年八月二十五日       上海海軍特別陸戰隊󠄁司令部大隊

海軍少佐 榊 原 憲󠄁 三  
      佐 藤󠄁 深 雪󠄁 樣

 追󠄁記、この日(三十一日)夕刻蘇州河渡河の報あり、なほ詳細は知るべからず。 
 一日、小雨後曇り、午後領事館裏にて汽艇󠄁を待ち、軍艦○○を訪ふ。新聞記者從軍僧等の訪問あり、甲板はやや混雜の態である。浦東側の舷側に鐵板の立てかけてあるのは、對岸に狙擊兵の現れるためであらう。監視兵は頭からかけた雙眼鏡を屢々翳しながら、右舷に立ち左舷に立ち甲板上を徘徊してゐる。上下の船󠄁舶は大小樣々のものが引きもきらない有樣である。槪ね外國旗を揭げてるるのであるが、それらの甲板に立ち働いてゐる者、或は仕事もしないでただぼんやりとしかも肩󠄁を接してぎつしりと立ち並んでゐる乘船󠄁者は、殆んど皆淺葱色の支那󠄁服󠄁を着こんだ支那󠄁人である。何のためにどこへ運󠄁ばれてゆくのであらう、一寸諒解のつきがたい風景である。この○○の位置に最も近󠄁い對岸――浦東側の對岸には佛蘭西始め諸外國の工場が立ち並んでゐる。その建󠄁物を楯にとつてそのすぐ後ろには敵兵が潛りこんでゐるのであるが、砲󠄁擊も出來なければ爆擊も出來ないといふやうな困つた狀態になつてゐる。流石に敵もそれらの工場に侵󠄁入することは差控へてゐるので、河岸まで出てきてそこからこちらを狙擊するといふ譯にはゆかない。それでその方面は、○○中佐の言葉によると「幸か不幸か」まづだいたい安全󠄁區域といふことになつてゐるのださうである。しかしその工場地帶の終つたすぐそこの一角には、夜になると――或は時として晝間も―こつそり敵は機關銃をそこまで持ち出してきて隙を窺つてこちらを狙擊するのださうである。機關銃で軍艦を擊つ、のだから考へてみると一寸をかしな話である。
 ――氣をつけなさい、そこにゐると危ないですよ。中佐は笑ひながら、さう云つて私を戒めた。舷側の鐵板には、なるほど拇指大の孔が幾つかあいてゐる。
 ――それでこの間は一度あそこに射ちました、火事が起󠄁つてあんなに燒けたのです。さういつて指さされたその一角の建󠄁物は眞黑焦げに燒け落ちてゐる。ほんの五百米突ばかりの近󠄁距󠄁離だから一溜りもなかつたに違󠄂ひない。
 そんな話をしてゐると、そこへ水兵さんがやつてきて、
 ――英國士官が參りました。
 といふやうな報吿を齎した。やがて中佐は、甲板の一隅に椅子を並べて、英國士官が封筒の中から取り出した手紙のやうなものを、額をつき合つて讀みとりながら、時には何か說明󠄁を試みてゐるやうな樣子であつた。英國士官は何か質問に來たのであらう。さうしてその士官はおしまひには愛矯よく笑ひながら、暫く雜談をして歸つていつた。
 ――やあお待たせしました、○○にお會ひになりますか。
 ――いや、お忙󠄁しいでせうから、今日は別段お眼にかからなくてもいいのです。
 私達がもう一度雜談を始めかかつた頃、艦尾の方でドカンと一發砲󠄁聲が轟き渡つた。私は椅子に腰󠄁掛けたまま、力めて沈着な態度をとらうと心がけたが、どうも氣持は落ちつかなかつた。何しろひどい音󠄁響である。續いてまた砲󠄁聲が起󠄁つた。
 ――何でせう。
 ――さあ、何か見えたのでせう。
 さういへば正面の浦東の空では、飛行機が二機夕空を旋囘しながら、ダイヴィングを繰返󠄁してゐる。
 ――迫󠄁擊砲󠄁でも見つかつたかな。
 飛行機は二機がやがて四機になり、爆音󠄁がしきりに聞えてくる。砲󠄁擊は、ダイヴィングを終つてそれらの飛行機が上空に翔󠄁け上つた合間を見計らつて、火蓋を切つてゐるらしい鹽梅である。發砲󠄁してゐるのは、○○のすぐ後方に續いてゐる○○であつた。砲󠄁口から迸り出る淡紅色の閃光が、暮色を破つて黃浦江の濁流の面に映つてゐた。
 この日朝󠄁から例のアドバル―ンは「日軍到蘇州河南岸」の文字を揭げてゐた。宿に歸つて聞いてみると、(この日の晝私はサッスーン・アパートを出て旅館江星館に移つた、敵砲󠄁彈の患ひがなくなつたためである。二十九日夜以來敵空襲もまたなし。)たまたま當地に買出しに赴いた同宿の○○師團附御用商人某氏の語るところでは、本日正午頃同師團正面では漸く渡河に成󠄁功したといふ話である。なほ信憑すべきが如く信憑すべからざるが如し。前󠄁線より歸來した人々の傳ふるところは全󠄁く區々としてゐるからである。これを要󠄁するに、敵前󠄁渡河のなほ甚だ苦戰中なるは推知するに難くないやうである。
 附記す、右の商人の言によれば、貨󠄁物自動車一日の傭ひ賃百三十圓。
 夜に入つて黃浦江上に再び砲󠄁聲の殷々たるを聞く。
 二日、小雨、この日午前󠄁七時頃蘇州河渡河の報あり、人々の吿ぐるところ漸く趣きを一にして殆んど信憑するに足るが如し。
 この夜また黃浦江上に砲󠄁聲殷々。
 三日、陰、小雨。數日來合同新聞社の自動車は車體や運󠄁轉手に事故を續出して、用に耐へるもの少く、その上前󠄁線の戰鬪は猛烈を極めてゐるのは云ふまでもないので、私などの出る幕ではあるまいと遠󠄁慮をしてゐたが、この日は漸く席を設けて貰ふ約󠄁を得て晝辨當の用意󠄁を整へ早朝󠄁より詰めかけ正午頃まで待つたが終ひに車の遣󠄁り繰りがつかず、いささかがつかりして澁面をつくつてゐた折から、午後一時軍報道󠄁部の車が出るのに空席があると聞いて早速󠄁賴みこんで同車を許さる。竹原大尉の東道󠄁である。(序でだから附記しておかう、タクシーの賃銀は一時間五圓といふのが目下の相場である、だから前󠄁線に出て往󠄁復に三四時間も費せばけちな話だが忽ち囊中に支障を生ずる上に、地理に暗󠄁い私のやうな者はとても單獨には運󠄁轉手を指揮して車を飛ばすといふやうな眞似は出來ないのである、何といつても前󠄁線はひどく無氣味で恐󠄁ろしいから――)一時半報道󠄁部發、京滬鐵路眞茹驛をやや過󠄁ぎて左折、南進󠄁、踏切を越えたあたりから路は踝を沒する程󠄁度の泥濘となり、加ふるに大行李小行李軍用貨󠄁物車砲󠄁車徒步部隊󠄁乘馬隊󠄁等の往󠄁來引きもきらぬこととて、しきりに警笛を鳴らしつつ遲々として進󠄁む。やや三粁ばかり來たあたりから廣闊とした平野の樣子が戰場らしい趣きを呈󠄁し始めた。處々に半壞の家屋が點在してゐるのと、樹林らしいもの竹藪らしいもののそこここに見當る外は、豆畑綿畑黍畑或は水田の、それも悉く綠の色の褪せ果てた晩秋の開墾地が、起󠄁伏といふほどのものもなしに、折からの細雨の中にどこまでも遠󠄁く連つてゐるのみである。既にこのあたりでは路傍に委棄された敵の○○がごろごろと轉がつてゐる。それはクリークの中にも浮󠄁んでゐる。土囊を積み上げた家屋がたまたま附近󠄁に見つかるかと思へば、その陰には眞新らしい手榴彈が算を亂してゐるといふ有樣である。ひとまとめに裸馬を繫いだ所󠄁もあれば、空車を寄せ集めた所󠄁もある。どうした譯かただ一軒だけなほ炎々と燃え上つてゐる家屋もあれば、赤瓦を葺いた文化󠄁住󠄁宅めいたものの、全󠄁く戰禍を免がれて無疵らしいものも遠󠄁くの方に見うけられる。水牛の背中に兵隊󠄁さんが二人ばかり跨つて悠々と泥濘中を步いてゐる滑稽な姿󠄁も見えるのである。砲󠄁聲は間近󠄁なところで起󠄁つてゐる。キャンバスをかけて砲󠄁身を覆つた重砲󠄁陣地がまづ見つかる。すぐ傍に砲󠄁彈が山のやうに積まれてゐる。それらの砲󠄁門は、お互に間近󠄁に隣りあつて、殆んど路傍といつてもいい位置に、何の遮󠄁蔽物もなしに全󠄁く暴露したまま陣地を布いてゐるのである。
 ――○○糎○○砲󠄁だ、今日は射たないんだな、○○がまだ○○つてゐないのだらう、敵に有力な砲󠄁兵があつたり、敵の飛行機が飛んでくるのだつたら、見給へ、こんな風な陣地はとても布いてゐられないんだよ。
 竹原さんのそんな說明󠄁を聞くまでもなく、迂闊者の私達の眼にも、その陣地は、何とはなく一見して法外のものに見えた。
 やや行くと、またもう一度○○砲󠄁の陣地があつた。今度は○○糎、同じく待機の樣子である。放列の布置は先のと大同小異更󠄁にその前󠄁方に○○糎○○糎の陣地が、路の左右に極めて單純に相前󠄁後して並行線狀に一組一組砲󠄁門を連ねてゐる。さうしてそれらは代る代る、或は同時に吊甁射ちに猛射を續けてゐるのである。後に太公󠄁報(支那󠄁新聞)の記事を見ると、この日敵陣地に射ちこまれた我が○○砲󠄁彈の數は二千發を越えたとか。硝󠄁子窓を閉ざした車中にあつても、思はず兩耳を掩ひたくなる程󠄁の猛烈な砲󠄁聲の間を走り拔けて車はなほ前󠄁進󠄁、路傍に眞新らしい墓標の七八基寄り合つて立つてゐるのを見ると、その中央に樹てられた一基の面には、陸軍騎兵軍曹稻葉守二戰死之地と記されてゐた、他のものは讀みとる暇もなかつたが、騎兵といふ文字はいづれの墓標にも記されてゐるのが眼に映つた。
 ――騎兵斥候がやられたんだな。
 竹原さんはさう云はれた。
 ――蘇州河まではもうどれ位の距󠄁離でせうか。
 竹原さんは地圖を按じて、
 ――千五百米突だね。
 と答へた。
 ――よし、車を止めろ、この邊で一度尋󠄁ねてみよう。
 そして大尉は車を出て、附近󠄁の兵隊󠄁に○○はどこだ、知つてゐるか、といふやうなことを尋󠄁ねてゐられたが、兵隊󠄁さんは誰も○○の所󠄁在を知らないやうな樣子だつた。その位置は丁度十字路になつてゐた、折から右方の竹藪の蔭から軍用貨󠄁物車が一臺泥濘に難澁しながらやつてきた。
 ――よし、あいつに聞けば解るだらう。
 大尉はそんな獨り言を云つて、大聲を上げて手招きをしながら車上の兵隊󠄁さんに呼びかけた。するとその時丁度その四つ辻󠄁へ一人の靑年士官が通󠄁りかかつた。すぐに○○の位置は解つたので、車は右折したが、
 ――駄目です、タイヤにチェーンがかけてありませんから、これぢゃ動きませんよ。
 と運󠄁轉手君が匙を投げた。車を右手の畑の中に乘り入れたまま私達は外に出た。機關銃の音󠄁が間近󠄁な距󠄁離に(――と思はれた)手にとるやうに聞えてゐる。味方の砲󠄁彈、さきほどの陣地から射ち出す砲󠄁彈は、雲の低く垂れた頭上の空を飛んでゐる。丈餘の羅布(うすもの)を一氣に引裂くやうな(――こんな形容も實際は當つてゐないが)銳い長い聲を後に殘して、灰󠄁白い雨雲の中をぐんぐん飛んでゆくのである。いくら味方の彈とは云つても、餘り氣持のいいものではない。
 ――頭の上で炸裂するかもしれないぜ。
 竹原大尉がそんな意󠄁地の惡いことを云ふ。
 ――見える、見える、砲󠄁彈が見えますよ。
 運󠄁轉手君が私にさう敎へてくれる。
 私は路端で用を足しながらも、砲󠄁聲の轟くごとに、殆んど無意󠄁識に、頸筋の筋肉が緊縮するのをどうすることも出來なかつた。通󠄁りかかつた兵隊󠄁さんがこつちを見てくすくす笑つてゐるのは聞えても、どうにも仕方がないのである。流彈が飛んでくる。こいつはいけないと思つたところで、もう始まらない、どうせみんなの後について步いて行くより外はない。頸から上がすつかり○○になつた○○が路傍に轉がつてゐる。○○が見事に二つに割󠄀れてゐるのである。
 ――斬られたんだね、
 さう云つて竹原さんは、暢氣にカメラを取り出した。路はひどく泥濘(ぬか)つてゐるので、そいつを跨いで通󠄁らなければならないのには、私はいささか閉口した。
 ○○はそこから間もないところにあつた。天井の低い、日暮れ刻のやうに薄昏い民家である。寄せ集めの椅子卓子で、書きものをしてゐる將校、地圖を插んで話しこんでゐる將校が、新聞記者達と肱を接して、その窮屈な中で、席を讓り合つたりなんかしてゐるのである。
 この○○の正面では、蘇州河以南に侵󠄁入した部隊󠄁――約󠄁○○の兵員が、狹小な地區に押し詰つて、前󠄁面及󠄁び右方の敵軍から猛射をうけ、その前󠄁面の敵は次第に兵力を增し、續々砲󠄁兵隊󠄁の來援󠄁をうけつつある模樣で、味方は苦戰中。只今味方の○○砲󠄁は、右方の敵陣、卽ち屈家橋方面に火力を集中して猛擊中、同方面の敵は次第に退󠄁却しつつあり――凡そ以上のやうな狀況說明󠄁を聞かされたが、地名が甚だ聞きとりにくく、精密な地圖を持たない私には、とても詳細な模樣は嚥みこみ難く、勿論記憶には止まらなかつた。○○の位置は王家宅と云つた、それを賴りに、宿に歸つてから、外字新聞や漢字新聞まで參照して、戰況をもう一度領解しようと試みたが、肝腎の地圖がないので、いつかう要󠄁領を得なかつた。甚だうろんなことをここに書き誌すのはお恥かしい次第だが、讀者これを諒とし給へ。その狹つ苦しい部屋を出て、別室に○○長○○○○を訪ふ。半白の○○は、私の名刺を見ながら、
 ――ああ、改造󠄁社ですか、改造󠄁社も近󠄁頃はなかなか仕事をしますな、いやこんな遠󠄁方までわざわざ御苦勞樣でした。
 と、そんな風な挨拶の後に、何か獨り言のやうに、
 ――兵隊󠄁はよく働いてくれる、實際よくやつてくれる、みんなよくやつてくれます....
 さう繰りかへし呟いてゐられるのが、その聲は次第にくもり聲に鼻󠄁にかかつて顫へを帶びてゐるやうに聞きとられた。
 さうして更󠄁に語を繼いで、先年軍縮問題があつてから云々と、目下の戰況と共に一寸手短かな意󠄁見も洩されたが、ここにはそれをお取次ぎするのはいささか憚りあるやうだから姑く差控へておく。
 ○○の前󠄁方は、流彈がしきりに來て危ないから出るのはおよしなさいと戒められて、それではと車をかへし、歸途󠄁先の砲󠄁兵陣地に立寄る。休息中の兵隊󠄁さん達と雜談。
 ――おい、慰問袋は貰つたかい。
 竹原さんがさう尋󠄁ねると、兵隊󠄁さん達は異口同音に
 ――まだであります。
 ――まだであります。
 ――まだ貰つてゐません。
 といふ答へであつた。
 ――いつ上陸したんだい。
 ――九月十日であります。
 ――さうか、慰問袋は、○○にでも留つてゐるんだらう、彈藥や糧株を運󠄁ぶのにいそがしいからね。
 竹原さんがさういふと、
 ――なあにそんなものは貰はない方がいいんだ、さうだな、おい。
 さう仲間に話しかけて、莞爾として塹壕へかへつてゆく快活さうな兵隊󠄁さんもあれば、話頭を轉じて、九國會議はどんな風になつただらうかと私に質問する、眞面目な顏つきの兵隊󠄁さんもまじつてゐた。

 

 十一日、晴。一足飛びに今日(十一日)の記事を書くことにする。この原稿を夕刻八時頃までに書き上げて○○に託し內地飛行郵便に取繼いで貰ふと、十二月號の雜誌にぎりぎり間に合ひさうである。もともと私の文章は決して速󠄁報を旨とするものではないが、それでもかうして遠󠄁隔の地にきてゐると、內地の讀者に一日も早く、私の狹い眼界に映じ來つたその日その日の出來事をお知らせしたいのは、これもまた人情󠄁の自然といふものだらう。四日から十一日までの見聞記は後に閑暇を得たらば書き加へるとして、今日は今日一日――實は半日の私の日記を昨晚飛行便に託した原稿の後に取りあへず書き添󠄁へることとしよう。
 昨夜は夜中に二發ばかり爆音󠄁が聞えた。朝󠄁になつて聞いてみると、浦東方面に我が空軍の落したものだといふ噂である。最近󠄁までは夜中に飛んでくるのは支那󠄁の飛行機ときまつてゐたが、昨夜はこちらの方で夜襲を試みたのだといふことである。夜襲といへば、昨夜は陸戰隊󠄁と陸軍との混成󠄁部隊󠄁が、――どれほどの兵員か今のところまだ知るを得ないが、郵船󠄁碼頭附近󠄁(?)から黃浦江を渡つて、浦東に上陸、そのまま一氣に進󠄁軍して南市正面の對岸に到着、そこから黃浦江を隔てて河向ふの敵に攻擊を加へてゐるといふことである。南市に踏みとどまつた――或は追󠄁ひこめられた敵は、(その數五六千だらうと云はれてゐる、)既に蘇州河の戰線を完全󠄁に突破した我軍のために徐家滙の線に進󠄁出されて全󠄁く退󠄁路を斷たれ、背後には佛蘭西租界のバリケードを負つて絕體絕命の窮地に陷り、全󠄁く四方を包󠄁圍されて袋の鼠となりながらも、私達の素人考へではもういい加減に降參をしてもよささうな頃だと思はれるにも拘らず、なほ抗戰を續けてゐる模樣である。昨日午後開始された南市一帶の空爆は、今朝󠄁未明󠄁からも不斷に繼續されてゐる。外字新聞の記すところでは昨夜中我が○○艦一隻は、黃浦江上南市の入口に支那󠄁軍の設けた閉塞線――日淸汽船󠄁會社の使󠄁用船󠄁數隻その他を沈めて作つた閉塞線の邊際まで溯航して、(その途󠄁中には英米佛等各國の軍艦が投錨してゐるのである、)同じく南市攻擊に參加したと見えてゐる。蘇州河北岸の重砲󠄁陣地からは租界の上空を越えて斷續的󠄁に砲󠄁擊が加へられてゐる模樣である。浦東を迂囘した我軍は、渡河を敢行して南市に上陸したといふやうな記事も、佛字新聞には載つてゐる。すべて詳細なことは、眼と鼻󠄁の距󠄁離の虹口にあつても皆目解らないのである。今朝󠄁の太公󠄁報にはなほ「最高當局下令決固守南市」といふやうな負け惜しみの文字が揭げられてゐるが、大勢は既に已に決したものといつてよからう、例のアドバル―ンは「華軍放棄上海」の六文字を半空に飜してゐるその下で、虹口一帶は相變らず買ひ出しの兵隊󠄁さん達で混雜し、輜重隊󠄁の運󠄁搬車が幾組となく通󠄁りすぎる風景も、今日は思ひなしか陽氣に朗󠄃らかに見えるのである。
 私は今朝󠄁『改造󠄁』の水島君『新靑年』の米村君と共にガーデン・ブリッヂを渡つて久しぶりに奮英租界に行つてみた。滿鐵事務所󠄁同盟󠄁事務所󠄁を訪ねたのである。
 二十日ばかり前󠄁、先月二十二日の畫そこから閘北の爆擊浦東の爆擊を見物した太北ビルの屋上に、もう一度私は登つてみた。南方の空には、三箇所󠄁ばかり火災の煙が上つてゐる。飛行機は三機五機七八機、白雲の間を飛んでゐる。ただ旋囘してゐるだけで、爆擊は加へてゐないやうである。微かな砲󠄁聲は聞えてゐるが、さだかな位置は解らない。見たところ、だいたい平穩な樣子である。南市には、四十萬の(勿論非戰鬪員の)支那󠄁人が住󠄁んでゐるといはれてゐる。そのうち既に難を避󠄁け得たものも多からうが、米村氏の話では、昨夜同氏が佛租界に趣かれた所󠄁見では、同租界內の支那󠄁人は平素に幾倍してゐたといふことだから、勿論さういふ風に安全󠄁區域に脫出し得たものも多いには相違󠄂あるまいが、なほ逃󠄂げ場を失つて、五六千ばかりの敗殘兵の捲きぞへを喰つて砲󠄁火に曝されてゐる無辜の住󠄁民達も、必ずや少數でないに違󠄂ひない。風聞によれば、浦東を追󠄁はれた敵軍は、(少くともその一部分は)、河を渡つて南市に逃󠄂げこんだと云はれてゐる。そのうへ南市の軍事施設は、事實の證明󠄁する通󠄁り、彼らの良民たちを保護するにも足りない微力なものなるにも拘らず、なほそれを廢棄することを拒󠄁んで現にかくの如き自暴自棄的󠄁な抗戰を續けてゐるのは、百步を讓つてその勇を稱しうるとしても、私の眼には、如何にも無智無謀な殘酷󠄁な戰鬪のやうに思はれてならない。「最高當局」の指令なども、どういふ量見のものか推察に苦しむのである。彼らの軍隊󠄁彼らの將士に眞にやみ難い戰意󠄁があるのなら、南市の外に出て最後の一兵に至るまで戰つて全󠄁滅して貰ひたいものである。五六千ばかりの敗殘兵と多少の軍事施設との捲き添󠄁へに、幾十萬の無辜の良民を犧牲に供して、「南市固守」も絲瓜もあつたものかと思はれるのである。閘北の退󠄁却に逃󠄂げ遲れて四行倉庫に潛りこんだ彼らの英雄達が、籠城と同時に壁の下に逃󠄂げ路を穿つて、散々美名を賣りつけた後に租界へ逃󠄂げこんだのと大同小異のやり方を、もしも南市の敗殘兵達が數日の後に再び繰かへすとしたなら、彼らの良民に對して、彼らの「最高當局」にもまして酷󠄁薄殘虐󠄁なものはないといふことになりはしまいか。私は先日來、南市の運󠄁命に關して、私かに心を惱ましてゐた。さうして事態はかくの如く、最惡の方向に向つてゐる。
 歸途󠄁稅關前󠄁にさしかかつた頃、對岸に銃聲が聞えた、續いて南市の方面に爆擊の轟音󠄁が連續して起󠄁つた。バンドに群がる支那󠄁人達が、頸を長くして河岸に走り出て見物に趣く樣は、私が先に一度記したところと全󠄁く同樣である。それらの人ごみの間にまぎれながら、何と名狀のしやうのない薄氣味惡さを私が覺えたこともまた――。
 丁度その頃浦東に火災が起󠄁つた。煙は忽ち大きくなつた。
 虹口に歸つて暫くすると、やがてその煙は、うち見たところ、殆んど空の半󠄁ばを領して、頻りにこちらへ靡いてくる。
 ――どこが燒けてゐるんでせう、南市でせうか。
 私が道󠄁寄りをした時計屋の親爺は、にはかに翳りだした街路を見ながらさう尋󠄁ねた。

 

 

三好達治「上海雜觀 續」『全集9』(S40.4刊)