三好達治bot(全文)

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「鹿」『測量船』

 夕暮れ、狩の獲物が峠を下りてくる。獵師が五六人、犬が六七頭。――それらの列の下りてくる背ろの、いつとは知らない間にすつかり色の變つた空路そらぢに、晝まから浮んでゐた白い月。
 冬といつても人眼にふれないどこかにちらりほらり椿の花の咲いてゐる、また畑の中に立つた夏蜜柑や朱欒のその靑い實のたわわに枝に憩むでゐる、この遠い街道に沿つた、村の郵便局の、壁にあるポストの金具を、ちよいと指さきに冷めたく思つたそのあとで、そこを出ると、私は私の前を通るさつきの獲物の、鹿の三頭に行き會つた。
 棒に縛られて舁がれてゆくこの高雅な山のさちは、まるで童話の中の不仕合せな王子のやうに愼ましく、痛ましい彈傷たまきずは見えなかつたけれど、いかめしい角のある首が變なところへ挾まつたまま、背中をまるくして、搖られながら、それは妙な形に胡坐を組むでゐる優しい獸の姿であつた。生氣を喪つて少しささくれた毛並は、まだしつとりと、あの山に隱れた森と谿間の、幽邃な、冷めたい影や空氣に濡れてゐた。

 

 ――いよう獲れただね。
 ――いやすくなかつただ、たつた三つしきや。
 ――どうだらう今年は?
 ――ゐるにはゐるがね。今日はだいぶ逃がしちまつたよ。

 

 淋しい風が吹いてゐた。

 

 その夜、私はこの村に來てゐるあの女小說家のところへ遊びにいつた。メーテルリンクの「沈默」は何だか怖ろしくて厭やですね、――そんなことを云ひながら、机の上の鏡臺をのけて、私は彼女の眉をいた、注意深く。それから彼女は、その鏡臺の抽出しから小さな品物をとり出して、これが夜の綠の白粉、これがデリカ・ブロウ、それこんなの、と蓋をとつて、それらの優しい繪具を私に敎へた。そこでふと私も、夕暮れ見たあの何か心に殘る、不仕合せな王子の街道を運ばれていつた話をした。

 

 ——あらほんと、鐡砲が欲しいわね。
 ——…………
 ——ね、鐡砲が欲しくない?
 ——ええ、さう……、鐡砲も欲しいですね。

 

 淋しい風が吹いてゐた。私は、何か不意に遠くにゐる母の許へ歸りたくなつた。

 

三好達治「鹿」『測量船』(S5.12刊)