三好達治bot(全文)

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「暮春記」

 

      1

 

 去年の、ちやうど今頃のことである。
 その頃私は信州のある山間で暮してゐた。私はそこで春を送り初夏を迎へた。病後の疎懶な生活が固癖になつて、たださへなまくらな私の心は、一寸制馭の法もない橫着なものになつてしまつた。それには私も、實は我れながら閉口しきつてゐたのである。去年から持越しの私の仕事は、眼の前に山積したまま、いつまでたつても、いつかうそれに手を着ける氣持は起らなかつた。私の嚢中が空しくなつてゐたのは云ふまでもない。窗の外には、新鮮な木木の綠が、山にも溪にも溢れてゐた。
 そんな頃のある一日、私は晝前に宿を出て、そこから一里ばかり奧に入つた、人けのない靜かな溪間を、自然にも親しみ難いむつとした心を抱いて、ただ無闇に步き𢌞つたことがある。小鳥の歌、若葉の色、溪流の聲、初夏の陽ざし、そんなものにとり圍まれて、私はぐつしより汗ばんだ。さうしてとある小橋の袂で、掌のひらばかりのそこの川原につくばつてゐる、臥牛石――といつた形の淡靑い一つの石に、私は暫く腰を下ろした。雜草の中に埋まつて、疲れた脚と疲れた心とを休ませた。
 杉の丸太を二三本針金でからんだ小橋、その丸木橋の面には、運搬の途中にこぼれ落ちたものであらう、木炭の小さな屑が、踏みにじられて殘つてゐた。炭燒きの渡る橋である。さういへば、そこの上手の溪間の奧に、時たま、ものとものとの觸れあふ音、大きなものの仆れる音が、その方角さだかでない遙かな響を、――たとへば、お勝手の板の間に馬鈴薯でもころがすほどの、間遠い響きをたててゐた。炭燒きの竈のまはりで、立木を伐り仆してゐるのであらう。
 私はその時、うつけた氣持でぼんやりと、つい眼のさきの溪流の面を眺めてゐた。その私の視野の中へ、忽然と、一匹の小さな河鹿が現れた。黝土のやうな色をしたその侏儒(こびと)は、激しい水勢に推されながら、上手の方から流れてきて、磊々と水流の中に轉がつてゐる石の一つに、それを目ざして來たやうに、兩手を伸べて、その水際にとりついた。さうして一寸、その鼻さきをそこの水面に現して、すつかり力を拔いた兩脚は自然な角度に踏み開いたまま、さものんきさうに、暫くさうして休んでゐた後、何か分別をきめたやうに、やがて彼はその水際を、するすると登りはじめた。さうしてその頭のまるい饅頭石の、そこのところは飛沫もうけずに白く乾いたてつぺんに、間もなく彼は登りつくと、一寸居ずまひを直してから、ちよこなんとそこに坐りこんだ。そんな展望のひらけた高みに登つて、さて彼は何をするつもりだらう、私は少し興味を覺えて、彼の姿を見まもつてゐた。しかし彼は、それからやがて三十分も、そこにぢつと坐つたまま、尖つた鼻を空ざまにして、無數の波が過ぎ來り過ぎ去る離れ小島の頂に、ただぽつねんと、それを見物してゐる私といふ愚か者と同じやうに、空しく時を銷してゐた。鳴くのでもない。獲物を窺つてゐるのでもない。遠い雲を眺めてゐたのでも、まさか日光浴をしてゐたのでもあるまい。そんな彼を相手にしてゐるのが、私は少し馬鹿らしくなつた。私はたうとう痺れをきらして、根氣較べには負けた形で、やがてそこから腰を上げた。不意に私の姿を認めて、彼が周章てて、溪流に跳びこんだのは云ふまでもない。
 私は宿に歸つてからも、彼の姿が眼に殘つた。あの溪間の、あの小さな石の頂に端坐して、四邊のものを領してゐた、一塊りの練り藥か何かのやうな、 ――あの仙客。あの小さな道士が、私の心を捉へたのは、考へてみると、三十年の昔もその日も同じことであつた、と云つてもいい。私は次のやうな古い記憶を思ひ起した。

 

      2

 

 私は一度、まだ小學校へも上らない子供の時分、裏日本のある小さな町へ、ふとしたことから、貰ひ子に貰はれていつたことがある。この出來事は、流石子供心にも感銘の深かつたものと見えて、その前後の模樣は、今もはつきり私の記憶に殘つてゐる。その記憶を、今になつてふりかへつてみると、少しばかり奇妙な節がなくもない。
 それはある盛夏の頃の、夕暮のことであつた。
 前栽に面した奧の部屋では、來客のS――さんを迎へて、父と祖母とが、晩餐の食卓をとり圍んで、私達には解らない大人の話を、賑やかに話しあつてゐた。私達四人の者、姉と私と弟と、田舍から祖母がつれてきた私達の妹と、私達四人の兄弟は、次の部屋に集つて、子供の智慧を寄せ集めて、何をして遊んでゐたのか、羽目をはづしてはしやいでゐた。久しぶりに田舍から祖母が出て來た、その上に、私達にも顏馴染の親しい知人のSさんが、たまたまそこへ來合した、そんな偶然の重なつた、それは特別の日であつた。私達子供の心は、ただ譯もなく浮き浮きとして、隣りの部屋とのとりあひの葭簀の障子一つを隔てて、その隙間越しに、見物人の眼ざしをも感じながら、ちよつと餘所行きの、張合ひのある愉しい氣持で、調子に乘つて騷いでゐた。まだ電燈のなかつた時分で、――或は私の家だけがさうだつたのかもしれないが、間もなく洋燈がともされた。母は洋燈をともしながら、言葉だけで困つたやうに、私達の騷々しいのを、しかし笑顏で、一言二言たしなめた。さうしてまた臺所の方に姿をかくした。いつもなら夜晩くまで騷がしい、裏の仕事場の機械の音が、その時はもうひつそりとしづまつてゐたのは、或はその日は、職工達の休日だつたためであらうか。
 それから暫くたつた頃、私は不意に、父の聲で、隣りの部屋に呼び入れられた。少し樣子が變だつた。何だらう、いづれお小言にきまつてゐる、それにしても、なぜまた私一人が、こんな風に呼ばれるのだらう、その譯が、私には腑に落ちかねた。私は隣りの部屋に入つた。部屋に入つて、閾を跨いだばかりのところに、父に向つて、ぽつねんと立ちどまつてゐた。私の後ろでは、それまでの遊びを急にやめて、兄弟達が、ひつそりと、私の方を、こちらの樣子を氣にしてゐる。
 その時父は、胸のところに、使つてゐた團扇をとめて、いつもの父の眞顏になつた、さうしてさも無造作に、出し拔けにこんなことを私に云つた。
 ――お前は、この小父さんのお家へ行くかい?
 私には、父の言葉が、何のことだか解らなかつた。
 ――え?
 ――お前はこの小父さんのお家へ行つて、小父さんところの子供になるかい?
 さう云はれて、やつと私にも、これは叱られてゐるのではない、これは別の話だ、それくらゐなことが解つた。しかし私は、安心をする隙もなかつた、そんな唐突な質問に出會つて、私は無闇に固くなつた。戲談だらうか……。普段から、戲談などを云ふ父ではない。父の隣りに坐つた祖母も、私の顏を見つめてゐる。いつもならこんな時、私に代つて、何とか口を利いてくれる祖母までが、やはり父と同じやうに、質問者の側に𢌞つて、私の答へを待ち設けてゐる樣子である、――一寸微笑を浮べたまま、やはりいつまでも默つてゐる。どうもをかしい。とても事情は、私には嚥みこめなかつた。さてそれなら、何と答へたものだらう。私の答への、結果などは、もとより想像できなかつた。私はただ、力いつぱい、父の言葉を、私なりに、まつ正直に考へてみるより外はなかつた。私は考へた。この小父さんの、お家へ、行く……、お家へ、行つて、子供に、なる……、それは何のことだらう。
 暫く時をおいてから、私はもう一度訊きかへした。
 ――え?
 父は重ねてかう云つた。
 ――この小父さんが、小父さんとこのお家へ、お前をつれて歸りたい、さう云つてゐなさるんぢや、小父さんのお家へ、お前をつれて歸りたい、さう云つてゐなさるんぢや、小父さんのお家は、五時間も六時間も、汽車に乘つて行くんだよ、ね、解つたかい、お前は小父さんと一緒に汽車に乘つて、小父さんのお家へ行くかい、小父さんの、お家へ行つて、小父さんとこの子供になるかい、いやならいや、行くなら行く、さあ、よう考へて、お前の好きなやうに返辭をしてみなさい。
 その時父は、きつと、いい加減醉つ拂つてゐたのに違ひない。酒客といつては父一人の、その晩餐の食卓の上にはビールの罎が並んでゐた。一つには、酒の上の氣まぐれから、父は私に、そんな難問を試みる氣にもなつたのだらう。私が行くと答へたら……。骰子の目よりも賴りない私の言葉に從つて、父は私を、Sさんに養子に上げる、そんなつもりでゐたのである。そんな奇妙な約束が、先刻からの雜談中に、出來上つてゐたのださうである。
 父にさう云ひ聽かされると、もうその上、私は愚圖々々逡巡してもゐられなかつた。私は返事に逼られて、一寸思案をめぐらした。しかし別段私には、何をどう、思案をするほどのこともなかつた。
 一つのことを思ひつくと、私はきつぱりかう答へた。
 ――行く……。
 ――行く? 行くのかい?
 ――行く。
 私は重ねてさう答へた。父は眞顏に聞いてから、初めて一寸笑顏をつくつた。祖母が私を手許に呼んで、同じ質問を繰りかへした。私はやはり行くと答へた。私の母は、この出來事の前後を通じて、相談に與つた樣子はなかつた。茶の間にでも下つてゐたのか、その時は、姿さへも見せなかつた。
 こんな單純な、奇妙な、さうして大膽な問答の後、私はほんとに、私の答へに從つて、それから十日ばかりたつてから、私の新らしい父のSさんにつれられて、汽車に乘つて出發した。
 出發までの、その十日ばかりの間に、父は私を伴つて、どこであつたか、今はもう私の記憶にない、二三の神社に參拜したり、親戚を訪問したり、さてはその頃遠くに住んでゐた、私の乳母の家にまで、車にのつて出かけたりした。今になつて考へるに、どうも父のやり方は、私には解せない節が少くない。
 お前が行くと云つたから、――と、これはずつと後になつて、父がある時、私に云つたことがある、――行くといふのなら、何かの緣といふものだらう、たとへさうして行つたところで、緣がなければ、戾つてくるに違ひない、自分はさう云ふ考へで、お前が行くと云つたから、それなら行つてみるのもいい、ともあれ一度、伴れて歸つてごらんなさい、さうSさんにも云つたのだ、どうせ子供のことだから、もしそちらへ行つてから、歸りたいとでも云ひだしたら、その時は、どうかつれてきて下さい。そんなこともないやうなら、そのままお宅へ差上げませう、ものは試しに、まあ一度つれて歸つてごらんなさい、さう云つたのだ、何もこちらから、貰つてほしいと賴みこんだ譯ではない、もともと向ふから懇望された話であつた、それで私は、お前を呼んで尋ねてみると、お前も覺えてゐるだらう、お前が行くと答へたから……。といふのが、私の父の意見であつた。一寸變つた意見である。
 ところで、私がその時、あんな風に答へたのは、外でもない、次のやうな、これもまた奇妙な理由によつてゐた。
 それより前、一年ばかりも前であつたか、一度父の留守に、Sさんが、やはり商用で田舍から出てきたついでに、私の家に、ちょつとひと足寄り路をしたことがあつた。さうしてその時は母を相手に、奧の部屋で、何か暫く話をしてゐた。
 玄關の上り口には、二三の小さな荷物と一緒に、Sさんの持つてきた、螢籠のやうな形をした、釣鐘形の金網が一つ、裸のままで置いてあつた。私達はそれを見つけて、その周りに寄り集つた、さうして額を寄せ集めて、その中を覗きこんだ。その金網の底の皿には、少しばかり水を湛へて、細かな砂利を敷いた上に、拳ほどのまるい形の石が一つ、そのまん中に置かれてあつた。暫く眸を凝らしてゐると、そのうす暗い籠の中には、そのまるい石の蔭に、一匹、二匹、三匹、小さな蛙が見つかつた。蛙――、何といふ可憐な珍らしい生き物だらう。都會育ちの私達は、その時初めて、そんな生き物を見たのである。
 別段何の理由もなしに、その時私は、いつの間にか、その金網を、私達の家庭に貰つた、Sさんのお土産ものだと、ひとりぎめにきめこんでゐた。私の歡びは一寸譬へるものもなかつた。
 睫毛がそれに觸れるほど、私は金網に顏を寄せて、夢中になつて、うす暗い世界を覗いてゐた。水の中にからだをつけて、ぢつと小さくしやがんだまま、生きてゐる證據のやうに、眼だけは時々瞬きながら、私達が、さうしていつまで待つてゐても、身じろぎ一つしようとしない、――しかし、今にも、不思議な動作をはじめさうな、そのうす黝い道化達、小さな蛙達は、それが生き物だといふことの微妙な魅力で、すつかり私達の心を奪つた。やがて間もなく、Sさんの歸る時になつた。Sさんは外の荷物と同じやうに、その金網をも携へて、私達の家を辭した。
 私はすつかり當てがはづれて、泣き出しさうな、遣り場のない氣持になつた。そんな氣持を壓し殺して、私は無闇に、部屋の中を步き𢌞つた。私は母に、私の氣持を告げようとした。どう打明けたらいいものか、しかし私には、話の繼穗が見つからなかつた。
 ――あの蛙は、何? 何をするの?
 私はそんな、つまらないことを質問した。
 ――あれかい、あれは河鹿、河鹿ですよ、蛙は蛙でも、いい聲で鳴く、山の奧の、溪川にゐる蛙ですよ。
 さう答へながら、母はそそくさと、部屋の中をあちこちしてゐた。
 ――……いい蛙だね?
 ――ああ、いい蛙だよ。
 それくらゐのことを云つたきりで、私はそのまま默つてしまつた。さうして私の悲しみは、夕方までは續かなかつた。もちろん翌る日は、もうけろりと、そんなことは忘れてゐた。
 この河鹿のことが、河鹿を容れたあの金網が、しかしその後、例のあの夜、この小父さんのお家へ行くかい、父にさう問はれた時に、私の心に、私の眼の前に、彷彿と浮び出たのを、私は今もはつきり記憶してゐる。
 ――行く。
 私がさう答へたのは、つまり、あの、小さな生き物のためだつた。
 そんなふとしたきつかけから、私がそんな答へをしたのは、輕はづみといへば、全く輕はづみに違ひない。しかし私は、私がさう答へた時に、そのきつかけは兎も角として、さてさう答へてみるといつそうはつきりと、それまで私の知らなかつた一つの氣持、一種明るい妙な氣持を覺えたのを、これこそ最もはつきりと、今もそれを覺えてゐる。
 採光の具合を變へたやうに、ほんの一瞬の間に、私の心は、その小さな內景をすつかり變へてしまつた。さうして私の眼には、私の身のまはり、私の棲居や家族の者が、私にとつて魅力もなく希望もない、退屈なもの、つまらないもの、變によそよそしいものに思へた。眼の前の父の顏も、何か間遠いものに見えた。今のさきまで一緒に遊んでゐた兄弟達も、たまたま路傍で邂ぐり會つた半日の遊び友達、そんな風なものとしか思へなかつた。母もやはり私の心を惹かなかつた。私はそんな孤獨な氣持を覺えたのに、泣き出さうともしなかつた。私は家を出る時も、汽車に乘る時も泣かなかつた。泣かなかつたばかりではない、私は子供心にも、私がそんな旅立ちを、いつからともなく待つてゐた、永い間待つてゐた、さうだその時が、つひに來たのだ、そんな風な明るい氣持にさへもなつてゐた。なぜだらう。私の見知らぬ遠い町が、魅力になつたためだらうか。どうもさうではないらしい。もともと私には、家庭を愛するやさしい感情、家庭に親しむ溫かい氣持、そんなものが缺けてゐたとでもいふのだらうか。これはいくらか當つてゐる、しかしまた、そのためばかりでもないらしい。なぜだらう、それでは。――放浪癖、そんなものの兆であらうか。過去もまた、旣に一つの謎である。私にも確かなことは解らない。

 

      3

 

 晝間の汽車で、私達は出發した。汽車の中でも、私の氣持は變らなかつた。汽車は私に珍らしかつた。やがてそれに退屈するまで、私は元氣にはしやいでゐた。私はその時初めてしみじみと、私の父の、新らしい私の父の顏をみた。人見知りなどしなかつた。さうして私は問いかけた。
 ――河鹿は、お家にゐる?
 大事のことを、うつかり今まで忘れてゐた、さう思つて、私はあわてて問ひかけた。父の肩にもたれかかつて、その橫顏を覗きこんだ。ああゐるよ、ゐるとも、父はさう云ふにきまつてゐる。私にはその返辭が、前からちやんと解つてゐた。ところが案に相違して、父には私の質問が、初めは容易に通じなかつた。父は怪訝な顏をした。私には、それが不審でならなかつた。私はやつと骨を折つて、私が何を尋ねてゐるのか、𢌞りくどい説明をした。
 ――ああさうさう、あの河鹿かい、あの河鹿なら、お家にゐますよ、ゐますゐます、ゐますよ。
 父はそんな返辭をした。それを聞いて、私もやうやく安心した。さうだとも、ゐるにきまつてゐるではないか、私はひとりさう思つた。
 しかしその河鹿の籠は、父の家に着いてみると、緣側にも、庭にも、床の間にも、いつかうどこにも見つからなかつた。私はそれのありかを尋ねた。ふつとそれが氣になる度に、私は繰りかへして問ひただした。その度に、新らしい私の兩親は、少し困つた顏をして、要領を得ない返事をした。さうしてまたいつとはなしに、私はその生き物のことを、けろりと忘れてしまつたまま、――今度はそれを思ひ出すまでに、二十年餘りの月日がたつた。

 

      4

  

 信州の田舍の宿で、私の思ひ出した「古い記憶」は、凡そ右で盡きてゐる。
 さうして今、もう一度こんな思出を辿りながら、私はまた、私の父(これは實父)の人となりを、いろいろと囘想してみて、やはり奇異の感に耐へない。
 父は晩年、私達の家庭を棄てて、殆んど浮浪者に近いやうな、不幸な境涯をつづけてゐた。その時々の、父の居所を知るのにも、私達は骨を折つた。それでも一年一度くらゐ、何かの機會に、私は父と顏を合せた。そんな折り、父は私に背中をむけて、口をきかうとしなかつた。これには私もむつとした。もともと私は、父と爭つたことはない。いくらどのやうなことがあつても、せめて顏を合せた時ぐらゐは、雜談の一つもしておきたい、そんな氣持は、私の方ではもつてゐた。しかし父に出會つてみると、とりつく島はまるでなかつた。
 そんな風な、父の態度は兎も角として、父は內心、私達家族に對して、たとえば私に對してでも、どんな氣持を抱いてゐたことであらうか。今になつて考へてみても、その當時と同じやうに、實は私には、それがどうも解しがたい。いろんな出來事の積み重なりから、父はあんな歪んだ態度を、無理にも力めてとつてゐた。それは私にも推察がつく、けれどもやはりそればかりではないらしい。どうもそこのところの消息が、變な風に入り組んでゐる。
 私達が、私達の家庭に再び父を迎へた時には、父は旣に、腦出血のために意識を失つて、殆んど言葉も通じなかつた。私は父の棲居から、やうやく父を車に乘せて、豪雨の中を歸つてきた。途々私は、飮みものなど含ませながら、
 ――もうすぐ家へ着くんだから、心配なことはないんだよ、解つたかね、お父さん。
 さう云つて、私の膝の上の、父の眼の中を覗きこんだ。「お父さん」そんな言葉で呼びかけるのが、やはり私には懷かしかつた。父は虛ろな眼つきをして、顏だけで返辭をした。
 五十日ばかり床に就いて、父はたうとうなくなつた。
 父のゐなくなるのと前後して、私もまた、一人の子供の父となつた。私にも、私の父の「父の氣持」を、忖度する資格ができたといふものである。けれどもやはり、私の父の「父の謎」は、私にはいつかう解けさうもない。私はある時、寢つきのいい臥床の中で、父の記憶を辿りながら、私が父に愛された、――父の愛の信じられる、そんな愉しい思出を、一つでもいい、搜し出さうと試みた。そんな思出が何か一つ、一つくらゐはありさうなものではないか。ところが私のその試みは、不幸にも、容易に成功しなかつた。私はまたあらためて、落寞たる氣持を味つた。翌日になつてからも、そのことが少し氣になつた。
 その後またある日のこと、――これはつい最近のことである、私は久しぶりに鎌倉の海岸を步いてゐて、ふと私の眼の先に、その後姿が私の父にそつくりの人影を認めて、思はずその場に步をとめた。その年輩の人物は、早春の浪打際に、ただぼんやりと沖に向つて佇んでゐた。角帶の前に両手を入れて、(父にもそんな癖があつた)そのために少し寂しく怒つて見える、その兩肩、帽子を戴かないその五分刈の頭と襟筋、帶から下の賴りなげな着物の着やう、それらのものが一つ一つ、父の俤にそつくりだつた。懷かしいものを見る氣持で、暫くの間、私はそこに立ちどまつてゐた。
 その日の夜、私はふとこんなことを、それまでつひぞ想ひ起したこともないこんなことを思ひ出した。

 

      5

 

 これもやはり暮春の頃のことである。
 その頃私は祖母のもとで暮してゐた。養父の許で重い病氣に罹つた私は、長男だつた私の籍が他家には移され難い理由もあつて、再び實家に戾つてきた。それから間もなく、その頃田舍で暮してゐた祖母の手許に移されて、そこで藥餌に親しんでゐたのである。
 ある時その田舍の家へ、父の許から店の者が使ひにきた。使ひの者は用件をすました後、汽車に乘るまでの僅かな時間を、私達二人、私と妹を相手にして、家の周りで何かの木に攀つてみせたり、緣側に腰を下ろして、父や母や姉や弟の、近況を話して聞かせたりした。さうして間もなく出發した。
 その後のことは、私には何も記憶がない。ただ私の記憶にあるのは、その町の、小さな停車場の人ごみの中で、もう一度その使ひの者を、私達が見つけ出した、――夕暮前の、そんな場景だけである。私達は申合せて、使ひの者の出發した後、すぐその跡を追ひかけて、その停車場まで、馳けつけたものに違ひない。私も妹も、めいめいの小さな財布に、切符を買ふに足るだけの、銀貨を幾枚かもつてゐた。私達はその銀貨を、私達の相手に差出して、これで二人の切符を買つて、一緒の汽車で、家まで伴れて行つてくれ、そんな意味のことを賴んだ。
 ――お祖母さんに、ちやんとこたへてきましたか?
 相手は少し怪訝な樣子で、私達に問ひかえした。
 ――いいや。
 ――そいぢやいけません、そんなことをしちやいけません。
 ――でも、いいんだよ。
 ――いいことはありません。私が叱られます、ね、もう一度私がお迎へにきますから、今日は默つてお歸んなさい、こんなことが知れたら叱られますよ、遲くなつたらいけません、さあさあ早く、早く早く、急いでお歸りなさい、歸るんですよ、まつすぐに歸るんですよ、早く歸らないと、お祖母さんが心配なさいます、心配なさいますとも。
そう云はれてみると、私達も、自分達のしたこと、自分達の考えが、少し怖ろしくなつてきた。やがて改札がはじまつた。もうその上、押問答もできなかつた。仕方がない。私達は、銀貨を財布にしまひこんで、灯ともし頃の田舍道を、一目散に駈けて歸つた。
 ただこれだけの出來事を、私は全く久しぶりに、その日の夜ふけに思ひ出した。もともとこれは、他愛もない話である。しかし私にも、こんな風に家族の者を、父を慕つたことがある、その思出は、私を少し悅ばせた。先日來の、落寞とした淋しい氣持が、こんな一つの反證から、少しは緩和されさうな、希望さへも覺えたから。
 しかしこれは、父の思出とは云い難い。この日頃、私が探し求めてゐる父の思出、懷かしい父の思出は、やはりいつかう私には想ひ起せない。

 

      6

 

  懷かしい父の思出――といふよりは、懷かしい父の姿――といつたものなら、これなら一つ、私の眼にも殘つてゐる。
 私がまだ學生だつた時分のこと、その頃旣に私達の家庭を棄てて、とある郊外で暮してゐた父の棲居を、私は一度訪ねていつたことがある。場末の町で乘り場を降りてから、地理に暗い郊外の道を、尋ね尋ねしてゐるうちに、一里ばかりも來たであらうか、私はたうとう野原の中に出てしまつた。私の敎えられた方角には、遙かの方に、そんな距離からうち見たところ、文化住宅か何かのやうな、勾配の急な赤瓦の屋根が一つ、木立の間に見えてゐた。それが父の棲居であらうか、私は一寸意外に思つた。しかし外には、住宅らしいものはなかつた。日頃の父の、趣味や性癖に考へ合はすと、その赤瓦は、まことに奇妙なものに思へた。しかし外には、住宅らしいものは見えない、私は半信半疑の氣持で、それに向つて進んでいつた。
 その棲居には、父の表札は出てゐなかつた。女名前の小さな名札が、門柱にかかげてあつた。私は一寸ためらつてから、案內を乞うた。家の中はしんとしてゐた。さうして拍子の拔けた時分に、聲といつしょに、二階から父が降りてきて、私の前の障子を開いた。
 晩夏の頃の、照りかへしの暑い二階の部屋で、私は父と暫くの間雜談をした。私はその日、父のために用だてた金子を持つて、母からの傳言をも傳へるために、云はばお使ひに行つたのである。金に關する內輪話を、私は手短かに終つた後、父の始めるつもりでゐる養鷄業など、しかし素人には危險な仕事だからよしてはどうかと、そんなことも話してゐた。もとより父が、私の意見などききいれる筈はなかつた。父は仕事の計畫を、私の前に説明して、私には無邪氣に見えた、父の希望を話してきかせた。父はやがて酒を命じた。隣りの部屋で、女の聲がそれに答へた。さうして彼女は間もなくそこから姿を見せて、私にはやや窮屈な、叮嚀な仕方で挨拶をした。夏の陽ざしの明るい部屋で、私は父と酒を飮んだ。父と二人で酒を飮むのは、隨分久しぶりのことでもあつたし、何かとぼけた、ささやかな酒もりは、當時の私の感傷癖に、打つてつけのものでもあつた。
 ――東京の大學の、お前の入つてゐるのは、何科だい?
 父はそんな、つかぬことを尋ねたりした。その頃父は、私の顏をみるごとに、一度は必ず、この質問を試みた。その度に、私はいつも、返辭をするのに先だつて、またかと思つてがつかりした。これだ、親父はこれだから――、私はひそかに嘆息した。
 ――街なかと違つて、この邊は空氣がいいから、朝なんぞの氣持のよさといつたら……
 父はまた、そんなのんきなことも云つた。そんな空々しいことを云ふ父の姿が、(父は私に、何も話すことがなかつた)私には痛ましかつた。
 ――お前も、今のうちに、しつかり勉强しとくんだね、やはり若いうちにやつとかなけや……
 そんな言葉も、空虚な響きをもつてゐた。父は頻りに酒を薦めた。
 ――私ももう飮めなくなつた、二合の晩酌が餘るんだから……、お前などは、まだこれからだ、ええと、お前は今年、幾つになつたい?
 私の年齡を尋ねるのは、機嫌のいい時の、父のいつもの癖である。父も私も、少しばかり酒を飮んだが、もうその上、寛いだ氣にもなれなかつた。
 間もなく私は腰を上げた。父も引きとめようとはしなかつた。別れの挨拶もそこそこに、私は戸外に出た。父も私の後に續いて、下駄を突つかけて外に出た。さうしてその前庭の、門柱のところに立ちどまつて、もう一度私に言葉をかけた。
 ――さやうなら。
 ――御機嫌よう。
 他人行儀な挨拶で、私達は會釋をした。
 それからやがて、五分ばかりも步いた後、その赤屋根を見るつもりで、私は後ろをふりかへつた。父の姿が眼に入つた。私は一寸會釋をした。それからまた暫くたつて、私の步いてゐた一筋路が、そこのところで、曲つてゐる、人家に近いあたりにきて、私はもう一度ふりかへつた。父はやはり立つてゐた。腰から下は荊棘か何かの垣根にかくれた、浴衣がけの父の姿が折からの暮色の中に、くつきりと浮んで見えた。父とは不釣合な赤屋根も、もう私には、をかしなものには見えなかつた。
 私は杖を擧げて合圖した。
 父のはじめた養鷄事業は、やはり間もなく失敗した。

 

      7

 

 最後の病床に就いてから、五十日ばかりの間、父は殆んど昏睡狀態を續けてゐた。それでもしかし、時とすると、ほんの僅かな短い時間、深い夢から醒めたやうに、微かな意識をとり戾してゐることもあつた。そんな時には、看とりの者と、何かの聯絡もない斷片的な、話を交えることもできた。
 ――お父さん、お水を上げませうか?
 ――うん。
 それくらゐの返辭はした。
 ある時私は、父の口に飮みものを含ませながら枕もとから、こんなことを尋ねてみた。
 ――おいしい、お父さん?
 ――はあ、ありがたう、おいしうございます。
 父ははつきり、そんな叮嚀な言葉で答へた。それを聞くと、私は一寸胸がふたいだ。私はその後、父に言葉をかけるのも、躊めらふことが多くなつた。父は何の考へもなしに、狂つた神經の反射作用で、そんなことを云つたのだらうか。それはさうに違ひあるまい。或はまた、父はその時、耳に聞えた私の言葉から、何か一つの情景を、空想してでもゐたのだらうか。そんな風にも、考へられないことはない。しかしまた、私の父の人となりには、あんな場合、あんな返辭をしかねない、さういふところがあつたとも、云つて云へないことはない。
 私の父は一寸變つた人物だつた。(奇話逸話は、ここに記す要もない。)
 父の樣子が、全く絕望になつた頃、ある日私は、父の古い手箱の中から、私達にも見覺えのある、燐寸を幾つか見つけだした。私達が子供の時分、父は家業を投げ出して、燐寸の發明に熱中した、その頃の遺品であつた。その燐寸の小箱のレッテルの意匠の一部が、發火のための磨擦面になつてゐる、――印刷用のインキがそのまま、摩擦面の塗料の代りになつてゐる、それが父の考案だつた。試みに擦つてみると、やはりそれは、うまい具合に火を發した。三十年も以前に作つた、父の手製の燐寸の焰、一穗のその焰に、私達は暫く私達の視線をあつめた。

 

三好達治「暮春記」(『全集9』所収)