三好達治bot(全文)

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「夏のおわりの日まわり」

 浜に出て沖を見ていた。ながく沖の方を見つめていた。ものに疲れた夏の日の昼すぎと、むなしいちぎれ雲と、遠くうつけた眼に見る薄曇り、気のせいほどの遠雷。ながらく私はそのむなしいものを見つめていた。ここにこみあう人々の群れにまぎれて、歌声や呼声や笑声や、風にとられて消えてゆくメガホーンの叫声や、すべてが跳(は)ねかえる混雑のはずみあった一種魔界の炎天の坩堝(るつぼ)の中から、私はひとり退屈していつまでも沖を眺めていた。その沖の方には何もなく、空には鳥かげも、水平線には島かげも、またそこを通る船の帆かげも見えなかった。そのいつまでも空(むな)しい広がり、もと私は、あそこの風の中の虚無を愛するものではない。むしろ私はこの雑踏が好きだ。水泳着の若い娘が肩をあつめて寄りあっているさざめき、私はそれを聞くのが好きだ。けれども、けれどもまたあの沖の方には、何かしら、何かしらあわれな非在のものがあった。うち寄せてくる波の一うち、一うちごとに、つねにうち消される何ものかが、そこにはあるように思われた。そこには微(かす)かな、思いなしほどの遠雷の声があった、やがてそれが耳に聞えて、こちらの方へ押し寄せてくるまでは――

 

 夕立がすんで私は庭に出た。空はもう一度青く晴れて、今日の日の残りは、そこにもう一度太陽の輝く青空を見せた。日まわりは濡(ぬ)れて乾いた。夏のおわりの日まわり――

 

  青空にさしのべたれど
  そはわが手よりなほ高く
  なほ三尺の空にありし

 

 日まわりの花。古い私の、くさぐさの、思い出の磊塊(らいかい)。花は重たく傾いて驟雨(しゅうう)のあとの青空に、花は重たくうなだれている……。「手をあげよ、青空へ!」けれども私はもう二度と……、そうすることをしなかった……。しなかった、なぜだろう。理由のわからぬこと、一つの方角。いまはすなおにその声にしたがうがいい……。心をいたわり、眠らせよ。

 

 けれども私はひそかに苦しんでいたのだ。解けない数学の問題に苦しむ子供のように、私はその大輪の重たさ、その花の重たさにいつまでも苦しめられていたのだ。その日の暮れてしまうまで。日まはりとは、何だろう。
 夜がきてやさしい答えをささやいた。――時計だよ、君。なるほど、
  日まわりは日時計

 

 夏のおわりの日まわりは、堅い台(うてな)をかたむけて、もうその姿もこわばって、まばゆい黄金の獅子(しし)の鬣(たてがみ)をめぐらした。あらぬ方(かた)に。日まわりは日時計、それは一つの運命の、日まわりは日時計

 

 

三好達治「夏のおわりの日まわり」

中野孝次編『三好達治随筆集』岩波文庫、1990年1月16日)