「興安嶺」『駱駝の瘤にまたがつて拾遺』
興安嶺……
いま日の暮れ方の椅子に在つて、私の思ふところは寂寞荒涼として名狀しがたい。さうして私は一葉の寫眞を膝において、私の思ふところになほ深く沈淪しようとする。どこまでも遠くつづいた山脈、遠景は雲に入つて見わけがたい山なみ、この鳥瞰圖のもの語る意志――その風景は美しく、大きく、遠く、無限の空のもとに沈默して、無限の彼方に遠くはるかに浪うつてゐる。
興安嶺……
まことに風景は一つの音樂のやうなものだ。はてしなく憂鬱な、悲痛な、孤獨な、何の言葉の說きあかすべきすべもない幽玄な謎のやうなものだ。
興安嶺……
さうして見よ、ここに一すぢの路が通じてゐる。驢馬のかげも遊人のかげも見えない路が、ただ白く淋しく、曲がりくねつてつづいてゐる。無限にはるかな遠景にむかつて、彼方に見えない意志にむかつて。
三好達治「興安嶺」『駱駝の瘤にまたがつて拾遺』(『全集3』所収)