「鴉」『測量船』
風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまよふてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び聲をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黑い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける聲を聞いた。
——とまれ!
私は立ちどまつて周圍に聲のありかを探した。私は恐怖を感じた。
——お前の着物を脫げ!
恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、餘儀なくその命令の言葉に從つた。するとその聲はなほも冷やかに、
——裸になれ! その上衣を拾つて着よ!
と、もはや抵抗しがたい威嚴を帶びて、草の間から私に命じた。私は慘めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。
——飛べ!
しかし何と云ふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて兩腋に疊まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服從の用意をした。
——飛べ!
私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに滿ち溢れ、銳い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら——。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの慘めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲勞を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の聲ではなかつたか。
——啼け!
おお、今こそ私は啼くであらう。
——啼け!
——よろしい、私は啼く。
そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。
——ああ、ああ、ああ、ああ、
——ああ、ああ、ああ、ああ、
風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷たいものがしきりに頰を流れてゐた。
三好達治「鴉」『測量船』(S5.12刊)