三好達治bot(全文)

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「私の信条」

 戰爭中疎開先の福井驛で見かけた情󠄁景、あの殺人列車の窓口でもんぺ姿󠄁の一人の少女が何かに讀み耽つてゐるのをふと見かけた、その情󠄁景は忘󠄁れ難い。私は別の列車からそのプラットフォームに吐き出されて、やうやくほつと一と息ついたところであつたから、そこらをぞろぞろ步きながら、通󠄁りすがりにその窓口を覗きこむやうな形になつた。少女の手にしてゐたのは堀辰雄君の小說集であつて、それを見ると私はふと堀にもずゐぶん會はないなあと思ふ傍ら、あの混雜中でそんな姿󠄁で氣樂な旅行でないにはきまつてゐるその少女が、そんな風にそれを讀んでゐるのを何か一寸見すごし難いやうな感じで眼にとめつつ、その時列車が動き出すのを見送󠄁つた。こんなことは考へてみると別段のことでもなささうだが、私には今日も忘󠄁れ難い。はつきりといふと、私はその時堀君にいくらか羨望󠄂を感じたやうな氣持を覺えた、さうしてその氣持が私にとつても一種愉󠄁快な氣持に近󠄁いのをその上に重ねて覺えた。その愉󠄁快な氣持といふのは、文󠄁學はこの程󠄁度に、ここまでの程󠄁度にはたしかに有用な何かであるといふこと、その程󠄁度が實は問題なのだが、ともかくその時それがはつきりと私としては實感のできたことを意󠄁味してゐた。さうしてその程󠄁度に、私はかなり十分󠄁に滿足であつた。私も年頃つまらぬものを書きつづけてゐる人間のはしくれの一人として、私は堀君の場合をここでは一寸借用をした形になるのであるが、私はその借用にさへある憚りを覺えるよりは、何か人事でない感じの方をいつそう强く覺えたやうな風であつた。
 二十餘年も一つ仕事をつづけてゐる、私などはいつかう自分󠄁の仕事には自信がもてない。自信のもてないのは苦痛であるが、それが事實であるからひそかに我慢をしておくより、致し方がない。こんな狀態がいつまでもつづいてゐて、さてどうなるといふ目あても從つてはつきりせぬから、この不安と苦痛とは實をいふととつくの昔から慢性症狀を呈󠄁してゐるのである。さういふ症狀の常としてそれにはまた一種の諦觀も伴󠄁つてゐるのであつて、惡く多寡を括るといふのではないにしてからが、私自身己れの上に課する要󠄁求にはいくらか(或はかなりに)手心を加へて、その點では控へ目に己れの脊椎の負擔能力を見積つておく方針である。文󠄁藝の仕事に携はる者は、誰しもその作品の廣く永く讀まれることを願はない筈はないけれども、萬人に讃まれる不朽の傑󠄂作の結構󠄁なのはいふまでもないとして、限られた讀者と一時の生命とを保つにすぎない作品もまたそれはそれなりに無意󠄁味ではない。殺人列車の窓口で讀まれるほどの作品だつて私に書ければ、私などには十分󠄁以上の滿足である。それすら私にはなかなか困難な負儋であるが、もしかすると時たまそれくらゐの程󠄁度には漕ぎつけうる場合があるかも知れない。一人の讀者に、一時の同感をうるだけでも、文󠄁藝はすでに立派な仕事だと、哲學者のギュイヨーがいつてゐるのを以前󠄁に讀んだ記憶がある。私のやうな者のためには、恰好な名言として忘󠄁れ得ない。
 アナトール・フランスにラ・ヴィ・リテレールといふ著書(評󠄁論集)がある。この場合の文󠄁學生活(ラ・ヴィ・リテレール)は卽ち讀書生活を意󠄁味することがその書の內容から明󠄁らかである。文󠄁學を生涯の仕事とするのは、必ずしも著述󠄁創作を活計とする、そればかりを指すものと心得る要󠄁はなからう。讀書生活もやはり文󠄁學生活には違󠄂ひない。私などが文󠄁學を愛する所󠄁以は、書くことよりも寧󠄀ろ讀むことの方の側に、實は最初に强く惹かれたことから發してゐる。この最初の傾向は、私に於ては、今日も依然として變はらない。文󠄁學は作者に苦しく讀者に樂しい仕事である、といふのはたとへ能のない凡人に適󠄁した意󠄁見であつても、私自身はまづ日頃はさういふ側の意󠄁見に居る、それを自ら承認󠄁をする要󠄁があるし、承認󠄁をしてもいいかと思ふ。生涯讀書生で結構󠄁なのである。當今のジャーナリズムは、私がわづかな米鹽をそこに得てゐる場所󠄁であるが、もともと私にはそこは餘り住󠄁みいい場所󠄁とも思へない、それも年來の事實である。私は收入の多い流行作家の名譽を得て、多忙󠄁な生活に追󠄁ひまはされることを欲しない、またその柄󠄁でもない。さういふ仕事ぶりに恰もはまり役の人物が、世間にはあり餘るほど澤山ゐる、それを彼らの受󠄁持ちとするがいい。さうして彼らを靜かに傍觀してゐるのが、私などにはふさはしい私の受󠄁持ちといふものであるかも知れない。
 かくいつても、私は世上を白眼視してゐる譯でも何でもない。私の態度は、意󠄁欲的󠄁な積極性を或は缺くかも知れない、それでも私の日日は私としてはこれでも繁忙󠄁を極めてゐるので、これでもう手いつぱいだと思つてゐる。さて問題の世間と私とのつながりであるが、そんなことは實は私には殆んど何も解つてゐない。ただ私の方の手いつぱいの感じだけを手賴りにして、私は世間に案外素朴に信賴し、諸事氣永を旨として、のんきにそれに凭れかかつてゐるかも知れない。問はれてみると、さういふ風な感じを覺える。ところが以前󠄁から信賴してゐた文󠄁部大臣から、ある日突然素直な氣持ちで「君が代」をお歌ひなさい、といふやうなお觸れを承ると、私と雖もいささか眉をひそめざるを得ない。馬鹿げきつた天皇制などといふ古風な制度を廢しきれないのも、それが世間といふものである。子供は案外勘のいいもので、彼ら自身「君が代」は歌ひたがらないさうである。そんなことを先日某校󠄁長さんから承つた、それも世間である。自衞だの再軍備だのといふことになると、それがそのうちどこまで昂じることか私どもにはとんと見當がつきかねる。世間はかくの如く支離滅裂であるから、のんきにそれに凭れかかつてゐるといふのも、實は當然な不安を無視した無鐵砲󠄁な態度といはなければならない。私などは素朴に大膽無鐵砲󠄁なのであるから、要󠄁するにこれは方針のない馬鹿げた話である。けれどもそれも致し方がない。私の仕事などが、たとへそれが如何なる祈願をこめてゐたところで、大きな力で支離滅裂な動き方をする世間にむかつて、ましてその小さな世間を包󠄁みこんでそれを衝き轉がしてゐる國際的󠄁な方圖もない勢力にむかつて、力として何を意󠄁味することができるであらう。答はゼロであるから、私たちは案外泰然としてゐるやうな譯である。
 けれども文󠄁學は、まして詩歌などといふものは、政治力と抗爭するための權力意󠄁志を、一派の例外は別として、本來それ自身內容してゐるものではないから、この輕小なヨットはほんのわづかな橫波の襲擊にも覆されるほどそれが不用意󠄁なのは要󠄁するに致し方がない。厖大な政治力は姑く措くとしても、私どもの作品などが、平和な世間の氣紛󠄁れな無數の波頭の間をでも、いくばく時間凌ぎ切つて、それの意󠄁義をもちつづけながらその水面にとどまりうることも、これも保證の限りでないのは、先に一言しておいた通󠄁りである。作者は一篇の作品にも、精根をつくして彼の智能の限り何かを押し上げようと專心するであらう、それほどの努力に目的󠄁のなからう筈はないけれども、その目的󠄁は必ずしも作品の廣く永く讀者に讀まれること、そのことばかりに係つてゐるとは斷じ難い。
 それを含めて目的󠄁はなほ微妙に複雜にこんがらがつてゐる。複雜微妙なそのこんがらがりは意󠄁識の統合として作者に分󠄁明󠄁であるけれども、その解析は彼にも殆んど不可能に近󠄁いであらう。藝術󠄁は神に捧げられると、ある人のいふのも、もしかするとその場合の作者の內的󠄁實感をいふのであらう。見神の經驗をもたない私のやうな者にも、その言葉はむげに斥け難い感が深い。
 だからその何といふか、その神への捧げものを、飜つてジャーナリズムや世間の手に委ねるのは、支離滅裂な世間にむかつて素朴に信賴をおいてのんきに凭れかかつてゐること、そのことと全󠄁く同じ、素朴な無鐵砲󠄁な話であるかも知れない。だからもう一度いへば、そんな風に世間に委ねられた作品自身の作用や命數は、作者に於てもいつかう見透󠄁しのたたない、一箇の偶然以上のものではない。作品はそれの置かれた環境に有用な限り生きつづける。――疎開者の手に、汽車の窓口に讀まれる限り、それはたしかに生きつづけるであらう。

 

 ここまで書いてきて、今の日本に永く失はず保存しておきたいものを、身にひきつめて考へてみることにして考へてみるに、私にはすぐと念頭に浮󠄁んでくるものが殆んどない。法隆寺の壁畫のやうなものでさへも、時が來れば燒亡󠄁するのは、これも致し方のないことのやうに思はれる。浪花󠄁節や天皇制は、一日も早く消󠄁えうせてもらひたい代ものだが、この方は時節が到來しないからなかなか消󠄁滅しない。歌舞伎芝居や文󠄁樂のやうなものは、私には殆んど無意󠄁味に近󠄁い技藝と考へられるが、それも餘命のある限りは隆盛󠄁に或はよたよたと生きつづけるであらう。衣⻝住󠄁の日本趣味も、茶の湯のわびさびも、第二藝術󠄁の俳諧も、等々それらはみな、私には是非とも保存の願はしい國粹的󠄁貴重財とは考へられぬ。次󠄁第に新陳代謝をして、代りのものが出てくれば、追󠄁々とそれらは次󠄁のものに取つて代られていいのである。その步なみは、現在の速󠄁度よりも、もう少し早くなつたところで差つかへはないので、或はその方が望󠄂ましいかも知れぬ。世上の風俗習󠄁慣すべて、改まつてもらひたいものの方はいろいろ思ひ當るやうであるが、保存の願はしいものはといふと、課題に應じて急󠄁には思ひ當らない。私はいささか輕率󠄁ではあるかも知れぬが、これでも己れの傾向は、當今の所󠄁謂進󠄁步主󠄁義者といふのに該當するであらうかと心得てゐる。理解の偏󠄁狹な詩壇なんかといふ小天地では、私は專ら保守家の末席に指名をされてゐるが、私自身それを肯定するつもりは全󠄁くない。私は進󠄁步主󠄁義者であるから、槪して舊物の廢れることを望󠄂み、舊物の廢れることを必至の運󠄁命と考へてゐるから、それらの舊物から汲みとれるだけの何事かを、限られたその期󠄁間の間に汲みとつておくことを、比較󠄁的󠄁熱心に丹念に考へてゐるつもりである。かういふ流儀は、當分󠄁この日本から、跡をたつて亡󠄁びてしまはないことが私には望󠄂ましい。

 

 

三好達治「私の信條」(『全集8』所収)

「湯ヶ島」

 伊豆へ行くのは十年ぶりであつた。ひと頃は每月󠄁のやうに出かけてゐたのに、御無沙汰となるとふつつりそちらへ足が向かない。かういふのを、我ながら淺ましく思ふ。何やらの物語に、「つねなき男なれば」といふ一句があつた。恆常心のない人物だから、といふのであつた。かういふ一句が眼にとまるのは我ながらやはり愉快でない。何も伊豆方面に借金のあるわけではない。ついさういふことになつた。それで、こんどは、櫻の見頃のぎりぎりのころ、同勢を誘ひあはせて、下田行電鐵の開通󠄁したのに乘つてみようといふ名目で、出かけてみることにした。
 電鐵は谷津で下りた。週󠄁日であつたが、熱川までは席のない滿員であつてまづは電鐵のためには目出たい。車體は乘心地がよかつたが、トンネルと切通󠄁しを走るので眺望󠄂には惠まれない。時間はよほどの節約󠄁になるあんばいだが、その方に餘裕があれば、海岸沿󠄂ひのバスの紆餘曲折の方がまさらう。一長一短だね、と雜談に鹽せんべいを嚙る間もなく、谷津に着いた。早い。
 この日は湯ヶ島溫泉、世古の瀧にむかふ豫定であつた。ずゐぶん南下をしすぎたが、車中凡そこの方面、東海岸の人氣のやうなものは感じとられた。詳しく數へれば、この海岸には、一と昔の間に、ずゐぶん溫泉の數がふえた。いづれも盛󠄁況のやうである。見慣れた屋根、その間に、新しい屋根がふえてゐる。いづれもてかてかとけばけばしい。それもやがては古色を帶びるだらうから、氣にすることはないが、何しろ電鐵そのものがけばけばしい。それでも早いに越したことはない、といふのは私の思想でないけれど、承認󠄁しておく。
 谷津には石原忍󠄁博士のお住󠄁居のあるのを私は見おぼえてゐる。驛前󠄁からやとつた車の運󠄁轉手君にきくと、近󠄁ごろ仁術󠄁の方はさすがに御高齡で玄關を閉されたさうだがなほ御壯健󠄁の由、その方角に一揖して過󠄁ぎる。峰、湯ヶ野を經て天城にかかると、さすがに旅に出た氣持になつた。七瀧(ななだる)のあたり、ユースホステルといふものが谷間に見えた。山葵澤もちらほら見えた。櫻は丁度の見頃を二日三日通󠄁り越したやうだが、それでもなほ、花󠄁は盛󠄁りをのみ見るものかはといふほどの姿󠄁ではなく、まだまだ見事であつた。
 この峠路の、がらりと明󠄁るくなつたのは、以前󠄁の鬱然たる趣きに比べて私には遺󠄁憾であつたが、見渡しのよくなつたのと路面の平坦に手入れのよくなつたのとは氣持がよかつた。娑婆は日に日に變貌するが、山中もその例外でないのを思ふ。馬方の引く荷馬車といふものを見ない。バス、トラックの交󠄁換は手間どれても、以前󠄁のあの荷馬車の列の比ではない。それをいふと、運󠄁轉手君はうんうんと上の空でうなづいた。近󠄁頃は農家でも馬は飼ひませんよといふ。天城の伐木の分󠄁量は、ちらとばかりの一瞥でいふと、よほど減產のやうに見うけた。それとも運󠄁搬手段が敏速󠄁になつたせゐかも知れない。要󠄁するに昔のままに靑々と、すがすがしい音󠄁をたててゐる山葵澤の外は、全󠄁山の趣きがずゐぶんと變つた。再度の颱風に促されてそのあと急󠄁速󠄁に變つたであらう。トンネルを出て狩野川になる、その淨蓮ノ瀧には、休み茶屋お土產物屋が軒を並べてゐる。それにも驚く。驚くに當らぬことに驚いてゐるのであらうと、やや心もとなくもなる。
 街道󠄁を下り、湯ヶ島の宿場を外れて世古ノ瀧に向ふ西平橋の、立派な鐵橋に變つてゐるのにも、また驚く。そのあたり、やつと溪谷を走り出て平らになつた川べりの崖つぷちに、頑丈󠄁な鐵筋造󠄁りの旅館が何軒も出來てゐる。あんなところに、とふり返󠄁つて驚かんとしたが、その暇もなく走りすぎた。

 

 湯ヶ島世古ノ瀧溫泉は、小說家梶井基次󠄁郞君が數々の名作を殘したので名高い、――名高いはをかしいかな、それなら知る人ぞ知るといつてよからう。私は十年ぶりであつた。水災の後地形が變つたと聞いてゐたが、湯川屋さんに着くとすぐ窓から對岸を見た、――その見渡しはよほど變つてゐた。靜かに考へ合してみればそれほどの大變化󠄁を來してゐるわけではなかつたけれども、一見した印象は、よほど變つて見えた。
 ――空がたくさん見えるやうになつたね、と私は思はず呟いた。對岸の木太刀の湯は流れ去つてなくなつたかな、と想像してゐたが、なるほどそれはなくなつてゐたけれども、その跡に立派な建󠄁築󠄁物が立つてゐた。木立(きだち)溫泉といふ。木太刀が木立と改つたのは、字面で一字を節約󠄁したが、私には氣に入らなかつた。コダチと讀まれさうなのも氣がかりであつた。何やら賴朝󠄁傳說のあつたのが、これではもう早晚消󠄁滅するに違󠄂ひない。部落のため溪谷のために惜むべきではないかと私は思ふ。
 新しい立派な建󠄁築󠄁物は、その外に二つばかり生れてゐた。ゆさゆさと搖さぶれる鐵索吊りの吊り橋はなくなつて見事な――といふのはその頑丈󠄁さの點で見事な、コンクリートの吊り橋が架つてゐた。見てゐると、水面二十メートルはあるその高いところを、貨󠄁物を滿載した大型トラックが、こちらへ、向うへ、渡つて行くのが私には夢のやうであつた。それがまことに賴らしげで喝架を惜ま_ない氣持を私は覺えた、傍ら、あそこのところの一劃の繪畫的󠄁風景の臺なしに失はれてしまつたのを惜む氣持ちも働いて、私は逡巡󠄁した。桑滄の變だなと、あまり適󠄁切でない言葉が胸に浮󠄁んだ。やや季節遲れであつたが、椿の花󠄁はもうそのあたりに見つからなかつた。それも淋しく思はれた。
 猫越――妙な文󠄁字だがネッコと讀むその猫越川は、昔のままの淙々たる聲をたててゐた。そればかりは、この湯川屋の一室で梶井と起󠄁居を共にした三十年以前󠄁にいささかも變らない、その聲はゆかしく懷かしく、今日の一泊はまさしくこれを聽きに來たのだからとさすがに私の胸に沁みた。若山牧水さんが、むつくりとした着流しの姿󠄁で、溪底の風呂場に下りて來られた姿󠄁などが眼に浮󠄁んだ。私は格別であつたが、梶井も牧水の愛讀者であつたから、それ牧水牧水などといつて私どもは窓際に顏を寄せたのを、思ひ出す。牧水の愛した、この溪谷の山櫻は、この日もまだ咲󠄁き殘つてゐて、この木には被害󠄂もあまりなかつたが、水流の近󠄁くにも、またそこらの傾斜のなぞへにも、點々として數へられた。次󠄁々に若木代謝してゐることかも知れない。そのみづみづしい姿󠄁は、赤みをもつた若葉をふいて、あたりの空氣に、ぽうとした明󠄁るみを吐いてゐる。
 見れどあかなくに、だね。
 と私は同行の石原八束さんに話しかけた。
 伊豆も變つたでせうけれども、何といつても、ここは別天地ですね。
 八束さんも、ここは二度目のやうであつたが、さういつて、いつまでも、手摺りによつて水の色に眺め入つてゐた。
 川床の模樣も變つたね。ここらの、この石ね、みんな落ちついてないねシンマイだから。
 といつて私は笑つた。ずつと上流の方を見透󠄁してみると、そのたたずまゐは、むろん以前󠄁のままだけれども、兩岸の樹木がずゐぶんとさらはれて、見透󠄁しが開豁になつてゐるのが、以前󠄁の記憶と比べられた。それでも巨󠄁岩の目ぼしいものは、私に目覺えのものが幾つかそのままに殘つてゐた。
 梶井の「河鹿」ね、それから「闇の繪卷」ね、それからあの「筧の話」ねと數へ立てて、その作品の生れた場所󠄁を、私は指さしながら、八束さんのために說明󠄁した。さうしながら、追󠄁々と眼前󠄁の新風景が、舊景にたち戾るのを私は覺えた。
 このあたりでは近󠄁年、ヰノシシが豐作だといふ。獵期󠄁がすぎて、陷穽やトラバサミまで、今では仕掛けてゐるといふ。箱根が開け、富士山麓に演習󠄁場が爆音󠄁をたてつづけるからでせうね、畑を荒󠄁らされて困りますが、いついらつしてもお客さんの御注󠄁文󠄁にはこと缺きませんよ、といふのは、この宿のかみさんの話であつた。鹿はへりましたが、猪はふえましたよ、といふ。そんなものかなと、私にも理由は分󠄁らなかつた。
 この宿、湯川屋の樣子は、むろんすつかり變つてゐた。川つぷちの、村の共同湯、男女混浴の大浴場も、すつかり模樣は變つて、それはまだ工事中の建󠄁築󠄁さなかであつた。「こんばんは」と朱筆で走り書きした、ほほづき提燈をぶらぶらさせながら、一里も遠󠄁い奧からも村人たちの集つてきた、――このあたり山中だから寒󠄁氣は嚴しい、あの冬󠄀の夜の、心にしみる風景は、今日ではもう見られまい。小學生も、三輪トラックで運󠄁ばれる世になつた。路ばたには、照明󠄁燈が、たいていのところまで行渡つてゐる。「闇の繪卷」は、やはりあの時代に、書いておかれたのがありがたかつた、と私は思ふ。
 こと缺きませんのシシ鍋は、季節におくれてゐたがやうやく間にあつた。前󠄁以て申込󠄁をしておいたヤマメは、季節にまだ早かつたがこれもやうやく間にあつた。季節なしの椎茸とともに、いづれも野趣に富む美味であつた。同勢は贅澤をいはぬ仲間であつたが、結果はだいぶ贅澤をいつたのと等しいことになつただらう。伊豆は美國の小國だが、天產はまことに豐かなのがやはりうれしい。

 

往󠄁路に迂り路をしたのに釣󠄁合ひよくといふのではなかつたが、歸路もまた堂ヶ島廻りの迂路を選󠄁んだ。前󠄁夜相談してゐるうちに、さういふことになつた。堂ヶ島は名勝󠄁だが、いづれ俗地に近󠄁からうから、それが目あてではなかつた。世古ノ瀧から松󠄁崎行きのバスは仁科峠を越えるといふ、このコースは近󠄁年の新開だから、知る人ぞ知るといふにももの足りまい。それがたいそう見晴らしがよろしいといふ湯川屋主󠄁人の勸獎であつた。地圖を按じてみてもうなづける、それがよからうといふことになつた。さうして主󠄁人の言は私どもを欺かなかつた。
コースは猫越川に沿󠄂つてずんずん遡り、持越金山といふのは打見たところ寂びれて見えたが、がらん洞らしく見える探掘場、またその附屬住󠄁宅のひと塊りを過󠄁ぎたあたりから、左折して山中に入る、そのあたりからまことにこの國ぶりらしい山々の立竝ぶ佳景に入つた。伊豆の山々は、お結びを並べたやうに小ぶりだがその姿󠄁がよろしい。仁科峠に上りつめるまで、山々は交󠄁替して左右に迎󠄁へてくれる、その大方は右手に深い谷間をもつてゐるからその方角に於て專らだが、それがなかなか面白く、お結び山と雖も眺めてゐるうちに追󠄁々と雄大の趣きを加へてくるのを覺えた。
 十國峠よりも、この方が、よほどよろしいぢやありませんか。
 といふ聲が聞えた。私も記憶で比較󠄁してみると、それにはをさをさ劣らないのを悟つた。伊豆は小國と決めてかかつてゐたのが、ここでは實景の上で少しく訂正を要󠄁するのを覺えた頃には私はだいぶん陶醉氣味であつた。なるほどよろしい。季節はまだいささか早く、山々が枯草色であるそれもまた、それで好ましいけれども、翠󠄁綠のしたたる暮春から夏場にかけてはずつと遙かに見まさりがするであらうかとも想像された。地圖で見ると、千メートルそこそこの低山ばかりである、そんな算數めいたことは、この際の實感にかかはりがなかつた。
 仁科峠は標高八○○メートル、ちょつとの平地になつてゐる。車を出るとまだ風は寒󠄁かつた。新開コースだから何の設備もなく、さつぱりとしてゐる。曇天でなければ富士もちよんぼり見えようか、この日はむろん見えなかつた。左手には、もう堂ヶ島の入江がそのほんの一隅の海面が、お結びたちの間に見えた。部落らしいものの片鱗もそこに見えるやうで、なほ遙かに靄に煙つて定かではなかつた。
 湯ヶ島からは、バスで一時間そこそこの行程󠄁である。健󠄁脚の壯者には、車など借らず、ひと汗くらゐの行程󠄁であるから、いづれ近󠄁いうち名聲を揚げることにもならうか、その資󠄁格は十分󠄁と思へた。

 

 堂ヶ島は果して俗地であつた。いや俗地と化󠄁しつつあるその長足の進󠄁步が惜まれた。ここに來て磯鴨(いそひよ)どりの美しい歌ごゑを久しぶりに耳にしたのは、私にはなつかしかつた。越前󠄁九頭龍󠄁川河口の私の侘び住󠄁居では、每年その春さき、屋根の上にきて歌つてくれた舊友であつたから。
 松󠄁崎から北上するバスは、堂ヶ島、土肥溫泉を經て修善寺に出る。伊豆半󠄁島の西廻りは、海上に富士を望󠄂んでいつ見ても厭きない風景だが、あいにくの曇天でこの日はぶつめつであつた。
 土肥から沼津へ便󠄁船󠄁によつた頃にはもう雨に追󠄁はれた。
 同勢十餘人、たいていは俳諧の仲間であつたが、沼津から鈍行列車に驅けこんで、運󠄁座はそこでやうやく始つたらしい模樣であつた。

 

 

三好達治湯ヶ島」(『全集12』所収)

「梶井基次󠄁郞君の憶出」

 梶井君の創作集『檸檬(れもん)』に因んで、三月二十四日を私はひそかに檸檬忌と呼んでゐる。今年のその日ははや彼の三周󠄀忌に當る。さうして永井二郞さんの六蜂書房から、彼の全󠄁集もその頃丁度出版中の運󠄁びになるだらう。彼を喪つたことは私逹󠄁友人にとつてまた文󠄁壇にとつても、償ひ難い悲しみであり損失であつた。當時私は病を得てある病院に入つてゐたが、かねがね豫期󠄁はしてゐたもののさて彼の訃音󠄁に接してみると、どうにもぢつとしてはゐられないやうな氣持になつた。せめてもう二三篇彼の圓熟した文󠄁章、會心の作品を遺󠄁しておいて欲しかつた。その前󠄁一度私が故鄕の大阪へ歸つて彼に會つた時、彼は病床から起󠄁つて机の前󠄁に枯坐し、さて、その頃たしか朝󠄁日新聞だつたかに連載されてゐたヒマラヤ登山の記事をこの頃彼が讀んでゐることを私に吿げ、幾萬尺かの上空で登山者が經驗するところの呼吸󠄁困難を、僕はかうして机の前󠄁で創作の筆をとりながら感ずるのだ、實際ここに書いてある通󠄁りなんだよと、その日の新聞を私に指して私を顧󠄁み、呼吸󠄁を調󠄁節しながら彼は笑つて見せた。さうして彼は、今度の小說はどうも書きづらい、ちつとも筆が進󠄁まない、書き出しがどうにも氣に入らないんだ、一度この原稿を見てくれないかと、一二枚のまだインクの痕の新らしい原稿用紙を私の前󠄁に差し出した。それはその後、雜誌『中央公󠄁論』に發表された「のんきな患者」の冒󠄁頭であつた。僅かにそれは數百字ばかりの文󠄁章であつたが、到底凡手の企て及󠄁ばない深邃雅󠄂馴の文󠄁品は、このゐながらにして須彌山上に彷徨してゐる病詩人の、呻吟の跡を微塵もとどめないものだけに、殊更󠄁に探く私の心を撲つた。私は叩頭三伏せんばかりに、その原稿用紙を彼の眼の前󠄁で上下に動かして激賞した。君が來てくれたのでどうやら先が書けさうになつた、ほんとに心細かつたんだよ、こなひだから、と彼もいささか安んずるところがあるもののやうに見うけられた。さうして私が彼の僑居を辭さうとすると、彼はそれが幾十日ぶりかだと言ひながら靜かに下駄をつつかけ私が手を擧げて制止するのもきかず、門外十間餘りのところまで私を見送󠄁つてくれた。ここで失敬する、そこまで行きたいんだけれども、さう言つて彼は彳ちどまつてしまつた。私はもう一度彼を病床まで見送󠄁つてやりたかつたが、再會を約󠄁して急󠄁いでバスに飛び乘つた。私がふりかへつた時彼はまだそこに彳ちつくしてゐた。これが彼との最後の別れであつた。
 私は彼の憶出を語らうとして、思はず彼との生別を語つてしまつた。一體に彼の追󠄁憶は、私にとつては甚だ痛ましい、そんなに彼との交󠄁游が、悉く悲慘だつたといふ譯ではないが。
 創作集『檸檬』のうちで、彼が精妙な自然描寫を幾度となく繰り返󠄁してゐる、伊豆の僻村湯ヶ島といふ湯治場へ、彼が轉地療養󠄁に出かけたのは、私逹󠄁がまだ學生生活をしてゐた頃の、ある冬󠄀休暇であつた。その頃私逹󠄁は、麻󠄁布飯倉片町に、各々四疊半󠄁の小さな部屋を、一つ家の二階に借りて暮してゐた。ある晩私は彼に唐󠄁突な質問を持ちかけた、「君は學校󠄁を卒業する積りかい?」その頃既に、彼の宿痾の呼吸󠄁器病は、彼自らが案じてゐるよりも、遙かに憂慮すべきもののやうに私には思はれた。そのからだで、たとへ君が學校󠄁を出ることを得ても、どのやうな職業に就ける譯でもあるまい、君は一日も早く、君の文󠄁筆で生計を立てるより外はない、卒業證書を貰つたつて仕方がないではないか、そのやうな意󠄁味のことを、ともあれそつと、自分󠄁を世間並の健󠄁康人のやうに思ひなしてゐたかつた彼に向つて私は正面から説得した。最初彼は內心私を一喝してゐるもののやうに、俺は聽かないぞといふつもりの險惡な眼つきをしてゐた。けれどもやがて彼は答へて、僕が今學校󠄁を抛棄したと知つたなら、僕のためにこれまで不自由を忍󠄁んできてくれたおふくろが、いつたいどう思ふだらう君――さう言つて嘆息を洩らした。しかしながらそれから二三日の後、彼は數種の旅行案內書を取寄せて、轉地先に就て私にも相談をもちかけた。その冬󠄀休暇が明󠄁けて私が再び上京した時には、私の部屋とシムメトリイをなしてゐた彼の部屋には、一度築󠄁地の舞臺にも出たことがあるんだぜ、といふのを彼がいささか得意󠄁にしてゐた彼の持物の古めかしい机と椅子とが、窓から射し入る陽ざしをうけて虛ろな表情󠄁を見せてゐた。その後彼は東京に定住󠄁したい希望󠄂をもちながら遂󠄂にそれを許されなかった。
 さうしてその年の春であつたか、私は伊豆に彼を訪ねた。丁度その時、彼は宿を留守にしてゐたので、私は人の敎へるままに、溪流に沿󠄂つた道󠄁をK氏の宿の方へ、何か樂しい氣持でぶらぶらと步いていつた。するとある籬根の蔭から、紺絣の着物をきちんと着た、それこそ思ひがけないほど健󠄁康さうな樣子の彼が、不意󠄁に現れた。途󠄁端に彼は全󠄁く野蠻な大聲を發して、私に向つて數步の間を驅けつけた。いきなり彼は私の右手をとつて握手をしながら、それに應じてゐる私の手頸のところを、その上左手で持ち添󠄁へて、さうして大きく上下に動かした。ああその君の大袈裟な握手を、今梶井君、僕はもう一度憶ひ出す。
 あの時君は元氣だつた、あの頃君が君の養󠄁生にもつと專心してゐたなら。――けれどもそのために、君は餘りにも詩神に忠實だつたといふのなら、然り、僕は諦める。

 

 

三好達治「梶井基次󠄁郞君の憶出」(『全集6』所収)

「私の好きな詩集」

  書店に出るのを待ちかねて買つた詩集、それが二册ある。二册きりのほか思ひ出せない。萩原朔太郞の『純情󠄁小曲集』と堀口大學の『月󠄁下の一群』。どちらも大正十四年の刊行で、前󠄁者は八月󠄁後者は九月󠄁と、刊記を見ると隣合つてゐるのにただ今氣づいた。八月󠄁の『小曲集』はそれを購󠄂つた店頭のさままではつきり思ひ出せるのは、暑中休暇で地方に歸つてゐたからであらう。ゲタの齒がアスファルトにめりこむゃうな暑い日であつた。店さきを出るとその日ざかりを西の方にむかつた、そんなことまでおぼえてゐるのは、道󠄁みちこの一册の詩集を讀み終󠄁つたからであつた。大通󠄁りの軒端づたひに、日中ぶらぶら讀みものの出來るくらゐに、そのころはまだ町中はのんびりとしてゐた。隔世の感をもつて、ただ今、私は神戶市元町通󠄁りの午後三時を思ひ起󠄁す。
 「このうすい葉つぱのやうな詩集」と著者自身のいふこの手輕な、さつぱりとした詩集は、私には萩原さんのどの他の詩集より親しみが深い。それより以前󠄁に出てゐたこの人の三册の詩集を私はもうくはしく讀んでゐたけれども、この葉つぱのやうな一册は、まつたく意󠄁外な方面から私を襲擊してくるやうな銳さと、高さと、におふやうなうひうひしさとをもつてゐた。詩集の前󠄁半「愛憐詩篇」は大正二年、後半「鄉土望󠄂景詩」は同十四年の作である。すなはち兩者はその間の十餘年に、『月󠄁に吠える』『靑猫』『蝶を夢む』三卷を一まとめにカッコに包󠄁む兩翼として妙な組合せを示してゐたそのことが、私には萩原朔太郞の全󠄁貌をはじめて明󠄁らかに敎へるものとして、――何といふかありがたかつた。私が何を領得したか、ちよつと簡單に思ひ出せないけれども、複雜な考へごとが、見渡しよく鳥瞰的󠄁にながめられる、そんな風の、登山者の喜びのやうな、すつきりとした滿足感がそこにあつた。
 當時の書生として、實は私は、十編󠄁ばかりの「愛憐詩篇」を最も愛讀したらうか。どうも、たしかに、そんな風であつただらう、とただ今思ふ。それらの作品は、この葉つぱにおいて、私に初見であつたといふだけでなく、大正二年のこの人の最初期󠄁作は、當時十四年ごろまだその後にもずつとわたつて、私にとつてはいつまでもみづみづしい眩しいくらゐのものとして心を奪つた。

 

    靜 物

 

  靜物のこころは怒り
  そのうはべは哀しむ
  この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる
  窓ぎはのみどりはつめたし。

 

 私の記憶は、もう四十年も古いものとなつてしまつた。この作品は今日すでに半󠄁世紀餘の歲月󠄁を閲してゐる。それでも私には、たとへこれが昭和三十八年の日付で發表されたとしても、いささかも奇異には感じないだらうと思へる。現代詩などといふものは、最も足ばやに時代のチリをかうむつて、古ぼけて見えるものの多い中に、異數といはなければならないだらう。さすがに「愛憐詩篇」の諸作も、今日たいていは何がしか古めかしい、時代色を帶びて、遠󠄁い彼方のものとして目に映る中に、「靜物のこころは怒り そのうはべは哀しむ」と歌つた心理的󠄁こまかさ複雜さだけが、ひとり獨立して新鮮に見えるのを、私は以前󠄁からそれをこそ奇異として受󠄁けとつてゐた。
 萩原さんの全󠄁集は死後に三囘刊行され、三度目のはつい先年完結した。私は僚友の伊藤󠄁信吉君とともに、同君のお手傳ひくらゐの役目を受󠄁けもつてこれに從つた。そんな仕事の間に、「靜物」その他「愛憐詩篇」になほ先だつころの草稿の、おびただしい分󠄁量を判󠄁讀した。すらりと讀めるものもむろん半ばしてゐたけれども、判󠄁讀に骨の折れるやうなものもそれに半ばしてゐた。さうして、萩原さんも苦勞をされたものだな、と思つた。何を苦しまれたものかその跡はたうてい追󠄁及󠄁することのできないやうな、複雜怪奇とでもいふ外のない滅茶苦茶な暗󠄁中模索がつづいてゐる。萩原さんはもう二十歲を幾つか越えてゐられた、その年齡の筆者のものとしてはあまりに亂暴なあるひは稚拙な、勉强ぶりと見えるものがまた少なくなかつた。いやたいへんにおびただしかつた。
 そんなものを見ていくうちに、先の「靜物」に關聯するらしく見えるもの、明󠄁らかに關聯すると見えるもの、それらの部分󠄁的󠄁斷片破片がいくつか目についた。それはさまざまな形で出口を誤󠄁つて出沒してゐた、ゐるらしく私には推察された。
 あの簡潔󠄁なひと息のやうな作品は、長い苦しい試作の後に、その積重ねの意󠄁外な結果として、あるひは幸運󠄁な偶然から、あのやうな形に結晶したものと、ただ今の私は信じてゐる。
 『純情󠄁小曲集』が、とり分󠄁け私に親しみ深く思へるのは、だから、以前󠄁にもまして今日では右のやうな推察想像をも色つけ加へて――

 

 

三好達治「私の好きな詩集」(『全集5』所収)

「半宵雑記」

――上海雜觀追󠄁記――

 

 私は先月二十六日朝󠄁佐世保に着きました。上海を發つたのは二十五日早朝󠄁、その朝󠄁はたいへん寒󠄁い朝󠄁で路面には霜が降りてゐました、虹口碼頭の棧橋も眞白になつてゐました。水溜りには薄い氷が張つてゐました。まづ汽艇󠄁で出雲に行き、それから騙逐󠄁艦○○に乘せて貰ひました。やがて空はからりと晴れて、うららかな朝󠄁日がさし、久しぶりに珍らしい好天氣になりました。私達――その朝󠄁驅逐󠄁艦に便乘を許された私達の一行は、新聞記者雜誌記者それから日本刀硏究會の會員達合せて十數名の一組でした、私達は間もなく艦が動き出し、靜かに黃浦江を下つて行く間、風當りをよけたとある甲板の片隅に寄り集つて、美しい空と朝󠄁霞の中に遠󠄁ざかつてゆく上海市街とを眺めてゐました。○○機や○○機が編󠄁隊󠄁をつくつて、次々にうららかな陽ざしの中を飛んでゆきます。
 私が上海に滯在した期󠄁間は、この出發の日を數へて丁度三十五日のほんの短い間でした。その間に大場鎭が落ち、閘北の敵が退󠄁き、蘇州クリ―クの戰線が突破され、杭州灣の大規模な敵前󠄁上陸が敢行され、浦東一帶の敵陣地が掃󠄁蕩され、南市が落ち、嘉定崑山蘇州が落ち、嘉善嘉興が續々攻略されました。さうして戰爭はなほ息をつく間もなく續けられてゐます。杭州が落ち南京が落ちるのはいつでせう。戰線は今ではもう上海を去る百キロばかりも遠󠄁方に押し擴げられてゐます。寒󠄁い冬󠄀が來ましたが、この分なら天候はもう大丈夫でせう、雨さへ降らなければどれほど戰爭の苦勞が省けるかしれません。
 キャセイ・ホテルの尖塔やブロウドウェイ・マンションの高層建󠄁築󠄁が次第に遠󠄁く霞んでゆくのを眺めながら、私は何かこの朝󠄁の印象を記憶に便利な一つの焦點の上にまとめようと、意󠄁識的󠄁に試みました。歸心矢の如し、――そんな氣持で私はこの朝󠄁の出發を心の底から喜んでゐるだらうか、私はさう自分に問ひかけてみました。私の心ははつきりした返󠄁辭はしません。私はふと田舍に殘してある小さな二人の子供のことを思つてみました。それでも心はさほど波立たうとはしないのです。昨夜は數人の友人達が私のために送󠄁別會を開いてくれました。送󠄁別會といつても、燈火管制の暗󠄁い電燈の下で、お酒は茶碗酒の冷や酒で、朝󠄁まで語り明󠄁した、――旅館のこととて隣りの部屋に遠󠄁慮をしながら始終小聲で語り明󠄁した、つまりそんな風な一種の夜更󠄁かしだつたのです。少しお酒がすぎました、それで私の頭はどうもぼんやりしてゐます。何を考へようにも、思考力がありません。だからこんな風に、私はただ、眼前󠄁に動いてゆく濁流と遠󠄁景とを眺めながら、うつけた氣持でゐるのだらうか、私はさうも思つてみました。しかしそれにしてもその時のうつけた氣持は、ただ酒のせゐばかりでもないやうでした。
 戰爭に就て私は何を見てきたか。それがはつきりしません。私はたくさんのものを見ました、私は每日忙󠄁がしく驅け𢌞りました、それぞれのものに私は驚愕し、感動し、時にはまた力めて私なりの觀察や解釋を試みようとさへもしました。三十幾日の間、私は日日の私の行動に必要󠄁だつた二三種の新聞の外、一册の書物を讀まうともしませんでした。そんな餘裕、氣持の餘裕も時間の餘裕もなかつたのです。私は力めて私の體軀を持ち運󠄁んで、私の眼に映るものを只管見て𢌞ることにしてゐました。草臥れなかつたか、退󠄁屈しなかつたか、後になつていろんな友人からさう云つて問ひかけられた時、私は相手の言葉を、そんな言葉を、珍らしい氣持で聞きとりました。さうして私は急󠄁いで相手の言葉を打消󠄁すやうにかう答へました、いやそれどころかい君。實際私は、日頃の私よりも、遙かに快活な活動的󠄁な氣持で歸つてきました。それはそれとして、しかし私は、戰爭に就て何を見てきたか、まして何を考へてきたか、あの上海を發つ日の朝󠄁も、この文章を書いてゐる今も、さう自分に問ひ尋󠄁ねてみると、いつかう筋路のたつた答へらしいものは答へられないのです。外に思ふところがあつて、構󠄁へてこんな風に、誤󠄁魔󠄁化󠄁しを云つてゐるのではありません。假りに云つてみるならば、たとへば私のやうに、自分の眼だけを賴りにしてそれを眺めた者にとつては、戰爭といふものは、到底そのまとまつた姿󠄁を、その意󠄁味の片鱗をも、示してくれないのかもしれません。しかし私は、私の見聞した限りの事ごとに、さうです、その一つ一つに就て、私の感情󠄁の、こればかりは紛ふ方なくはつきりとした、反應だけは確かめてきた積りです。勿論それは、貧󠄁しい小さな私一個の主󠄁觀です。しかしまた私も一人の日本人であり、今しも重大な時期󠄁にさしかかつた私たちの祖國の一員である以上、私の單純な主󠄁觀もまた、私は信じて疑ひません、私の視界を超えた偉大な聖󠄁なる意󠄁義の上に深く根祇してゐるのを、頭腦でよりも心臟で量つてみるのです、はつきりと云ひませう、私の感動を、さうして私はすべて肯定するものです、私自身のどんな懷疑よりも更󠄁に强く。いやこんな理窟をここに持出すのはもともと私の柄󠄁ではなかつたかも知れません。少々態度が混亂しました。私は先に書き洩した私の見聞錄の追󠄁記をここで書き足せばよかつたのです。それが目下の私に出來ることの、私の爲すべきことのすべてですから。


 十一月五日、この日は珍らしい晴天でした、私は數人の同行者と共に、重村大尉の薦めに從つて、陸戰隊󠄁本部に出かけました、廣中路の戰跡を訪ねるために、案內を乞ひに行つたのです。陸戰隊󠄁本部は例によつて、まるで取引所󠄁か何かのやうに、出入りの人數が混雜を極めてゐました。それでも幸ひ戰況に詳しい竹邊一等兵曹と大森一等水兵とが見つかりました。紹介狀を貰つていつた板谷中尉にも、間もなく路上で行き會ひましたので、私達は一つ車に重なり合ふやうに同乘して、ほど遠󠄁くない現地まで、隨所󠄁に土囊陣地のある戰跡の間を急󠄁行しました。廣中路の會戰――さう呼ばれてゐる陸戰隊󠄁○○部隊󠄁の戰鬪區域は、八字橋の西北閘北○○用地前󠄁方の地區から東體育路崇德女塾前󠄁面の地區に亙る、約󠄁三キロばかりの正面をもつた、その全󠄁體が陸戰隊󠄁本部のほぼ西北方に當つてゐる、眺望󠄂開闊な市街を出はづれたばかりの平坦な耕作地帶です。その中央を淞滬鐵路が走つてゐます。鐵路にほぼ平行して數百米の距󠄁離を置いて水電路が走つてゐます。廣中路はその兩者に垂直に交つてゐる道󠄁路です。さうして後者とは丁字路をなしてゐるのです。私達はその丁字路の附近󠄁に到着しました。そこで私達は板谷中尉から、會戰の模樣を、就中私達の立つてゐるその○○戰況に就て詳細に、說明󠄁して貰ひました。そこは畠でした、作物はもう枯れてしまつて畝の露はになつた畠です。そこに眞新らしい墓標が點々と立つてゐます。墓標はなしに、ただ鐵兜だけが土の上に置かれてるるのは、支那󠄁兵の屍體を埋めた跡ださうです。敵ながら不憫だから、葬つてやつたのだといふことです。その目標の鐵兜はあちらこちらに見つかります。日向に動いてゐる蟇蛙の背中も、そんな附近󠄁に見つかりました。
 肝腎の戰況は、甚だ複雜を極めてゐて、ノートのとりやうもありません。とても一度や二度聞いたのでは暗󠄁んずる譯に參りません。後に私は「廣中路會戰記」といふ刷物を一部貰ひました。それには簡單な大雜把な記錄しか載つてゐません。ここにはそれによつて、戰況のあらましをお傳へしませう。あらましでは、實は甚だ遺󠄁憾なのです、私は板谷中尉のやうな方にお願ひしておきます、どうか勤務のお暇が出來たら、詳細な記錄を作つて下さい、私達は私達の同胞󠄁の働きぶりを出來るだけ詳細に知りたいのです。さうしてそれを私達の後に來る者達にも、同じく讀ませなければなりません。私達の祖國の事業は、とても一朝󠄁一夕には到達しがたい、それほど遼遠󠄁な未來に向つてゐるのですから。
 八月十三日に始まつた廣中路の戰鬪は、言語に絶した凄慘極まるものでした。流石に任務に忠實な各社の新聞記者達も、當時この方面の戰線には、一人として近󠄁づきうる者がなかつたと云はれてゐます。漸く九月に入つてから、この方面の戰線はやつと記者達の訪問をうけ、その激戰の一班が世間に傳へられた位ださうです。だから最も感動的󠄁な最も熾烈を極めたこの廣中路の戰鬪は、終ひに新聞ニュースの圈外にとり殘されてしまひました。
 「會戰記」には「八月十三日ヨリ十五日マデノ戰鬪」を略說して次のやうに記してあります。

 第○○隊󠄁○○餘名ハ北部戰線約󠄁三粁ノ間ニ配備ニ就キ、敵陣地トノ距󠄁離三四百米突近󠄁キハ百米突ニ相對峙シテ戰鬪ヲ繼續シ、時シモ惡天候ニシテ雨降ルコト頻リナリ、銃火砲󠄁火ハヤム時ナシ、戰鬪ハ畫夜ヲ問ハズ不眠不休ニ繼續セラレタリ。
 此ノ間ノ戰鬪ノ如何ニ激烈ナリシカソノ一例ヲ擧ゲン、第○○隊󠄁ノミニテ一畫夜ニ費シタル小銃機關銃ノ發射彈數十六萬發ヲ超エタリ、機銃ハ全󠄁ク燒ケテ眞赤ニナリ、「クリ―ク」ノ水ニ浸󠄁シテ冷却シ更󠄁ニ戰鬪ヲ繼續セル程󠄁ナリキ、如何ニ本戰鬪ノ猛烈ナリシカヲ語ルニ足ラン。

 八月十六日に入つて、愈々廣中路の戰鬪は凄愴極まりなきものとなりました。當時「敵の企圖」は凡そ次の如く推測されてゐます。

 敵ハ我寡兵ヲ以テ租界ヲ守備シ援󠄁隊󠄁未ダ來ラザルニ先ダチ一擧ニ我○○部隊󠄁守備線ノ突破ヲココロミ大兵一萬ヲ擁シテ陸戰隊󠄁本部ヲ衝カントスル企圖アリタルモノノ如クナホ漸次ニ兵力ヲ增加シタリ。

 そこで○○部隊󠄁は既述󠄁の正面に設けられた、A陣地よりF陣地に到る六個陣地を、援󠄁兵の未だ來らざるまま死守することになりました。○○部隊󠄁長は十五日夕刻夜戰に入るに先だつて、部下一般に次のやうな命令を與へました。
  一、敵ハ積極的󠄁ニ我陣地ヲ占領セントスル企圖アルモノノ如シ
  二、各陣地ハ夜戰ニ對シ充分ノ準備ヲナシ置ケ
  三、夜間敵ヲ充分引キ付ケテ一學ニ之ヲ擊滅スルヲ可トス
  四、各陣地士氣旺盛󠄁敵ヲ呑ムノ槪アリ、昨日及󠄁ビ今曉以上ノ奮鬪ヲ望󠄂ム
 午前󠄁三時頃敵兵約󠄁二、三百はまづ最右翼のA陣地に襲來しました。崇德女塾正面のA陣地は○○○隊󠄁長の指揮する○○○隊󠄁が守つてゐました。○隊󠄁長以下○○名の兵士は、前󠄁面三四十米突の近󠄁距󠄁離まで肉迫󠄁した敵に向つて、機銃輕機銃を以て沈着に應戰し、殆んど味方を包󠄁圍した敵に多大の損害󠄂を與へて擊退󠄁しました。「會戰記」には次のやうな記載があります。
  A陣地○○○隊󠄁長ハ敵總攻擊ニ遭󠄁ヒ全󠄁ク包󠄁圍セラレタルトキ、部隊󠄁長ヨリ「其陣地ヲ死守セヨ」トノ命ヲ受󠄁ケ、乃チ部下ニ令シテ曰ク、「最後ノ一兵ニ至ルマデ奮戰セよ、最後ノ一兵ハ兵器彈藥ヲクリークニ投ゲコミテ戰死スベシ」、部下ノ各兵ハ必死ノ奮戰ヲ續ケタリ、就中星兵曹ノ如キハ身ヲ挺シテ傍ラノ家屋ニ上リ、敵陣地ヲ偵察シ、特ニ開林公󠄁司危急󠄁ノ狀況ヲ看取報吿ス、再三○○○隊󠄁長ソノ身ノ危險ヲ注󠄁意󠄁スレドモ勇敢ニ觀測ヲ續ケ、部下ヲ指導󠄁ス、後陣地ニ就キ○○砲󠄁ニテ敵群ヲ砲󠄁擊中、敵砲󠄁彈ノタメニ戰死セリ。
 A陣地奪取を阻まれた敵の衆兵は左方に移動して開林公󠄁司に殺到しました。
  開林公󠄁司ニアリシ大石金子兩○○ノ指揮スル○○○隊󠄁ハ、階上窓口よリ輕機小銃ニテ猛射ヲ加ヘ、手榴彈ヲ投擲シ、更󠄁ニ階下ニ降リテ銃劍突擊ヲ決行セリ、敵ハソノ氣勢ニ怖レテ退󠄁却ス、時ニホボ午前󠄁四時ナリ。
 午前󠄁四時半󠄁頃に到り更󠄁に二、三百の敵は鉾を轉じてB陣地正面に攻擊してきました。
  守備中ノ○○○隊󠄁長ハ姉川○○以下○○○隊󠄁ヲ率󠄁ヰテ防戰大イニ力ム、タマタマ敵迫󠄁擊砲󠄁彈ノ集中ヲ受󠄁ケ、土囊陣地ハ吹キ飛ビ、一時ニ約󠄁十名ノ死傷者ヲ出シ、全󠄁ク苦戰ニ陷リタルモ、漸ク味方戰車裝甲車ノ來援󠄁ヲ得テ、堅忍󠄁ヨク前󠄁面ノ敵ヲ擊退󠄁セリ、此ノ時已ニ五時ヲ過󠄁ギ全󠄁線ノ活動活潑ヲ加フ。
 B陣地の左翼に當つて孤立した油公󠄁司の建󠄁物には、この時竹邊○○外八名の兵士が立籠つてゐました。竹邊○○は、私達と一緖に自動車に乘つてここまで出かけて來た私達の案內役の一人です。次のやうな戰況を板谷中尉が說明󠄁してゐる間、精悍無比なこの勇士は、畠の中にひと塊りになつて圓陣を作つている私達の傍らで、さも手持無沙汰の恰好で、左の脚を前󠄁に出したり、右の脚を前󠄁に出したり、丁度子供達がそんな時にさうするやうに、甚だ落ちつきの惡いもぢもぢとした態度に見えました。臍の下のところで兩手の指を組み合せ、額を伏せてぢつと地面を見つめてゐるのです。二三日剃刀もあてない髯で顏の半󠄁分は覆はれてゐます。陽にやけたその大きな顏は、眼にたつほど赧らんでゐます。この羞かみやさんの兵曹は、私の接した多くの勇士の中でも、とりわけ氣性の素直な好人物のやうに思はれました。
  油公󠄁司ニアリシ竹邊○○外八名ノ守備兵ハ、敵約󠄁二百名同公󠄁司ヲ包󠄁圍シ來ルヤ、乃チ○○ハ各兵二命ヲ與へ、屋上ニアリシ機關銃ヲシテ地上ノ敵ヲ猛射セシメ、自ラハ六名ノ部下ト共ニ機銃手榴彈ヲ携行シテ、既二三階ニ侵󠄁入セル敵兵ノ掃󠄁蕩ニ當レリ、卽チ階段上待チ構󠄁ヘテ、登リキタル敵ニ猛射ヲ浴セ、手榴彈ヲ以テ攻擊シ、更󠄁ニ銃劍ヲ揮ツテ「俺ニ續ケ」ト叫ビツツ階段ヲ降ツテ敵軍中ニ突入シ、机腰󠄁掛油鑵等ヲ手當リ次第ニ投ゲツケテ昇降口ヲ塞ギ、窓ニ據ツテ手榴彈戰ヲ行フ等、僅少ノ兵力ヲ以テ群ガル敵ニ交戰約󠄁二時間互ツテ奮戰シ、遂󠄂ヒニ之ヲ屋外ニ掃󠄁蕩シ、後味方○○○隊󠄁ノ來援󠄁ヲ得テ全󠄁ク敵ヲ擊退󠄁セリ。
 折から○隊󠄁長は公󠄁園坊附近󠄁の屋上に在つて大勢を觀望󠄂中、D陣地正面水電路畔󠄁の粤東中學方面に當つて、敵陣中に信號火箭數條が立昇るのを認󠄁めました。○隊󠄁長は直ちに全󠄁線に令して「敵總攻擊ノ兆アリ各陣地警戒ヲ嚴ニセヨ」と戒めました、時に午前󠄁六時半、間もなく敵はこの信號を合圖に全󠄁線一齊に攻擊を開始しました。
 D陣地――廣中路と水電路との相交るT字路附近󠄁、卽ち私達の停んでゐる畊地一帶に設けられた陣地は、その右翼のC陣地と共に、忽ち雲霞の如き敵兵のために蹂躙され、「D陣地全󠄁滅」「C陣地突破サル」等の悲報は、相次いで貴志○隊󠄁長の許に傳ヘられました。廣中路畔󠄁鐵路附近󠄁に在つた貴志○隊󠄁長は、直ちに戰況を○隊󠄁長に報吿せしめ、自らは豫備隊󠄁僅かに○○名を率󠄁ゐて、CD陣地の中間に進󠄁出、第一線部隊󠄁を指揮し、前󠄁面の敵を攻擊中敵彈のために壯烈な戰死を遂󠄂げました。
  廣中路水電路ヲ守備セル○○○隊󠄁ハ本戰鬪中最モ壯烈ナル奮戰ヲナセリ。
  敵兵午前󠄁六時頃起󠄁伏地(註、土饅頭樣のもの處々に在り)ヲ利用シテ突如陣地ニ襲擊シ來リ、次第ニ肉迫󠄁シ來リテ陣地前󠄁三四十米突ニ逼ラントスルヤ、○隊󠄁長ハ敢然逆󠄁襲ヲ決意󠄁シ、右翼陣地ニ機銃ノ猛射ヲ命ジ置キ、自ラハ手兵○○名ヲ率󠄁ヰテ左側ヨリ敵群ニ突擊シ、大白兵戰ヲ演ジタリ。敵ハコノ氣勢ニ呑マレテ次第ニ退󠄁散セルモ、○隊󠄁ハ粤東中學大華農園方面ヨリスル集中火ヲウケ、續々損傷アリ、漸ク所󠄁在ノ堆土ニ據ツテ殘員之ト應戰中、○○○隊󠄁續イテ○○○隊󠄁ノ應援󠄁ヲ得タリ。
 私達の案內役の一人、一等水兵大森弘君は當時を囘想して、
 ――まだその頃畠はこんな風に枯れてゐませんでした、豆の葉の繁つてゐる畝の間には、どちらを見ても支那󠄁兵の鐵兜がぎつしりと詰つて、腹匍ひながら蠢めいてゐました、その數はどの位あつたか一寸見當がつきません。
 と語り、また、
 ――彈はやたらに飛んできました、四方八方から滅茶苦茶に飛んできました、私は傳令に出されましたが、普段敎へられたやうに、腰󠄁を屈めて小さな姿󠄁勢をとつてみたつて始まらないんです、地物を利用しようにも、いつたいどちらから射たれてゐるのかまるで見當がつきません、私は大きな姿󠄁勢のまま滅茶苦茶に走つて行きました。
 ――傳令は二人づつ出されました、一人ぢゃとても駄目です、二人飛び出したつて、一人はすぐにやられます、傳令といふ傳令が、みんな着いた時は眞赤な血達磨󠄁でした。
 さう云つて溜め息をついてみせた。
 ――私なんかよくまああの彈に當らなかつたものだと思ひます、どう考へたつて不思議ですよ。○○○部隊󠄁○○○隊󠄁に續いて、○○○隊󠄁、○○○隊󠄁、○○○隊󠄁が來援󠄁し、夫々第一線に就き數次に亙つて襲來する敵と交戰、さしもに大軍を擁した敵の企圖を全󠄁く阻止して、遂󠄂ひに後退󠄁の已むなきに到らしめました。時に午後二時過󠄁ぎ、交戰實に八時間餘に亙つたのです。
 ――一時は陸戰隊󠄁本部でも、遂󠄂に廣中路は敵軍に突破されたものと、司令官以下既に覺悟を決められたさうです、あの時は一番心配したと、後になつて司令官もさう云はれました。
 板谷中尉は感慨深くさう語り終つて、私達の先にたつて畝を跳び越え跳び越え濘るみをよけてゆく、その後に私達も續いて次々に墓標を弔つて步きました。中尉は一つの墓標を指さして、
 ――この兼󠄁田一等水兵は、右手を敵彈に射貫かれて、銃劍を右脇にかいこんだまま、やはり突擊に加つて、ここのところでやられました。
 さういふのを引きとつて、大森君は、
 ――支那󠄁兵を一人突き刺したまま、ここに斃れてゐました。
 ――相撲の强い水兵でした。
 と竹邊兵曹もその時言葉を添󠄁へました。
 そこにはまた某少尉(名前󠄁を一寸失念)の墓標もたつてゐました。援󠄁隊󠄁を率󠄁ゐて來着したその靑年少尉は、水電路畔󠄁に飛び出して堆土に據つてゐる孤立無援󠄁の味方に機關銃彈を補給するため、自らトラックを運󠄁轉して、彈丸雨飛する中を、廣中路を突進󠄁、更󠄁に右折して水電路を敵に曝露して突進󠄁、目的󠄁地に車を乘りつけると同時に遂ひに敵彈に斃れたのださうです。車を驅つた距󠄁離は僅かに三百米突ばかりなのです。このやうな悲壯な奮戰談は枚擧に遑がありません。
   高橋二等兵曹ハ、挺身敵機關銃ニ向ツテ突進󠄁シ、之ヲ奪取シテ敵ヲ猛射中、敵彈ノタメニ斃レタリ。
  吉原一等水兵ハ、敵ヲ臺尾ニテ斃スコト數次、臺尾折レルヤ、繃帶ニテ卷キトメテ更󠄁ニ奮戰、遂ヒニ敵彈ノタメニ戰死ス。
  山田特務兵ハE陣地ニ在リシガ、○○○隊󠄁ノ進󠄁擊ヲ見ルヤ、自ラモ大華農園敵前󠄁近󠄁距󠄁離ニ進󠄁擊シ、敵ト三四十米突ニ相對峙シテ、猛烈ナル近󠄁距󠄁離戰ヲ展開シ、約󠄁七時間ノ後原陣地ニ復歸セリ。
 山田特務少尉の麾下にあつた奧山一等水兵の次の逸話は、殊にあはれ深く私の心をうちました。
  奧山一等水兵ノ如キハ、身ニ重傷ヲ被リテ垂死ノ際ニ臨ミ、戰友ニ吿ゲテ曰ク、更󠄁ニ我ヲシテ敵ニ一彈ヲ報イシメヨ、乃チ戰友ハ彼ニ一彈ヲ手渡セリ、彼ハ最後ノ力ニ之ヲ發シテ從容トシテ死ニ就ケリ。
大兵一萬餘を擧つて襲擊し來つた敵軍は、一も我陣地を突破し得ず、遂󠄂ひにその野心を抛棄して、二千に超える死傷と多大の損害󠄂を蒙り、鉾を收めて退󠄁却しました。右に略述󠄁したところが、廣中路會戰のあらましです。私の記述󠄁はごらんの如く杜撰なもので恐󠄁縮です、記憶が朧氣なために筆を省いた箇所󠄁も少くありません。他日精密な記錄の完成󠄁せんことを、終りにもう一度繰かへし希望󠄂しておきます。

 九日晴れ、前󠄁日上海に着いた改造󠄁社編󠄁輯部の水島治男氏と共に、海軍武官室に重村大尉を訪ね、丁度車が空いてゐたので、私達二人は重村さんの運󠄁轉で北四川路に出かけました。三義里小學校及󠄁びその附近󠄁の、土囊陣地と市街戰跡とを見せて貰つたのです。陸戰隊󠄁○○部隊󠄁の某大尉に案內をして貰ひました。
――どうです、こんな戰爭の模樣を一つ詳しく雜誌に書いてくれませんか。
某大尉にさう云はれて、私は意󠄁氣地もなく素直に兜を脫ぎました。
――書けません、いやとても書けません、こんなものを一々詳しく馬鹿正直に描寫をしたら、假りに私がそんな努力をするにしても、第一讀者の方で閉口するに極つてゐます。細胞󠄁か何かの顯微鏡圖を、一つ文章で現してみろ、と云はれるのと同じやうにこいつは難題ですよ。
私は今も、あの附近󠄁の戰跡風景を、假りにもここで說明󠄁しようとも、まして描寫しようとも、試みる勇氣はありません。それはせせつこましい區域の中で、敵味方の陣地が無限に複雜に錯綜してゐるのです。距󠄁離は眼と鼻󠄁の間です、時には全󠄁く壁一重のところもあります。陣地は、家屋の内部と路上と空地とに亙つて蜿蜓として連續してゐます。樣々の角度で曲りくねつてゐます。何のことだかさつぱり見當がつきません。現に交戰中も、彼我の兵士達が、雙方で、敵の陣地を味方の陣地ととり違󠄂へたといふ、滑稽な話が幾つも殘されてゐるほどです。カメラのレンズをどんなに巧みに操つても、この入組んだ複雜さを、一聯の長さや擴がりをもつものとして、捕へることは困難でせう、或は不可能かもしれません。殊に家屋の內部の、――三義里小學校の內部などは、その最も代表的󠄁なものださうです――全󠄁くラビラントそのもののやうな、猫の子でも出口に迷󠄁つてしまひさうな、八幡の藪知らずさながらの土囊陣地など、いや全󠄁くカメラの梃には合ひません。第一、どこを步くのにも懷中電燈の入要󠄁なほど、到るところが薄暗󠄁がりです。窓といふ窓には土囊がぎつしり積んであります。二階も三階も同じです。建󠄁物全󠄁體を、土囊の腸詰めとでも考へた方が、解りが早い位です。天井は弓なりに撓つてゐます。あるところでは壞れてゐます、土囊の重みに耐へられないで、――もともと頑丈な建󠄁物ですが。それらの土囊からはひよろ長い草が生えてゐました。濕氣た土の匂ひが家中を罩めてゐます。妙に冷めたい厭な空氣が、呼吸󠄁器を壓迫󠄁します。こいつはとてもやり切れたものではありません。そんな中で支那󠄁兵は二ヶ月の間も書夜をおかず戰つてゐたのです。銃眼のあるすぐ傍らに、窖のやうな寢所󠄁があります、藁の上に汚れた蒲團が敷いてあります。勿論そこは眞つ暗󠄁です、懷中電燈で照らしてみると、そんな寢所󠄁の一つに、犬ころが一匹、顫へながら睡つてゐました。武勇傳か何かの、講󠄁談本らしいものの散らかつてゐるところもあります。何といふ丹念な、頑丈な、さうして陰鬱な陣地でせう。制空權を敵に奪はれて、太陽の光のある間は、ひつきりなしに敵の飛行機が頭上に飛びかつてゐる下で、なるほどこれだけ手厚く土囊を積み上げてあれば、ひとまづ爆彈から保護されてゐるとは云ひ條、何としても、こんな中に土龍󠄁のやうに立籠つてゐるのには、考へてみると、一種獨特の勇氣を要󠄁することでせう。支那󠄁人の神經でなければ、とても我慢はなりますまい。云ひゃうもない氣持になつて、そぞろに戰慄を覺えながら、私は案內者よりもひと足先きに、その建󠄁物から出てきました。

十四日晴れ、この數日は每日アドバル―ンが上つてゐました。この日はしかもそれが二つになつてゐます。日軍肉迫󠄁蘇州、日軍佔領南翔󠄁。午後私は市政府に出かけました。途󠄁中の道󠄁路は鋪裝道󠄁路の坦々たる路です。小春日和の陽ざしの中を、上海合同新聞の若い記者達と無駄口を利きながら、ゆるゆる車を驅つて行くのは、流石にのんびりとした氣持でした。遠󠄁くに美しい村が見えます。恐󠄁らく住󠄁民はどこかへ避󠄁難した藻拔けの殼の村でせうが、かうして遠󠄁くから眺める分には、楊柳の茂つた平和な靜かな聚落とも思ひなすことが出來ました。路傍の棉畑には、棉が白く稔つてゐます、恐󠄁らく穫り收れ時はとつくに過󠄁ぎてゐるのでせう。
綠の甍と丹朱の柱󠄁をもつた市政府の建󠄁物は、いささか安手には見えましたが、聞きしにまさる厖大な建󠄁築󠄁でした。詳しくはここに說きますまい、讀者諸君もニュース映畫か何かで先刻御覽になつたことでせう。
建󠄁物の內部は、つまらぬものが少しばかり散亂してゐる外、三つの部屋が三つとも全󠄁くのがらん洞でした。この大きな壁の上に、私は次のやうな、稚拙な文字で書かれた、短い文章を讀みとりました。
○○町出身兵
義治ヨ元氣デ居ルカ
兄ハ元氣デ居ルゾ
この種の落書きは、壁といふ壁の上に無數に書き散らされてゐます。先のと少し離れたところに、私はもう一度次のやうな短い言葉を見出しました。
(義治體ヲ氣ヲツケヨ)
私達は更󠄁に車を驅つて、江灣鎭の競馬場に向ひました。そこには、殆んど破壞を蒙らない、そつくりとしたままの堅固を極めた敵の陣地が殘つてゐました。觀覽席のコンクリートのスタンドが、そのまま陣地になつてゐます。その前󠄁方に塹壕があり、鐵條網󠄁が𢌞らされてゐます。競馬場一帶の廣闊地がその前󠄁に展けてゐる譯です。丹念に土囊を積み上げた、堅固な陣地構󠄁築󠄁は、三義里小學校の場合と大同小異のものでした。陣地をやや五米突離れて落下した味方の爆彈は、恐󠄁らく陣地中の敵兵には、何の損傷も與へなかつただらうと思はれます。私はもう一度、支那󠄁兵の戰爭の仕方、陣地の作り方に呆れて舌を卷きました。

――次はある日の風呂場での二人の兵士との會話。私の泊つてゐた旅館江星館の風呂場で、ある日の夕方私は二人の兵士と一緖にお湯につかつてゐました。二人の兵士はいづれもその前󠄁日野戰病院を退󠄁院して、これから原隊󠄁に歸らうとする、負傷の癒󠄁えたばかりの若者でした。
――俺のと丁度同じところだね。
さう云つて一人が相手の創痕を調󠄁べてゐます。なるほど二人とも、耳の上の顳顬のところに、長い大きな同じやうな創痕をもつてゐます。
――どうだい痛まないかい。
――ちつとも。
――かうして觸ると、俺のは今でも少し痛むんだ、ほら、こんな固い筋が出來てる。
――隊󠄁まで歸るのに、幾日位かかるかな。
――さあ、何とか車を見つけるんだな、步いちゃたいへんだよ、二十里はあるつていふぜ。
――どこまで行つてるだらう、搜すのがたいへんだな。
――報道󠄁部へでも行つて、お訊きになつたらどうです。
私も口を插んだ。
――いや、そいつが解らないんです、さつき行つて訊いたんですが、體軀が少し弱󠄁つてゐるので、步くのが億劫ですよ。
――どこで怪我をされましたか。
――吳淞港󠄁クリークを渡つたところでやられました。私は二十三ですが、これでもう戰爭には三度も出てゐます、一度だつて彈になんざ當つたことはなかつたんですが、私の隊󠄁でも、私が一番度胸がいいつて、みんなに云はれてゐましたよ、腰󠄁なんか屈めたことはなかつたんです、そいつがたうとうやられました。
――はあ……。
――一發耳をかすつたんです、來やがつたなと思つてる間に、今度はぐわあんとやられましたよ。何が何だか皆目分らなくなりましたよ、氣が遠󠄁くなつたんですね、暫らく倒れてゐました。今度氣がついた時は、頭がやけに痛いんです。思はず聲をたてました、やられたつ……と怒鳴つたんです。するとすぐに、看護兵が一人、ようしつ……て飛んできました。そしてすぐに頭に繃帶をしてくれました。彈の來るところへは看護兵が來てくれないなんて、そんなことはありませんね。大丈夫だ、しつかりしろ、さう云つてゐるのが、やつとはつきり分りました。と、今度はその看護兵がやられました、卽死です、額をやられたんです、ばつたりそこへ殪れました、もうそれきりです。私は思はず屍骸にとりついて、男泣きに泣きました。暫くそこで泣いてゐました。この男は、俺のために死んでくれたんだ、さう思つたら、淚がとめどなく流れました。あんな悲しいことは、いや、とてもお話なんか出來ません。
さう云つてひと息息をついてから、話はまた續きました、
――その前󠄁から、私はひどく體軀が衰弱󠄁してゐました、とてもその看護兵を擔いで歸るつたつて、頭をやられてゐるのでそんな譯にゆきません、掌を合して拜みましたよ、そして屍體を置き去りにして、いつまでもさうしてゐてもつまらないので、クリークを游いで私は後方にさがりました。疵口よりも、體軀が衰弱󠄁してゐるので、病院でも暇がかかりました。
――おい、こんな疵は後腐れが惡いな、貫通󠄁銃創なんかと違󠄂つて。君はどうだい、俺は時々、今でもどうかすると、頭がふらついて氣が遠󠄁くなるぜ。
――いや、俺もさうだ、腦味噌がそつくりもとへ戾らないんだらうよ、こんなことで、頓󠄁馬に見られるのは厭だな、隊󠄁へ歸つても、そいつだけは氣になるよ、俺は。
先の私の話相手は、もう一度私の方にふり向いて、話しつづけました。
――ひどく痛いものですよ、鐵兜に彈が命るつてやつは、痛いものですよ、尤も鐵兜がなけれや、とても助かりつこはありません、こいつへ來て、妙なものですね、彈は骨を傳つて、こいつへ拔けました、後で鐵兜を見たら、入つた方の孔は、小指の頭ほどでした、それだのに後ろの拔けた方の孔は、こんなに大きくあいてゐました、妙なものですね。
さう云つて、私の話相手は、一錢銅貨󠄁大の大きさを、指で作つてみせました。
二人の兵士達は、病院の人らしい蒼白い顏色はしてゐましたが、私の話相手も、それからもう一人の殆んど默つてゐた若者も、いづれも快活さうに見えました。一度傷ついた前󠄁線へ、もう一度原隊󠄁を尋󠄁ねて歸つてゆく、その出發を前󠄁にして、彼らは平然としてゐました。私は何よりもこの二人の從容とした勇氣の前󠄁に、深い敬意󠄁を覺えました。

――君はあちらにゐて何か詩を書いたか。
私は歸來、いろんな友人からさう云つて質問されます。
――いや、書けなかつた、とても書く氣持にはなれなかつた。感傷的󠄁になつたり、詠嘆的󠄁な氣持になつたりするのは、厭だつたから、恥かしかつたから、詩なんかとても書けなかつた、――少くとも僕のやうな者には、書けないよ、書きたいとも思はなかつたよ、また。私はいつもさう答へてゐます。(十二月十五日記)

 

 

 

 三好達治「半宵雜記」『全集9』(S40.4刊)

「霖雨泥濘」

 吳淞沖に新に○○が到着した――といふやうな風評󠄁を耳にしたのは、慥か大場鎭陷落の直後であつたやうに記憶する。その後その大部隊󠄁がどこに上陸したものやら、どの方面に進󠄁軍したものやら、いつかう消󠄁息もなくとより推測のよすがもないままに、そんなことを聞いたことまでつい忘󠄁れるともなく忘󠄁れ去らうとしてゐた頃、十日ばかりもたつた六日正午、突如として杭州灣上陸の飛報に接した。流石に耳の早い當地の新聞記者達も、アドバルーンに揭げられた空中文字を見て初めて晴天に霹靂を聞く思ひをした模樣であつた。その後戰局の推移進󠄁展は複雜急󠄁速󠄁を極め、軍報道󠄁部の當事者達もいささか面喰つて啞然たる樣子に見うけられた。元氣のいい前󠄁線ボーイ達も喫󠄁茶店でお茶でものんでゐるより外はなかつたのである。私のやうな何の組織的󠄁な用意󠄁も準備ももたない者は、さしづめ暫く形勢の定まるまで袖手傍觀するより外に手だてのなかつたのはいふまでない。便宜の車を得てこの間に近󠄁周󠄀りの戰跡でも訪問したい氣持はあつたが、さて私の希望󠄂を迎󠄁へてくれるほどの呑氣な親切者は時節柄󠄁見當る譯がない。やつと車を探しあてると雨が降る、翌󠄁日はもう駄目である。
 八日に改造󠄁社の水島治男君を碼頭に迎󠄁へ、九日には重村大尉の案內で三義里小學校、商學院方面まで水島君と同行、十四日――この日は初めて夕刊を休むといふので事變以來漸く半日の閑暇に惠まれて御機嫌󠄁だつた記者諸君と共に、合同新聞社の車を驅つて市政府江灣鎭競馬場を一周󠄀りした位の外、(――それらの記事は後に機會を得て書き添󠄁へよう、)私はこの前󠄁後十日ばかりの間激しい刺激の中でただ荏苒と日を送󠄁つてゐたのである。私は當初から目論見として、出來るだけ多くの機會に出來るだけ多くの支那󠄁人に接してみたい積りであつたが、現下のやうな情󠄁勢でこんな風に限られた地域內に閉ぢこめられてゐたのでは、到底その希望󠄂も果されさうな見込󠄁みはない。今後戰線は益々遠󠄁くなるだらう、私は一寸途󠄁方に暮れざるを得ない、考へてみるとどうにも自分が無用の人物のやうに思はれて心細いのである。
 十七日夜合同新聞の藤󠄁田氏から電話があり、明󠄁朝󠄁○○が金山まで行くさうだから、便乘の手續をとつては如何といふ報を得た。早速󠄁重村大尉を豐陽館に訪ふ、不在。
 十八日早朝󠄁重村さんから電話、內火艇󠄁は○時出發の豫定だから虹口碼頭に行き給へ、それではその內火艇󠄁はいつ頃こちらへ引かへすでせうか、さあはつきりは解りませんが今晚か明󠄁日は歸るでせう、といふやうな譯で早速󠄁出發。昨夜から準備をしておいたリュックに握り飯を詰めこんで、朝󠄁飯の出來るのは待つてゐられないので(どうも困つた旅館である、)そのまま宿を出る。
 暫くぶりで旗艦○○の甲板に立つて煙草をふかしてゐるうちに汽艇󠄁の準備が整ひ九時出發、同盟󠄁記者二名同乘。○○○二を備へ、要󠄁所󠄁に鐵板をかこつたやや大型の汽艇󠄁である。曇天、微雨。
 ――金山まで幾時間位かかるでせう。
 ――七時間ほどかかるかもしれません。
 ――この船󠄁は○○位は出ますかね。
 ――そんなには出ませんよ。
 黃浦江の流速󠄁はどれほどだらうか、それは迂濶にも聞き洩したが一見したところ隅田川などとは比較󠄁にもならない水勢である。金山までの距󠄁離は、私の杜撰な地圖では測定すべくもないが、思ふに二十里を越えるであらう。
 ガ―デン・ブリッヂを過󠄁ぎ、英米佛その他の派遣󠄁艦隊󠄁の相錯綜して碇泊してゐる傍を走り過󠄁ぎる頃から、兩岸の風景は私の眼には甚だもの珍らしいものとなつた。左舷の浦東側には、戰禍のために燒け落ちた工場が草も萠えない空地と交替にどこまでも遠󠄁く續いてゐる。右舷の方には、繁華な舊英租界を過󠄁ぎ靜かな佛租界の裏街らしい區域を過󠄁ぎると、そこにもまた全󠄁く廢墟と化󠄁した南市の燒跡が、それでもなほ昔日の面影をその僅かな殘骸の間に留めてゐることによつて一層荒󠄁涼とした趣きを呈󠄁しつつ、私の想像してゐたよりは遙かに廣い區域に亙つて擴がつてゐる。天に冲する勢を失つてただ大きく低く渦卷いてゐる火災の煙が、南市陷落の後一週󠄁間を經たこの日もまだ河岸に近󠄁い燒け殘つた街衢の屋根越しに眺められた。人影は見當らない。壁の上には砲󠄁彈の痕、銃丸の痕。
 土囊陣地らしい跡散見する。
 やがて市街が盡きて、水泥公󠄁司(製氷所󠄁)の奇妙な建󠄁物が見えたあたりから、眺望󠄂は一轉して平和な郊外風景となり、やがて再轉して草木の靑々とした閑かな田園風景となつた。浦東寄りには舟荷を積まない空の戎克が陸續と聯なつてゐる、親父󠄁が櫓を操り、伜が早緖にぶら下るやうにして力を協せて漕いでゆく胴間のあたりに、お內儀さんらしい――女と思へば女と見える胡亂な姿󠄁が蠢めいてゐる、奇異な可憐な生活風景が次々に眼にとまる。舷の外に銅金色のゐしきをつき出して用を足しながら、顏だけは後ろ向きにこちらを見てゐる呑氣者も見つかるのである。彼らの生活ぶりは、私の眼には、甚だ落ちつき拂つたものに見えた、戰爭などはどこ吹く風といつた樣子である。反對側の右岸には、靑々と蘆荻の茂つた間に、頗る大仕掛けな見事な四手網󠄁が、守る人もなしに空しく空に揚つてゐる。それが一町おき二町おき位の間隔に續いてゐるのである。漁家らしいものも見當らない。どうしたのであらう、一寸うら寂しい眺めである。戰禍はこのあたりまで波響を及󠄁ぼしたのであらうか。それらの四手網󠄁は一つの例外もなしに悉く休業狀態であつた、或は潮󠄀時の加減にでも因るのであらうか。羽裏の白い鴫の群れが、時たま水面を掠めて行く。
 微雨をいとつて、私は船󠄁室に入つた。
 正午過󠄁ぎ、舟は半囘轉して左岸のささやかな棧橋に泊つた。あたりは一面の耕地である。耕地の間に路が一筋棧橋まで續いてゐる。さうしてそこに、棧橋の畔󠄁りに一棟の農家らしい(或は舟待場でもあらうか)建󠄁物があるきりである。その建󠄁物の一と區切りになつた內部、物置らしいがらん洞の中には貧󠄁しい服󠄁裝をした支那󠄁人が二人、頗る緩󠄁慢な動作で何かを掃󠄁き寄せてゐるやうな仕事をしてゐた。彼らは水兵さんの姿󠄁を見かけても、いつかう動ずる氣色はなかつた。そのあたりの野茶畑には靑々と野菜が茂つてゐる、頗るのんびりとした雰󠄁圍氣である。私は美しい竹林を眺めながら、久しぶりに暫く心の寛󠄁ぐのを覺えた。こんな田舍を一日ぶらぶらと步き廻ることが出來たなら、――そんな空想に耽りつつ。
 晝食をすまして、私達は再び出發した。兩岸の風光は行く行く私の眼を喜ばしたが、昨夜の睡眠不足のせゐでたうとう私は疲こんでしまつた。
 三時半󠄁金山着。
 ――この舟はいつ上海へ還󠄁りますか。
 ――一週󠄁間位はここで勤務をします。
 ――その間に上海の方へ還󠄁る舟はありませんか。
 ――さあ、解りません。
 ――明󠄁日か明󠄁後日還󠄁る舟はないでせうか。
 ――解りませんが、ないでせう。
 私は一寸當惑した。携行した食料の乏しいのは兔󠄀も角として、期󠄁日のある原稿を東京まで屆ける手だてがなささうである、どこかで原稿は書くとしても。そのどこかといふのが、どんなところに辿りつけるものかまるで見當がつかないのである。
 汽艇󠄁の着いたところは、鐵橋の袂であつた。私はまづ堤を斜めに登つて、鐵橋の上に出てみた。型の如く、橋梁には監視兵が立つてゐて、軍隊󠄁は陸續とその南北に續いてゐる。同盟󠄁の記者達は、大きなリックを背負ひこんで、橋を渡らないでとつとと南へ行つてしまつた。
 嘉善までのさう。
 そんなことを云つてるたから、そちらが嘉善の方角であらう。それは兔󠄀も角として、私の地圖では、金山の街は黃浦江の北岸に位してゐる。ところが見渡したところ、そちらの方角には廣漠とした平野が無限に擴がつてゐるきりで、到底市街などのありさうな氣配はない。今しも重砲󠄁の段列が、そちらから橋へ向つて進󠄁んでくる。橋の南の袂には、ささやかな公󠄁園らしいものがあつて、黃白の菊花󠄁が雨にうたれてゐる中に、紀念碑が宜しき配置に立つてゐる。けれどもその公󠄁園の周󠄀りもまた、黃色く稔つた水田が續いてゐるきりで、何のためにそんなところにそんな公󠄁園があるのか一寸解せない鹽梅である。ただその向ふに霞を帶びてこんもりと繁つた木立がある、金山の街はさしづめその森の木蔭になければならない筈である。私はもはや私の地圖に賴らうとは思はなかつた。(こんな亂暴な地圖を箆棒な値段で賣りつけてゐる上海の商人達にも困つたものである――)
 しかし私はひとまづ橋を渡つてみた。橋の上手には御用船󠄁が幾隻か碇を下ろして泊つてゐる。甲板には人夫の姿󠄁、苦力の姿󠄁が動いてゐる。さうしてその向ふのどことも知れない遠󠄁方から微かな重砲󠄁の響きが水面を傳つて聞えてきた。もはや上海では全󠄁く砲󠄁聲を聞かなくなつて一週󠄁間ばかりもたつのである。だから私の耳には、その砲󠄁聲は一種ノスタルヂックな奇妙な感情󠄁を伴󠄁ふものとして聞えたのである。
 砲󠄁兵隊󠄁の段列はすぐ眼の前󠄁に逼つて來た。鞍馬に跨がつた兵士達は、鞭を左右に使󠄁ひ分けて、しきりに馬を鞭うつてゐる。その馬をひと眼見て、私は思はず息をのんだ。○○○○○ゐるのである。私は○○○○馬を見たことがない。(以下八行略。)
 段列は後方にぎつしりとつかへてゐる。やがてそこから兵士達が驅け出してきて二十人ばかりで砲󠄁車の後押しをすることになつた。
 漸く砲󠄁車は泥を出て、その前󠄁の橋梁にかかる傾斜を一氣に驅け上つた。
 するとまた次の車が、同じところで同じやうに澁滯するのである。何といふ困難な行軍であらう。數日、十數日、果しもない霖雨が降り續いてゐる。晝間の晴れた日は夜に、夜の晴れた日は晝の間、さうしてある日は終日ひと時の休みもなしに、じめじめとした霖雨と激しい豪雨が降り續いてゐる。もともと土質の軟弱󠄁な路面は、間斷なしに通󠄁過󠄁する輕重車輛のため捏ねかへされて、全󠄁く足の踏み場もない、言語道󠄁斷の惡路と化󠄁してゐるのである。この惡路の模樣は、既に讀者諸君も、恐󠄁らくニュ―ス映畫などで、その一斑を御覽になつたことであらう。ただあの、脛を沒する泥濘が、ここでは幾十里も續いてゐるのである。誇張ではない、路といふ路が悉くあの泥濘である。さうして兵士も馬匹も映畫では一分間と續かないあの狀態の中に終日、數日、十數日、難行軍を續けてゐるのである。
 ――戰線までは、まだあとどれ位あるでせう。
 土地不案內な私に向つて、兵士達はまたしてもさういふ質問をもちかけるのである。
 果して金山の街は、先ほどの森蔭の、クリ―クに圍まれた一劃にあつた。クリ―クには石階をもつた太鼓橋が架つてゐる。橋の手摺には、石像の高麗狗などの裝飾󠄁がついてゐるのである。その下を折から水嵩を增して濁水が、可なりの速󠄁度で流れてゐる。戎克に發動機をとりつけたポンポン船󠄁や工兵隊󠄁の鐵舟が、橋の下を潛つて行く、すべて糧食を運󠄁んでゐるのである。
 市街は殆んど兵燹のために燒き拂はれて、見る影もなく破壞されてゐる、滿足な建󠄁物は殆んど見當らないといつてもいい。○○○○はどこであらう、宿舍の工面をしなければなるまい、そんなことを考へつつ、私はただ目あてもなく、むせつぽい臭氣にむせびながら、焦土の間を步いて行つた。
 と、それだけ殘つた土壁の上に、大阪每日の社旗が一本立つてゐる。見ると、その奧まつた向ふの方に廣い建󠄁物がある。さうしてその土間の机の前󠄁に、陽に燒けた眼光の銳い人物が一人こちらを向いて腰󠄁かけてゐる。記者であらう。更󠄁に見ると、その土間の一隅で、レシ―バ―を耳にあてて、前󠄁こごみに無電の器械をいぢくつてゐる、技師らしい人物の姿󠄁も見えた。乃ち私は案內を乞うた。
 ――一寸休ませて下さい。
 私は刺を通󠄁じて、來意󠄁を吿げた。さうして私はたうとうここで二晚泊めて貰ふことになつたのである。
 この建󠄁物は一寸得態の知れないものであつた。一見寺院のやうではあるが、土間になつた大廣間――堂宇の正面には、須彌壇めいたものがあつて、その上には阿彌陀樣でも安置さるべき筈のところに、眼眦の吊り上つた極めて怪異な容貌の肩󠄁を張つた逞ましい神像が――お相撲さんの三倍ほどもある大きな神像が置かれてゐるのである。その神像はそれ自體まつ黑に煤ぼけてゐる上にあたりは晝間でもものの見分けのつかない薄暗󠄁い構󠄁造󠄁になつてゐるので、さうしてその神像があるきりで外には脇侍らしいものも裝飾󠄁らしいものも何も見當らないので、その怪神の爛々たる眼光が私の眼には恐󠄁ろしいといふよりはいささか滑稽に見えた外、つひに一向要󠄁領を得なかつた。見上げるばかりの高い天井には楣間に扁額が揭げられてゐる。神明󠄁如電、幽讚神明󠄁、そんな文字があまり上出來でもない筆勢で大書された傍らに里人何某敬書と細書されてゐる。堂宇の前󠄁の廣庭󠄁には、軒端に當つて鼎のやうな香爐があつて、瓦を敷いた小路がそこからまつ直ぐに恐󠄁らく正門に通󠄁じてゐたのであらう、その正門は全󠄁く崩󠄁れ落ちてそのあたりはただ纍々たる煉瓦の山となつてゐる。この堂宇は、さういふ風な神殿であると同時に、それはまた養󠄁老院を兼󠄁ねてゐたもののやうである。堂宇の傍らにとりつけられた居室――といつてもただ三方を白壁でとり圍んで一方を硝󠄁子戶にした極めて簡單な居室の、その出入口のところには金山縣救濟院養󠄁老所󠄁などと書かれてゐる。さういへば廣庭󠄁の傍らに長屋めいた建󠄁物のあるその軒端にも、一劃ごとに臥室、厨房󠄁、統理等々の文字の見られるものも、恐󠄁らく養󠄁老院の設備に附屬するものに違󠄂ひない。その長屋にも、それから例の怪神の傍らのまつ暗󠄁な堂宇の隅つこにも、餘ほど後になつて私はやつと氣づいたのであるが、古稀を越えて背中のかがまつた老人が二人、新聞記者諸君とは全󠄁く無關係に、勿論甚だ控へ目に、あるかなしかの彼らの生活を續けてゐるのである。遲れたのであらう、或は身を寄せるべき緣邊の者もない老人のこととて逃󠄂げ出さうともしなかつたのであらう、後になつて聞いてみると、彼らは二人とも金挺聾ださうである、或は戰爭のもの音󠄁も知らずに寢こんでゐたのかもしれない。
 ここの記者諸君は、この老人とは別に、四人の苦力を伴󠄁れてゐる。洗掃󠄁や焚火や食事の世話は槪ねこの苦力達がやつてゐるのである。さうして宿舍の移動する時に、寢具󠄁やその他の器具󠄁を擔いでゆくのも彼らである。彼らは左の腕に、簡單な腕章をつけてゐる、兵站部か憲󠄁兵隊󠄁から貰つたものであらう。日給は五十錢、ここでは六十錢を支給してゐるとか。
 夕暮れどこからか記者が二人歸つてきた。さうして南京袋から鷄を一羽とりだした。彼らはまた兵站部へ配給品を貰ひに出かけた。白米、玉葱、林檎、ゴ―ルデン・バット、飴玉、そんなものを貰つてきた樣子であつた。間もなく夕食の準備が始つた。急󠄁造󠄁の竈で焚火がもされ、クリ―クの水で米がとがれ、椅子が俎になるといつた鹽梅である。
 細雨の中を私はその間一周󠄀り街を步いてきた。街はすべて、燒け落ちた煉瓦の山であつた。僅かに燒け殘つた家屋には、軍隊󠄁が宿營してゐた。どこでも夕食の準備が始つてゐる。苦力がせつせと水を運󠄁んでゐる、薪を割󠄀つてゐる、兵隊󠄁さんが飯盒をさげて往󠄁來してゐる。
 私は路上で、長衣を纏つた一人の支那󠄁人に行きあつた。彼は兵隊󠄁さんのやり方で私に向つて急󠄁いで學手の禮をした、さうして笑顏をつくつた。胸間には旌の形の小さな徽章をつけてゐる、――後になつてそれには次のやうな文字が記されてゐるのを私は知つた、「金山維持復業會委員」。
 私はまた、宿の前󠄁の物置小屋に行つてみた。それはクリ―クの流れに臨んだ、假小屋のやうな小さな木造󠄁の建󠄁物だつた。そこには携行用の小型の濾水器が据ゑつけられてゐた。クリ―クの水をホースで吸󠄁上げる仕組みになつてゐるのである。梃子になつてゐる把手(とって)を左右に動かすと、濾水器を透󠄁つた水が一方のホ―スの先から滾々と迸り出るといふ極めて便利な器具󠄁である。水は直ちに飮用に耐へるほどの完全󠄁な淸水である。私は暫らく兵隊󠄁さん達にたち交つてその把手を操つてみた、井戶にとりつけた吸󠄁上ポンプと相似た要󠄁領のものである。ふと私は足もとの濁水を眺めてゐると、折から淺葱の短衣を着た、うつ伏しになつた大きな○○が一つ、すぐ眼の先をゆつくりと流れていつた。
 夕食はたいへん美味に出來てゐた。その出來榮えは、江星館(私の旅館)の食膳よりは遙かに上出來のものであつた。四人の苦力達は、まづいづれも巧者な働き者と稱してよささうである。私達は彼らに煙草と林檎と飴玉とを分け與へた、(一度にやつたのではない。)さうして雞の骨所󠄁謂雞肋もまた彼らの所󠄁得となつたのである。彼らは例の「厨房󠄁」に下つて彼らの食事をすましたやうな鹽梅であつた。さうして二人の老人は、そのまた彼らのお剩りの、釜󠄀底の焦げ飯を齧つてゐるやうな風であつた。
 私達は終日土間に焚火を焚いてゐた。私達がそこを離れると四人の苦力達は、すぐに焚火の周󠄀りの臥椅子や長椅子を占領して、私達より遙かに高い聲で彼らの雜談を始めるのである。農夫といふものは大きな聲で話をするものである。彼らは近󠄁在の農夫に違󠄂ひない。彼らの一人は、昨今の穫り收れ時に彼がかうしてゐたのでは家には人手がないからどうか一つ何とかして還󠄁して貰ひたい、といふやうな希望󠄂を申出たさうである。還󠄁るといつたつて、一人で還󠄁れるものか、途󠄁中の道󠄁を考へてみろ、さう云はれて流石に彼も納󠄁得はしたさうである。
 やがて私達は食後の雜談もそこそこに切り上げて寢室に入つた。寢室といふのは、「金山縣救濟院養󠄁老所󠄁」なる一室である。土間に乾いた藁を敷いて毛布を擴げた上にごろ臥をするのである。私は脚絆を解いて、靴󠄁を脫いだ。さうしてリュックを枕にした。足もとのところには急󠄁造󠄁の圍爐裏に焚火が燃えてゐる、だから部屋はたいへん煙つたいのである。
 無電の靑年技師は、それからなほ暫くの間、かちかちと一人で發信器を敲いてゐた。苦力達は焚火の周󠄀りで彼らの放談を始めてゐる。水煙管の泡󠄁ぶくの音󠄁、喘息持ちの老人のしつきりなしに咳きこむ聲。どこかで犬が吠えてゐる。折から風も加はつて、雨はやみさうな氣色もない。
 二つを殘して、洋燈はみんな消󠄁されてしまつた。無電の音󠄁もやんだ。南京蟲が出始めた。夜が更󠄁ける。時の移るに從つて、流石に不氣味でなくもない。戶口の扉󠄁が風に動く。いつの間にか忍󠄁びこんでゐた野良猫が、つと枕もとを走りすぎる。誰かが首をもたげる。
 ――野郞!
 うまく寢つけるかどうか、さて困つたことだと思つてゐる間に、やがて私はうとうとと寢ついてしまつた、もしも敗殘兵の一群が……クリ―クを渡つて.....街角を曲つて……足音󠄁を忍󠄁ばして... ...などとつまらぬ空想に怯えながら。
 十九日、この日も終日雨が降つた。
 朝󠄁食の後、鵜殿君外一名の記者は苦力を從へて食糧を求めに出かけた。私は早川君に伴󠄁はれて○○○○を訪問、壁いつぱいに大きな地圖を揭げた階下の部屋では、下士官が數名書きものをしてるた、記者接見の當路者將校は不在。私は○○○の在否も問はなかつた、敢て會談を乞ふつもりはなかつたからである。○○を出て朝󠄁日新聞社の宿舍を訪ふ。「中央旅社」の招牌を揭げた二階家の旅籠である。記者諸君は火鉢を圍んで閑談に耽つてゐるところであつた。跣足で腕まくりをしたコックが一人、顏を汗ばまして食事の準備をしてゐる。物置きから引き出した支那󠄁服󠄁を――色とりどりの長衣を纏つた記者諸君の間には、十歲ばかりの少女と八歲ばかりの少年と、二人の子供が彼らの膝の上に抱󠄁きあげられて配給品の飴玉などしやぶりながら、嬉々としてふざけてゐる、彼らに支那󠄁語を敎へ、彼らから日本語を敎はつてゐるのである。
 ――お菓子、着物、頭、
 ――オカシ、キモノ、アタマ、
 ――小父󠄁さん、
 ――オヂサン、
 等々。さうしてアタマがオタマになつたり、着物がお菓子になつたりする、そんなことで他愛もなく笑ひ合つてゐるのである。誰かが支那󠄁語で、お前󠄁には姉さんがあるか、といふやうなことを尋󠄁ねる、お母さんは幾つだね、そんなことを尋󠄁ねる。
 私は早川君と別れて、序でに同盟󠄁の宿舍を訪ねてみた。ここでは麻󠄁雀が始つてゐた。嘉善までのした筈の、昨日私と同行した二人の記者もその仲間だつた。
 ――この雨ぢゃ、一日ぐらゐ休ませて貰はなくちや、ね、まあお掛けなさい。私は雨に濡れて、もう一度毀れた町を一周󠄀り步いてみた。東林禪寺、仁存初級󠄁小學、縣立醫院、それらの建󠄁物も悉く軍用に充てられてゐた。住󠄁民の影は全󠄁く見當らないのである。
 拳󠄁銃と軍刀とを護身用に携へて行つた食糧掛りは、豚の腿を二本苦力に擔がせて歸つてきた。その苦力は豚殺しをしてゐた男ださうである。
 ――流石に手際は鮮やかなものさ。
 鵜殿君はさういつて感心しながら、拳󠄁銃をあらためてサックに納󠄁めた。
 ――一發ぢやなかなか死ななかつたよ。
 畫食の後、私達は爲すこともなく雜談に時を移した。水路に便宜がないとすると、私はどうして歸つたものだらう、同盟󠄁も朝󠄁日も定期󠄁の車はないといふ。お天氣になつたら、連絡員がくるかもしれない、さうしたら知らせて上げませう、さう親切に云はれた上は、私はもうただ神妙に待つてゐるより外はなかつた。雨、雨、雨、雨は小止みもなく降つてゐる。飛行機は低く飛んでゐる、殘敵搜索のために、數十米突の低空を繰かへし旋囘してゐるのである。三十分餘りも、それは一つところを旋囘してゐた。敗殘兵は到るところに散らばつてゐる、服󠄁裝をかへて良民の間にまぎれこみ、村落といふ村落、林や叢にも彼らは潛伏してゐるのである。所󠄁謂便衣隊󠄁である。だから私のやうな一人者は、迂濶に道󠄁も步けない、彼らの好餌となるのが如何にも殘念なばかりでない、私自身何しろ奇妙な服󠄁裝をしてゐることとて彼らの一人と取り違󠄂へられる惧れが充分にあるのである。嘉善まで四里ばかりの道󠄁を出かけてみることすら、私にとつては不可能に近󠄁かつた。
 ――夕方私は良民保護のために設けられた假收容所󠄁に出かけてみた。漸く憲󠄁兵の許可を得て、その建󠄁物の中庭󠄁に入つてみると、廊下にうろついてゐた男達が、愛嬌のある――媚を含んだ眼つきに微笑を湛へて、早速󠄁私の周󠄀りに集つてきた。先ほど中央旅社で朝󠄁日の記者と戲れてゐた少女は、數人の子供達と共に、廊下の隅に置かれた机の周󠄀りに集つて、水煙草に火を點ずるための一尺ばかりの藁紙の棒――紙縒りのやうなものを作つてゐたのが、私と眼があふと、手では仕事を續けながら、何ごとか聲高に口走つて顏いつぱいに笑つてみせた。屋內の雰󠄁圍氣は、私の豫想したほど陰鬱なものではなかつた。そこにゐた人々は、勿論私達を迎󠄁へるごとに、ことごとに鞠躬如たる態度を示さうと力めてゐるやうな風ではあつたが、それにしても彼らは如何にも氣輕に、彼らの置かれた境遇󠄁に順應して、彼らの運󠄁命をうけ容れてさうしてゐるやうな風に見えた。私は彼らの押匿した、蔭にかくした氣持ちを讀みとらうと心懸けながらも、私の豫想したほどの心理の翳りを、つひに彼らの擧止からは汲みとることが出來なかつた。華語を解しない私のことだから、すべて觀察はただ眼を以て見た皮相な上べのものではあつたが。
 私は鉛󠄁筆をとつて筆談を始めた。
 ――我、中華ノ言語ヲ解セズ、然レドモ我ハ嘗テ漢文ヲ學ブ、今貴君等ト與二筆談ヲ試ミント欲ス。
 ――我ハ軍人ニ非ズ、我ハ新聞記者ナリ、我ハ文學者ナリ、我ハ貴君等ノ生活ヲ見ント欲シテ遠󠄁ク金山市ニ來ル、怖ルル勿レ。
 私の出まかせの文章は、だいたい意󠄁味が通󠄁じたやうであつた。彼らは私の左右に詰め寄せてきて、不自由な文章を綴つてゐる私の肩󠄁越しに、私の文字を一字を書くに從つてせき立てるやうに音󠄁讀した。
 ――名片。
彼らの一人が、さう書いて私の顏を窺つた、片手を差出してゐるのである。私はかくしから名刺をとり出して彼に與へた。忽ちそこに居合せた十數名がそれに做つて私の名刺を請󠄁求した。奧まつた暗󠄁い部屋から、赤ん坊を胸に抱󠄁いて現れたお內儀さんも、やはり片手を差出した。
 ――貴君ハ新潟縣人ナルカ。
 何を思つたものか、そんなことを私に尋󠄁ねる男がゐた。
 ――否、我ハ東京人ナリ。
 すると一人の男が、よく見ろ名刺に書いてあるぢゃないか、といはぬばかりの仕草をして、その男を嗜めた。質問者はてれ臭さうにうなづいた。
 ――金山市ノ產業如何、人口幾何?
 ――中々。
 私は重ねて質問した、
 ――中々トハ農業ナリヤ?
 ――然リ、然リ。
 人口といふ文字は、終ひに彼らに通󠄁じなかつた。私は一人の男をつかまへて質問した、
 ――貴君ノ職業如何?
 ――小生意󠄁。
 小生意󠄁とは小賣商人露店商人といふほどの意󠄁味なのを、たまたま私は知つてゐた。私はまた他の一人に、同じ質問を繰かへした。
 ――收租更󠄁。
 ――收租吏󠄁ハ卽チ官吏󠄁ナリヤ?
 この二度目の質問は、彼のために甚だ意󠄁外であつたらしい、彼は何か口籠ると共に、氣の毒なほどどぎまぎとして、あわてて次の文字を記した。
 ――市民。
 さうしてその文字を指先で押へて、もどかしさうに喋べりながら、私の顏を覗きこんだ。私は合點合點をしてみせながら、
 ――我モ亦市民ナリ、畏ルル勿レ。
 さう記して、先の文字を鉛󠄁筆の先で塗抹して見せた。彼は漸く口を緘した。
 ――戰爭ハ今年中二終了スルヤ、貴君ノ意󠄁見ヲ聞キタシ。
 さういふ質問に接して、私は躊躇なく次のやうに答へた。
 ――南京既ニ遷󠄁都ス、華軍連日敗退󠄁、戰爭ハ必ズ今年中に終熄スベシ、和平ハ將ニ來ラントス、諸君ハ宜シク日軍ノ善政ニ期󠄁待スベシ。
 書き終つてどうもこのやうな紋󠄁切型の挨拶では、彼らとしてはもの足りないに違󠄂ひあるまい、さうは思つたが、それ以上私には詳細な文章は書けなかつた。
 ――文字ト文章ト共ニ甚ダ拙劣。
 私は途󠄁方に暮れてそんなことを書き添󠄁へた。すると彼らの一人は、遮󠄁ぎるやうに私の鉛󠄁筆を奪ひとつて、如才なくも次のやうに應酬した。
 ――文章巧好、辭意󠄁明󠄁晰。通󠄁曉了。
 さうして、さう心配するに及󠄁びませんといふ顏つきをした。
 私達は握手を交した。彼はまた、兵變以來我等金山の市民は軍隊󠄁の奪掠と、重稅の賦課に甚だ困窮してゐた、我等は大いに日軍の來着を歡迎󠄁する者である、といふやうなことを書いた。またある一人は、
 ――家屋燒了
 とただ簡單に憐れな文字を記した。
 ――憐ムベシ同情󠄁ス。私は例によつて、甚だ大雜把な答へをしながら、私の相手の軟かな冷めたい手をとつた、私達は力をこめて握手をした。私の周󠄀りには、幼兒を胸に抱󠄁きかかへた女達が四五人も集つてゐた。彼女達も、先ほどからの筆談を傍から覗きこんでゐたのである。私はその幼兒達の年齡を尋󠄁ね、男兒ナリヤ女兒ナリヤ、などとさほど意󠄁味もないつまらぬ質問を繰かへした。女達は一々私の問ひに答へた。
 ――君等ハ何ヲ欲スルヤ?
 ――糖菓。
 これは意󠄁外な答へであつた。さうして私は折惡しく飴玉一つ嚢中に貯へてゐなかつた。私は安煙草のルビイ・クヰ―ンをとり出して、男達と分け合つて一服󠄁した後、あわただしい薄暮の中で再び會ふ日もなく彼らと別れた。窖倉のやうに眞暗󠄁な廊下の奧の一部屋には、石疊の上にアンペラを敷いて、子供や娘や老人が、數十人名跼まつてゐた。今しも憲󠄁兵が一人、彼らのために食物を運󠄁んできたところであつた。その建󠄁物の入口に近󠄁い一室では、例の復業會委員の徽章をつけた役員達が、額を集めて熱心に果しもない立話しをしてゐた。
 その夜九時頃になつて、ニュ―ス映畫班の神原政雄さん始め三人の前󠄁線記者が、リヤカ―を飛ばして、泥んこになつて私達の宿舍に歸つてきた。今朝󠄁九時頃嘉興が完全󠄁に陷落した、宿舍を前󠄁進󠄁させなければならない、それにつけて、リヤカ―や乘用車ではものの用に立ちさうもない、何しろひどい道󠄁だから、上海の支局へトラックを買ひ入れるやうに云つてやらう、トラックでなくちゃとても杭州までは行けないぜ、この二三日は、戰況に變化󠄁があるまい、今の間に準備を整へよう、――さういふ相談で夜が更󠄁けた。
 二十日早朝󠄁、用意󠄁のビイックを引出して、昨夜のリヤカ―と共に、私も交へて一行六名、霖雨の中を上海に引かへすことになつた。
 八時過󠄁ぎ出發、上海まで約󠄁二十四五里の道󠄁のりである。いくら暇どつたところで夕方まではかかるまい、上海に着いた上で久しぶりにすき燒でも食はうといふので、大膽にも私達は握り飯の用意󠄁もしなかつたのである。ところが事實は豫想に反して、松󠄁江まで僅か四里半ばかりの道󠄁のりを走破するのに、たうとう十二時間餘りを費してしまつた。
 車は出發後半みちばかりのところで、泥濘に車輪を沒してしまつた。それが第一囘だつた。その時は金山までリヤカ―のみを引かへして、古板や丸太ん棒を取寄せ、折よく通󠄁り合せた衞生隊󠄁の兵士達二十名ばかりの協力を得て、どうにか車體を引出したが、車はその上半丁とは無事に走りつづけることが出來なかつた。惡路の中にも、殊に甚だしい難所󠄁がある。さういふところに差しかかると、東道󠄁役のリヤカ―の注󠄁意󠄁によつて、私達は直ちに車を捨󠄁て、路傍の水田に下りて、稻塚の稻束――穫り收れて束ねたばかりの新しい稻束をふんだんに路面に敷き、要󠄁所󠄁に古板を渡して、さうして、車に速󠄁力をつけて一氣に難所󠄁を切り拔けるといふやり方をとるのである。さういふことを二囘三囘、五六囘も繰りかへしてゐるうちに、私達の車は、前󠄁方から來る大部隊󠄁のために幾時間も路傍に待たされた後、いささか焦燥にかられて前󠄁路を急󠄁いだ不注󠄁意󠄁のために、決定的󠄁に泥濘の中に落ちこんでしまつた。車體は路面に支へられて、車輪は浮󠄁いてしまつたのである。
 惡路と泥濘に就ては、詳しく說けば限りがない。南船󠄁北馬といふ言葉がある、南方では多く舟輯の便を假つて馬背によらないのも、この惡路を見ては故あるかなと思はれる。その上十幾日來殆んど連日の霖雨である。徒步部隊󠄁の將兵達は云ふもさらなり、○○の段列もまた、人力の忍󠄁びうる限りの困苦と鬪つてゐるのである。
 金山松󠄁江間の道󠄁路上には、殆んど○○は見あたらなかつた。しかし、路傍の小溝󠄁の中に無慘に轉がつてゐる馬匹の數は、私の眼に(以下一行半略)
 私はあるところで、憐れな一頭の軍馬を見た。その瘦せ衰へた裸馬は、泥濘に蹄を浸󠄁して、路傍にぼんやりと立つてゐた。(以下二行略)あたりの平野にはただ蕭々と雨が降つてゐるきりで、人影とても見あたらない。次々に地平線から現れてくる軍隊󠄁は、彼の傍を通󠄁りぬけて、同情󠄁と憐憫の一瞥を彼の上に投げ與へ、次々に彼を見棄てて通󠄁りすぎて行つたに違󠄂ひない。彼には雨を避󠄁けるべき厩舍もなければ、飢󠄁ゑを滿すべき秣草もない。いやさうではない、彼には既に食慾とてもなかつたであらう。それはもはや馬――ではなかつた、それは馬の影、影の影なる、その幽靈にすぎなかつた。芭蕉の葉つぱのやうな項頸(うなじ)を垂れて、その憐れな畫間の幽靈は、いつまでもぢつと一つところに停んでゐた。――馬だ、馬だ、瘦せてるなあ、あんなところに立つてやがら、――私達の車は彼に近󠄁づくに從つて幾度か警笛を鳴らしたが、彼はそれにもいつかう無頓󠄁着に立つてゐた、やつと自らを支へることが精いつぱいといつた風に、彼はいつまでも泥の中に立つてゐた。
 一時間餘りもあらゆる努力を試みた後に、私達は結局車を見捨󠄁てることにした、目標しの小旗を殘したきり、路上に抛り出してきたのである。さうしてめいめいリュックを負つて、外套を端折つて步きはじめた。
 ――新聞屋さん、新聞はないかね。
 ――上海へかへるところなんです、ここにはありません、歸りには持つてきますよ、すみません。
 ――新聞屋さんも樂ぢゃないね、戰爭はどんな具󠄁合だい、杭州まで行くやうな風かい。
 ――一昨日の朝󠄁嘉興が落ちました、今日あたりまたどんどん前󠄁進󠄁してゐるでせう、勿論杭州まで行きますよ。
 ――要󠄁愼しなよ、そんな恰好ぢゃ、敗殘兵に間違󠄂へられるぜ、あんた達。
 敗殘兵といへば、金山を出て間もない頃、千米突ばかりの間近󠄁な距󠄁離に、しきりに銃聲が聞えてゐた。それはやや十分間ばかり續いてゐた。まさか食糧掛りが豚や羊を屠つてゐるのでもなささうだつた。
 四時過󠄁ぎ、私達は黃浦江の支流に出た。そこには船󠄁橋が架つてゐて、御用船󠄁も幾艘か泊つてゐた。十八日私の便乘した內火艇󠄁も、ここに𢌞つて、船󠄁着場に繫留してゐる。やがてその汽艇󠄁には、通󠄁譯官に動員された東亞同文書院の學生達が乘こんだ。リュックを背負つて軍刀を佩いた彼らの仲間は、二十名ばかり、年輩の統率󠄁者に率󠄁ゐられて、何か修學旅行にでも出かけるやうな、颯爽たる樣子に見えた。
 船󠄁橋の上には、松󠄁江方面よりの○○部隊󠄁が、引つきりなしに續いてある。私達も、勿論私達のリヤカ―も、容易に渡橋は出來さうにない。やうやく○○○○○に賴みこんで、上海に歸る軍用貨󠄁物車(トラック)と共に、苦力の操る渡船󠄁によつて、私達は對岸に渡された。六時を過󠄁ぎて、日はとつぷりと暮れてゐた。
 日沒の後、路上にはぎつしりと行軍部隊󠄁が續いてゐた。私達は軍用貨󠄁物車(トラック)に便乘を許されて、風雨の中を松󠄁江に向つた。寒󠄁氣も空腹も、私達のものはもとよりものの數ではなかつたが、いかがはしい上海の旅館さへ流石に夢のゃうに懷かしまれた。
 初更󠄁を過󠄁ぎて、私達の車は松󠄁江の城門を潛つた。上海まで一氣に突つ走らう、これだけ武器があるんだから、敗殘兵なんざ屁の河童さ、さういふ元氣な意󠄁見もあつたが、班長さんの制止によつて、結局その夜は一行城內に一泊した。因にいふ、車上の武器といふのは機關銃一、小銃十。
 松󠄁江城內は、勿論燈火とてもない眞暗󠄁な闇黑世界だつた。處處に焚火の起󠄁つてゐる外、ただ四邊に雨聲を聞くのみで、何が何だかさつぱり見當がつかないのである。懷中電燈を携へて宿舍を搜しまはつてゐる兵士達が、新來の私達をつかまへて、○○部隊󠄁はどこですかなどと尋󠄁ねる。
 私達はとある空家で焚火を始めた、飯盒炊爨にとりかかつたのである。
 折から○○に報吿に出かけた上等兵が、○○部隊󠄁の宿舍を敎はつてかへつてきた。間もなく○○部隊󠄁から、出迎󠄁への下士官がやつてきた。こちらへきて泊れ、飯も炊いてやる、といふのである。夜ふけのことだし、明󠄁日の朝󠄁は早いのだから、と代理の者が辭退󠄁しても、こんなところで風邪󠄂をひいてはつまるまい、鍋釜󠄀の準備もあるし、當番も起󠄁きてゐるんだから、すべて世話のないことだ、○○隊󠄁長殿のいひつけだからお伴󠄁れすると云つてきかない。○○部隊󠄁と○○部隊󠄁とは、特殊な關係にある「親類同志のやうな」ものだと誰かが私に說明󠄁してきかせた。
 私達は、その親類部隊󠄁に迎󠄁へられて、十時もやや過󠄁ぎた時分、出來たての溫かい飯と溫かい味噌汁とを振まはれた。さうして溫かい毛布にくるまつて一夜を過󠄁した。
村落とても見當らない曠野の中の一本道󠄁を、雨に濡れつつ陸續と嘉興に向つて、杭州に向つて、進󠄁軍してゐたあの部隊󠄁、あの大部隊󠄁の兵士達は、その同じ一夜をどんな風に過󠄁しただらうか。(十一月二十九日夜)

 

 

 三好達治「霖雨泥濘」『全集9』(S40.4刊)

「上海雑観 続」

 二十九日原稿草書、同夜九時海軍武官室に到り重村大尉を經て飛行便に托す。軍艦○○內火艇󠄁二、米國消󠄁防艇󠄁の乞ひに應じ、その側防に任じ蘇州河を遡らんとして、たまたま英艦との間に小紛爭を生ず。同日午後二時頃のことなり。
 三十日、午前󠄁中小雨、戰線にほぼ異狀なし。終日車を得ず、空しく虹口地帶を徘徊す。夜に入って軍艦○○の砲󠄁聲殷殷。
 この日軍報道󠄁部にて戰線通󠄁過󠄁の證劵を得。市內の寫眞店はいづれも陸海軍人派遣󠄁記者達の印畫現像のため、或は寫眞屋さん自ら戰線撮影に出かけるために多忙󠄁を極め、證劵に必要󠄁な寫眞など到底つくって貰へさうもないので、漸く大阪時事新報記者某氏の手で撮って貰った素人寫眞がやっと今日出來上ったのを呈󠄁出して、右の通󠄁行證を貰ひうけたやうな譯である。ただに寫眞屋さんばかりではない、市內の店といふ店が悉く多忙󠄁を極めてゐる。飮食店はおでん屋も喫󠄁茶店も酒場も小料理屋もうどんぜんざいの類を鬻ぐ小店、例外なく繁昌を極めてゐる。それらの店舖の數は決して乏しいと云へないが、それでまだ營業中のものは閉店休業中のものの數には遙かに及󠄁ばないやうに見うけられる。勿論虹口の人口は今日なほ二萬幾千の平時には較󠄁ぶべくもない少數であるが、その少數者は殆んど悉く妻子を故鄕に還󠄁した鰥夫暮しの人々である上に、兵隊󠄁さんや新聞記者のやうな特別なお客さんが雪󠄁崩󠄁れこんでゐる現在では、結局飮食店といふ飮食店がさほど勉强をせずとも自ら繁昌せざるを得ないやうな譯合になってゐるのである。上海は平素から內地に較󠄁べて飮食物の値段の高いところださうであるが、現在繁昌を極めてゐるそれらの店の品物は、決して安値だとは云へないやうに見うけられる。うどん十五仙、ぜんざい十五仙、うで卵子七仙、紅茶コーヒー二十仙、トースト・パン(煎餠のやうに薄い色の二片)三十仙、ちゃんぽん四十仙といふやうなのがだいたい通󠄁相場になつてゐる。このうちうどんぜんざいの如きは、私のやうな粗食に慣れた者でも一寸閉口する程󠄁度の品物である。物價はただに飮食物のみに限らず、酒と煙草を除いた外のものは悉く多少法外に高價のやうに思はれる。雜誌は二割󠄀增キャラメルは四割󠄀增といふ風な要󠄁領である、他の雜貨󠄁に就ても煩をいとつて說かないがほぼ同樣と見なしていい。さうしてそれらの品物がそれぞれの店頭で飛ぶやうな賣れ行きを示してゐる。家として戰禍を蒙らないもののないそれらの商店のかくの如き繁昌ぶりは、それがそのままの調󠄁子でいつまで續くかは私の推知しうる限りでないが、價格の法外なのはともかくとして、見た眼には何とはなしに賴もしげにも思はれないことはない。上海は既に復興の第一步を踏み出してゐるとも見えるのである、間近󠄁で砲󠄁聲の轟いてゐる中で。
 舊日報主󠄁筆後藤󠄁和夫さんの推測によると、事變當初以來虹口地帶に射ちこまれた敵彈の數は、恐󠄁らく二千發を下らないだらうといふことである。だから砲󠄁彈の命つてゐない家は珍らしいといつていいほど、どの家もみな屋根を射ち拔かれ壁を毀され窓や露臺を破壞されてゐるのである。飾󠄁窓の硝󠄁子なども滿足なものは殆んど見當らないと云つてもいい。それらの無慘な家々の續いたこの一帶では、しかしもはやすべての混亂はとり除かれて、街路は淸掃󠄁され、交通󠄁は整理され、流行病は完全󠄁に驅逐󠄁されて、逓信事務も殆んど圓滑に復活しつつあるのである。工部局の淸掃󠄁人夫――赤いちやんちやんこを着た苦力達は每朝󠄁トラックで運󠄁ばれてきて、終日仕事に從つてゐる。理髮店も店を開き、錢湯も既に營業を始めてゐる。「按摩󠄁あり」といふ貼紙も昨日初めて見受󠄁けられた。路上に穿たれた砲󠄁彈の孔は煉瓦のかけらで埋められ、崩󠄁れかかつた壁の上には「危險」といふ文字が記されてゐる。時計屋さんは腕時計の修繕に夜つぴて忙󠄁殺され、燈火管制中の眞暗󠄁な四つ辻󠄁には時として路に迷󠄁つた醉つ拂ひが何か譯の分らぬことを怒鳴り散らしてゐるといふやうな有樣である。大場鎭陷落以來、虹口一帶は日一日と、合同新聞の言葉を假りて云へば「明󠄁朗󠄃化󠄁されつつある」のは爭はれない事實である。
 三十一日、この日もまた雨、午後北四川路を經て徒步陸戰隊󠄁本部を訪ふ。
 ――北四川路はもう通󠄁れますよ、
 と誰かに敎へられて出かけてみると、いきなり步哨に呼びとめられて、通󠄁行を禁じられた。押問答は無用である、私は唯々諾々と命に從つて脇道󠄁にそれた、さうして暫く行つてから再び路上に出てみると、今度はそのまま通󠄁された。私は先に二度ばかり車でこの路を通󠄁つてゐる、しかしかうして一人でと見かう見しながら、陸戰隊󠄁の最後の防禦線となつたこの街路を步いてみると、流石にまた凄慘の氣の新しく身に逼るのを覺えないではゐられなかつた。路を挾んだ兩側の家屋店舖の悉く破壞され燒却されてゐるのは云はずもがな、辻󠄁辻󠄁には既に守る人のなくなつた堅固な土囊陣地がそのまま殘つてゐるそこここに、素木(しらき)の眞新らしい墓標が一基二基三基、折からの時雨に濡れて肅然と立つてゐるのである。「故海軍一等水兵何某君戰死之地」といふやうな簡單な文字がその小さな假そめの墓標の表面いつぱいに一行に記されてゐる。さういふ墓標が四基五基と一と所󠄁に寄り集つて立つてゐる所󠄁がある。墓標の前󠄁には硝󠄁子のコップ、東京などでは喫󠄁茶店で炭酸水を盛󠄁つて出すあの硝子のコップに、(そのコップは雨に敲かれた泥のためによごれてゐる、)半ばばかり滿された手向の水が供へられてゐる。さうして墓標を支へるために僅かに盛󠄁り上げられた新らしい土――一杯の土の上には黃白の菊花󠄁の間に燃え立ちさうな鷄頭の紅を交へた簡素な花󠄁束が、花󠄁筒もなしに、そのまま軟かい土に植ゑられて、從軍僧の供へたものであらう、小さな卒塔婆と共に危ふげに立つてゐるのである。戰車や貨󠄁物自動車が遽だしげに泥を飛ばしてその前󠄁を走り、燒け崩󠄁れた家屋と土囊陣地とがその後ろに續いてゐる。たまたま通󠄁りかかつた通󠄁行人はみなその前󠄁に停立して、默禱を捧げてゆくのである。東京の大震災當時、私は高等學校の學生であつたが、あの災禍の後の無慘な焦土をさ迷󠄁つて、我れにもなく、兩眼から滂沱として淚の落ちるのを禁じ得なかつた。今日もまたその同じ淚が、私の眼頭ににじみ來るのを覺えながら、私は力めて私の女々しい感傷癖を排しつつ路を急󠄁いだ。
 正面玄關の前󠄁に土囊を築󠄁き上げた陸戰隊󠄁本部の建󠄁物は、楕圓形の中庭󠄁をもつた長方形の見るから頑丈な高層建󠄁築󠄁である。それは兵器庫と彈藥庫と要󠄁塞と兵營とを一つに兼󠄁ねた、陸上に置かれた一艘の厖大な軍艦だと思へばだいたい間違󠄂ひがないであらう。刺を通󠄁じて本部副官某大尉に會ふ。
 訪問の目的󠄁を問はれて、(早速󠄁さう問ひかけられた副官の態度から推しても、近󠄁頃訪問者が夥しさうな氣配である、)私はただ半日の暇を得てお訪ねしたくなつたからお訪ねしたのであると答へると、それでは最近󠄁(二十九日前󠄁後)公󠄁表を許されたばかりの榊原中佐の事蹟でも雜誌に書いてくれませんか、書いてはどうです、これは當時發表を許されなかつたので、今からでは新聞記事としては既に時機を失したものか餘り歡迎󠄁されない傾きがあり、旁々あなた方の雜誌で報道󠄁して貰ふのが恰好かと思ふといふやうな前󠄁置きで、次のやうな內容の話を聞いた、聞きながら私は少年の頃橘中佐や廣瀨中佐の物語を何かの繪本で心をときめかせながら初めて讀んだ時のやうな感動を覺えた。(思ふに以下の如き中佐の記事はその後內地の新聞にも或は揭載されただらう、しかし、今の私には內地の樣子はいつかう分らないから、私の聞いたところをそのまま記しておくことにする。)
 榊原憲󠄁三中佐(當時少佐、岡崎市出身)は昨年十二月の定期󠄁移動で海軍砲󠄁術󠄁學校敎官から轉じて當陸戰隊󠄁司令部大隊󠄁長に任ぜられたのださうである。今度の事變が勃發すると同時に防空指揮官として、陸戰隊󠄁本部屋上の指揮所󠄁――この軍艦のやうな建󠄁物のマストのてつぺんともいふべき尖塔の頂上に在つて、八月十三日開戰の日から十月六日午後零時三十分戰死の時まで、寸時もその位置を離れず、五十幾日の間四疊半に足りないその狹苦しい一室(?)に起󠄁居し、そこで食事も攝ればそこで睡眠もするといふ風な鹽梅だつたさうである。屋上には勿論防空火器が土囊を積み上げた小堡壘の中に筒先を揃へてゐるのである。
 中佐は晝夜を分たず防空隊󠄁員の指揮に任じ開戰翌󠄁日の十四日以後、間斷なしに襲來する敵機の數は多い時は十三機に達し、時には五六機、三四機翼を連ねて夜といはず晝といはず陸戰隊󠄁本部を功名手柄󠄁の目標として飛來するのを、常に機宜にかなつた指揮によつて擊退󠄁し、遂󠄂に敵機をして一發の命中彈をも得しめなかつたのだから、それだけでも餘程󠄁の膽力と頭腦と技術󠄁とを兼󠄁備した天晴れな働きぶりだつたに違󠄂ひない。新聞記事によつて既に讀者諸君も先刻ご存じの通󠄁り、陸戰隊󠄁本部の位置は、閘北一帶の敵陣地の根據ともいふべき商務印書館や鐵路管理局の建󠄁物からは、僅々一粁ばかりを隔ててゐるのみである。それらの二つの建󠄁物は全󠄁く眼の先に聳えたつてゐるのである。況んやそこから延󠄁び出た敵の塹壕陣地は、文字通󠄁り眼の下にまで逼つてゐるのである。敵の銃砲󠄁彈が指揮所󠄁に向つて集中されるのはいふまでもない。ここに向つて飛來する十五糎乃至八糎の重輕砲󠄁彈の數は一日千發から五六千發にも達したといはれてゐる。しかも指揮所󠄁は全󠄁く無防禦の一小塔である。
 ――私が敵陣にあつたらただの一發で命中させてみせる。
 私に戰況を說明󠄁しながら何某大尉が髭を捻つてさう云はれたのも、なるほど尤もの言と聞えた。
 榊原中佐はこの彈丸雨飛の間にあつて、五十幾日本部を敵機の爆擊から護り通󠄁したばかりでなく、その間敵狀の動靜を監視し、友軍の戰鬪狀況を具󠄁さに觀察して、電話、傳令、無線等の聯絡機關を以て刻々に適󠄁切な報吿を司令部に齎し、重要󠄁な作戰の資󠄁料を提供して常に間然するところがなかつた。司令官始め幕僚は終始中佐の報吿に絕對の信賴を置き敏速󠄁果敢な作戰を運󠄁らしてしかも全󠄁く過󠄁つところがなかつたと云はれてゐる。
 中佐の指揮によつて擊墜󠄁された敵機は四、就中八月十五日には敵空軍の誇り閻海文の操縱するノースロップを遂󠄂に擊墜󠄁し、閻はパラシュートを用ひて降下する途󠄁中射殺された。痛手を負つて遁走した敵機の數は數十を以て數へられ、終に敵機はその後陸戰隊󠄁本部を敬遠󠄁して寄りつかなくなつたとさへも云はれてゐる。
 以上略述󠄁した中佐の武勳のほどから推察しても、一日として碌々寢食の暇もなかつたものに違󠄂ひない。中佐は顏色蒼然として兩脚は逢󠄁ひに起󠄁居も不自由なまでに脹れ上り、いづれ劣らぬ劇務に就いてゐる同僚の眼にも、到底默視するに忍󠄁びないほどの容子に見えたさうである。しかも休養󠄁をしきりに勸められつつ頑としてその戰鬪位置を離れなかつたばかりか、僅かに寸暇あるごとに、事變當初以來中佐の魔󠄁下にあつて(卽ち本部屋上及󠄁びその附近󠄁に於て戰死した部下の勇戰奮鬪の樣を具󠄁さに遺󠄁族に書き送󠄁つて、父󠄁兄妻子の悲しみを慰めるに甚だ懇切を極めた以下に揭出するが如きその書簡の簡勁素樸な好文字は、當時の戰況を委細に物語ると共に、英雄また兒女の情󠄁あるゆかしい一面を永く砲󠄁煙彈雨の間に留め得たるものともいふべく、斯人內に修むるところまことに尋󠄁常ならざる平素の用意󠄁のほどもひとしほ懷かしく忍󠄁ばれる心地がするではないか。手簡はその一二を後に示す。
 十月六日、同僚某氏がたまたま指揮所󠄁に登り來つて、暫く交替しませうと吿げるや、中佐は聲を勵まして君には君の戰鬪位置があるではないかと促して塔下に降らしめた時、眞茹鎭の方面より飛來した一彈は指揮所󠄁の鐵柱󠄁に命中し、中佐を始め附近󠄁にあつた五名を斃し五名を傷つけた。時に午後零時三十五分、中佐年三十五。遺󠄁族は鎌󠄁倉町大町に令室千代子さんが居らるる由。
 後に私は閘北の廢墟を尋󠄁ね、商務印書館の附近󠄁から陸戰隊󠄁本部を仰ぎ見たが、ほんの眼の先のその指揮所󠄁によくもまあ五十幾日も敵彈の中らなかつたのはまことに奇蹟中の奇蹟とよりは思はれなかつた。中佐の死は、萬死のうちに一生をも望󠄂み難いかかる戰況中にあつて、全󠄁く當然中の當然事と云はざるを得ないのを思ふにつけても、私はまた肅然として襟を正し、今ここに我々の前󠄁に傳說ならぬ現實の、さうして今は既になき、一人の「英雄」を見出たことを悲しみを以て喜び、喜びを以て悲しんだ。
 因にいふ、二十七日閘北一帶の敵軍が敗走した後に於て始めて禁を解かれて中佐の死が發表されたのは、中佐の存在が就中敵空軍の畏怖の的󠄁であり、友軍の信賴のかかつて繫がるところであつたからに因るといふ。
 左に戰歿將士の遺󠄁族に送󠄁られた中佐の手簡を揭げる。

 

 謹啓󠄁 既に電報にて御承知の事とは存じ上候今時事變に於て出崎貞一水兵には十七日勇戰奮鬪壯烈なる名譽の戰死を遂󠄂げられ候事は君國の爲武人の本分とは申ながらかへすがへすも痛惜の念感慨無量に候わけて朝󠄁夕本人の武運󠄁長久を祈りその凱旋の日を待たれし近󠄁親御家族樣の御愁傷痛嘆限りなきことと御推察申だに同情󠄁の淚禁じ難く候
 司令部大隊󠄁より忠勇なる將兵多數戰死傷者之有り大隊󠄁長を始め痛恨斷腸の思にて隊󠄁員一同と共に深く哀悼の敬意󠄁を表し居り候今や後續部隊󠄁の來着と陸軍の揚陸に依り皇軍の意󠄁氣愈高く暴戾なる支那󠄁軍を徹底的󠄁殲滅致す可殉職せる魂魄の復讐に一致結束盡忠報國の決心に御座候因に八月十三日早朝󠄁突如支那󠄁軍の不法發砲󠄁により俄然交戰狀態となり砲󠄁聲殷々轟々砲󠄁彈雨飛の激戰加ふるに猛火炎炎と市街を壓し慘烈なる戰鬪は數日畫夜繼續し八月十七日午前󠄁九時敵砲󠄁火猛烈となり當時出崎水兵は火藥庫警戒兵として敵彈雨飛の眞只中に自若として警戒中偶午前󠄁十時二十分敵の十五糎砲󠄁榴彈身近󠄁にて炸裂し爲に左頭部盲󠄁貫彈片創及󠄁頭蓋骨折兩下肢裂傷鮮血淋漓壯烈なる戰死を遂󠄂げられ永久に護國の神と消󠄁え申候本人は資󠄁性純眞篤實勤務拔群にして將來有爲の良兵にして同僚上司の信望󠄂厚く其の功績を嘆賞せざるものなく實に武人の典型と永久に後輩の龜鑑と存じ候
 開戰以來激戰十數日に亙り其の機を得ず延󠄁引ながら分隊󠄁員を代表し謹でお悔申上候

敬 白   

   八月二十八日
上海海軍特別陸戰隊󠄁司令部大隊󠄁長       
海軍少佐  榊 原 憲󠄁 三  
      出 崎 金 吉 殿

 

 謹啓󠄁既に電報にて御通󠄁報有之候事とは存じ上候
 今度事變の爲去る十四日の大激戰に於て御主󠄁人佐藤󠄁特務中尉には勇戰奮鬪の後壯烈なる戰死を遂󠄂げられ候事は君國の爲武人の本懷とは申し乍らかへすがへすも殘念愛着の念感慨無量に候わけて朝󠄁夕本人の武運󠄁長久を祈り凱旋の日を待たれし御家族の御愁傷さこそと御想像申上ぐるだに同情󠄁の淚禁じ難く候
 司令部大隊󠄁中よりも忠勇の部下佐藤󠄁特務中尉以下十數名の戰死傷を出し大隊󠄁長を始め斷腸の思ひにて隊󠄁員一同と共に深く哀悼の敬意󠄁を表し居り候
 一方暴戾なる支那󠄁軍の怨骨髓に徹し後續部隊󠄁の來着と陸軍の揚陸に依り皇軍の士氣益々旺盛󠄁に候
 今や攻擊前󠄁進󠄁の機を待ち國難に殉職せる魂魄の復讐戰には必ず殲滅致す可く花󠄁と散り靖國に永久に國守ります英靈に對し慰撫致す覺悟に候因に支那󠄁側の暴戾挑戰的󠄁なる態度に對し常に我が陸戰隊󠄁は隱忍󠄁自重し一觸卽發の孕み居り候上海も八月十三日より突如陸戰隊󠄁に對し支那󠄁軍の挑戰的󠄁不法發砲󠄁より俄然兩軍交戰狀態となり砲󠄁煙彈雨飛散し殷々轟々と砲󠄁銃聲四園に響き猛火炎々の裡に夜は明󠄁け十四日更󠄁に頑强にも敵は十五糎砲󠄁彈及󠄁各種榴彈砲󠄁等を以て我陸戰隊󠄁本部に集中且つ空襲十數囘の爆擊をなし戰鬪愈々酣となり午後三時より六時三十分此の間最も大激戰となり尚佐藤󠄁特務中尉は兵舍地區防備の重任を帶び本部正門附近󠄁に在りて敵砲󠄁彈爆彈雨下の眞只中に部下小隊󠄁を指揮し敵機擊攘に勇戰奮鬪中午後五時三十分敵十五糎砲󠄁彈身邊に炸裂し佐藤󠄁特務中尉外數名を斃し又戰傷者を出し候其の彈片は中尉の右肩󠄁甲頸部動脈を戰傷し鮮血淋漓も敢へて辭せず軍刀を握り眼光炯々として「敵機を擊攘せよ」と最後の命を遺󠄁し遂󠄂に力盡き病舍に收容致され候も軍醫官の言に依れば意󠄁識極めて明󠄁瞭なりしも動脈破傷流血夥しく如何とも術󠄁なく遂󠄂に午前󠄁一時三十分永久に國守る神と相成󠄁申候
 本人は溫厚篤實常に部下を愛撫し上長を敬し爲に上下の信望󠄂極めて厚く決斷英勇に富み小官の唯一の部下指揮小隊󠄁長として意󠄁氣投合懇親の間柄󠄁にて信望󠄂愈々深く候今囘の殉職に於ても司令官を始め幕僚各隊󠄁長の等しく愛惜同情󠄁を表せられ生前󠄁の美學戰功を歎賞せざる者なく眞に武人の典型後輩の鑑と存じ候
 謹みて御悔み申上候
 實は早速󠄁御通󠄁報申上ぐ可きの處交戰以來十數日不眠不休の戰鬪にて其の機を得ず延󠄁引乍ら右早々
   昭和十二年八月二十五日       上海海軍特別陸戰隊󠄁司令部大隊

海軍少佐 榊 原 憲󠄁 三  
      佐 藤󠄁 深 雪󠄁 樣

 追󠄁記、この日(三十一日)夕刻蘇州河渡河の報あり、なほ詳細は知るべからず。 
 一日、小雨後曇り、午後領事館裏にて汽艇󠄁を待ち、軍艦○○を訪ふ。新聞記者從軍僧等の訪問あり、甲板はやや混雜の態である。浦東側の舷側に鐵板の立てかけてあるのは、對岸に狙擊兵の現れるためであらう。監視兵は頭からかけた雙眼鏡を屢々翳しながら、右舷に立ち左舷に立ち甲板上を徘徊してゐる。上下の船󠄁舶は大小樣々のものが引きもきらない有樣である。槪ね外國旗を揭げてるるのであるが、それらの甲板に立ち働いてゐる者、或は仕事もしないでただぼんやりとしかも肩󠄁を接してぎつしりと立ち並んでゐる乘船󠄁者は、殆んど皆淺葱色の支那󠄁服󠄁を着こんだ支那󠄁人である。何のためにどこへ運󠄁ばれてゆくのであらう、一寸諒解のつきがたい風景である。この○○の位置に最も近󠄁い對岸――浦東側の對岸には佛蘭西始め諸外國の工場が立ち並んでゐる。その建󠄁物を楯にとつてそのすぐ後ろには敵兵が潛りこんでゐるのであるが、砲󠄁擊も出來なければ爆擊も出來ないといふやうな困つた狀態になつてゐる。流石に敵もそれらの工場に侵󠄁入することは差控へてゐるので、河岸まで出てきてそこからこちらを狙擊するといふ譯にはゆかない。それでその方面は、○○中佐の言葉によると「幸か不幸か」まづだいたい安全󠄁區域といふことになつてゐるのださうである。しかしその工場地帶の終つたすぐそこの一角には、夜になると――或は時として晝間も―こつそり敵は機關銃をそこまで持ち出してきて隙を窺つてこちらを狙擊するのださうである。機關銃で軍艦を擊つ、のだから考へてみると一寸をかしな話である。
 ――氣をつけなさい、そこにゐると危ないですよ。中佐は笑ひながら、さう云つて私を戒めた。舷側の鐵板には、なるほど拇指大の孔が幾つかあいてゐる。
 ――それでこの間は一度あそこに射ちました、火事が起󠄁つてあんなに燒けたのです。さういつて指さされたその一角の建󠄁物は眞黑焦げに燒け落ちてゐる。ほんの五百米突ばかりの近󠄁距󠄁離だから一溜りもなかつたに違󠄂ひない。
 そんな話をしてゐると、そこへ水兵さんがやつてきて、
 ――英國士官が參りました。
 といふやうな報吿を齎した。やがて中佐は、甲板の一隅に椅子を並べて、英國士官が封筒の中から取り出した手紙のやうなものを、額をつき合つて讀みとりながら、時には何か說明󠄁を試みてゐるやうな樣子であつた。英國士官は何か質問に來たのであらう。さうしてその士官はおしまひには愛矯よく笑ひながら、暫く雜談をして歸つていつた。
 ――やあお待たせしました、○○にお會ひになりますか。
 ――いや、お忙󠄁しいでせうから、今日は別段お眼にかからなくてもいいのです。
 私達がもう一度雜談を始めかかつた頃、艦尾の方でドカンと一發砲󠄁聲が轟き渡つた。私は椅子に腰󠄁掛けたまま、力めて沈着な態度をとらうと心がけたが、どうも氣持は落ちつかなかつた。何しろひどい音󠄁響である。續いてまた砲󠄁聲が起󠄁つた。
 ――何でせう。
 ――さあ、何か見えたのでせう。
 さういへば正面の浦東の空では、飛行機が二機夕空を旋囘しながら、ダイヴィングを繰返󠄁してゐる。
 ――迫󠄁擊砲󠄁でも見つかつたかな。
 飛行機は二機がやがて四機になり、爆音󠄁がしきりに聞えてくる。砲󠄁擊は、ダイヴィングを終つてそれらの飛行機が上空に翔󠄁け上つた合間を見計らつて、火蓋を切つてゐるらしい鹽梅である。發砲󠄁してゐるのは、○○のすぐ後方に續いてゐる○○であつた。砲󠄁口から迸り出る淡紅色の閃光が、暮色を破つて黃浦江の濁流の面に映つてゐた。
 この日朝󠄁から例のアドバル―ンは「日軍到蘇州河南岸」の文字を揭げてゐた。宿に歸つて聞いてみると、(この日の晝私はサッスーン・アパートを出て旅館江星館に移つた、敵砲󠄁彈の患ひがなくなつたためである。二十九日夜以來敵空襲もまたなし。)たまたま當地に買出しに赴いた同宿の○○師團附御用商人某氏の語るところでは、本日正午頃同師團正面では漸く渡河に成󠄁功したといふ話である。なほ信憑すべきが如く信憑すべからざるが如し。前󠄁線より歸來した人々の傳ふるところは全󠄁く區々としてゐるからである。これを要󠄁するに、敵前󠄁渡河のなほ甚だ苦戰中なるは推知するに難くないやうである。
 附記す、右の商人の言によれば、貨󠄁物自動車一日の傭ひ賃百三十圓。
 夜に入つて黃浦江上に再び砲󠄁聲の殷々たるを聞く。
 二日、小雨、この日午前󠄁七時頃蘇州河渡河の報あり、人々の吿ぐるところ漸く趣きを一にして殆んど信憑するに足るが如し。
 この夜また黃浦江上に砲󠄁聲殷々。
 三日、陰、小雨。數日來合同新聞社の自動車は車體や運󠄁轉手に事故を續出して、用に耐へるもの少く、その上前󠄁線の戰鬪は猛烈を極めてゐるのは云ふまでもないので、私などの出る幕ではあるまいと遠󠄁慮をしてゐたが、この日は漸く席を設けて貰ふ約󠄁を得て晝辨當の用意󠄁を整へ早朝󠄁より詰めかけ正午頃まで待つたが終ひに車の遣󠄁り繰りがつかず、いささかがつかりして澁面をつくつてゐた折から、午後一時軍報道󠄁部の車が出るのに空席があると聞いて早速󠄁賴みこんで同車を許さる。竹原大尉の東道󠄁である。(序でだから附記しておかう、タクシーの賃銀は一時間五圓といふのが目下の相場である、だから前󠄁線に出て往󠄁復に三四時間も費せばけちな話だが忽ち囊中に支障を生ずる上に、地理に暗󠄁い私のやうな者はとても單獨には運󠄁轉手を指揮して車を飛ばすといふやうな眞似は出來ないのである、何といつても前󠄁線はひどく無氣味で恐󠄁ろしいから――)一時半報道󠄁部發、京滬鐵路眞茹驛をやや過󠄁ぎて左折、南進󠄁、踏切を越えたあたりから路は踝を沒する程󠄁度の泥濘となり、加ふるに大行李小行李軍用貨󠄁物車砲󠄁車徒步部隊󠄁乘馬隊󠄁等の往󠄁來引きもきらぬこととて、しきりに警笛を鳴らしつつ遲々として進󠄁む。やや三粁ばかり來たあたりから廣闊とした平野の樣子が戰場らしい趣きを呈󠄁し始めた。處々に半壞の家屋が點在してゐるのと、樹林らしいもの竹藪らしいもののそこここに見當る外は、豆畑綿畑黍畑或は水田の、それも悉く綠の色の褪せ果てた晩秋の開墾地が、起󠄁伏といふほどのものもなしに、折からの細雨の中にどこまでも遠󠄁く連つてゐるのみである。既にこのあたりでは路傍に委棄された敵の○○がごろごろと轉がつてゐる。それはクリークの中にも浮󠄁んでゐる。土囊を積み上げた家屋がたまたま附近󠄁に見つかるかと思へば、その陰には眞新らしい手榴彈が算を亂してゐるといふ有樣である。ひとまとめに裸馬を繫いだ所󠄁もあれば、空車を寄せ集めた所󠄁もある。どうした譯かただ一軒だけなほ炎々と燃え上つてゐる家屋もあれば、赤瓦を葺いた文化󠄁住󠄁宅めいたものの、全󠄁く戰禍を免がれて無疵らしいものも遠󠄁くの方に見うけられる。水牛の背中に兵隊󠄁さんが二人ばかり跨つて悠々と泥濘中を步いてゐる滑稽な姿󠄁も見えるのである。砲󠄁聲は間近󠄁なところで起󠄁つてゐる。キャンバスをかけて砲󠄁身を覆つた重砲󠄁陣地がまづ見つかる。すぐ傍に砲󠄁彈が山のやうに積まれてゐる。それらの砲󠄁門は、お互に間近󠄁に隣りあつて、殆んど路傍といつてもいい位置に、何の遮󠄁蔽物もなしに全󠄁く暴露したまま陣地を布いてゐるのである。
 ――○○糎○○砲󠄁だ、今日は射たないんだな、○○がまだ○○つてゐないのだらう、敵に有力な砲󠄁兵があつたり、敵の飛行機が飛んでくるのだつたら、見給へ、こんな風な陣地はとても布いてゐられないんだよ。
 竹原さんのそんな說明󠄁を聞くまでもなく、迂闊者の私達の眼にも、その陣地は、何とはなく一見して法外のものに見えた。
 やや行くと、またもう一度○○砲󠄁の陣地があつた。今度は○○糎、同じく待機の樣子である。放列の布置は先のと大同小異更󠄁にその前󠄁方に○○糎○○糎の陣地が、路の左右に極めて單純に相前󠄁後して並行線狀に一組一組砲󠄁門を連ねてゐる。さうしてそれらは代る代る、或は同時に吊甁射ちに猛射を續けてゐるのである。後に太公󠄁報(支那󠄁新聞)の記事を見ると、この日敵陣地に射ちこまれた我が○○砲󠄁彈の數は二千發を越えたとか。硝󠄁子窓を閉ざした車中にあつても、思はず兩耳を掩ひたくなる程󠄁の猛烈な砲󠄁聲の間を走り拔けて車はなほ前󠄁進󠄁、路傍に眞新らしい墓標の七八基寄り合つて立つてゐるのを見ると、その中央に樹てられた一基の面には、陸軍騎兵軍曹稻葉守二戰死之地と記されてゐた、他のものは讀みとる暇もなかつたが、騎兵といふ文字はいづれの墓標にも記されてゐるのが眼に映つた。
 ――騎兵斥候がやられたんだな。
 竹原さんはさう云はれた。
 ――蘇州河まではもうどれ位の距󠄁離でせうか。
 竹原さんは地圖を按じて、
 ――千五百米突だね。
 と答へた。
 ――よし、車を止めろ、この邊で一度尋󠄁ねてみよう。
 そして大尉は車を出て、附近󠄁の兵隊󠄁に○○はどこだ、知つてゐるか、といふやうなことを尋󠄁ねてゐられたが、兵隊󠄁さんは誰も○○の所󠄁在を知らないやうな樣子だつた。その位置は丁度十字路になつてゐた、折から右方の竹藪の蔭から軍用貨󠄁物車が一臺泥濘に難澁しながらやつてきた。
 ――よし、あいつに聞けば解るだらう。
 大尉はそんな獨り言を云つて、大聲を上げて手招きをしながら車上の兵隊󠄁さんに呼びかけた。するとその時丁度その四つ辻󠄁へ一人の靑年士官が通󠄁りかかつた。すぐに○○の位置は解つたので、車は右折したが、
 ――駄目です、タイヤにチェーンがかけてありませんから、これぢゃ動きませんよ。
 と運󠄁轉手君が匙を投げた。車を右手の畑の中に乘り入れたまま私達は外に出た。機關銃の音󠄁が間近󠄁な距󠄁離に(――と思はれた)手にとるやうに聞えてゐる。味方の砲󠄁彈、さきほどの陣地から射ち出す砲󠄁彈は、雲の低く垂れた頭上の空を飛んでゐる。丈餘の羅布(うすもの)を一氣に引裂くやうな(――こんな形容も實際は當つてゐないが)銳い長い聲を後に殘して、灰󠄁白い雨雲の中をぐんぐん飛んでゆくのである。いくら味方の彈とは云つても、餘り氣持のいいものではない。
 ――頭の上で炸裂するかもしれないぜ。
 竹原大尉がそんな意󠄁地の惡いことを云ふ。
 ――見える、見える、砲󠄁彈が見えますよ。
 運󠄁轉手君が私にさう敎へてくれる。
 私は路端で用を足しながらも、砲󠄁聲の轟くごとに、殆んど無意󠄁識に、頸筋の筋肉が緊縮するのをどうすることも出來なかつた。通󠄁りかかつた兵隊󠄁さんがこつちを見てくすくす笑つてゐるのは聞えても、どうにも仕方がないのである。流彈が飛んでくる。こいつはいけないと思つたところで、もう始まらない、どうせみんなの後について步いて行くより外はない。頸から上がすつかり○○になつた○○が路傍に轉がつてゐる。○○が見事に二つに割󠄀れてゐるのである。
 ――斬られたんだね、
 さう云つて竹原さんは、暢氣にカメラを取り出した。路はひどく泥濘(ぬか)つてゐるので、そいつを跨いで通󠄁らなければならないのには、私はいささか閉口した。
 ○○はそこから間もないところにあつた。天井の低い、日暮れ刻のやうに薄昏い民家である。寄せ集めの椅子卓子で、書きものをしてゐる將校、地圖を插んで話しこんでゐる將校が、新聞記者達と肱を接して、その窮屈な中で、席を讓り合つたりなんかしてゐるのである。
 この○○の正面では、蘇州河以南に侵󠄁入した部隊󠄁――約󠄁○○の兵員が、狹小な地區に押し詰つて、前󠄁面及󠄁び右方の敵軍から猛射をうけ、その前󠄁面の敵は次第に兵力を增し、續々砲󠄁兵隊󠄁の來援󠄁をうけつつある模樣で、味方は苦戰中。只今味方の○○砲󠄁は、右方の敵陣、卽ち屈家橋方面に火力を集中して猛擊中、同方面の敵は次第に退󠄁却しつつあり――凡そ以上のやうな狀況說明󠄁を聞かされたが、地名が甚だ聞きとりにくく、精密な地圖を持たない私には、とても詳細な模樣は嚥みこみ難く、勿論記憶には止まらなかつた。○○の位置は王家宅と云つた、それを賴りに、宿に歸つてから、外字新聞や漢字新聞まで參照して、戰況をもう一度領解しようと試みたが、肝腎の地圖がないので、いつかう要󠄁領を得なかつた。甚だうろんなことをここに書き誌すのはお恥かしい次第だが、讀者これを諒とし給へ。その狹つ苦しい部屋を出て、別室に○○長○○○○を訪ふ。半白の○○は、私の名刺を見ながら、
 ――ああ、改造󠄁社ですか、改造󠄁社も近󠄁頃はなかなか仕事をしますな、いやこんな遠󠄁方までわざわざ御苦勞樣でした。
 と、そんな風な挨拶の後に、何か獨り言のやうに、
 ――兵隊󠄁はよく働いてくれる、實際よくやつてくれる、みんなよくやつてくれます....
 さう繰りかへし呟いてゐられるのが、その聲は次第にくもり聲に鼻󠄁にかかつて顫へを帶びてゐるやうに聞きとられた。
 さうして更󠄁に語を繼いで、先年軍縮問題があつてから云々と、目下の戰況と共に一寸手短かな意󠄁見も洩されたが、ここにはそれをお取次ぎするのはいささか憚りあるやうだから姑く差控へておく。
 ○○の前󠄁方は、流彈がしきりに來て危ないから出るのはおよしなさいと戒められて、それではと車をかへし、歸途󠄁先の砲󠄁兵陣地に立寄る。休息中の兵隊󠄁さん達と雜談。
 ――おい、慰問袋は貰つたかい。
 竹原さんがさう尋󠄁ねると、兵隊󠄁さん達は異口同音に
 ――まだであります。
 ――まだであります。
 ――まだ貰つてゐません。
 といふ答へであつた。
 ――いつ上陸したんだい。
 ――九月十日であります。
 ――さうか、慰問袋は、○○にでも留つてゐるんだらう、彈藥や糧株を運󠄁ぶのにいそがしいからね。
 竹原さんがさういふと、
 ――なあにそんなものは貰はない方がいいんだ、さうだな、おい。
 さう仲間に話しかけて、莞爾として塹壕へかへつてゆく快活さうな兵隊󠄁さんもあれば、話頭を轉じて、九國會議はどんな風になつただらうかと私に質問する、眞面目な顏つきの兵隊󠄁さんもまじつてゐた。

 

 十一日、晴。一足飛びに今日(十一日)の記事を書くことにする。この原稿を夕刻八時頃までに書き上げて○○に託し內地飛行郵便に取繼いで貰ふと、十二月號の雜誌にぎりぎり間に合ひさうである。もともと私の文章は決して速󠄁報を旨とするものではないが、それでもかうして遠󠄁隔の地にきてゐると、內地の讀者に一日も早く、私の狹い眼界に映じ來つたその日その日の出來事をお知らせしたいのは、これもまた人情󠄁の自然といふものだらう。四日から十一日までの見聞記は後に閑暇を得たらば書き加へるとして、今日は今日一日――實は半日の私の日記を昨晚飛行便に託した原稿の後に取りあへず書き添󠄁へることとしよう。
 昨夜は夜中に二發ばかり爆音󠄁が聞えた。朝󠄁になつて聞いてみると、浦東方面に我が空軍の落したものだといふ噂である。最近󠄁までは夜中に飛んでくるのは支那󠄁の飛行機ときまつてゐたが、昨夜はこちらの方で夜襲を試みたのだといふことである。夜襲といへば、昨夜は陸戰隊󠄁と陸軍との混成󠄁部隊󠄁が、――どれほどの兵員か今のところまだ知るを得ないが、郵船󠄁碼頭附近󠄁(?)から黃浦江を渡つて、浦東に上陸、そのまま一氣に進󠄁軍して南市正面の對岸に到着、そこから黃浦江を隔てて河向ふの敵に攻擊を加へてゐるといふことである。南市に踏みとどまつた――或は追󠄁ひこめられた敵は、(その數五六千だらうと云はれてゐる、)既に蘇州河の戰線を完全󠄁に突破した我軍のために徐家滙の線に進󠄁出されて全󠄁く退󠄁路を斷たれ、背後には佛蘭西租界のバリケードを負つて絕體絕命の窮地に陷り、全󠄁く四方を包󠄁圍されて袋の鼠となりながらも、私達の素人考へではもういい加減に降參をしてもよささうな頃だと思はれるにも拘らず、なほ抗戰を續けてゐる模樣である。昨日午後開始された南市一帶の空爆は、今朝󠄁未明󠄁からも不斷に繼續されてゐる。外字新聞の記すところでは昨夜中我が○○艦一隻は、黃浦江上南市の入口に支那󠄁軍の設けた閉塞線――日淸汽船󠄁會社の使󠄁用船󠄁數隻その他を沈めて作つた閉塞線の邊際まで溯航して、(その途󠄁中には英米佛等各國の軍艦が投錨してゐるのである、)同じく南市攻擊に參加したと見えてゐる。蘇州河北岸の重砲󠄁陣地からは租界の上空を越えて斷續的󠄁に砲󠄁擊が加へられてゐる模樣である。浦東を迂囘した我軍は、渡河を敢行して南市に上陸したといふやうな記事も、佛字新聞には載つてゐる。すべて詳細なことは、眼と鼻󠄁の距󠄁離の虹口にあつても皆目解らないのである。今朝󠄁の太公󠄁報にはなほ「最高當局下令決固守南市」といふやうな負け惜しみの文字が揭げられてゐるが、大勢は既に已に決したものといつてよからう、例のアドバル―ンは「華軍放棄上海」の六文字を半空に飜してゐるその下で、虹口一帶は相變らず買ひ出しの兵隊󠄁さん達で混雜し、輜重隊󠄁の運󠄁搬車が幾組となく通󠄁りすぎる風景も、今日は思ひなしか陽氣に朗󠄃らかに見えるのである。
 私は今朝󠄁『改造󠄁』の水島君『新靑年』の米村君と共にガーデン・ブリッヂを渡つて久しぶりに奮英租界に行つてみた。滿鐵事務所󠄁同盟󠄁事務所󠄁を訪ねたのである。
 二十日ばかり前󠄁、先月二十二日の畫そこから閘北の爆擊浦東の爆擊を見物した太北ビルの屋上に、もう一度私は登つてみた。南方の空には、三箇所󠄁ばかり火災の煙が上つてゐる。飛行機は三機五機七八機、白雲の間を飛んでゐる。ただ旋囘してゐるだけで、爆擊は加へてゐないやうである。微かな砲󠄁聲は聞えてゐるが、さだかな位置は解らない。見たところ、だいたい平穩な樣子である。南市には、四十萬の(勿論非戰鬪員の)支那󠄁人が住󠄁んでゐるといはれてゐる。そのうち既に難を避󠄁け得たものも多からうが、米村氏の話では、昨夜同氏が佛租界に趣かれた所󠄁見では、同租界內の支那󠄁人は平素に幾倍してゐたといふことだから、勿論さういふ風に安全󠄁區域に脫出し得たものも多いには相違󠄂あるまいが、なほ逃󠄂げ場を失つて、五六千ばかりの敗殘兵の捲きぞへを喰つて砲󠄁火に曝されてゐる無辜の住󠄁民達も、必ずや少數でないに違󠄂ひない。風聞によれば、浦東を追󠄁はれた敵軍は、(少くともその一部分は)、河を渡つて南市に逃󠄂げこんだと云はれてゐる。そのうへ南市の軍事施設は、事實の證明󠄁する通󠄁り、彼らの良民たちを保護するにも足りない微力なものなるにも拘らず、なほそれを廢棄することを拒󠄁んで現にかくの如き自暴自棄的󠄁な抗戰を續けてゐるのは、百步を讓つてその勇を稱しうるとしても、私の眼には、如何にも無智無謀な殘酷󠄁な戰鬪のやうに思はれてならない。「最高當局」の指令なども、どういふ量見のものか推察に苦しむのである。彼らの軍隊󠄁彼らの將士に眞にやみ難い戰意󠄁があるのなら、南市の外に出て最後の一兵に至るまで戰つて全󠄁滅して貰ひたいものである。五六千ばかりの敗殘兵と多少の軍事施設との捲き添󠄁へに、幾十萬の無辜の良民を犧牲に供して、「南市固守」も絲瓜もあつたものかと思はれるのである。閘北の退󠄁却に逃󠄂げ遲れて四行倉庫に潛りこんだ彼らの英雄達が、籠城と同時に壁の下に逃󠄂げ路を穿つて、散々美名を賣りつけた後に租界へ逃󠄂げこんだのと大同小異のやり方を、もしも南市の敗殘兵達が數日の後に再び繰かへすとしたなら、彼らの良民に對して、彼らの「最高當局」にもまして酷󠄁薄殘虐󠄁なものはないといふことになりはしまいか。私は先日來、南市の運󠄁命に關して、私かに心を惱ましてゐた。さうして事態はかくの如く、最惡の方向に向つてゐる。
 歸途󠄁稅關前󠄁にさしかかつた頃、對岸に銃聲が聞えた、續いて南市の方面に爆擊の轟音󠄁が連續して起󠄁つた。バンドに群がる支那󠄁人達が、頸を長くして河岸に走り出て見物に趣く樣は、私が先に一度記したところと全󠄁く同樣である。それらの人ごみの間にまぎれながら、何と名狀のしやうのない薄氣味惡さを私が覺えたこともまた――。
 丁度その頃浦東に火災が起󠄁つた。煙は忽ち大きくなつた。
 虹口に歸つて暫くすると、やがてその煙は、うち見たところ、殆んど空の半󠄁ばを領して、頻りにこちらへ靡いてくる。
 ――どこが燒けてゐるんでせう、南市でせうか。
 私が道󠄁寄りをした時計屋の親爺は、にはかに翳りだした街路を見ながらさう尋󠄁ねた。

 

 

三好達治「上海雜觀 續」『全集9』(S40.4刊)