三好達治bot(全文)

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「半宵記」

 先日女流作家のO・Kさんが突然他界された。私は朝の新聞でそれを知つた時、同女史の――ほんの數囘私がお眼にかかつた、その時々の風采や擧止動作を次々に思ひ泛べた。友人達大勢と一緖にお宅で御馳走になつた時、銀座のどこかで行會つて簡單なお辭儀をしあつた時、ある雜誌社の座談會で同座した時、そんな折ふしのただ何でもない女史の姿を囘想したのである。故人を偲ぶ、といつても、これはたださういふ、ふとした情景を思ひ泛べたにすぎないのだが、やはり何か肅然として身に逼るのを覺えた。
 ――もうあの人とも、銀座でばつたり行會ふこともないのだなあ……。
 いつてみれば、ただそれほどの數語にも盡きる感懷なのだが、交りが淺ければ淺いだけに、淡如としたものではあつても、やはり何かととりかへしのつかない氣持である。
 ――もうあの人に會はない……。
 この短い言葉は、初めの間は、いつもきまつて、ある錯覺的な感情を喚び起すものである。さうではない、そんなことがあるのか、心はいつもさう叫びかへすのである。いつかひよつこり、忘れてゐた時分に、どこかの停車場か、街角か、喫茶店か、そんな人混みの中で、やあと聲をかけあふ、そんなことが決してない、とは誰がきめたのだ、といふ風な理由のない疑問も浮ぶのである。
 ――やあ。
 ――やあ。
 ――あなたはおなくなりになつたさうぢやありませんか。
 ――いやなに、みんながそんなことを言ふんですよ、あれは間違ひでしたよ。
 といふやうなことで、大笑ひになりさうな場合も空想されるのである。愛兒をなくした親達が、あの淸楚な、この世のものではない身仕度をして、廻國巡禮に旅立つ心の隅にも、遠いどこかの村里で、かういふ偶然にめぐりあふ希望をかくしてゐないだらうか。
 ――お父さん、お母さん、私はこんな田舍で遊んでゐましたよ。
 子供はさういつて駈けよつてくる、さういふ理性の許さない空想も、空想さながらのリアリティーで、親達の心を動かす力をもつてゐるだらう。
 それはとにかく、けれどもやがて時間がたち、歲月を經るに從つて、もうあの人に會はない……は、そつくりその言葉のまま、人々の心に落着くやうになつてくる。さうして先の錯覺を、もう再び繰返さなくなつてしまふ。私にもさういふ思ひ出は幾つかある。さうしてさういふ思ひ出は年ごとに數を增してゆく。親しき者故人の中に在り、私は時々かういふ言葉を呟いてみることがある。若い身空で年寄ぶつたことをいふ譯ではない。若いといつても、私位の年齡になると、もう新らしく友達の出來る機會はない、殆んどないといつてもいい。私のやうな頑なな性分の者、世間の狹い者は特にさうなのであつて、これもまた致し方のないことと思つてゐる。さうしてその數の乏しい友人達が、年々更に減じてゆく。病弱な私の番もおつつけまはつてくるだらうが、己れを思ひ故人を思うて、半宵感をなすのは近頃の私の嗜癖である。仕事らしい仕事、華々しい働きの一つも示しえないで、このまま碌々と生を終るのは、流石に私としても遺憾でなくはないが、己れの分を思へばそれもまた當然のこととして必ずしも忍び難くはない。たださういふ感懷に耽るごとに、私には一つのやみ難い希望がある。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 私は殆んど神に祈りたい氣持になつて、さう呟かないではゐられない。こんなことをここに記すのは、文筆家などといふ(不幸にして私もさういふものの一人である)賣文稼業のわざくれとして、まことに時世にならはない、考へてみるとはしたない仕方であるが、それはまあそれとして、せつかく執りかかつた筆である、もう少し先を書くことにしよう。
 私は先年、いささか病を獲て、さる病院に三ヶ月ばかり入つてゐたことがある。もともと私の病氣は、そんな病院にかつぎこまれるほどのものではない、ほんの輕症にすぎなかつたことは、度々醫師からもいひ聽かされ、自分でも十分承知をしてゐたので、そこに入院した當初の間、私は極めて平靜な、といふよりも寧ろ氣樂な休暇を思ひがけなく與へられた人のやうな、ほつとした樂しい氣持でゐたのである。さうして私は日々に疲勞を恢復し、體重を增し、間もなく熱もひいてしまつた。私の病氣はさういふ風に、さしたる出來事もなく快方に赴いたのにも拘らず、私はそこで慘めな憂鬱病にとりつかれてしまつた。それまでにもその兆のあつた神經性心悸亢進症といふ不名譽な厄介な病氣に、まるで蜘蛛の巢にからまつた昆蟲か何かのやうに惱まされたのである。この神經病の苦痛はその經驗者でなければ到底想像も及ばない慘めな殘虐なものである、私がさういふ疾患に陷つたのは、積年の不攝生に根ざしてゐたのはいふまでもないが、一つにはその病院の環境が直接の原因にもなつてゐたもののやうに思はれる。
 その古風な小さな病院では、狹い廊下一つを隔てて、私の病室の斜め向ひが、丁度屍體室に當つてゐた。それを私は、そこへ入つて一週間もすると、いつとはなしに悟つてしまつた。勿論私は、ずつと病床に就いたきりで、一步も室外に出かける譯ではなかつたが、臥たきりでゐても、案外さういふことはすぐに解つてしまふのである。
 靜かな夜ふけに、忙がしく氷を碎く音が聞える、看護婦や附添ひがそそくさと廊下を往復する。重症患者が危篤に陷つたのだといふことは、それだけでもうすぐに推測されるのである。ぼそぼそと人聲がする、何か器具をとり落す音が聞える、歔欷の聲も聞えてくる。どこの部屋のどういふ職業のどういふ年齡の患者が、どういふ病狀だといふことは、誰にきくといふでもなく、日頃から詳しく解つてゐるので、その夜のさういふ騷ぎが、どの部屋で起つてゐるかといふことも、すぐに想像はつくのである。その病室の中の樣子まで、手にとるやうに、まるでその場に立會つてゐるやうに解つてしまふのである。病院といふところは、お互の患者が、ベッドに就いたまま、千里眼か何かのやうに、お互の生活を透視し合つて暮してゐるところである。
 さういふ騷ぎのあつた翌日は、私の部屋の筋向ひに、しきりに人の出入りがある。それがさういふ種類の部屋だといふことは、だからすぐに私にも解つてしまつた。そこではしめやかな話聲が一と晚中つづいてゐることがあつた。低い聲でお念佛か何かの始まることもあつた。また柩の蓋をうちつける荒々しい槌の音の聞えてくることもあつた。ある時ふと、私の部屋に來てゐる看護婦が、そちらの方を顎で示して、こんなことをいつた。
 ――馬鹿だね、歌なんかうたつて、法被を着てゐるんですよ、あの人……。
 なるほど先ほどから、さういへばその部屋からは、つまらぬ流行唄か何かが、暫く中斷しては、またしても思ひ出したやうに聞えてゐた。私はただ何氣もなく聞きながしてゐたが、樣子を聞いてみるとかうであつた。その男は一昨晚、突然女房を車にのせて、病院の玄關に乘りつけてきた、前ぶれもなしにやつてきたのである。女房は既に危篤の狀態だつたので、病院でも面喰つたが、何はともあれ受けとつて手當を加へた。女房はその次の晚に息を引とつた。その枕頭に、あの男はああして法被姿で一人坐りこんで、あんな風に歌をうたつてゐるのである、といふのである。
 ――馬鹿だねえ、歌なんかうたつて……。
 と看護婦はもう一度繰りかへしたが、私の耳にはその言葉は何か聞きづらいものに聞えた。その部屋に運びこまれ、その部屋から運び去られる人の數は、私がそこにゐた三月ばかりの間に、十人をなほ幾人か越えた。私はその都度、だから、それぞれ樣子の變つたそれらのお通夜に、蔭ながら立會つたやうな譯であつた。おかげで私はすつかり滅入つてしまつたのである。
 私達の日常生活といふのは、見榮や外聞や、洒落つ氣や乃至は身嗜みや、さういふ風な娑婆つ氣で、その大部分が支へられてゐるといつてもいいやうである。氣持に張りがある、といふのも、つまりたいていは、その姿婆つ氣の何かなので、一たびその娑婆つ氣の支へが失はれると、たいていの人物がどういふことになるだらうか、彼らの演ずる相當意外な、滑稽な、見つともよくない情景も想像するに難くないやうに思はれる。
 先年H・T君の小說が文壇の話題となつた時分、ある私の知人は、あのやうな誇りを失つた悲慘な生活記錄を、小說だなどと稱して麗々しく世間に示す位なら、自分はむしろ死を撰ぶ、自分ならああいふ醜惡な病氣に罹つておめおめと生きてゐようとは思はない、自分には何よりも血の誇りが必要だから、と言ひ放つた男があつた。その男はさる名家の出であつたが、なるほど彼なら、血の誇り家系の矜持といふやうなものを平素私かに覺えてゐるのも、さるありさうなことだと思はれた。私はさういふ誇りを覺え颯爽たる誇りを以て生きてゐる人物の氣持を羨望もし讚美もする、それは美しいことに違ひない。どうか他日天與の機會があつて、さういふ誇りの中身が果してどういふものか實踐の上で私達の前に示してほしいものである。これは厭味でいふのではない。たださういふ日の來るまで、私はその男の書く文章を一切讀まないことにひそかに決めたのもまた事質である……。
 誇りを以て生き、誇りを以て死す、實際それほど美しいことはない。私のやうな意氣地のない氣持に張りのない者も、さういふ境地の美しさを想像し讚美することは出來る。けれども、どうも自分が現在さういふしやつきりとした氣持、さういふ何かの誇りに生きてゐるとは思へない。これは私の憐れむべき打明け話の一つである。
 私は先ほどのその病院で、先ほどのその例のお通夜を繰りかへしてゐるうちに、私といふものの隨分他愛ないことをつくづく悟らざるを得なかつた。死の恐怖、その前で私の精神がどんなに卑怯に尻ごみをし、どんなに醜態の限りをつくしたことだらう。私の惱んだ神經症狀も、殆んどその慘めな恐怖の結果だつたといつていい。
 この世間に於ける私達の生活、娑婆の生活は、多かれ少かれ、娑婆つ氣の支へで支へられてゐるものである。その娑婆つ氣の旺んな間は、たとへ健康を失つて病院に身を橫へようとも、隣室で慌だしく柩に釘が打たれようとも、不思議とさほど骨身にこたへないものである。その時分はまだ、從容として死に就く立派な勇氣が、どうやら自分にもありさうな氣持がするのである。ところがさういふ病院生活の日數を重ねるに從つて、世間の騷音が次第に耳から遠ざかり、無念安逸に慣れるにつれて、不思議に孤獨な精神が蘇つてきて、例へば廊下を通つて厠に通ふのもこはかつた子供の頃のやうな、心細い氣持を覺えるものである。一たびさういふ氣持の虜となると、達者で活動してゐる人々の姿が奇怪な幻影のやうに見え、友達の親切な手紙や勵ましの言葉さへも、得體の知れないたぶらかし乃至は挑戰のやうにも受けとられるのである。何といふ呪はれた氣持であらうと、時に自ら反省もしてみるのだが、さういふ反省自身が既に世間的なよそ行きのものであつて、いつかう無力なのを悟る位が落ちである。
 さういふ困つた氣持に惱んでゐた、その私の病室の窓からは、空地を隔ててその病院に附屬してゐる醫學校の校舍が見え、校舍の影には小さな平屋の建物があつて、そこには七十歲ばかりの頭の禿げた一人の老人が住つてゐた。老人は古くから其の學校に傭はれてゐる小使であつて、解剖室で解剖のあつた時にその跡片づけをするのが彼の役目だといふのであつた。その老人は時とすると私の部屋の窓口のところまで遊びにきて、
 ――なあに、肉屋や魚屋をみてごらんなさい、あれとおんなじぢゃありませんか、人間だつて、死んでしまつて切りさばかれりゃ、俺はいつもさういふんだ、鷄や魚もおんなじことさ、何を氣持惡がることがあるものかい……
 などといつてさも平然と陽氣に笑つて見せた。その頭のつるつるに禿げた小柄な老人は、そんな老齡にも拘らずどこかのお內儀さんと私通をしてゐるといふ噂で、時たまその平屋の小使部屋に出入する、襟もとにハンカチをかけた女の姿が見うけられることもあつた。
 私にはその老人自身も、看護婦たちがまたしても口にするそのつまらぬ噂咄も、二つながら甚だ氣持が惡かつた。食慾を失ひ、不眠に陷つて、ひどく氣分の滅入りこんでゐた私には、その老人のなりはひや生活ぶりが、どうにも氣味の惡い、その上何かしら威嚇的なものに思はれてならなかつた。私はさういふつまらぬ身近な見聞から、ただ意氣地もなく日々脅やかされた。――死の恐怖、つまりはそれだけのことに根ざしてゐたのであるが。
 アンリ・ファーブルの『昆蟲記』第十卷の最後の結びの一句には、ただ「働け」といふ一語が記されてゐる。この地上に生を享けた生きとし生けるものは昆蟲も人間も、ただ働くことによつてその生を完うするより外に道はない、それが自然の最上の命令だ、といふほどの意味であらう。それはあれほど丹念に緻密に自然を凝視したファーブルの多年の思索を要約した一語だといつても間違ひのない言葉である。私はふとある夜その言葉を思ひ浮べた。さうして私がこのやうに慘めな姿で、死の前に濡れ鼠のやうな憐れな姿で戰き慄へてゐるのも外でもない、甚だ抽象的ないひ方だが、私が働かなかつたからであらうと考へた。「働け」と自然が命じてゐる以上、働いた者は安らかな生の終末に惠まれる筈である。死を怖れる者は、その者が實は自然の命ずる通りに働かなかつた證據でもあらう。私はさう考へて私の心を落ちつけようと力めたが、私はファーブルの哲理には承服しても、それと共に私の苦がい後悔から脫け出すことは容易に出來さうもなかつた。私はまたある時はいくらか自暴自棄に、自分のさういふ慘めな姿を、どう救ひ上げようとも試みないで、自分の心をそのまま放下して一層慘めに醜いものとすることに、無關心でゐてやらう、よそ眼にはどんなに無樣に見えようともかまはない、私も一つ見物人のつもりでそれを袖手傍觀してゐてやらう、そんな風にも惡く度胸をきめてみたが、さういふことでどうなる譯のものではなかつた。結果は益々虛無的な空想が私を苦しめ私を不幸にするばかりであつた。私はもはや自らを憐れんで淚を流すほどの感傷癖も失つてゐたので、ただ氣力のない眼を見開いて溜息をつくよりほかに手だてを知らなかつた。人生の修養とか死生の覺悟とかいふものも、氣力の衰へた病弱の體軀では工夫の出來るものではない。それは健康時のしつかりした精神の上に立つ平素の用意に俟つべきものであるのを、私といふ愚か者はそんな時にあつて初めて氣づいたやうな始末であつた。臨終のことを習つて餘事に及ぶべしとはさる高僧の言である。エセーのモンテーニュも、哲學とは死の用意をすることに外ならない、と前置きしてあの語錄をその彼の用意の手だてとして書き記した。達人賢人の言は槪ね軌を同じうしてゐるのを思ふにつけても、私は自分の平素の迂闊さや橫着さをつくづく後悔しないでゐられなかつた。
 當時のそのやうな苦澁な經驗を經て、その後私がどれほどの變化をとげたか、それは私自身にも解らない。その後既に七八年の歲月を隔てたが、今日の私も依然として昔日の舊阿蒙であらうかと思ふと、私は時にまた慄然として身內に惡感の走るのを覺える。私は私の精神のあの一つの惡い季節からは恢復した、それは私の肉體が私の病氣から恢復するのと步調を合せるやうにして恢復した。私は恢復したけれども、私は何ものを克服し何ものを新たに獲得した自信もない。私はただ時間の經過につれて一つの負傷が自ら癒着するやうに恢復したのである。さうして私は再び俗世間に立戾つて、俗世間のヴァニティー、何の賴りにもならない娑婆つ氣といふものを多分に身につけて、日常の行動をそれによつて支配されそれによつて支へられてゐるのを覺える。だから私といふものは、もう一度その支へを失へば再びどういふ世界に沈淪するか、これはもう既に試驗濟なのだからそれを思ふと大變いやな氣持がする。私は必ずしも死を、死によつて私といふものが空無に歸することを怖れる譯ではない。(まして來世といふものがあれば、それも大變結構である。)私自身といふものは、私の肉體も私の仕事も、さほど惜しくはないのである。ただ私は死の苦痛と、私達には正觀することの出來ないあの虛無と、それらを以て樣々な風に脅やかされるあの混亂した氣持とを怖れるのである。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 これが私の希望であり私の祈りである。緩やかな坂路を下るやうに私は死の國へ下つてゆきたい。私は必ずしも長壽や老齡を希ふものではないが、それが死の國への緩徐な靜かな移行きである自然な通り路なら、私はそれをやはり自分の通り路としても撰びたいと思ふ者である。
 私の親しい友人達の幾人かは、この緩徐な手間のかかる、しかしながら靜かな自然な通り路をよそにして、彼らの急坂を遽だしげに驅け降りて、無慘な病魔󠄁にせきたてられて遠い地平に沒してしまつた。
 K君は、とある初夏の日の夕暮、ある街角で私の飛び乘つたバスに向つて、片手を擧げて微笑と共に別れの合圖を送つてゐたのが、そのままこの地上の最後の訣別となつてしまつた。
 T君は、ある夜ふけの橋の上でいやといふほど私の足先をふんづけて、私を不機嫌にしたのを記念にして、その後間もなく永遠に消息を絶つてしまつた。
 N君は、私の多年愛用したステッキの磨り減つて短くなつたのを、脊丈の低い彼には恰も手頃だと稱して所望してゐたが、そのうち私の宅まで受取りに來ると約束をしておいて、そのままたうとう來ずじまひになつてしまつた。ステッキは依然として拙宅の物置に殘つてゐる。
 またもう一人のK君は、眞夏の暑い日に私が病氣を見舞つて訪問すると、恰もその人らしく私の制止するのも聽き容れず枕許に端坐して、浴衣一枚の寢卷姿のままではあつたが、甚だ几帳面な應接ぶりで私を辟易させ、さうして彼といふ人物の印象を私のためにもはつきりと完成させて、その最後の終止符を打ちそへるやうに、玄關の閾際で極めて丁寧なお辭儀をした。
 O君は、ある田舍へ突然私を訪ねて來て、そのまま私の忠吿も聽かず更にその山奧の溫泉場へ傭ひ馬に搖すられながら入つて行つたが、その彼の何ものかに追はれるやうなせかせかとした後姿は、今日も私の眼底に殘つてゐる。
 このやうにして思ひ起してみると、これらの人々が私の記憶に殘していつた、それぞれのふとしたその最後の擧止や言動は、思ひなしか、みなそれぞれの深い運命の陰翳に隈どられた、何といつていいか、一種月光的なものとして思ひ起されるのである。死者らの姿の森嚴……それを森嚴と見る者は、多くの些事から成立つてゐる私達の日常生活をも、やはり同じやうに森嚴と見なければならない筈だらう。さう思ふと、暫くの間の病院生活ででも、あれほど心をとり紊した私のやうな凡愚の者の、日頃はどれ位迂闊に暮してゐるかといふことにも、小さからぬ且つは森嚴ならぬきを感ぜられるのである。

 

 

三好達治「半宵記」(『全集9』所収)

「小動物」

 

「小動物 一」

 

 私は餘り蛇を怖れない性質(たち)である。一度こんな經驗をしたことがある。
 洛外嵯峨に、嵐山電車を降りて渡月橋とは反對の方角に、釋迦堂といふのがある。もう十四五年も昔のことなので、私はこの文章を書きながら、その釋迦堂の境內を思ひ出さうとしてみるが、道の正面に聳えてゐた山門の外、私の眼に浮んでくるものは、いつかうにみなとりとめがない。それでこの文章の前置きに、風景描寫をすることはたうてい出來ない。しかし次のことだけは、それに引かへ、はつきり記憶に殘つてゐて、昨日のことのやうに眼に浮べることも出來る。
 その境內のどこであつたか、ある建物の前の、石と石との隙間のところに少しばかり草の生えた、砌の上をちやうど私の步いてゐた時、私の前を三尺ばかりの蛇が走つた。今から思ふに、どうもそれは、靑大將だつたらしい。その蛇は、首から五寸ばかりのとこに、一ところ、變な膨らみをもつてゐた。それが私の注意を惹いた。私は突嗟に、別段何の分別もなく、二三步彼の後を追つて、その尻尾を、矢庭に靴で踏んづけた。私の靴底と石との間に、うまい具合に、彼の尻尾は捕へられた。私は一寸ぎよつとしながら、やはり何の分別もなく、ものの拍子といつてもいい行きがかりから、そんな風なことになつた、その私の立場を、その場の嫌惡に耐へて、暫く守りつづけてゐた。捕虜となつたその蛇は、不意の災難に迷惑して、その上半身を、二三度左右に振つてみせたが、それでもいつかう尻尾を放して貰へない、――その場の事情を、彼なりに、何と合點したのであらうか、一寸靜かに落ちつくと、今度は、先ほど私の注意を惹いた膨らみ、その腹中の一物を、身悶へといふほどのものも見せずに、器用に吐き出しにかかつたのである。その時の彼の表情は惡戲小僧が素直に降參したといふ、ただそんな、無邪氣なものに眺められた。私は少し興味を覺えて、その彼の膨らみが、小刻みに少しづつ、頭の方へ近づいてくる、吐逆の樣子を見まもつてゐた。やがて彼は、鎌首を一寸もたげて、こつくりと、眼の前の土の上に、黑いものを吐き出した。それは一匹の蛙だつた。唾液のやうなものに濕れた、その蛙は、腹匍ひに置かれたまま、既に正氣を喪つて、ぐつたりとして動かなかつた。しかしそれから一二瞬の後、つぶれたやうにへたばつてゐたその蛙は、うつけた氣持でそれを見てゐた私の眼の下で、大きく一つ息を吸つた。二三度呼吸を繰返した。それからむつくり起き直つた。さうして後脚に力をこめて、退儀さうに土を蹴つたが、思ふやうには躍べなかつた。それでも二三度躍んでゐると、頭がはつきりしたのか、今度は急に活激に、力いつぱい躍びはじめた。さうしてすぐに、叢に隱れてしまつた。私の捕虜はその間も、微かな音をたてながら、迷惑さうに藻搔いてゐた。私は彼を釋放した。彼もまた一瞬の間に、私の前から姿を消した。極まり惡さうに、こそこそと、乾いた土の上を走つた彼の姿は、一寸氣の毒のやうでもあつた。一つの命から、もう一つの命をとり出して、とにかくそれを二つのものに引分けて野に放つた、そんなことが、その時の私を、一寸得意な氣持にした。
 これは、とある田舍で見かけた話。
 その時私は、年若い友人と同道して、一つの土橋に通りかかつた。初夏の蒸し暑い日であつた。ここかしこ楊(やなぎ)の新綠が煙つてゐる、そこの河原の風景は、嘗て私の旅行した、朝鮮北部の、やはりそんな河原の風景に似通つてゐた。折からの微風に、楊の絮(わた)もとんできた。私達が、その土橋の、橋の袂にさしかかると、それまでそこの水際で、何かを漁(と)つてゐたらしい二人の子供が、橋の蔭から現れて、ちよこちよこ走りで、私達に先んじてその橋を渡らうとした。手には罐を持つてゐる。私は思はず、その罐を覗きこんだ。罐の中は私にはよく見えなかつた。
 ――何をとつたの?
 私は同時に言葉で尋ねた。
 ――かじか。
 一人の子供がさう答へた。
 ――かじか?
 ――かじかがへる。
 その子供は、二度目には、丁寧にさう答へて、鰍ではない河鹿だといふことが、その時はもう嚥みこめた私の前に、その罐の中から、一匹の河鹿を摑み出して、額の上の、私の顏に眼をあげた。それを私に、通りすがりの旅人に、くれるつもりだつたらしい。
 ――ああ、さう、かじかがへる。かじかがへるだね。
 私はさう、なだめるやうに返辭をした。――欲しいのではない、ありがたう、とい位のつもりであつた。するとその子供に、私の氣持が解つたものか、さてその上で、どう思つたのか、彼はそれを强て私にくれようとは、その身ぶりにもその言葉にも、露はには現さないで、そのままそこにしやがみこむと、その手の中に握つたものを、土の上に置いてみせた。――欲しければ、上げるよ、とでもいふほどのつもりだつたものらしい。土に置かれたかじかがへるは、子供の小さな手の下から、早速ぴよんぴよん跳びはじめた。
 ――どうしたの、いらないのかい、逃げつちまふよ。
 私はそんなことを云つた。いとけない私の相手の、露はに云へば反省を促したのである。
 ――いらない。
 私の相手は、ただひと言、うつむいたままでさう答へた。子供の心境といふものは忽ちのうちに變化する。私は一寸まごついて、言葉に窮した。
 その間も、河鹿はぴよんぴよん橋の面を跳んでゐる。今度はそれが氣になつた。斜めにそこを跳んでゐた、その河鹿は、もう橋の上を跳びつくして、その方向に跳ぶつもりならもう跳ぶ餘地もなくなつた。どうするだらう、そんな勢ひで跳びつづけて、危ない……
 私がさう思つた途端に、河鹿は一層勢ひよく、ぴよこんと一つ跳び躍ねた。さうしてそのまま、溪流の中に跳びこんだ、二間ばかりも水面を離れた橋の上から。

 

 河鹿といへば、私にはまた、一寸忘れられない思出がある。
 まだ學校へも上らない子供の頃、私は一度、山陰地方のある町へ、貰ひ子に貰はれていつたことがある。その頃のことは、うろ記えながら、まだひととほり私の記憶に殘つてゐる。
 それは夏の夜だつた。庭に面した奧の部屋では、父の知人のSさんを前に、父と祖母とが、一つの⻝卓を圍んでゐた。ビールか何かの晩餐がはじまつてゐたのである。Sさんは私達子供にも顏馴染の、私達の家庭では屢々名前の出る客人だつた。私達は次の部屋で、私達もまた、家庭に親しい知人を迎へた、子供心のうれしさに、少しばかり羽目をはづして、はしやいでゐたのを覺えてゐる。二つの部屋のとなりあひの、葭簀の障子か何かを透して、二つの部屋のありやうは、お互に見とほしも同樣だつた。
 暫く時間がたつた頃、私一人が、父の聲で隣室に呼び入れられた。一寸家內が靜かになつた。私は部屋のまんなかにぼんやりとつつ立つてゐると、その時父が、突然こんなことを云つた。父はその時、醉つ拂つてゐたのに違ひない、といふことが、これはずつと後になつて、私にも解る時がきた。
 ――この小父さんのところへ、行くかい?
 藪から棒に、そんなことを問ひかけられて、私は無闇と固くなつた。父はまた重ねて云つた。
 ――この小父さんは、小父さんのお家へ、お前を伴れてゆきたい、さう云ふてゐやはるのや。どうや、お前、行くかい?
 云ふまでもなく、その時の私には、前後の事情が嚥みこめる筈もなかつた。祖母とSさんとは、笑顏になつて、私の方を眺めてゐる。私はやつと、自分が、叱られてゐるのではない、といふ位のことを納󠄁得した。
 行く。私はさう答へた。祖母がまた、同じことを私に尋ねた。私はやはり行くと答へた。さう答へた時の氣持を、私は今も覺えてゐる。その氣持を思ひ出すと、私は今でも、少し心が暗くなる。その頃から、自分の家庭を、私は愛してゐなかつた。そんな不幸な過去に就て、また私の頑な性質に就ては、別に一度、少し詳しく書いてみたい。それは兎に角、その時私が、そんな風に、私の見知らぬ遠い町へ、行くと答へたのには、そんな漠然とした氣持の外に、一寸奇妙な、直接な理由が別にあつた。
 その前一度、Sさんが私の家へ、籠に入れた河鹿を持つて、何かのついでに、一寸ひと足寄り道をしたことがあつた。私はその河鹿を、私の家へのお土產に、貰つたものと思つてゐた。私達兄弟は、その籠の周りに集まつて、額を寄せて、籠の中を覗きこんだ。その不思議な薄暗い小さな世界は、今も私の眼に殘つてゐる。しかしSさんは歸る時に、その籠を持つて歸つた、それには私は心の底からがつかりした。そんなことも、それからそのまま忘れてゐたが、この小父さんの家へ行くかい、さう問はれた時、私は遽に、先日のその河鹿のことを思ひ出した。その籠が、何より先に、眼に浮んだ。
 それから十日ばかりして私は家族の者と別れた。
 途中の汽車の中で、私は河鹿のことを尋ねた。Sさんは、怪訝な顏をして見せた。私は詳しく、先日の籠の話をして、相手にそれを思ひ出させた。
 ――ああさうか、その河鹿なら、ゐるよ、ゐるゐる……。
 Sさんはさう答へた。ある筈だ、ゐる筈ぢやないか、相手の顏を見つめながら、私はさう思つた。
 家に着いてみると、その籠は、しかしどこにも見當らなかつた。河鹿はどこにゐるの、私は幾度もさう尋ねた、その度に、新らしい私の父母は、要領を得ない答へを繰かへしていつも私をはぐらかした。

 

 

「小動物 二」

 

 先日鼦といふものを見かけた。
 何處へ行つた歸りであつたか、夕方、スキーを引ずつて宿の附近の急阪を登つてくると、その路の前方の雪の上に腰を下ろして、スキーは靴から離して脇に置いて、やや年輩の一人の男が休んでゐた。彼はやや小高いその位置から、顏は私の方を向いて、さうして片手をあげて私の背ろの方を指して、何か私に注意を促してゐるやうな風に見うけられた。その意味がも一つ嚥みこめないので、別段步を急がせるでもなく、私は遲々とした步き方で彼の方へ近づいていつた。そのうち、やがて彼の聲が聞きとれる距離に近づいた。
 ――狐! 狐!。
 彼はさう呼んでゐるのである。狐とは珍らしい、私はさう思つて、はじめてそこで步(あし)をとめて、背後をふりかへつた。脚もとの小さな澗を一つ隔てて、眼の先の山地の斜面に、もちろん雪の上を、小さな動物が一匹小走りに走つてゐるのを、すぐに私は眼にとめた。それは狐ではなかつた。
 ――鼦でせう。
 私はさうその旅人に答へた。それは狐よりもずつと小柄な、脚の短いそしてからだ全體の半ばに近い尾をもつた、走る時にその背中を一種特有のしなやかさで波うたせる、それらの風體から、疑ひもなく鼦であらうと、私はひとりぎめに決めてかかつたのである。鼦といふものを、(――かうきめてかかるのは、なほ多少早計だらうが、)私はこの時初めてその實物を見かけたのである。それは、その旅人がそれを狐と見間違へたのも多少どうかと思はれるが、とにかく毛色だけは狐に似た、狐色といふよりももつとうすい淡黃色の、なるほど襟卷にしてもよささうな色合なのが、あたりの雪との對照で、やつと薄暮のうす暗いうちにも認められた。その毛色だけが鼬とも違つて、聞き覺えの鼦の毛色にかなつてゐた。それだけではない、このあたり一帶の山地に、近ごろ鼦が跳梁してゐる評判は、かねがね私も聞き及んでるた。夏ごろこの宿に滯在してゐた山獵師は、今年はめつきり兎が減つてねつから姿を見かけない、鼦の野郞が騷いでやがるに違ひない、といふやうなことを云つてゐた。宿から十町ばかり下つた谿合の茶店の親爺は、生簀の鯉を二匹、すぐその茶店のそばを流れてゐる溪流から釣り上げた岩魚を二匹、これは盥に入れて炭俵で覆つた上に重しの石を載せて置いたのを、うまうまと鼦にしてやられたとこぼしてゐた。鯉の方は、小屋のまはりを方方探し𢌞つて、やつとその鼦の⻝ひ殘していつたのを見つけ出してそれでもそれを晩酌の肴にしたが、――ひどいことをしやがるもんでごわすぜ、おらどうにも業がわいてならないと云つてゐた。
 旅人に敎へられて私の見かけたその鼦は、樅の木立の間から、ちよろちよろと雪の斜面を走り下りて、一抱へにも餘る白樺の木の根方を、何のためかくるりと一まはりして、また斜にちときた方へ、樅の木の寄合つた木下闇へ引きかへしていつた。さうして姿を隱す前に、ちよつと立ちどまつて、私達の話聲をききとめたものか、その小さな顏をこちらの方へふり向けた、時間ぎめの出張敎授――と、ルナールがうまいことを云つた、あのせせつこましい分別顏である。
 もう五六年以前のこと、私は大阪の、阪神電車沿線の野田驛附近を、夜ふけに步いたことがある。阪神國道を圓タクに乘るだけの金もなくして、いやな氣持で、――ついでに深夜の場末の風景でも見物してやれといつた氣持で、浮浪者のやうに步いてゐた。國道電車はもうとまつてゐた、けれどもトラックとタクシーがひつきりなしに走つてゐたのは云ふまでもない。そしてそれらのタクシーが、うす暗い步道を步いてゐる私を見つけ出して、代る代る車をこちらへ驅け寄せて、うるさく乘車をすすめたのもまた云ふまでもない。私はそれらの勸誘者に、金がないんだといふことを一一答へた、これはこんな場合のいつもの私の流儀である、しかしそんな風に、自分の無一文を繰返し告白しながら冬の――さうだそれは冬だつた、路傍に櫛比してゐるコーヒー店、といつても軒店のコーヒー店、これは東京ではあまり見かけないやうに思ふが、(近年東京の樣子にうとい私のことだから、或はとんだ失言になるかもしれない、)自動車の運轉手助手を殆んど專門の顧客としてゐるそれらの深夜のコーヒー店も、みんな入口の硝子障子をしめ寄せてゐた――そんな冬の夜ふけの鋪道を、とぼとぼとお拾ひで行くのは、どうにも餘り感心した圖ではなかつた。
 前方から疾走してくる自動車のライトが、次々に現れて、それらの乘物のために磨きのかかつた路面や、ポプラか何かの冬枯れの並木を照らし出す、その矢繼早やな、闇と光明との入れ替りは、しかし虛心に眺めてゐると、一種都會的な、この場末にふさはしい情趣を帶て、その時の私のうらぶれた氣持と、互に呼應してでもゐるかのやうに、ひそかに諧和してさういふ折からの一種のリズムを奏でてゐるのが感ぜられた。
 その時私は、恐らく私一人がそれを認めたであらう、如何にも機敏な、印象的な、そんな夜ふけの小さな獸ものの動作を睹かけた。
 その道幅は何間ばかりあつたであらう、その中央を走つてゐる、電車線路のレールの上を、橫つとびに、私の行手の右から左へ、一匹の鼬が、鼬の道きりをしたのである。小さな頭と、薩摩芋ほどのその細長い胴體と、胴體より心持もち上つたその長い尻尾と、それらが一種美的なしなやかな波狀を描いて、全速力のギャロップで、丁度私の方へは、その洒落たシウルエットを見せながら、さらにその向ふから逼つてくる自動車のヘッド・ライトの光りの中を、多分それは承知で脇眼もふらず突つ切つた、――その颯爽とした小動物のさかしらを、その後私は折にふれて思ひ出すことがある。

 

 鼬といへば一度こんなこともあつた。
 その日私は、潮風の匂つてくる神崎川の河口に近い堤防の草の上に腰を下ろして、雜誌か何かを讀んでゐた。
 脚もとに何か動くものがあつた。私は雜誌の下から、投げだした自分の爪先の方に目をやつた。丁度そこのところへ、ひよつこり顏を出したものがある。こんな風にしてその時私は、一匹の鼬と對面した、それは對面といふ言葉にふさはしいほど、ほんのま近かに彼と私と、眞正面に顏と顏とを向き合つたのである。三分の一秒ばかり彼は私の顏を見つめてゐた。彼にとつても意外であつたに違ひない。それからくるりと身を飜して、失敬――と云つたかどうだか、それは聞き洩したが、急いで叢にかくれてしまつた。

 

 ある小春日和の暖い日、省線東中野驛の傍の陸橋の袂で、私はひと組の家族づれに出會つた。その家族づれに別段何の變つたところがあつた譯でもない。小肥りの働き者らしいお內儀さんは、絹ものではない質素なかいまきの中に赤ん坊を背負つてゐた。その左手に並んで、齡ごろの小娘が一人、風呂敷包みをかかへてゐた。それからお內儀さんの右手には、彼女に手をとられて、まだ學校へ上らない位の、頑是ない男の子が、頰つぺたの赤いむつつりとした顏をして、精いつぱいのちよこちよこ步きで、みんなに步並を合せてゐた。このひと組の家族づれを、その後永く私が忘れないでゐるのは、いや、やはりただ一つ、ただ一つ、ちよつとその服裝に變つたところがあつたからである。
 その小さい男の子が、ちよつと變つた襟卷をしてゐた。鼬の襟卷をしてゐたのである。鼬はそつくり一匹の、ただ一匹のそつくりそのままのものであつた。それはうまい具合に、その小さな子供の襟卷になつてゐた。眼玉のあとの二つの孔に紐をつけて、その紐が尻尾の端を結んでゐる。その輪がお誂へ向きに、餘裕もないが不足なしに、着ぶくれた厚着の中に隱れてしまつたその咽喉のところをとり卷いてゐるのである。それは一見して、餘計なお世話だが、手製の襟卷だといふことが推測された。
 彼等三人、かいまきの中の赤ん坊もいれて四人の背中に、小春日和の午後の陽ざしがふり注いでゐた。彼等の姿だけではない、その時彼等をとりかこんでゐたあたりの雰圍氣、陸橋の袂の風景と共に、私はそれを永く忘れないでゐる。

 

 

「小動物 三」

 

 故梶井基次郞君が、攝津伊丹町の近郊に假寓して宿痾を養つてゐた頃、私は度々彼の病床を見舞つたことがある。
 それはある盛夏の一日であつた。床の上に起き直つた梶井君と私とは、とりとめもない雜談を交へてゐたが、たまたま私達が同じやうにそちらへ顏を向けて、二人の視線をそこに落してゐた、その病室の前の小廣い前栽の、平らな石を程よく按配した飛石路の、一ところ、それらの石を三つばかり寄せ集めた、丁度庭の中ほどに當るそこのところへ、蜂が一匹下りたつて、いかにも身輕な走り方で、水の上を走る水馬よりももつと遙かに輕快に、强い光線の降り注いでゐる石の上を、夢のやうに走つて見せた。
 ――あの蜂……
 とか何とか梶井君が私に言葉をかけた、その時には、私も丁度その昆蟲に眼をとめてゐたところであつた。まるで重さなどのないほどの華車な體軀と、透明な刃物のやうな强い翼とをもつたその昆蟲は、彼の前一二尺の距離を、つと一走りに走ると見る間に、石と石との寄合つた、そこのところに何かの草の立つてゐる、私達の眼には見えなかつたわづかな隙間へ、そのままするりと走りこんで姿を隱した、――ほんの一瞬の間であつた。梶井君はその蜂の身ごなしの敏捷さを、何か洒落た言葉で私に說明したが、私はそれを忘れてしまつた。梶井君はまた、その蜂が時とすると獲物の蜘蛛を運んでくる、後ろ向きになつて引摺るやうにしてそれを運んでくる、その樣子をも私に說明した。私はファーブルの昆蟲記に、蜘蛛をその巢に運びこむ、そんな種類の蜂に就て面白い觀察の記されてゐるのを、かいつまんで物語つた。
 その庭の、私達の向つてゐた正面には、綺麗に鋏を入れたかなめ垣を越えた向ふに、靑田を隔てて、カンナの花の燃えるやうに咲き揃つてゐる、とある一つ家の後園を、私達の方からは、丁度その側面を眺めることになつてゐた。日暮れ時、その家の主人とその子供らしい男の子と、二人がそこに現れて、花園に水を撒く、――それを每日、ここから遠眼鏡で觀察して、一つの小說を書いてみたい、梶井君はそんなこともその折私に話して聞かせた。彼はもはや病床を離れることが出來なかつたのである。

 

 梶井君がなくなつてから、二年ばかりもたつた後、私はとある田舍の旅籠に、半年餘り滯在したことがある。その宿の私の部屋の窗には、櫻の花の咲き終つた初夏の候になつてあの腰の細い身輕な蜂が、時たま姿を現した。その昆蟲を見る度に、私は梶井君の病床と病室の前の前栽とを、彷彿と眼に見るやうに思ひ泛べた。やがてその蜂も、いつとはなく私の眼にとまらなくなつた、もうその頃は、窗のあたりを徘徊しなくなつたのである。
 それから暫くたつて、無精者の私のこととて、氣になり初めてからもなほ一週間もうつちやつておく、無精髭の伸びたのを、やうやくその日はあたる氣になつて、鏡臺の前に置いた安全剃刀を手にしてみると、これはまた、その剃刀の一寸ばかりの柄のところの、中空になつた內部の暗がりに、岱赭色の粘土がいつぱい塡まつてゐる。誰の惡戲だらう、初め私は一寸さう思ひ惑つたが、そのうち私には、その嫌疑者の目星はだいたい思ひ當つた。蜂だ、あの蜂に違ひない。
 私は湯殿に下りて、その剃刀で髭をあたつた。剃刀のその柄の中には、借家人が住まつてゐる、さう思ふと、やはりそれが私の氣がかりになりはじめた。せつかく丹精こめて作られたこの赭土の巢、なるほど堅固な場所を撰んだものである、昆蟲の智慧の賢さとその儚なさとが、暫く私の心を捉へた。それと共に私の好奇心が動きはじめたのは云ふまでもない。
 つひに私は私の好奇心にうち負かされて、盥に汲んだ湯の中へ、その剃刀を投げこんだ。待つ間もなく、その柄の口のところから、盥の底へ、少しばかり赭土が流れ出た。剃刀をつまみ上げてみると、一塊りの淤泥(どろ)になつて、可憐なその建ものは、流し場の上に滴り落ちた。さうしてその淤泥の中に、脚の長い小さな一匹の蜘蛛と、蜘蛛の五分の一ばかりの小さな毛蟲とが現れた。毛蟲の方は動いてゐた。好奇心にそそのかされて、こんな破壞をなし終ると、私は一寸暗い氣持に閉された。
 私はまた、なくなつた友人のことと、彼が書かずにしまつた小說のこととを聯想した。

 

 

「小動物 四」

 

 その日は、家族の者はみんなでどこかへ出かけてゐた。私は學校から歸つてきて、うす暗い屋敷の中に、さうして私一人が取殘されたのを、やり場のない、立腹に似た心持ちで顧みながら、幾つかの部屋を、足音の高い步き方でひと周り步いてまはつた。火鉢や座蒲團や、眼醒し時計や蠅帳や、机や硯や十露盤や、まるい火屋の竹洋燈や、等々々、それらの見慣れた古い品々が、それぞれのいつもの位置に置かれてゐる、日頃のままの室內が、私の眼には、何とはなし、普段とは樣子の違つた、少しばかり氣味の惡い、お噺しめいたものに見えた。そんな部屋の中に、暫くぼんやり立つてゐると、切戶の外の裏の畑で、爺やが何かを割つてゐる、斧の音が聞えてきた。しかし私は、なぜか、耳の遠いその爺やに聲をかけてみる氣にはならなかつた。
 私は窓のところに、椅子を一つ持出して、庭に向つて腰を下ろした。さうしてその時、子供心に、そんな風に自分一人でゐることの、うち寬いだ愉しさをしみじみと覺えたのを私は今もはつきりと記憶してゐる。もうやがて、三十年近く昔の話である。
 障子を開け放つた窓の閾に、肱を張つて兩手を重ね、その手の甲に顎を置いて、そのまま居睡りでもしさうな姿勢で、それから小半時も、私はそこでぼんやりと休息してゐた。
 窓の前の赤松には、いろんな種類の蟬が、松いつぱいに集つて、聲を揃へて鳴いてゐた。私はそれを、聞くともなしに聞いてゐた。
 するとその時、そのコーラスの調和を破つて、滅茶苦茶な聲で鳴きはじめた、一匹の蟬があつた。私は顏を上げた。見ると、その蟬は、地上に墜ちて鳴いてゐる。鳴いていると云ふよりも、そこの土に、頭を擦りつけるやうにして、力いつぱい羽搏きながら、藻搔いてゐる。――さうして鳴いてゐるのである。
 私はかねがね、信心家の祖母から、鳥蟲魚介すべて生き物と名のつくものは、殺生はもちろんただそれを捕へて遊ぶことさへも固く禁じられてゐた。そんな私の眼の前に、今、どうした譯か、空から舞ひ墜ちてきた一つの蟬。それがどんなに私の好奇心をそそつたかは、說明する要もあるまい。
 私は草履を突つかけて、夢中になつて驅けだした。蟬はまだそこに悶えてゐた。それは私達がその田舍で、小蟬といふ名で呼んでゐた、形の小さな蟬だつた。その小蟬は、大きな形の蟬よりも、子供達の間で、數倍も尊重されてゐた。私の喜びが、どんなに大きなものだつたか、一寸形容の言葉もない。
 私はそれを拾ひ上げた。と、途端に、私の拇指は、くさりと激しい痛みを覺えた。さうして私の手の中から、蜂が一匹飛びたつた。それに續いて、私の拾つたその蟬も、その時はもう鳴きやんで、羽音をたてて、私の手から飛び去つた。靑空の二つの方角へ、別れ別れに飛んでゆく、それら二つの昆蟲を、私は暫くとぼけた氣持で仰いでゐた。
私の指は、間なく大きく膨れてきた。先ほどの私の喜びは、そんな厭な苦痛に變つてしまつた。理由もなしに、蟬が墜ちてくる譯がない、――それだけのことを了解したのも、後の祭りといふものだつた。

 

 

三好達治「小動物」(『全集10』所収)

「自作について」

 


鹿は角に麻繩をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その靑い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。
そとでは櫻の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自轉車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黑いリボンをとめて。
 

 右は『測量船』(昭和五年刊)中の一篇、もう三十年近く以前の作。伊豆狩野郡湯ヶ島村での所見、ほとんど作意をまじへないスケッチで、手輕な散文詩のつもり、當時のいはゆる散文詩とは變つた趣向のつもりであつた。趣向らしきもののないところが、當人の趣向であつた。最も簡單なところを、最も單純な言葉で、ぽつりぽつりと並べただけで、これでも一箇の詩趣は捉へたつもりで、當時の作者はゐたのであつた。何か、少々氣どつたつもりでゐた、記憶がある。

 

鹿
 

午前の森に鹿が坐つている
その肩に その角の影
彈道を描いて 虻が一匹飛んでくる
はるかな谿川を聽いている その耳もとに

 

 同じく鹿を詩材としたが、この方は、實は作者の所見は、鹿ではなくて、山羊であつた。私の入院してゐた病院の庭に、年とつた山羊が一頭、木蔭につながれていつもメイメイ鳴いていた。ある時はだまつて坐りこんでゐた。それを眺めてゐると、伊豆の田園風景、村里まで鹿のとび出してくるその山間谿谷などが空想された。そこで山羊が一變して鹿となつたのがこの一篇。虻を點じたのは、いはば谿川を點出するための手段であつた。鹿の皮膚に、虻蜂の類が寄生蟲を生みつける、さういふ事實を以前に知つてゐた、この種の雜識がこの空想的手段を生み出す機緣となつたであらう。その邊は相互に關聯しあつてゐて、この種思ひつきは、一瞬にして成り立つものである。さうしてその幽邃(いうすゐ)の感じ(或は憧憬)は、貧しい病院の窓にあつて、作者が直感し得たものである。(實景はうすぎたなく殺風景であつた。)その他はすべて作詩上の末節的技法といふものに屬するであらう。第一作の「村」の餘響のやうなものが、作者の胸裏になほ當時ひきつづいてゐたやうな(その間數年)記憶がある。
 この作は後に(十餘年後)、第三行を

 

微風を間切(まぎ)つて 虻が一匹飛んでくる

 

 と改めた。「間切(まぎ)る」は水上生活者の用語、帆船などの逆風にむかつてジグザグに進行する航法(操帆法)をいふ。この用語は後に雜讀の間に知り得た。ここに適用してぐあひがよからうと考へる。これも雜識の一助である。作詩上、雜讀雜識が往々效のあることをここにいひ添へておく。

 

水聲

 

そはこの身いまだ若き日
よるべなき心ひとつをはこびつつ
あめつちは夏のさなかに
超えゆきし天城山みち
その谿のふかき底ひに
こゑのみをききし水聲(すゐせい)
そのこゑのなつかしきかな
我れはかく垂老の日に
心またかなしみにえたへじとして
ふともそのかの瀬の音を
そら耳のそらにききつつ
ゆくりなく憂ひを消しぬ
ゆゑいかにみづから知らず

 

 「鹿」の後、數年の作。作者は貧しき家庭をもち、二兒の父となつてゐた。「天城山みち」は第一作、第二作に、いはば歷史的にどこやら關聯する。書生時代の貧しき旅行を想ひ起してゐるのである。「垂老」は四十歲前後にあてはめてみた、やや誇張にきこえるかも知れぬ。「えたへじとして」は語法上少しいかがはしい。他にうまく言ひとれなかつたので、このへんで我慢をしておく。むろん作者は曾遊の地を想ふのであつて、ありていは机邊に欝々としてゐるさま。今度は鹿を假りず、自らの耳でもつて、遠い水聲をききとる思ひに耽る。その點どこやら前作によく似てゐるのは、ただ今これを書きながら初めて氣がついた。

 

遠き山見ゆ

 

遠き山見ゆ
遠き山見ゆ
ほのかなる霞のうへに
はるかにねむる遠き山
遠き山山
いま冬の日の
あたたかきわれも山路を
降りつつ見はるかすなり
かのはるかなる靑き山山
いづれの國の高山(たかやま)か
麓は消えて
高嶺(たかね)のみ靑くけむれるかの山山
彼方に遠き山は見ゆ
彼方に遠き山は見ゆ
ああなほ彼方に遠く
われはいまふとふるき日の思出のために
なつかしき淚あふれていでんとするににたる
心をおぼゆ ゆゑはわかたね
ああげにいはれなき人のけふのこころよ
いま冬の日の
あたたかきわれも山路を
降りつつ見はるかすなり
はるかなる霞の奧に
彼方に遠き山は見ゆ
彼方に遠き山は見ゆ

 

 「遠き山見ゆ」はその題意がすでに實景であり、それと同時に、比喩的な意味では、作者自らの過去をかへり見る「遠望」の意を寓してゐる。そのことは表面に明らかに示されてゐないが、作の調子にどこやら感じとられるやうな作ぶり、のつもりである。詩集『花筺』の序詩として草し、同書の卷頭に置いてあるから、同書一卷を通讀していただくと、その寓意も自らに見當がつかうかといふ風の仕組みであつた。さういふ創作動機意圖であつたから、ことさら地名の限定を要せず、それは省かれかくされてゐるが、事實は、これもまた伊豆地方に關聯してゐる。この度は、机邊の空想でなく、作の生れる少し以前に、久しぶりで同地方を旅行した記憶が、作のかげにかくれてゐる。作は現地にのぞんでのものではなく、いくらか後日の創作ではあつたけれども。

 

われはいまふとふるき日の思出のために
なつかしき淚あふれていでんとするににたる
 

 といふのは、だから、時間的(歷史的)にいふと、第一作、第二作、第三作にも、いくらか深部深層に於て關聯するものがあると見ていただいて差つかへない。「いづれの國の高山(たかやま)か」といふ風にいふのは、だから、ことさらの設問であつて、實は、作者は、この地方の地理にあらかた通じてゐないわけではない。そらとぼけていふといふのではないが、作詩上の「繪そらごと」といふのは、この邊のところをさすものと、これを見なしていただきたい。それは題意の、實景實事の側にはつかず、寓意比喩の側についてかくいふのである。詩は情をのべるもの、情の眞實を失はなければ、詩としてこのやうなおちゃらつぽこをいふこと、それが許されるといふより、手段としてそれが特に必要だといふことも、ついでに心得ておいてもらつてもよろしからう。
 「あたたかきわれも山路を」は、すなほにいへば、「あたたかき山路をわれも」である。こちらも山中にゐて、彼方に遠き山山を見るのである。語の位置を轉倒したのは、一に語調舌ざはりのためである。この一點、作者はいく度も考へ直し考へ直ししたのをつけ加へておく。讀者にとつてはさもなく、何でもないところに、作者は神經を勞するものである。我れながらをかしいくらゐである。その邊のところを讀みとつていただきたいが、むろんそれは、當方から要求がましく申すべき筋合ひではない。
 この一篇、第三作より後、また數年を隔ててゐる。第一作よりは、二十年ばかりを隔ててゐる。詩の形態、寓意はむろんそれだけ遠く隔たつてゐるが、主題の深部深層に於て、どこやら關聯し、相つながるものがあるやうに考へられる。今日かへり見てこれをいふのである。むろん作者は、各作の間に、その意識を、意識的にちつづけたわけでは決してない。その折々の、情の赴くままに、その折々の作品を書きつづけ、積み重ねたにすぎない。
 伊豆狩野郡湯ヶ島村には、往年梶井基次郞君が病を養つて逗留してゐた。私は度々彼を訪問して、附近の景物に接し、そこいらの山野をさまよひ步いた。ある夏、萩原朔太郞先生に初めてお目にかかつたのも、この山村であつた。伊豆は小國であつて、いく度か旅を重ねる間に、ほぼ一國の地理形勢がのみこめるやうな感じを覺えた。後年出かけることは稀になつたが、「ふるき日の思出」は、いつまでも私の心に巢くつてゐて忘れ難いやうである。それとは格別意識はしないが、そんな風のぐあひである。舊作をかへり見てみると、さういふことも我れながらはじめて氣がつくやうなわけである。
 詩は、意識無意識、二つの世界雙方から成熟し、醞釀されてゆくのが、自然で好ましくはなからうかしら。
 以上、自作に就て、問はず語りにこのやうな雜話を記すのは、私の好まざるところ、讀者に聞き苦しければお許しを願ひたい。問はず語りとはいへ、創元社の命ずるところ、罪は同社の編集室にあるかも知れない。

 

 

三好達治「自作について」(『全集6』所収)

「萩原朔太郎氏へのお答ヘ」

 このお答へは、先月書かなければならない筈でありましたが、時間がなかつたので失禮いたしました。さて、問題の、日本詩歌の音樂性に就て、二三の卑見をのべてみませう。まづ第一に斷つておきますが、小生は貴家の仰しやる如く、日本詩歌の音樂性を無用の要素とし、「不必要」のものと見なしてゐるのではありません。小生の前文にも、そのやうな意味は說いてない筈です。ともすれば貴家には、貴家が反駁するのに恰好な命題を、相手に押しつけられるやうな傾向が見られます。相手にとつては、時に甚だ迷惑です。さうしてそのために、もう一度前說を繰返した上で、貴家の誤󠄁解を正し、なほ貴家の誤󠄁解を生ぜしめた所以を忖度して、補說を加へなければならないといふ風な、二重に入組んだ手數を經なければ、お答へが出來ないといふ次第にもなるのです。小生のやうなものぐさ太郞にとつては、お答へを書く前に、既にうんざりせざるを得ません。そしてこのやうな文章の讀者にとつても、そのやうな段取を讀ませられるのは、七面倒臭いに違ひありません。そこで、本誌(四季)夏季號並に文學界八月號所載の貴稿中の、貴家一流の誤󠄁解に關しては、取たてて辯解を試みないことにいたします。さうしてただ、小生が先に、帝大新聞に於て、貴著『純正詩論』の讀後感を說いた、その主旨の存するところを、重ねて縷說し、細說し、小生が日本詩歌に於ける、詩的印象を重視する所以をお聞きとり願ふことにいたしませう。
 小生が、詩的印象を重視するに至つた、具體的な動機を最初に申上げませう。小生はこの數年間、特に注意をして、BKなどにて放送される、詩歌の期讀を聽き續けてゐますが、その悉くが、(實際一度の例外もなく)文字通りの意味で、聞くに耐へない、非藝術󠄁的な、醜陋な感銘を與へるのを、爭ふ餘地のない確かさで實感いたしました。これはもしも、貴家もまたあれらの朗讀放送をお聞きになられたら、小生同樣、顰蹙されたに相違ないと存じます。それに就て、最初にまづ、朗讀者の技術󠄁の拙劣なために、そんな風に聞き苦しいのだらうかと考へてみました。なるほど彼等は、朗讀者として、幼稺な初心者らしく、小生のやうな門外漢にも推察されます。しかしながら、小生の、彼等の朗讀を聞くに耐へないと嫌惡する氣持のうちには、朗讀そのものに對する、總體的な嫌惡が含まれてゐるらしいのを、やがて自ら氣づきました。朗讀といふことそれ自身が、詩歌の企ててゐる目的方向と、矛盾し背馳してゐるのではあるまいか、――さういふ風な疑問を抱くやうになりました。あるレコード會社のレコードに、當代の第一人者を以て許されてゐる、某新劇女優君の吹きこんだ、藤村の有名な、「千曲川旅情の歌」の詩があります。新派梨園中の、最優秀の知識人といはれてゐる、朗讀者女史に對して甚だ失禮ですが、あれなど、全く根本的な、作品そのものに對する解釋が間違つてゐるとしか、他に評しやうもない、見當違ひの表情でもつて、終始一貫、ただあつかましく音讀されたものに外なりません。このレコードといひ、先の放送といひ、それらを聽いてゐる時に、小生の胸に最初に浮んでくる念願は、「どうかそのやうな表情を捨てて、もつと無表情に、もつと素朴に讀んでくれ、ぶつきら棒に讀んでくれ、それが詩心を損はない唯一の途だ……」といふ、一種直觀的な感銘です。小生はこの感銘を、前後幾囘に亙つて經驗いたしました。
 さてこのやうに、朗讀法の、表情といふ表情を、詩心そのものを重んずる上から、悉く排斥しようとする、この事實は、そもそ如何なる理由によるのでせうか。小生の如き、外國語に疎い者が、こんなことを申すのもいささか烏滸がましい次第ですが、フランスあたりの俳優が、ヴェルレエヌやボオドレエルの詩を朗讀してゐる、そのレコードを時折聽いてみますのに、決して、我が諸君子の朗讀を聽く場合のやうな、嫌惡を感ずることはないやうです。もともと、唐人の藝術󠄁は解りにくいもの故、自主的に、好惡の感情を働かせる境にまで、たち到り難いのかもしれません。だがとにかく、それらの朗讀によつて、それらの詩歌の、意味なり價値なりを、補足され深められたやうに覺えることが、一再ではありません。總括していつて、耳に聽きながら、樂しいのです。さてこの事實に思ひ較べて、さきの事實は、いつそう不思議な現象といはなければなりますまい。小生はま_た、次のやうなことも想像してみました、假りに小生が、小生の𢌞りかねる舌頭で以て、ボオドレエルの例へば「信天翁(アルバトロス)」を朗讀するのと藤村の例へば「千曲川旅情の歌」を朗讀するのと、傍から誰かが聞き較べたとして、そのいづれを聞くに耐へるとするであらうか、勿論それは前者に相違ないと小生には思はれるのです。そしてもしこれを事實とすれば、この兩者の快不快の相違は、小生といふ朗讀者の、技術󠄁の巧拙によるものではないこともまた、同時に明であらうと思はれます。何となれば、小生にとつて、母國語は遙かにフランス語に較べて、朗讀するのに容易な筈ですから。ここで註解を加へる必要を感ずることは、右にのべた快不快の相違は、すべて、これを聽者の立場に立つて享受し批判するものとして申してゐるのです。もしも、音讀者自らの主觀に卽して云へば、或は「千曲川旅情の歌」は「信天翁」よりも、讀んでゐて氣持がいいかもしれません。さういふ場合は、充分にありうるだらうと信じます。それに就て、小生一個の解釋を申上げれば、我々がもし我々の現代詩を音讀して、何らかの藝術󠄁的感銘を受用するものとすれば、(――これは小生自らにも經驗があります、)實はしかし、音讀することによつて詩語の音樂性を樂しんでゐるといふよりは寧ろ、音讀しつつ、音讀者自らの空想裡に於て、詩歌を一箇の歌謠と作り變へ、自ら作曲家となつたつもりで、(無意識に且つ空想的にですよ、)一つの唱歌を獨唱してゐるのではありますまいか。それだから、その意味で、音讀者自らには、ある藝術的滿足の感じられることも、また一事實といはなければなりますまい。しかしながら、それは飽くまで主觀的、空想的の事實であつて、その事實を以て、所謂詩歌の朗讀の藝術󠄁的價値感銘を、聽者に押賣りする譯には參りかねるのです。それらの朗讀が、聽者の耳に、激しく不快なことは先にのべた通りです。かねがね小生が奇妙に感じてゐる一事は、當節流行の詩吟といふもの、あれは朗讀朗誦といふよりは、寧ろ明らかに一箇の卽興的唱歌と稱すべきものでせうが、かかる種類の唱歌が民間に存してゐるのに引較べて、それよりも更に直接的な、單なる朗讀法が、一向世間に見うけられないといふのは、そもそもまた、如何なる理由によるのでせうか。思ふに、漢詩の朗讀法なるものが、我々の耳に快くないといふ、簡明な理由に基づいてゐるのではありますまいか。ただに漢詩に限つた譯ではありません、さういへば、我我の文學には、古來朗讀に適したものがなかつたやうです。(ここでは姑らく、祝詞宣命等宗敎的儀式に關聯したものは問題外として、主として純文學的なるものに就てのみ、考へることにいたしませう。)さて、上來のべ來つた如く、我等の文學、及びここに特に問題としてゐる現代詩歌が、朗讀に適しないといふ一事、この感覺的なる一事實の、理由を探ねることにいたしませう。私見によれば、これは二つの大きな原因に基づいてゐるものの如く想像されます。その一つは東洋的、特に日本的精神傾向であり、他の一つは、日本語そのものの言語的性格であります。この、日本的精神傾向と日本語の言語的性格との兩者は、實はその何れが先行的原因、乃至は主要因子をなしてゐるのか、乃至はそもそも、この兩者は單に一實體に外ならないのか、哲學者ならぬ小生には、ちよいと大膽な判斷を下しかねる難問題ですが、ともあれ、この二つの方面から、先の事實に對する、二三の理由を數へあげることが出來るやうに思はれます。我らの、詩歌を朗讀するに當つて、所謂、朗讀法的何らかの表情を、言語に附與するや否や、忽ち一種の嫌惡感が我々を襲つてくるのは、我我の詩歌の、所謂詩魂なるものが、公衆的な、朗讀法的發聲を、希望してゐないからのやうに思はれます。朗讀法的表情は、我らの詩魂の表情(と云つていいかどうか)と、どうにも一致しがたいもののやうに、兩者は、ある主要な一點で背馳してゐるかのやうにさへ思はれます。これは按ずるに、聲音による表情が、けばけばしくて單純な、表情として初步的幼稺のものであり、我らの詩魂の支へとはなり難いところの、不釣合の精神位置を占めてゐるからのやうに思はれます。かかる發聲表情を以て、もしも詩歌の精神とある審美的釣合を保たしめようと欲するなら、勢ひ、それらの發聲表情を規定して、それらをして一象徵たらしめるところの、音韻上の嚴しい法則を必須の條件とするでせう。ところが我らの母國語には、音韻上の嚴しい法則を樹立するための、何らの足場も手がかりも見出しえないといふ、言語學的宿命が課せられてゐるのです。我らの詩的精神は、さうした宿命を、いち早く直感してでもゐるかのやうに、我らの言語的不備に先𢌞りして、朗讀法的發聲表情を、辭退し、斷念し、あまつさへ嫌惡さへしてゐるやうに思はれます。これを小生は、日本的精神傾向の、一つに數へていいかと思ふのです。それは、上來說き來つた如く、母國語の言語的性格と、密接不離の相關關係にあると共に、また一箇獨立した精神傾向とも見なすことが出來るやうです。何となれば、我らの繪畫や彫刻や建築等の、一切の藝術󠄁分野に於て(及び我らの日常生活に於ても)、同じき傾向が見られるやうに思はれますから。實に我らの音樂さへもが、非音樂的に無表情ではありませんか。餘談は措いて、次に我らの言語の性格を、なほ二三の點に就て考へておきませう。我らの母國語は、その音韻的性質から、第一、詩學上の、何らの押韻法則に耐へません、第二に、平仄抑揚等の發聲法則を設けるにも適してゐません。この二つの問題に就ては、凡そ何人にも異論はないやうですが、例へば與謝野晶子女史や九鬼周造博士等の如き、押韻詩の未來的希望を抱いて試作を發表してゐられる、それらの作品に就てみるも、何ら、詩語の押韻的魅力を感ずることは出來ないやうに、小生などは考へます。元來、我らの母國語に於ては單語そのものに、(主として名詞に、)押韻的資質が缺けてゐます。これは言語學的に、明快に說明が出來さうですが、生憎小生にはその方面の知識がないので遺憾ながら、詳說いたしかねますが、例へば、泣菫子の次の詩句などを、一種の押韻詩として珍重してゐるのなど、まことに噴飯ものだと考へます。

 

  遲日(じつ)巷(また)の塵(り)にいで
  力(から)ある句()に苦(る)しみぬ

 

こんなのは一種の語呂合せとも稱すべきもので、なるほど Ti とかKuとかいふ音の繰返しが耳につきますが、その音韻の貧弱にしてせかせかとした刺戟が、何らの聽覺的美感をも效果してゐないのみならず、反つて耳ざはりで滑稽にさへも思はれます。與謝野女史、九鬼博士等の試作も、これと五十步百步のもののやうに思はれます。我らの單語が、押韻的資質に缺けてゐるといふ、一大事實の外に、なほ我らの文法もまた、押韻詩をものするのに、大きな障碍をなしてゐます。我らの文法に於ては、一つのセンテンスの、終末に來るものが動詞であつて、動詞の補語なる名詞は、主語の次に位するのを、通常の原則としてゐます。この原則は、勿論種々の措辭法によつて、加工され變更されうるものではあつても、原則は飽󠄁くまで原則として、支配的勢力を把持してゐるのを、忘れる譯に參りません。さて、センテンスの殿りを承るところの動詞、その動詞の數は、名詞に比べて遙かに少數であり、しかもまた、その少數中の、ある極めて少數の(十數個の)動詞が、動詞中の、最大勢力を占め、絕對優性の頻度で以て現れてくるのです。これが、我らの文法の原則です。この原則の存する限り、我らの詩歌にあつては、脚韻の成效など、到底望むべくもありません。さうして、かうした言語的理由が、我らの詩歌の、押韻抑揚等、一切の詩學的法則の、誕生をさへも許さないといふ、結果を齎してゐるのです。さうして右の事態は、如何に言語が、時代的に變遷するのとはいへ、その變遷自身が、言語それ自らの規定する埒內を出でないものである限り、その根幹に於て、到底改變さるべくもない、恆久的事實といはなければなりますまい。この恆久的事實の存する限り、我らの詩歌が、朗讀されて、聽者の耳に快く樂まれる日は、金輪際到來しないでせう。
 さて、問題の、詩歌の音樂性に還ることにいたしませう。詩歌の音樂性とは何でせう。單純にいつて、朗讀されたある詩が、聽覺を樂しませるといふその性質、それを指してゐるのではありませんか。聽覺に與へられる審美感が、詩歌の最も重要なる意味を扶け、暗示するといふ事實、それを指してゐるのではありませんか。さて、假りにさうとして、これらの事實を、我らの現代詩にあて篏めて考へてみますのに、なるほどそれらしきものの、、 、、、、、、片影(に就ては後に述󠄁べます、)が全く見當らない譯ではありませんが、それの模範として萬人に認められるほどのものは、到底見つかりさうにもありません。先にもいつた如く、我等の詩歌は、それを一たび朗讀してみれば、例外なく、その不完全さ、その脆弱さの、馬脚を現はし來るではありませんか。既に(詩歌の)音樂と呼び、音樂性と呼ぶ以上は、ある規則正しい構成と、ある一定の繰返しを、そのうちに含んでゐるのを、原則としなければなりますまい、(――押韻平仄等の如きも、その一具象物に外なりません。)ところが我らの詩歌には、規則正しい構成と、ある一定の繰返しとを、同時に兼備した形式が、(短歌を外にして、――これに就ては後に述󠄁べます、)どこにも見出せないのです。過日の拙文中にも既に一言した如く、俳句の如き詩形は、詩形そのものが、既に音樂的資質を缺いてゐるやうです。あの五・七・五の短小な詩形、なるほどそれは、たとへある「規則正しい構成」とは呼びうるにしても、そのうちには、詩語の、何らの「繰返し」が感じられないではありませんか。詩語の、ある規則的な、繰返しのないところに、何らの音樂の存する筈もありません。音樂などといふ、大袈裟な言葉は、この場合、事實を誤る虞れがあります。そのやうな無用の比喩に、ともすれば評者自らが欺かれる惧れがあります。俳句に於ける音樂性、などといふよりも、ただ單に、俳句に於けるしらべとか、ひびきとか、さういふ單純な言葉を用ひませう。この俳句に於けるしらべひびきを、先にその音樂性を否定した小生もまた、決して否定し無視するものではありません。その重要さをも、充分に認識してゐる積りです。元來言葉は、一面に意味であると共に、また一面に於て聲である、さういふ意味から云つても、俳句などの、しらべひびきを輕視する譯には參りません。しかしながらまた、「特に芭蕉の如きは、俳句の音樂性を第一義的に重視して、常に『俳句は調べを旨とすべし』と弟子に敎へてゐた」。(本誌夏季號)と云はるる貴說に、にはかに贊同する譯には參り難いのです。小生の見るところでは、芭蕉は、俳句の音樂性を、排他的第一義的に、重視してゐたとは思はれません。芭蕉は弟子達に敎へて「强ひて云はんとならば、ひびき、匂ひ、寂(さび)、しをり、此四つをもて四義と云はんか。其れも要(い)らぬ事なるべし。」といつてゐます。ここに擧げられた四義のうち、匂ひとか寂とかしをりとか呼ばれてゐるものは、悉く、ある觀念的なもののやうに思はれます。「俳句の音樂性」と關聯あるものは、ただ一つ、ひびきといふ一語ですが、そのひびきといふ言葉のうちにもまた、ある特殊な觀念性が寓意されてゐるのを、見落してはなりますまい。「俳句は調べを旨とすべし」といふのは、恐らく貴家の造語であつて、芭蕉はそのやうな一本調子の輕卒語を、恐らく吐露してはゐないだらうと、愚考いたしますが如何。ここで次手に愚考をのべれば、俳句に於けるひびきとかしらべとかは、それらによつて、一句の生命が虛空に打出される底のものではなく(あの十七文字の短小な詩語が、それほどの音樂を奏しいでる譯もありますまい、)寧ろ一句の主旨とする詩的觀念を、それらが背後から裏づけ、支へてゐる、と、いふほどの、消極的な意義をそれらに認めるのが、評價として適當だらうと信じます。この點、短歌は、やや趣を異にしてゐるやうです。短歌は、ある「規則正しい構成」をもつてゐると同時に、一種の音樂的「繰返し」をその形式のうちに備へてゐます。かうした形式上の整備は、わが國詩歌中ただ短歌にのみこれを見うると云つていいやうです。それ故に、短歌は、わが國詩歌中の、唯一の音樂的な詩形です。短歌の場合こそは、その音樂性を第一義的に重視して、專ら「調べ」を旨とすべしと云つても、甚だ似つかはしいやうに思はれます。この場合、言葉の音樂的感覺は、一首の主旨とする意味に先行して、卽ち感覺が、輕氣球に於ける氣球のやうな役目を果して、一首の意味を虛空に吊り上げてゐるかのやうに思はれます。かうした詩歌の出來方は、世界的普遍的の出來方であつて、この出來方の點より云へば、短歌のみが、我らの文學中、世界的の詩歌のやうに思はれます、(短歌に於ける、日本的精神傾向に就ては、姑らく問題外として――。)さて、しかしながら、短歌には短歌自らの限界があり、既述󠄁したるが如き、本來の日本語の性質からして、短歌に於ける、詩歌としての出來方を、さらに推し進め、發展させ、その短小な形式を長大なものに成長させる譯には、――それが出來れば、我等の詩歌の問題は、直ちに世界的普遍的の問題となりうる譯ですが、――事實の示してゐる通り、到底參り難いのです。萬葉に於ける長歌さへもが、その詩的資質の缺陷(單調さ)から、間もなく亡んでしまひました。さてまた短歌それ自らには、その形式を宿命として、內容的にもある一定の限界があり、俳句がさうであるのと同じく、詩材的に、かなり狹隘な分野に、跼蹐せざるを得ないといふ、運命を課せられてゐるのです。卽ち我らの詩歌の問題は、また一短歌の存在によつても、救濟され得ないといふ、困つた立場にあるのです。
 さて、上來述󠄁べきたつた特殊な事情に鑑みて、ともすれば我らの文學のうち、果して眞の詩歌と稱すべきものが、存在するのかどうかさへも、疑ひたくなつて參ります。しかしながらこの疑問は、最初に詩歌に、音樂性の殆んど缺如した我らの詩歌に向つて、强ひてそこに音樂性を認めようとして、無理な要求を持出したことの、必然の結果ではないでせうか。小生は先に俳句に於ける聲調上の、積極的な音樂性を否定しました。しかしながらそのことは、直ちに、詩歌としての俳句の存在を、懷疑する意味でも、況んや否定する意味でもありません。俳句は、その俳諧的手法による、詩的印象の具象性によつて、立派に詩歌としての存在を樹立してゐるのです。そこで小生は、ここにヒントを得て、かくの如き詩的印象そのものを、一個獨立した詩法の眼目として、特殊なる印象派的詩歌の創設を企て得ないものかどうか、これを理論的に考究しようといたしました。既に母國語の、音樂性の缺如を致命的に痛感した、たとへば小生の如き者にとつて、(さうして貴家の稱へらるる如く、ある遠い未來にもせよ、母國語が音樂的に精練されるであらうといふ、樂天的な希望をもちつづけることの、空賴みなるを悟つた者にとつては、)從つてそれは、必死の企てとなつたのです。思ふに、詩歌に於ける音樂性とは、先にも云つた如く、詩語の感覺的示唆性が、詩篇の意味そのものに先行して、恰も輕氣球の氣球がゴンドラを空中に吊り上げるが如く、詩篇の意味そのものを、それら詩語の感覺的浮力によつて、虛空に吊り上げてゐるものと、見なすことが出來るでせう。さて然らば、一篇の詩篇の企てるところは、必ずしも、この輕氣球的仕掛けに俟たなくとも、他にまた、別樣の手段を俟つて果されるであらうことも、可能のやうに思はれます。既述󠄁の如く、言語は一面聲であると共に、一面に於て意味觀念であります、そこで言語の觀念性を以てしても、その聲音を以てすると同じく、一派の詩歌が樹立されうる筈のやうに思はれます。ここで次手に斷つておきますが、申すまでもなく、言語の聲と觀念とは、二にして實は不二の、一體をなした存在故、ここに言語の觀念性を主眼とする詩派と雖も、その聲音的要素を無視するものでないこと、例へば俳句に於ても、なほひびきしらべを重視するのと同斷です。(小生自らが、詩歌に於ける音樂性を、無用のものと見なす者に非ざることは、最初に斷つた通りです。)要はただ、その主眼とするところに於て差異を認むべく、杓子定規の、絕對的區分を樹てる譯には參りません。(――またその必要もありません。)さて、觀念的印象詩派の可能性を、小生はまた俳句の外に、本朝に於ける、漢詩制作の場合に就て、例證しようといたしました。漢詩は本來、押韻平仄等の詩學的規則の、最も嚴密な詩歌です。しかしながら、それらの嚴密なる規則も、これを漢土本來の讀み方で以て讀まれなければ、その詩的效果は認識されよう筈がありません。ところが我々日本人は、漢詩を制作する場合には、漢土の詩人達と等しなみの、嚴重な制約に從ひながら、さてその詩的效果を受用する段になつては、それらの規則本來の面目を餘所にして、所謂日本流の訓讀法で和訓するのです。これは考へてみると、まことにをかしな話です。しかしながら我々の漢詩人達は、そのをかしなやり方によつて、充分にそれらの作品の詩美を樂しみ、上下し批判し來つたのは、歷史の示す通りです。彼らは彼らの作品の、音樂的要素を感覺し受用し來つたと見るべきでせうか、さうではありますまい。彼らの感覺し受用し來つたのは、一まづ感覺的手續きを省略した上の、詩歌の觀念と名稱すべき、一種の實體に外なりません。貴家は先日の貴稿中に、漢詩の和訓には一種の音樂的な調子があると(――小生もまたそれを認めてゐるかの如く、)仰しやつてゐますが、貴說は姑らくおき、小生は、漢詩の和訓に、音樂的な調子があるなどと考へてゐるのではありません、そのやうな、言語の偶然的な效果を喜ぶ積りはありません、寧ろ反對です、先に詩吟に關聯して略說したる如く、漢詩の和訓は、我々日本人の耳にとつては、朗讀にさへも耐へないものだと云つてゐるのです。さうして、そのやうなごつごつとした言語の積み重ねのうちからさへ、その一篇の意味、その詩的印象を汲みとることによつて、一種明確なる詩美を、我々は感得しうるといふ、この事實に驚いてゐるのです。これが小生の、印象的詩派の可能性を、我らの漢詩人達の場合に就て、認めうると稱する所以です。
 ふりかへつて、上來述󠄁べ來つたところを略說すれば、小生の所謂印象派的詩論は、我が母國語の、非音樂的性格の自覺に出發し、次で、音樂偏重的詩論(――この詩論のうちには、音樂 Musique そのものに對する思慕が、論者を誘つて、性急にも、詩語の音樂性を偏重せしめるに到るかの如き、傾向が認められる、――)の論據を、相對的のものとし、別に、印象派的詩論の據りどころもまた、充分に藝術󠄁的機能に富めるものとして、これを承認すべきであらうと論じ來つたのです。
 さて最後に、一步を進めて、我が現代詩歌の將來に就て、一言を費しておきませう。我が現代詩歌の非音樂的宿命は、既に縷說したるところの如く、爭ひ難い現在の事實であると共に、遠き將來に於てさへも、遂ひにこの宿命から、逃れ出る手だてはないやうです。しかもなほかかる宿命に抗して、音樂偏重の詩論を把持される、たとへば貴家の如き詩論家は、私見によれば、ないものねだりの認識不足であり、音樂といふ一槪念、一先入主の虜となつた、不自由の思索者のやうに思はれます。もしも我らの詩歌をして、世界的水準にまで推しあげ、たとへその出來具合はどうであらうと、文學としての價値に於て、諸外國のそれらに比肩しうるものたらしめんと欲するなら、まづ第一に、母國語の性格、運命、性能等に就て、充分なる檢討を加へ、それらを利用し、それらに順應し、それらの活路を見出すだけの、聰明さがなければなりますまい。我らの言語を以て、强ひて音樂的な詩歌を制作しようと努めるのは、試みとして大いに同情に價するとしても、その結果には到底大きな期待はかけられません。現に貴家が、貴著『純正詩論』中に引用して、その音樂的詩美を最上級の言葉を以つて推賞してゐられる、北原白秋氏の某詩篇の如きも、なるほど言葉の調子に纖細な感觸は感じられますが、それらの感觸のために、詩語の觀念性が無視された、詩心の幼穉低劣さは、到底覆ふ譯に參りません。しかもその、詩語の奏でる音樂そのものも、なほ仔細に見れば、未だ音樂などと稱するに足らない、一擬態一片影たるの程度なるに於ては、到底小生などは、貴家の如くこれを推重する氣持にはなれないのです。フランスなどに於ても、最も詩語の音樂性を貴んだ象徵派の詩人達は、また同時に、最も詩語の觀念性を重んじた人々です。たとへば貴家の『月に吠える』や『青猫』等、日本語としては珍らしく音樂的な(と稱しておきませう)效果を奏した詩風も、實はその外に、重要なる詩的觀念の裏づけによつて一面支へられてゐることを、決して忘れてはなりますまい、否、貴家の場合に就て云へば、觀念的な要素こそは、貴家の詩作を支へてゐる最重要のものであつて、寧ろ詩語の音樂は、伴奏的役割をしか果してゐないやうに思はれます。これを要するに、過去の實例に徵して見るも、我らの詩歌のうち、その成功したるものは、主として觀念的の資質により、音樂的感覺によつてはゐないやうに思はれます。(野口米次郞氏の場合、日夏耿之介氏の場合等。)さうしてこの特殊事情(なるほどこれは、諸外國の事情に照らして、ある特殊なる事情と稱していいでせう、――)は、今後一層顯著となるでせうし、さうした進路を辿ることによつてこそ、我が詩歌をして、益々特殊なものたらしめると共に、世界的の文學水準にまで推し進めうるものと、小生は考へてゐるのです。以上開陳したるところの、印象派的詩論を把持するに到つて、始めて小生は、我らの詩歌の將來に希望を繫ぎうるやうになりました。
 右、甚だまだるつかしい文章を書き聯ねて參りましたが、書くに從つて益々解說陳辯の足らざるを感じます。しかし今は餘暇もないので筆を擱きます、云ひ落したことは、また機會を見て再說いたしませう。要は、お需めにより、先日の拙文を細說したまでです。

 

三好達治「萩原朔太郞氏へのお答ヘ」(『全集5』所収)

『春の旅人』総覧

『春の旅人』

 ・出版社  私家本木版手刷り(三好達治 自筆・小野忠弘 刻)
 ・発刊   昭和20年1月
 ・収録作品 計4篇(ルビ等の表記は『故鄕の花』掲載部分を参照)

 

 

『春の旅人』  目次

 

「松徑」

 

王ならば宮居の廊を
もの思ひかくはわたらむ
わがゆくは松のほそみち
海靑し蝶ひとつまふ

彼方なる加賀の白山
まどかなる麥の丘べの
春の日の空にましろ
彼方なる加賀の白山

わがゆくは松のほそみち
何ごとをねがへるひまに
老いはてしこれの影とや
松の根に立てるこの影

彼方なる能登の岬は
こゑありて波のはたてに
日もすがら呼ばへるごとし
彼方なる能登の岬は

 

「春艸」

 

春もゆる艸の穗赤し
たまきはる命のいろの
炎なすかげのしづけさ
春もゆる艸の穗赤し

旅人は砂に坐りて
膝の上にとりいづる餉(け)の
ほのかなれこは夕燒の
紅のいろにそむ見つ

海におつ日のいろ赤し
泪おつ遠き日思へば
鷗らのうたはちりぼひ
海におつ日のいろ赤し

人の子はいづべによらむ
赤松の赤きこづゑも
かたなびきなびきたりけり
赤松の高きこづゑも

 

「春蟬」

 

朝ははや蟬なきいでぬ
すたれたる石の階(きだ)はし
經(へ)のぼれば赤はにこみち
朝ははや蟬なきいでぬ

松が枝をあふげばはたと
松ふぐり土に落ちたり
こはもののほろぶるこゑか
松ふぐりはたとさやかに

影娑婆と肩をかすめて
大鴉江(え)のなか空ゆ
ふと聲にわれをあざみぬ
あなおろか何を悔ゆると

おろからはあるは歎かへ
悔はなしひろ葉がくれに
桐の花咲きいづる日も
おろからはあるは歎かへ

 

「松子」

 

昨日こし松の林に
けふもまた來りてひろふ
松ふぐり籠(こ)にはみてれど
空しただ遠きこころは

一人すむ旅の假屋(かりや)に
一人焚く松のふぐり火
赤あかと飯(いひ)かしぐ間も
空しただ遠きこころは

ものなべてゆくへは知らず
赤あかともゆるふぐり火
燠(おき)となり尉(じよう)となりゆく
ものなべてゆくへは知らず

海のこゑ枕にききて
うたたねの夢は宮居の
王ならね廊や渡らむ
海のこゑ枕にききて

『故郷の花』総覧

『故鄕の花』

 ・出版社  創元社
 ・発刊   昭和21年4月1日
 ・収録作品 計36篇(うち『故鄕の花』にて初収録となった作品は31篇)

 

 

『故鄕の花』  目次

 

「鳶なく――序に代へて」

 

日暮(にちぼ)におそく
時雨しぐれうつ窓はや暗きに
何のこころか
半霄に鳶啼く
その聲するどく
しはがれ
三度(みたび)かなしげに啼きて盤桓す
波浪いよいよ聲たかく
一日(ひとひ)すでに暮れたり
ああ地上は安息のかげふかく昏きに
ひとり羽(はね)うち叫ぶこゑ
わが屋上を遠く飛び去るを聽く

 

「すみれぐさ」

 

春の潮相逐ふうへにおちかかる
落日の ――いま落日の赤きさなかに
われは見つ
かよはき花のすみれぐさひとつ咲けるを
もろげなるうなじ高くかかげ
ちいさきものもほこりかにひとり咲けるを
ここすぎて
われはいづこに歸るべきふるさともなき
落日の赤きさなかに――

 

「春の旅人」

『春の旅人』(S20.1刊)

 

「をちかたびと」

 

をちかたのひとはをちかた
はるふかきにはにねむれば
はとのなくこゑにもめざむ
うたたねのゆめのみじかさ

をちかたのひとはをちかた
はるふかきにはのおちばを
もせばもゆほのほはしばし
めにしみていたきけむりや

 

「春のあはれ」

 

春のあはれはわがかげの
ひそかにかよふ松林
松のふぐりをひろひつつ
はるかにひとを思ふかな

春のあはれはわがかげを
めぐりて飛べるしじみ
すみれの花ゆまひたちて
ゆくへはしらず波の上に

春のあはれはわがかげの
ひそかにいこふ松林
かばかり靑き海の上に
松のふぐりをひろふかな

 

「空琴」

 

ただいかなればのらすそらごと
いのちをもみをもをしめと

いのちをもみをもをしみて
かへるべきかたやいづかた

ゆくへなきあすををしめと
さるをなほのらすそらごと

はるかぜにとらるるさへや
ただをしむきみがおんそで

 

「みづにうかべど」

 

みづにうかべど空をとぶ
ふたつのつばさぬらさじと
かろきたくみのかもめどり

こころををしむ旅人の
あはれゆかしき江のみづに
あとなきときは流れつつ

 

浮雲

 

空にうかべる雲なれば
よるべはなけれ
くれなゐの
いろにそまりつ
いろにそまりつ
沖の島の
空に浮かべる
あかね雲
ただたまゆらのよそほひに
身をほろぼすも
うき雲の
さだめなりかし
さだめなりかし
沖の鳥の
こころなきさへ
ひとめぐり

 

「ふらここ」

 

わが庭の松のしづ枝に
むなしただふらここ二つ

うちかけてしばしあそびし
あまの子のすがたは見えず

たれびとの窓とや見まし
そよ風のふきかよふのみ

さるすべり花ちるところ
ふらここの二つかかれり

 

「白き墓地」

 

秋の田の黃なるに
夕べの霧遠くたなびき
彼方の丘に白き墓地見ゆ
松靑きかげ
墓標みな白く黃昏にうかみて
いまこの風景に
しづかなる音樂の起りたゆたふごとき心地す
一度びここをへて
われは行へもしらぬ旅人なれども
ものなべてほのなつかしく
こを故わかず忘れがたき日のひと時と思ひたたずむ
路のべに
秋の螢のただ一つひくく迷へり

 

「朝はゆめむ」 
「秋の風」

 

松の林は秋のかぜ
帽子の鍔にふりかかる
松のおち葉の音あはれ
 

「囘花蕭條」

 

幾山河(いくやまかは)
越路(こしぢ)のはてのさくら花
か靑き海を松が枝に
かへり花さく日の空に
小鳥は鳴けど音はさみし
――音はさみし
かへり花とて色も香も
けふの日あしも淡つけく
松の林に木がくれて
咲く日はいく日
その花のはやはらはらと散りそむ
丘をめぐればありとなく
ほろびゆく日の
ただのこるほのぬくとさよ――

 

「なれは旅人」
「時雨の宿」
「あきつ」

 

あはれあきつ
いのちみじかきものもまた
しばしはここにいこふかな

そらゆく雲ははやけれど
尾花がすゑぞひそかなる

 

「雲と雁」

 

なにのほだしにほだされて
ゆくてをいそぐたびならむ
そらゆくくももかりがねも
をばながすゑにしづみたり

 

「蟋蟀」

 

今宵雨霽れて
月淸し

四方(よも)の壁にも
厨(くりや)にも
また落ち葉つむ廂にも
屋根のうへにも鳴く蟋蟀(いとど)

屋根のうへにも鳴く蟋蟀
かくれ彼らは夜もすがら
主(あるじ)が貧とかたくなと
才短きをうたふなり

今宵雨霽れて
月淸し

 

「朝の小雀女」
「艸枕」

 

艸枕
かりねの宿のまど戸に
誰かがおとなひのこゑやする

 

「きつつき」

 

きつつき
きつつき
…………
わが指させし梢より
つと林に入りぬ
…………
戀人よ
君もまた見たまひし
…………
胸赤く
うたかなし
かのさみしき鳥かげを
…………
つめたき君がこころにも
な忘れそ
けふのひと日を
…………
人の子の
なげき
はてなきを
…………
またはかの
つと消えて
林に入りし鳥かげを
…………
ききたまへ
風のこゑ
かの鳥のまたかしこに啼くを
…………
今はこれ
君と別るる路の上
…………
木は枯れて
四日の月
…………
まれに飛ぶ
木の葉

 

「さくらしま山」
「窗下の海」

「窗下の海」『干戈永言』(S20.6刊)

「池あり墓地あり」

 

池あり
墓地あり
鶯なく
貧しく土はかはき
丘赤く
日は高し
かくさくらの花の散る日にも
情感すでに枯れ
獸(けだ)もののさまよふごとく
わが影はみすぼらしく風に吹かれ
空想の帆かげ遠く沈みゆくを逐はんとす
あてどなき小徑のはて
かくあてどもなくわれの越えてゆく
ものみな傾きし風景は
いま春の晝餉どき
しんかんとして海のこゑはるかに
藪かげに藪椿おつ
ああわがかかる日の焦點はかなしく歪みたるに

池あり
墓地あり
鶯なく

 

「丸木橋

 

木橋ひとり渡れば
靑き魚つと浮びきて
わが影をついばみさりしたまゆらよ――
ああそれの日は
よき友も
よき師の君も世にいまし
世ははつ夏の光もて
野もかがやきぬ
花園に赤き花咲き
その徑(みち)に待ちし子らさへ
今はみな消息もなし
げに人の世は
酒ならば一盞の夢
夢消えて盞むなし
それもよし
いざさらば
歸らぬ日
――ものみなのあはれゆかしかりしよ

 

「花筐拾遺/二章」

いんげんの花」

「梢の花」

 

「乙酉卽事」

 

月ほのかなる丘の邊に
花は伐られて薪となる

 

「何なれば」

 

何なればふかくもひめし淚ぞや
海にきたりて美しき石をひろへば
はふり落つ老が淚はしかはあれ
つばらにかたるすべもなき

 

「島崎藤村先生の新墓に詣づ」
「池のほとりに柿の木あり」
「歸らぬ日遠い昔」
「涕淚行」

「涕淚行」『干戈永言』(S20.6刊)

「荒天薄暮」
「海邊暮唱」
「橫笛」

「日本語の韻律」

      萩原朔太郞氏著『純正詩論』讀後の感想

 

 萩原朔太郞氏の近著『純正詩論』は、氏の前著『詩の原理』と全く同一系統に屬する、氏一流の浪漫派的詩論を縷說した、愉快な讀物である。この著者の書物は、一讀して甚だ氣持がいゝ、論鋒がテキパキしてゐて、頗る大膽であり、細節末梢の、まだ/\疑問や推究の餘地を存する部分を、さも面倒臭さうに、さもさも自明の事柄のやうに、さつさと脇へ押しやり切捨てゝしまつて、ともかくも論旨をおもふ存分のところまで導いてゆく、といふやり方である。甚だ亂暴專擅なやり方で、讀者の方で讀みながら、不安や疑惑を感じないでもない、私など、大へん心もとない氣持がするのである。ニイチェもトルストイもモウパッサンも十把一からげに援引され、見よ、かくのごとく西洋の文學は、總じて悲劇的である、といふ風な論斷が下される、その手際はまことに颯爽として、その著想は極めて警拔である。私など、いつもながら感服せざるを得ないのであるが、どうにもその推論の過程に、充分な滿足を覺える譯にはゆかない。結論の命題に就ては、だいたい讚意を表したいやうな場合にも、さうした結語に到るまでのプロセスを、そのまゝうけ容れるのには少からず躊躇を感ずる。恐らく著者は、最も結語を尊重し、それを求めるに急なる餘り、多く簡明な直觀の力にたより、論究のプロセスはやや二の次に考へてゐられるのであらうが、寧ろかかる文學論の、論究の眞面目は、最もその經過の途中に盡されるものの如く、私などは考へる。一つの讀書が、讀者に與へる感化や影響などといふものも、その終局の結論によつてよりも、寧ろその探索の途すがらに於て果されるもののやうに考へられるのである。かういふ見方よりすれば、この書物は處々(しよ/″\)に薄弱の個處を有し、また大小の瑕瑾を隨處に存してゐるかのやうに見うけられる。しかしながらまた、それらの疲弊瑕瑾の數〻にも拘らず、かいなでの凡庸人の手にかゝれば、到底法も形もつかないであらうやうな、その亂暴專擅な手法にも拘らず、なほこの書物は、銳く讀者の衷心に迫り來る、直觀的な秀れた機鋒を藏してゐる點で、人の胸に潛んでゐる、高貴な情感を搖り動かす、卓拔な詩情によつて一貫されてゐる點で、時代に比類のまれな長所をもまた備へてゐるのである。――さて次に、書中二三の問題にふれておかう。

 

 著者は、わが國現代の文化の混亂、言語の猥雜を指摘し、かゝる言語を以てしては、如何に天分の豐かな大詩人と雖も、到底西歐諸國の詩人に比肩すべき、秀詩をなすべくもない文化的地盤の惡條件を慨嘆し、我々の良き詩歌の成長は、かゝる粗野未熟の現代言語が多くの文學的努力によつて耕作され、精錬され、永い時間の後に、文學的の含蓄や陰影を附與された曉に於てのみ、漸く期待されるであらうと、一縷の希望を遠い未來に繫いでをられる。私もまた著者と共に現代文化の混亂、現代國語の猥雜を痛感し、詩歌の環境としての文化と、詩歌の素材としての言語との、基本的なこの二大要件の、甚だ非恩惠的なる現狀に就て、かねがね悲觀說を抱懷してゐるものである、この點で著者と私は意見を同うする。ところが著者はまた一方、詩歌の音韻的效果を最も尊重し拍節や韻律の、漢詩や西詩におけるが如き詩的效果を我等の詩歌の上にもまた期待してゐられる。さうして一方ではまた日本語の改良や成長を夢みてゐられるのである。甚だ悠久なる期待といはざるを得ない。この點、私は著者に同ずることを得ない。なるほど、詩歌における音韻的效果の尊重すべきは、もとより論を俟たない。漢詩や西詩における、その整齊の美感、その風韻の深情は他の何ものにも換難(かへがた)い藝術的效果をあげてゐる。しかしながらそれは、平仄や押韻の嚴しい法則に耐へうるだけの、資質を享けた言語にして始めて、期待さるべき效果であつて、わが日本語の如き、單なる押韻の法則のみにさへも、到底耐ふべくもない、脆弱の言語を以てしては、その點、西詩や漢詩の、詩法の重心を、そのまゝ拜借し踏襲する譯には到底參り難い。
 嘗て與謝野晶子女史らが、押韻詩の創作を試みられたが、ただにそれが初步的な試作であつたからといふだけでなく、その失敗の程度は、この眞面目な企てが全く滑稽に墮し了つたほどそれほど根本的に何か見當違ひの感を讀者に抱かせるものであつた。また例へば九鬼周造氏の如き、日本語に於ける、押韻の可能を究明し、自らもまたその試作を示してゐられる篤志家も存するが、その理論も、ひと通り辻褄を合せた程度にすぎず、その試作も何かしら語呂合せのやうな感が伴つて滑稽であり、何としても我等の母國語の、韻文として性能に缺けてゐる一事は、炳として覆ひ難い。

 

 著者萩原氏は、短歌における押韻の存在を例證し、その音韻的效果を力說してゐられる(――この論文は、本書中白眉のものである)が、なほそれも、眞の押韻と稱すべく、何らの確乎たる法則を有せず、極めて薄弱の、實は聲調と名稱すべき程度のものであらう。さうしてかゝる事情は、一に國語の性質の然らしめるものであつて、この性質たるや、如何なる文學的努力によるも、到底改變さるべき種類のものではない。如何なる文學的努力と雖も、この國語の性情の、標內において繰返さるゝが故である。さればさきにあげた、遠き未來に著者のかけてゐられる一縷の希望の如きも、かゝる基本的の問題に關しては、實は全く絶望的のものなることを知るのである。或は著者の希望も、西詩や漢詩におけるが如き韻律美を庶幾してゐられるのではなく、少くとも今日の蕪雜さに較べて比較的に雅馴な何かしら音樂的な感じのするといふ程度のものを期待してゐられるのであらうか、それならば私もまた、假りに讚意を表しておいてもいゝ。
 假りにといふのは私はまた著者とは別に、少しく考へるところがあるからである。實に、右に槪說したるが如き事情からして我らの母國語は、到底西詩や漢詩に倣つて、それらと等しなみの、音韻的な詩美を創造するには、根本の條件を異にした言語である。一言に云つて、我らの母國語は、最も非音樂的な言語である。然るが故に、俳句の如き、非音樂的な、單に印象的な特異の詩歌を產出したのであらう。
 俳句のあの短小な形式に、なほ進んでその音樂性を探り出さうとするのが、在來の鑑賞家の常套であるが、私はその細心な鑿穿に感嘆する前に、彼等がこの特異な詩歌の、最も重大の特質を見落してゐるのに驚くのである。檢微鏡的な鑿穿をしばらく措けば、あの短小な詩歌になほ音樂性を求めるのなどは全くの徒爾であらう。俳句はもともと、音樂的な效果などを企圖してゐるものではない、それは端的な詩的印象を、最も無表情な言葉で認識しようと心掛けてゐるのみである。その定型の如きも印象を最も手短に整理する、便宜の手段であつて、音樂的の、言語の反復を目的としてゐるものではない。(例外的事情に就ては、しばらく考慮を拂はない。)

 さて然らば、韻律を無視した、單に詩的印象を內在するのみの詩歌、そのやうなものが、そもそも詩歌として、心理的に成立するであらうか、これをまた別の場合に就て考へてみよう。かの、我國の漢詩人等の場合は、この間の消息の、奇妙な一例となるであらう。彼等は中華人等と全く等しなみの嚴格な作詩の法則を遵守し、その平仄ゃ押韻の規則に從つて、全く音樂的に組み立てられた定型詩を創作し、而も創作者自らは、その音樂を自身の耳をもつて聞きとることはしないで、甚だ散文的な日本讀みに之れを解讀し、恰も一種の不定型自由詩、嚴密にいへば散文詩の如くにこれを諷誦、吟味し、その上、月旦(げつたん)上下してゐたのである。かかる場合彼等が心理的に、一種整然たるポエジイを感得してゐたであらうことは、ほとんど、推察に難くはない。これを以てみれば、詩歌の、韻律的約束と離れたその意味、卽ちその詩的印象もまた、獨立して心理的に、一種のポエジイを構成しうるものなるを知るのである。我等が漢詩の日本讀み、あのプロザイックの日本讀みによつてすら、百の詩人を百の詩人として、味讀し判別しうるものは、その聲調によつてよりも、寧ろ主としてこの心理的の、詩的印象に依賴するのであらう。この詩的印象の存在によつてこそまた實に、所謂散文なるものの成立も可能とされるのではあるまいか。
 かく觀じ來れば、詩歌における音樂性は、勿論詩歌そのものでも、また詩的印象そのものでもなく、單なる二次的の屬性と見ることをうるのである。然るが故に、私は、詩歌に於ける音樂性を、强ちに輕視せざるも、また『純正詩論』の著者の如く、これを偏重しようとは考へない。從つてまた、日本語の將來に、西詩その他の如く、音韻的に完備した長詩を產しうる日の來るべしとも考へないし、それかと云つて、この永遠に非音樂的な日本語が、また直ちにその故を以て、詩語としての資格を致命的に缺如せるものとも考へない。
 ただ我らの詩歌は、われらの母國語の宿命に從つて、その獨自の途、私見を以てすれば、ともあれ詩的印象を把持せんとする、その意味で印象派的なる手法を追ふ、その獨自の途を開拓すべきであらうと愚考するのである。
 右は甚だ匇卒の文章で、不備の點は甚だ多いが、帝大新聞記者の需めに應じて、假りにこゝで筆を措く。

 

三好達治「日本語の韻律」(『全集5』所収)