三好達治bot(全文)

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「むかしの詩人」

 もう二た昔の餘も以前のことになる、本鄕春日町の「大國」といふ家で尾崎喜八さんの詩集出版記念會があつた。私はさういふ會合へ出たのはその時がはじめてであつた。その頃大森にをられた萩原さんが近所の私に同行をすすめられたのに從つたのである。私は尾崎さんにも面識がなかつたし、その他の誰とも近づきはなかつたから、さういふ場所へ出席をするのも氣恥しい思ひで、終始窮屈に縮こまつてゐた。

 

 萩原さんの隣りに何か鷹揚な格幅のいい和服姿の仁を見うけた、それが高村さんであつた。高村光太郞さんの名はむろん私も承知をしてゐたから、紹介をされるといつそう窮屈な思ひをした。高村さんはくぐもり聲で始終とりとめもない平凡なことをぽつりぽつり萩原さんと話しあつてをられたのが、春日駘蕩たる風で、私には反つてそれが珍しかつた。そのうちあの大きな手でお酒をいただいたりしたのを忘れないが、記憶に殘つてゐるのはただそれだけで、この時の印象はたいへんはつきりとしてゐてまたとりとめがない。たぶん私は少しあがつてゐたのであらう。その高村さんあたりからテーブル・スピーチが始つて、代る代るいろんな人の小演說があつたが、それもまた私の記憶にはない。
 石川三四郞、江渡荻嶺といふやうな變つた人々を見かけたのもその席上であつた。そのうち佐藤八郞さんが、椅子の上に立ち上つて元氣のいい意見をのべ始めたのは面白かつた。紺絣の胸に大きな羽織の紐の結ばれてゐたのが眼にのこつてゐる。近頃の寫眞で見かける風貌も、話の泉で耳にする聲音も、私の記憶とはだいぶちぐはぐであつて、私の記憶の方はいつまでも詩集の『爪色の雨』と結びついて、あの紺絣のままである。
 高村さんとはその後戰爭中數囘お眼にかかつた。新橋あたりのつまらぬ店へも、誘ふと氣輕に同道されるといふ風で、この時はもう窮屈な思ひもせずにお話を承ることができた。戰爭中の高村さんはいろいろ迷惑の多い立場にゐられたので、私個人としては痛ましいやうな感じがいつもつきまとつたが、それでも見かけは駘蕩として機嫌がよかつた。何か深く期するところのあるやうな言葉を一度ふともらされたが、それもすぐに後は笑ひにまぎらはしてしまはれた。そんなこともあつたので、私には何か負ひ目のやうな氣持がなくはない。それで私は去年の四月岩手の山奧へ機會をえてお訪ねした。その山居のありさまは、一度雜誌へ記したからここには略する。
 あの山奧で、あの生活では、彫刻の方のお仕事に差つかへが多からうかと、私は今もかげながら案じてゐる。けれども先生は、もう永久に岩手を離れない決心ださうだから、私どもにはどうにも手のつけやうがない。頑固だなあと、嘆息まじりに考へるが、どうもやはり以前からの固い決心が底にあつて動かないのだらう、ともお察しする。秋のあとには冬が來る、每年每年――。あの岩手のきびしい冬と、七十翁の自炊生活と。ともあれ遙かに祝福しよう、あの華やかな才能の後のあの壯烈な何ものかを。

 

 北原さんは、その容貌も童顏であつたが、いつまでも茶目つ氣のぬけきれない無邪氣な明るい人柄であつた。大森の奧の屋敷を白秋城などと稱してゐたのも、今から思ふと罪がない。私は一度、やはりこれも萩原さんに伴はれて伺つたことがある。
 客間のイスにかしこまつて「からたちの花」か何かのレコードをつぎつぎにきかされたのは、開けつぴろげなもてなしだつたが、當時も少々變にきまりが惡かつた。ところが主人はそれがいささかご機嫌らしく見えたから、あてのはづれた感じといふよりも、私どもには何だかどうも明るすぎた。萩原さんとは、詩壇歌壇の世間ぱなしが暫くつづいた。
 ――S―は、おれのうちで、何のことはない、媾引をするんだから、けしからんよ、どうも、天下の詩人ともあらうものが。
 といふやうな話の出たのを忘れない。もちろん私は、座にあつたといふまでだつたが、萩原さんも北原さんには、たいへんといふほどではなかつたけれども、いくらか窮屈らしい應對ぶりだつたのがそれがあの人らしくいかにも無器用な應接ぶりで、私にはなかなか面白かつた。

 

 ――白秋は、どうもあの通り威張りたがつて、大家らしくもない、あの子供つぽい癖が、拔けきらないから、開口だ……。
 といふのは萩原さんの感想だつた。親切で、開けつぴろげで、おしやべりで、子供つぽくて、それでどこかしら威張つて見せる、そんなところが白秋城の主には、罪もない趣味としてたしかにあつた。手びろく仕事をひろげてゐるのが、そんな風にあの人に、働き者らしい餘分な活氣を與へてゐたのであらう。品位も惡くはなかつたし、あと味はさつぱりしてゐたけれども、座談の聽き手としての主ぶりには、もう一つ工夫が足りなかつた。讀書人の風はまづなかつた。と私のやうな書生輩にものみこめた。
 『近代風景』といふ手ごろな雜誌が、白秋の主宰で出てゐたのは、當時のことであつた蒲原有明さんの詩が、卷頭にのつてゐることが多かつた。その詩は以前の有明詩のやうな、厚手のものではもはやなかつた、それが私どもには不滿であつたが、白秋はあるとき私に、萩原君の書くものはつまらなくて、困る、といふ風な小言を漏した。
 萩原さんのはエッセイだつたがそれらは當時の私どもには決して面白くないものではなかつた。だから私はたいへんとんちんかんな思ひを覺えた。いつぞや大森驛附近のカフエで、私は少々醉つ拂つてゐたのにまかせて、
 ――白秋は、とてもわからずやで困る。
 といふ風な意見を發表した。そんな意見にはいつかうとり合はないのがこの人の日常らしく、微くんの上機嫌で、その時も北原さんは何かしきりに威張り散らしてゐた。
 そこの二階にはピアノがあつて、「幼稚園の先生」と私たちのよんでゐた神妙な女給さんが、その時も先生の童謠か何かを彈奏して聞かせた。兩先生は意氣投合してゐるらしい樣子であつた。

 

 島崎さんが麻布の飯倉にゐられたころ、昭和の二三年ころ私どももその近所の狸穴に暮してゐた。私どもの二階を借りてゐた堀口庄之助さんといふのは、唯心派十九世といふ肩書をもつた庭造りで、この人は島崎さんにも出入りをして前栽の世話をやいてゐた。
 今日は芭蕉の根を植ゑてきました、といふやうなことのあつた數日後にはまたそれを見囘りに行つたりなどしてゐたが、そのつど藤村先生の暮しぶりや仕事ぶりを少しづつ報吿の形で、私どもに傳へるのが庄之助さんの常であつた。
 私はその報吿にはさほど興味も覺えなかつたが、私と一緖に暮してゐた梶井基次郞君の方は、そんなささいな傳聞にも若干感興を動かしてゐるやうな風であつた。梶井君はまた茶目つ氣な眞似をするのが趣味であつて、板べいの節孔から通りすがりに一寸藤村邸の前庭をのぞきこんだりなどして、同行の友人たちを笑はせるやうなことをした。
 ――藤村は、ゐなかつた……
 などと罪もないことをいつてみんなを笑はせるのが、彼の思はくでは一種の敬意をささげて門前を通りすぎたつもりのやうであつた。
 かう書いてくると、私も一度その節孔をのぞいたやうな氣持がするのは、記憶の錯覺といふものだらうが妙だ。あれはたしかに梶井の一手販賣だつた……。

 

 そんな近所に暮らしてゐたから、町ではちよいちよい島崎さんの姿を見かけた。六本木の方から橡の並木をこちらへ急ぎ步でやつてくる、變つた姿だ、と眼をとめると、それが島崎さんだつた。何か遠方からでも眼にとまる、變つた樣子が、やはりあの人にはどこかにあつた。
 心もち胸だかにしめた帶、その外には服裝に何も變つたところはなかつたが、あの年齡の人としては普通でない樣子、ものの簡素に整理のついた何か一直線な感じがあつて、それがなかなか高雅に見えた。
 そのころ私は島崎さんと言葉を交へたことはなかつた。まだ筒そでの、小學生の鷄二君とは、いつとはなしに顏馴染にはなつたけれども。
 その後私は、事變の始つて間のないころ、ある文學會の賞をもらつて、その發表式に、久しぶりで藤村さんにお眼にかかつた。式の前の茶話會では、晴れがましく私は藤村さんの隣りに座つて、たいへん窮屈な思ひをした。
 藤村さんはそのころすつかり耳が遠くて、二三度私の申上げたことは、お返事のないままにまぎれてしまつた。そんな具合であつたから、席上の人々との應接も、いくらか不自由に見えたけれども、槪ね要領がよくて、その上なかなか才氣があつて、いつかう老人らしくは見えなかつたのに、私は實は舌をまいた。どうやらあの人には、もう一つほかに耳があつた。……

 

 數日後、私は麴町へお禮に上つた。さうしていろいろお話を承つたが、ここには略する。ただ一つ、島崎さんはこんなことをいはれた。
 ――詩壇も變りましたね、私なんかが詩を書いたころは、人には內證に、こつそりかくれて書いたものです。何か、恥かしいやうなことでしたうんぬん。

 

 

三好達治「むかしの詩人」(『全集4』所収)

「交遊錄」

 萩原朔太郞先生に初めて會つたのは丁度三年前の夏だつた。伊豆のある旅館で初めてこの有名な詩人と對坐した時は、子供の頃中學校の入學試驗をうけに行つたやうな氣持だつた。小說家の尾崎士郞氏がそこへ伴れて行つてくれたと覺えてゐる。窓には盛夏の綠があり、僕は少しあがつてゐたので落着かうと思つて重々しく薦められた茶を啜つた。最初に室生犀星の話しをしたやうに思ふ。梶井基次郞君も同坐してゐた。雜談の內容はもう忘れてしまつたが、この時の印象はいつも僕を子供のやうに明るくはにかませる。これより前まだ高等學校にゐた時分から、僕はこの詩人のものは殆んど一行殘らずと云つていいほど丁寧に讀んでゐた。一度は鎌󠄁倉の材木座へ手紙を送つて、訪問したい旨をしたためたが、返書がなかつたのでよした。この日は夜になつてみんなで酒をのんだ。醉つて代る代る歌をうたひ初め、僕は命ぜられて生れて初めてだつたが王維の詩を大聲で朗吟した。僕に詩吟が命ぜられたのは、僕が到底外に歌なんかうたへさうになく見えたからに違ひない。
 爾來、友情と云ふには相當しないが、敬愛の念をかへずに僕はこの大詩人に親炙しうる幸福をもつてゐる。最近屢りに不幸に遭遇してゐるこの先輩と、僕は近く東京に出て再び歡語しうる日を夢みてゐる。
 現在僕は大阪で、安つぽい飜譯の原稿料を稼ぎながらくすぶつてゐるが、この地には病を養つてゐる舊友の梶井基次郞君がゐる。時々僕の方から仕事の合間に彼を訪ねることにしてゐる。彼の方からは來ない、夜露にあたつてはいけないから。
 僕らは東京にゐた頃、麻布で同じ一つの家の二階に隣り合つて暮してゐた。その頃習󠄁慣のやうに夜をふかして雜談したのが、彼の宿痾を一層危險なものとしたのは爭はれない。でも僕らは今會つて、その頃の向ふ見ずな生活をお互に後悔してはゐないやうである。そして昔ほどにも微細な點に亙らない、極めて大ざつぱな文藝上の會話をして、彼が急いで僕の前に碁盤を持ち出してくる。
 「もしもAがBだつたら……」と考へる假定法は、凡その場合僕には感情の上でゼロに等しい。しかしながら僕は切に思ふ、もし彼が病身でなかつたなら!

 

 碁盤で思ひ出すのは、こんな聯想も失禮だが、川端康成氏である。碁は比較にならなく僕の方がまづい。
 年長者に會ふと過度に窮屈を感ずる僕も、銀座を步いてゐるときなどふと、この人に會はないかしらと思ふ。
 一と頃武田麟太郞君とよく銀座で出會つた。
 ――武田、かねをもつてゐるかい?
 ――もつてる。
 ――晩食が食ひたいんだがね。
 ――よし。

 

 麻布で梶井君と同居してゐた家へ、梶井が去つた後に北川冬彦君が移つてきて、僕は彼と日常を共にした。雜誌『亞』が終刊に近づいた頃だつたと思ふ。僕はその頃詩を書いてゐたのだが詩人の友達など少しもなく、彼は珍らしい異例であつた。從つて彼からいろんな刺戟をうけ、鞭韃されるところも多かつた。しかし今顧みてそれらのことはみな遠く漠然とし、何をここに記していいか解らない。彼を介して瀧口武士君や安西冬衞君などと友情を訂しえたのも、僕の喜びとするところである。現在東京で忙がしく僕らの雜誌の仕事に携はつてゐる彼に、僕は永らく御無沙汰してゐてまことに濟まない譯である。 

 

 僕がまだ詩など書かない頃から、僕には一人の詩人の友達があつた。丸山薰君である。この友人から僕は永い交遊の間に、いろんなことをたくさん敎はつた、彼に負ふところを僕は永く忘れないだらう。臺灣大學に赴いた詩人矢野峰人氏が、夙やく丸山君の詩才を愛してゐたことをここに誌して置かう。
 淀野隆三君と中谷孝雄君とは同人雜誌『靑空』以來の舊友で、今も最も無遠慮に亂暴な交際をつづけてゐる。僕は早く飜譯などの仕事を終り、東京へ歸つて彼等といつしよに勉强しよう。さうだ!

 

 

三好達治「交遊錄」(『全集4』所収)

「郊野の梅」『砂の砦』

逝くものはこゑもなくゆく
ささやかな流れの岸の梅の花
野の川の川波たてば
その花のかげもみだれて
そはしばしゆらぎさざめく日暮れどき
野はやがでほの昏けれど
その花の
もののあいろもさだめなく昏きあたりに
ただ一つその花のともす燈火(ともしび)
――微笑 囁き
世の外のひそかなる希望の合圖
神のおん手の器より溢れ落つ
美の幸福よ
はたはまた
底ひなき黄泉(よみ)の香氣よ
かかる夕べもやすみなくゆく野々川の
靑き水ただ弓一つへだてて眺む
槎枒たりや
くろがねの幹のこずゑに
はつはつにその花まれに
きのふけふにほふすがしさ 白さ 明るさ
暮れてゆく水のほとりに
ただのこる淡き燈火風ふけば
風にまかする
――微笑 囁き
世の外のひそかなる希望の合圖

 

 

三好達治「郊野の梅」『砂の砦』(S21.7刊)

「古松に倚る」『砂の砦』

天遠く晴れて
月影白くほのかなり
寂々として心を來り撲つは何
我れはわが行かんと欲りしところを忘れ
徘徊して古松の影に倚る
わが生の日はすでに久しく
あまたたび行路の轉變を見る
この心また落寞として
願ふところことごとく絕つ
來るものをして來るに任じ
行くものをして今は步(あし)ばやに行かしめよ
我はひとり老松の亭々たるに肩よせ
鐡よりも固きその意志の永く默然たるをよろこぶ
されどこの心には拙くも世に怒るにも似たらんかし
さらばとて我はひそかに口ずさむ詩(うた)のひとふし
かくてしばしは古き世の古き心をなつかしむ
陳子昂幽州の臺に登りてうたふ歌

 

  前不見古人(さきにこじんをみず
  後不見來者(のちにらいしゃをみず)
  念天地之悠々(てんちのいういうたるをおもうて
  獨愴然而涕下(ひとりそうぜんとしてなみだくだる)

 

いざさらばあへなきおのが言の葉に
うちかへしても嘆ずなれ

 

  古への聖(ひじり)はしらず
  後の世はその人もなし
  あめつちのただきはみなき
  かかれこそなみだおつは

 

 

三好達治「古松に倚る」『砂の砦』(S21.7刊)

「一葉舟」『砂の砦』

——ある一つの運命について

 

天に雪舞い
四方(よも)に烈風のこゑをきく
景や暗憺として涯(はて)なく
波浪かげくろく海を傾け來る
海は傾き去つて飛沫しろく
潮流激し鳴る
海鳥忽ち虛空より下り
みな翼にしづくたれて叫び啼けり
ああこゑあるものかくことごとく悲泣すれども
天日の影を見ず
暗雲脚白く垂れ
低徊してまた行くところを知らざるに似たり
かかる時しも
げにかかる極地の混迷と息苦しき虛無との情緖をさき
慘たる視野をつんざきて
舳(へさき)高き綠色の意志は駛らひ來るなり
帆綱みなきしり鳴り
帆布はたためき
砲手砲につき
舵手舵輪をとり
電信手キイをうち
哨者マストによぢて遠く眸を放ちて立てり
船は烈風に怒りたてゆれ
怒りまた橫ゆれて
ゆらめきゆらぎて蹣跚(まんさん)たれども
一にただ羅針の指さすところにむかひて急ぐなり
危ういかな
見えざる遠き目標を追いてかく疾航するもの
視界暗き薄暮の彼方に
極北の海を間(ま)ぎりて海獸の群れを追ひゆくもの
危ういかな
機關の音喘ぎため息つく一葉舟や
然れども景はために
忽ちに光彩を得て燦たる一幅の畫圖をなせり
乾坤は一の焦點の上に片脚立つが如くに緊張せり
かの危ふげなる墻頭暮景をかきみだすところに於て
はしなくも美の形而上學は誕生す
聞け
かのくるしげに喘ぎ息づく機關の音
何ものの扉をたたくこゑか
單調にただ單調に步なみ正しく
そは幻の音樂の端緖を織なしつづけつつ疾航するを

 

 

三好達治「一葉舟」『砂の砦』(S21.7刊)

「半宵記」

 先日女流作家のO・Kさんが突然他界された。私は朝の新聞でそれを知つた時、同女史の――ほんの數囘私がお眼にかかつた、その時々の風采や擧止動作を次々に思ひ泛べた。友人達大勢と一緖にお宅で御馳走になつた時、銀座のどこかで行會つて簡單なお辭儀をしあつた時、ある雜誌社の座談會で同座した時、そんな折ふしのただ何でもない女史の姿を囘想したのである。故人を偲ぶ、といつても、これはたださういふ、ふとした情景を思ひ泛べたにすぎないのだが、やはり何か肅然として身に逼るのを覺えた。
 ――もうあの人とも、銀座でばつたり行會ふこともないのだなあ……。
 いつてみれば、ただそれほどの數語にも盡きる感懷なのだが、交りが淺ければ淺いだけに、淡如としたものではあつても、やはり何かととりかへしのつかない氣持である。
 ――もうあの人に會はない……。
 この短い言葉は、初めの間は、いつもきまつて、ある錯覺的な感情を喚び起すものである。さうではない、そんなことがあるのか、心はいつもさう叫びかへすのである。いつかひよつこり、忘れてゐた時分に、どこかの停車場か、街角か、喫茶店か、そんな人混みの中で、やあと聲をかけあふ、そんなことが決してない、とは誰がきめたのだ、といふ風な理由のない疑問も浮ぶのである。
 ――やあ。
 ――やあ。
 ――あなたはおなくなりになつたさうぢやありませんか。
 ――いやなに、みんながそんなことを言ふんですよ、あれは間違ひでしたよ。
 といふやうなことで、大笑ひになりさうな場合も空想されるのである。愛兒をなくした親達が、あの淸楚な、この世のものではない身仕度をして、廻國巡禮に旅立つ心の隅にも、遠いどこかの村里で、かういふ偶然にめぐりあふ希望をかくしてゐないだらうか。
 ――お父さん、お母さん、私はこんな田舍で遊んでゐましたよ。
 子供はさういつて駈けよつてくる、さういふ理性の許さない空想も、空想さながらのリアリティーで、親達の心を動かす力をもつてゐるだらう。
 それはとにかく、けれどもやがて時間がたち、歲月を經るに從つて、もうあの人に會はない……は、そつくりその言葉のまま、人々の心に落着くやうになつてくる。さうして先の錯覺を、もう再び繰返さなくなつてしまふ。私にもさういふ思ひ出は幾つかある。さうしてさういふ思ひ出は年ごとに數を增してゆく。親しき者故人の中に在り、私は時々かういふ言葉を呟いてみることがある。若い身空で年寄ぶつたことをいふ譯ではない。若いといつても、私位の年齡になると、もう新らしく友達の出來る機會はない、殆んどないといつてもいい。私のやうな頑なな性分の者、世間の狹い者は特にさうなのであつて、これもまた致し方のないことと思つてゐる。さうしてその數の乏しい友人達が、年々更に減じてゆく。病弱な私の番もおつつけまはつてくるだらうが、己れを思ひ故人を思うて、半宵感をなすのは近頃の私の嗜癖である。仕事らしい仕事、華々しい働きの一つも示しえないで、このまま碌々と生を終るのは、流石に私としても遺憾でなくはないが、己れの分を思へばそれもまた當然のこととして必ずしも忍び難くはない。たださういふ感懷に耽るごとに、私には一つのやみ難い希望がある。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 私は殆んど神に祈りたい氣持になつて、さう呟かないではゐられない。こんなことをここに記すのは、文筆家などといふ(不幸にして私もさういふものの一人である)賣文稼業のわざくれとして、まことに時世にならはない、考へてみるとはしたない仕方であるが、それはまあそれとして、せつかく執りかかつた筆である、もう少し先を書くことにしよう。
 私は先年、いささか病を獲て、さる病院に三ヶ月ばかり入つてゐたことがある。もともと私の病氣は、そんな病院にかつぎこまれるほどのものではない、ほんの輕症にすぎなかつたことは、度々醫師からもいひ聽かされ、自分でも十分承知をしてゐたので、そこに入院した當初の間、私は極めて平靜な、といふよりも寧ろ氣樂な休暇を思ひがけなく與へられた人のやうな、ほつとした樂しい氣持でゐたのである。さうして私は日々に疲勞を恢復し、體重を增し、間もなく熱もひいてしまつた。私の病氣はさういふ風に、さしたる出來事もなく快方に赴いたのにも拘らず、私はそこで慘めな憂鬱病にとりつかれてしまつた。それまでにもその兆のあつた神經性心悸亢進症といふ不名譽な厄介な病氣に、まるで蜘蛛の巢にからまつた昆蟲か何かのやうに惱まされたのである。この神經病の苦痛はその經驗者でなければ到底想像も及ばない慘めな殘虐なものである、私がさういふ疾患に陷つたのは、積年の不攝生に根ざしてゐたのはいふまでもないが、一つにはその病院の環境が直接の原因にもなつてゐたもののやうに思はれる。
 その古風な小さな病院では、狹い廊下一つを隔てて、私の病室の斜め向ひが、丁度屍體室に當つてゐた。それを私は、そこへ入つて一週間もすると、いつとはなしに悟つてしまつた。勿論私は、ずつと病床に就いたきりで、一步も室外に出かける譯ではなかつたが、臥たきりでゐても、案外さういふことはすぐに解つてしまふのである。
 靜かな夜ふけに、忙がしく氷を碎く音が聞える、看護婦や附添ひがそそくさと廊下を往復する。重症患者が危篤に陷つたのだといふことは、それだけでもうすぐに推測されるのである。ぼそぼそと人聲がする、何か器具をとり落す音が聞える、歔欷の聲も聞えてくる。どこの部屋のどういふ職業のどういふ年齡の患者が、どういふ病狀だといふことは、誰にきくといふでもなく、日頃から詳しく解つてゐるので、その夜のさういふ騷ぎが、どの部屋で起つてゐるかといふことも、すぐに想像はつくのである。その病室の中の樣子まで、手にとるやうに、まるでその場に立會つてゐるやうに解つてしまふのである。病院といふところは、お互の患者が、ベッドに就いたまま、千里眼か何かのやうに、お互の生活を透視し合つて暮してゐるところである。
 さういふ騷ぎのあつた翌日は、私の部屋の筋向ひに、しきりに人の出入りがある。それがさういふ種類の部屋だといふことは、だからすぐに私にも解つてしまつた。そこではしめやかな話聲が一と晚中つづいてゐることがあつた。低い聲でお念佛か何かの始まることもあつた。また柩の蓋をうちつける荒々しい槌の音の聞えてくることもあつた。ある時ふと、私の部屋に來てゐる看護婦が、そちらの方を顎で示して、こんなことをいつた。
 ――馬鹿だね、歌なんかうたつて、法被を着てゐるんですよ、あの人……。
 なるほど先ほどから、さういへばその部屋からは、つまらぬ流行唄か何かが、暫く中斷しては、またしても思ひ出したやうに聞えてゐた。私はただ何氣もなく聞きながしてゐたが、樣子を聞いてみるとかうであつた。その男は一昨晚、突然女房を車にのせて、病院の玄關に乘りつけてきた、前ぶれもなしにやつてきたのである。女房は既に危篤の狀態だつたので、病院でも面喰つたが、何はともあれ受けとつて手當を加へた。女房はその次の晚に息を引とつた。その枕頭に、あの男はああして法被姿で一人坐りこんで、あんな風に歌をうたつてゐるのである、といふのである。
 ――馬鹿だねえ、歌なんかうたつて……。
 と看護婦はもう一度繰りかへしたが、私の耳にはその言葉は何か聞きづらいものに聞えた。その部屋に運びこまれ、その部屋から運び去られる人の數は、私がそこにゐた三月ばかりの間に、十人をなほ幾人か越えた。私はその都度、だから、それぞれ樣子の變つたそれらのお通夜に、蔭ながら立會つたやうな譯であつた。おかげで私はすつかり滅入つてしまつたのである。
 私達の日常生活といふのは、見榮や外聞や、洒落つ氣や乃至は身嗜みや、さういふ風な娑婆つ氣で、その大部分が支へられてゐるといつてもいいやうである。氣持に張りがある、といふのも、つまりたいていは、その姿婆つ氣の何かなので、一たびその娑婆つ氣の支へが失はれると、たいていの人物がどういふことになるだらうか、彼らの演ずる相當意外な、滑稽な、見つともよくない情景も想像するに難くないやうに思はれる。
 先年H・T君の小說が文壇の話題となつた時分、ある私の知人は、あのやうな誇りを失つた悲慘な生活記錄を、小說だなどと稱して麗々しく世間に示す位なら、自分はむしろ死を撰ぶ、自分ならああいふ醜惡な病氣に罹つておめおめと生きてゐようとは思はない、自分には何よりも血の誇りが必要だから、と言ひ放つた男があつた。その男はさる名家の出であつたが、なるほど彼なら、血の誇り家系の矜持といふやうなものを平素私かに覺えてゐるのも、さるありさうなことだと思はれた。私はさういふ誇りを覺え颯爽たる誇りを以て生きてゐる人物の氣持を羨望もし讚美もする、それは美しいことに違ひない。どうか他日天與の機會があつて、さういふ誇りの中身が果してどういふものか實踐の上で私達の前に示してほしいものである。これは厭味でいふのではない。たださういふ日の來るまで、私はその男の書く文章を一切讀まないことにひそかに決めたのもまた事質である……。
 誇りを以て生き、誇りを以て死す、實際それほど美しいことはない。私のやうな意氣地のない氣持に張りのない者も、さういふ境地の美しさを想像し讚美することは出來る。けれども、どうも自分が現在さういふしやつきりとした氣持、さういふ何かの誇りに生きてゐるとは思へない。これは私の憐れむべき打明け話の一つである。
 私は先ほどのその病院で、先ほどのその例のお通夜を繰りかへしてゐるうちに、私といふものの隨分他愛ないことをつくづく悟らざるを得なかつた。死の恐怖、その前で私の精神がどんなに卑怯に尻ごみをし、どんなに醜態の限りをつくしたことだらう。私の惱んだ神經症狀も、殆んどその慘めな恐怖の結果だつたといつていい。
 この世間に於ける私達の生活、娑婆の生活は、多かれ少かれ、娑婆つ氣の支へで支へられてゐるものである。その娑婆つ氣の旺んな間は、たとへ健康を失つて病院に身を橫へようとも、隣室で慌だしく柩に釘が打たれようとも、不思議とさほど骨身にこたへないものである。その時分はまだ、從容として死に就く立派な勇氣が、どうやら自分にもありさうな氣持がするのである。ところがさういふ病院生活の日數を重ねるに從つて、世間の騷音が次第に耳から遠ざかり、無念安逸に慣れるにつれて、不思議に孤獨な精神が蘇つてきて、例へば廊下を通つて厠に通ふのもこはかつた子供の頃のやうな、心細い氣持を覺えるものである。一たびさういふ氣持の虜となると、達者で活動してゐる人々の姿が奇怪な幻影のやうに見え、友達の親切な手紙や勵ましの言葉さへも、得體の知れないたぶらかし乃至は挑戰のやうにも受けとられるのである。何といふ呪はれた氣持であらうと、時に自ら反省もしてみるのだが、さういふ反省自身が既に世間的なよそ行きのものであつて、いつかう無力なのを悟る位が落ちである。
 さういふ困つた氣持に惱んでゐた、その私の病室の窓からは、空地を隔ててその病院に附屬してゐる醫學校の校舍が見え、校舍の影には小さな平屋の建物があつて、そこには七十歲ばかりの頭の禿げた一人の老人が住つてゐた。老人は古くから其の學校に傭はれてゐる小使であつて、解剖室で解剖のあつた時にその跡片づけをするのが彼の役目だといふのであつた。その老人は時とすると私の部屋の窓口のところまで遊びにきて、
 ――なあに、肉屋や魚屋をみてごらんなさい、あれとおんなじぢゃありませんか、人間だつて、死んでしまつて切りさばかれりゃ、俺はいつもさういふんだ、鷄や魚もおんなじことさ、何を氣持惡がることがあるものかい……
 などといつてさも平然と陽氣に笑つて見せた。その頭のつるつるに禿げた小柄な老人は、そんな老齡にも拘らずどこかのお內儀さんと私通をしてゐるといふ噂で、時たまその平屋の小使部屋に出入する、襟もとにハンカチをかけた女の姿が見うけられることもあつた。
 私にはその老人自身も、看護婦たちがまたしても口にするそのつまらぬ噂咄も、二つながら甚だ氣持が惡かつた。食慾を失ひ、不眠に陷つて、ひどく氣分の滅入りこんでゐた私には、その老人のなりはひや生活ぶりが、どうにも氣味の惡い、その上何かしら威嚇的なものに思はれてならなかつた。私はさういふつまらぬ身近な見聞から、ただ意氣地もなく日々脅やかされた。――死の恐怖、つまりはそれだけのことに根ざしてゐたのであるが。
 アンリ・ファーブルの『昆蟲記』第十卷の最後の結びの一句には、ただ「働け」といふ一語が記されてゐる。この地上に生を享けた生きとし生けるものは昆蟲も人間も、ただ働くことによつてその生を完うするより外に道はない、それが自然の最上の命令だ、といふほどの意味であらう。それはあれほど丹念に緻密に自然を凝視したファーブルの多年の思索を要約した一語だといつても間違ひのない言葉である。私はふとある夜その言葉を思ひ浮べた。さうして私がこのやうに慘めな姿で、死の前に濡れ鼠のやうな憐れな姿で戰き慄へてゐるのも外でもない、甚だ抽象的ないひ方だが、私が働かなかつたからであらうと考へた。「働け」と自然が命じてゐる以上、働いた者は安らかな生の終末に惠まれる筈である。死を怖れる者は、その者が實は自然の命ずる通りに働かなかつた證據でもあらう。私はさう考へて私の心を落ちつけようと力めたが、私はファーブルの哲理には承服しても、それと共に私の苦がい後悔から脫け出すことは容易に出來さうもなかつた。私はまたある時はいくらか自暴自棄に、自分のさういふ慘めな姿を、どう救ひ上げようとも試みないで、自分の心をそのまま放下して一層慘めに醜いものとすることに、無關心でゐてやらう、よそ眼にはどんなに無樣に見えようともかまはない、私も一つ見物人のつもりでそれを袖手傍觀してゐてやらう、そんな風にも惡く度胸をきめてみたが、さういふことでどうなる譯のものではなかつた。結果は益々虛無的な空想が私を苦しめ私を不幸にするばかりであつた。私はもはや自らを憐れんで淚を流すほどの感傷癖も失つてゐたので、ただ氣力のない眼を見開いて溜息をつくよりほかに手だてを知らなかつた。人生の修養とか死生の覺悟とかいふものも、氣力の衰へた病弱の體軀では工夫の出來るものではない。それは健康時のしつかりした精神の上に立つ平素の用意に俟つべきものであるのを、私といふ愚か者はそんな時にあつて初めて氣づいたやうな始末であつた。臨終のことを習つて餘事に及ぶべしとはさる高僧の言である。エセーのモンテーニュも、哲學とは死の用意をすることに外ならない、と前置きしてあの語錄をその彼の用意の手だてとして書き記した。達人賢人の言は槪ね軌を同じうしてゐるのを思ふにつけても、私は自分の平素の迂闊さや橫着さをつくづく後悔しないでゐられなかつた。
 當時のそのやうな苦澁な經驗を經て、その後私がどれほどの變化をとげたか、それは私自身にも解らない。その後既に七八年の歲月を隔てたが、今日の私も依然として昔日の舊阿蒙であらうかと思ふと、私は時にまた慄然として身內に惡感の走るのを覺える。私は私の精神のあの一つの惡い季節からは恢復した、それは私の肉體が私の病氣から恢復するのと步調を合せるやうにして恢復した。私は恢復したけれども、私は何ものを克服し何ものを新たに獲得した自信もない。私はただ時間の經過につれて一つの負傷が自ら癒着するやうに恢復したのである。さうして私は再び俗世間に立戾つて、俗世間のヴァニティー、何の賴りにもならない娑婆つ氣といふものを多分に身につけて、日常の行動をそれによつて支配されそれによつて支へられてゐるのを覺える。だから私といふものは、もう一度その支へを失へば再びどういふ世界に沈淪するか、これはもう既に試驗濟なのだからそれを思ふと大變いやな氣持がする。私は必ずしも死を、死によつて私といふものが空無に歸することを怖れる譯ではない。(まして來世といふものがあれば、それも大變結構である。)私自身といふものは、私の肉體も私の仕事も、さほど惜しくはないのである。ただ私は死の苦痛と、私達には正觀することの出來ないあの虛無と、それらを以て樣々な風に脅やかされるあの混亂した氣持とを怖れるのである。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 これが私の希望であり私の祈りである。緩やかな坂路を下るやうに私は死の國へ下つてゆきたい。私は必ずしも長壽や老齡を希ふものではないが、それが死の國への緩徐な靜かな移行きである自然な通り路なら、私はそれをやはり自分の通り路としても撰びたいと思ふ者である。
 私の親しい友人達の幾人かは、この緩徐な手間のかかる、しかしながら靜かな自然な通り路をよそにして、彼らの急坂を遽だしげに驅け降りて、無慘な病魔󠄁にせきたてられて遠い地平に沒してしまつた。
 K君は、とある初夏の日の夕暮、ある街角で私の飛び乘つたバスに向つて、片手を擧げて微笑と共に別れの合圖を送つてゐたのが、そのままこの地上の最後の訣別となつてしまつた。
 T君は、ある夜ふけの橋の上でいやといふほど私の足先をふんづけて、私を不機嫌にしたのを記念にして、その後間もなく永遠に消息を絶つてしまつた。
 N君は、私の多年愛用したステッキの磨り減つて短くなつたのを、脊丈の低い彼には恰も手頃だと稱して所望してゐたが、そのうち私の宅まで受取りに來ると約束をしておいて、そのままたうとう來ずじまひになつてしまつた。ステッキは依然として拙宅の物置に殘つてゐる。
 またもう一人のK君は、眞夏の暑い日に私が病氣を見舞つて訪問すると、恰もその人らしく私の制止するのも聽き容れず枕許に端坐して、浴衣一枚の寢卷姿のままではあつたが、甚だ几帳面な應接ぶりで私を辟易させ、さうして彼といふ人物の印象を私のためにもはつきりと完成させて、その最後の終止符を打ちそへるやうに、玄關の閾際で極めて丁寧なお辭儀をした。
 O君は、ある田舍へ突然私を訪ねて來て、そのまま私の忠吿も聽かず更にその山奧の溫泉場へ傭ひ馬に搖すられながら入つて行つたが、その彼の何ものかに追はれるやうなせかせかとした後姿は、今日も私の眼底に殘つてゐる。
 このやうにして思ひ起してみると、これらの人々が私の記憶に殘していつた、それぞれのふとしたその最後の擧止や言動は、思ひなしか、みなそれぞれの深い運命の陰翳に隈どられた、何といつていいか、一種月光的なものとして思ひ起されるのである。死者らの姿の森嚴……それを森嚴と見る者は、多くの些事から成立つてゐる私達の日常生活をも、やはり同じやうに森嚴と見なければならない筈だらう。さう思ふと、暫くの間の病院生活ででも、あれほど心をとり紊した私のやうな凡愚の者の、日頃はどれ位迂闊に暮してゐるかといふことにも、小さからぬ且つは森嚴ならぬきを感ぜられるのである。

 

 

三好達治「半宵記」(『全集9』所収)

「小動物」

 

「小動物 一」

 

 私は餘り蛇を怖れない性質(たち)である。一度こんな經驗をしたことがある。
 洛外嵯峨に、嵐山電車を降りて渡月橋とは反對の方角に、釋迦堂といふのがある。もう十四五年も昔のことなので、私はこの文章を書きながら、その釋迦堂の境內を思ひ出さうとしてみるが、道の正面に聳えてゐた山門の外、私の眼に浮んでくるものは、いつかうにみなとりとめがない。それでこの文章の前置きに、風景描寫をすることはたうてい出來ない。しかし次のことだけは、それに引かへ、はつきり記憶に殘つてゐて、昨日のことのやうに眼に浮べることも出來る。
 その境內のどこであつたか、ある建物の前の、石と石との隙間のところに少しばかり草の生えた、砌の上をちやうど私の步いてゐた時、私の前を三尺ばかりの蛇が走つた。今から思ふに、どうもそれは、靑大將だつたらしい。その蛇は、首から五寸ばかりのとこに、一ところ、變な膨らみをもつてゐた。それが私の注意を惹いた。私は突嗟に、別段何の分別もなく、二三步彼の後を追つて、その尻尾を、矢庭に靴で踏んづけた。私の靴底と石との間に、うまい具合に、彼の尻尾は捕へられた。私は一寸ぎよつとしながら、やはり何の分別もなく、ものの拍子といつてもいい行きがかりから、そんな風なことになつた、その私の立場を、その場の嫌惡に耐へて、暫く守りつづけてゐた。捕虜となつたその蛇は、不意の災難に迷惑して、その上半身を、二三度左右に振つてみせたが、それでもいつかう尻尾を放して貰へない、――その場の事情を、彼なりに、何と合點したのであらうか、一寸靜かに落ちつくと、今度は、先ほど私の注意を惹いた膨らみ、その腹中の一物を、身悶へといふほどのものも見せずに、器用に吐き出しにかかつたのである。その時の彼の表情は惡戲小僧が素直に降參したといふ、ただそんな、無邪氣なものに眺められた。私は少し興味を覺えて、その彼の膨らみが、小刻みに少しづつ、頭の方へ近づいてくる、吐逆の樣子を見まもつてゐた。やがて彼は、鎌首を一寸もたげて、こつくりと、眼の前の土の上に、黑いものを吐き出した。それは一匹の蛙だつた。唾液のやうなものに濕れた、その蛙は、腹匍ひに置かれたまま、既に正氣を喪つて、ぐつたりとして動かなかつた。しかしそれから一二瞬の後、つぶれたやうにへたばつてゐたその蛙は、うつけた氣持でそれを見てゐた私の眼の下で、大きく一つ息を吸つた。二三度呼吸を繰返した。それからむつくり起き直つた。さうして後脚に力をこめて、退儀さうに土を蹴つたが、思ふやうには躍べなかつた。それでも二三度躍んでゐると、頭がはつきりしたのか、今度は急に活激に、力いつぱい躍びはじめた。さうしてすぐに、叢に隱れてしまつた。私の捕虜はその間も、微かな音をたてながら、迷惑さうに藻搔いてゐた。私は彼を釋放した。彼もまた一瞬の間に、私の前から姿を消した。極まり惡さうに、こそこそと、乾いた土の上を走つた彼の姿は、一寸氣の毒のやうでもあつた。一つの命から、もう一つの命をとり出して、とにかくそれを二つのものに引分けて野に放つた、そんなことが、その時の私を、一寸得意な氣持にした。
 これは、とある田舍で見かけた話。
 その時私は、年若い友人と同道して、一つの土橋に通りかかつた。初夏の蒸し暑い日であつた。ここかしこ楊(やなぎ)の新綠が煙つてゐる、そこの河原の風景は、嘗て私の旅行した、朝鮮北部の、やはりそんな河原の風景に似通つてゐた。折からの微風に、楊の絮(わた)もとんできた。私達が、その土橋の、橋の袂にさしかかると、それまでそこの水際で、何かを漁(と)つてゐたらしい二人の子供が、橋の蔭から現れて、ちよこちよこ走りで、私達に先んじてその橋を渡らうとした。手には罐を持つてゐる。私は思はず、その罐を覗きこんだ。罐の中は私にはよく見えなかつた。
 ――何をとつたの?
 私は同時に言葉で尋ねた。
 ――かじか。
 一人の子供がさう答へた。
 ――かじか?
 ――かじかがへる。
 その子供は、二度目には、丁寧にさう答へて、鰍ではない河鹿だといふことが、その時はもう嚥みこめた私の前に、その罐の中から、一匹の河鹿を摑み出して、額の上の、私の顏に眼をあげた。それを私に、通りすがりの旅人に、くれるつもりだつたらしい。
 ――ああ、さう、かじかがへる。かじかがへるだね。
 私はさう、なだめるやうに返辭をした。――欲しいのではない、ありがたう、とい位のつもりであつた。するとその子供に、私の氣持が解つたものか、さてその上で、どう思つたのか、彼はそれを强て私にくれようとは、その身ぶりにもその言葉にも、露はには現さないで、そのままそこにしやがみこむと、その手の中に握つたものを、土の上に置いてみせた。――欲しければ、上げるよ、とでもいふほどのつもりだつたものらしい。土に置かれたかじかがへるは、子供の小さな手の下から、早速ぴよんぴよん跳びはじめた。
 ――どうしたの、いらないのかい、逃げつちまふよ。
 私はそんなことを云つた。いとけない私の相手の、露はに云へば反省を促したのである。
 ――いらない。
 私の相手は、ただひと言、うつむいたままでさう答へた。子供の心境といふものは忽ちのうちに變化する。私は一寸まごついて、言葉に窮した。
 その間も、河鹿はぴよんぴよん橋の面を跳んでゐる。今度はそれが氣になつた。斜めにそこを跳んでゐた、その河鹿は、もう橋の上を跳びつくして、その方向に跳ぶつもりならもう跳ぶ餘地もなくなつた。どうするだらう、そんな勢ひで跳びつづけて、危ない……
 私がさう思つた途端に、河鹿は一層勢ひよく、ぴよこんと一つ跳び躍ねた。さうしてそのまま、溪流の中に跳びこんだ、二間ばかりも水面を離れた橋の上から。

 

 河鹿といへば、私にはまた、一寸忘れられない思出がある。
 まだ學校へも上らない子供の頃、私は一度、山陰地方のある町へ、貰ひ子に貰はれていつたことがある。その頃のことは、うろ記えながら、まだひととほり私の記憶に殘つてゐる。
 それは夏の夜だつた。庭に面した奧の部屋では、父の知人のSさんを前に、父と祖母とが、一つの⻝卓を圍んでゐた。ビールか何かの晩餐がはじまつてゐたのである。Sさんは私達子供にも顏馴染の、私達の家庭では屢々名前の出る客人だつた。私達は次の部屋で、私達もまた、家庭に親しい知人を迎へた、子供心のうれしさに、少しばかり羽目をはづして、はしやいでゐたのを覺えてゐる。二つの部屋のとなりあひの、葭簀の障子か何かを透して、二つの部屋のありやうは、お互に見とほしも同樣だつた。
 暫く時間がたつた頃、私一人が、父の聲で隣室に呼び入れられた。一寸家內が靜かになつた。私は部屋のまんなかにぼんやりとつつ立つてゐると、その時父が、突然こんなことを云つた。父はその時、醉つ拂つてゐたのに違ひない、といふことが、これはずつと後になつて、私にも解る時がきた。
 ――この小父さんのところへ、行くかい?
 藪から棒に、そんなことを問ひかけられて、私は無闇と固くなつた。父はまた重ねて云つた。
 ――この小父さんは、小父さんのお家へ、お前を伴れてゆきたい、さう云ふてゐやはるのや。どうや、お前、行くかい?
 云ふまでもなく、その時の私には、前後の事情が嚥みこめる筈もなかつた。祖母とSさんとは、笑顏になつて、私の方を眺めてゐる。私はやつと、自分が、叱られてゐるのではない、といふ位のことを納󠄁得した。
 行く。私はさう答へた。祖母がまた、同じことを私に尋ねた。私はやはり行くと答へた。さう答へた時の氣持を、私は今も覺えてゐる。その氣持を思ひ出すと、私は今でも、少し心が暗くなる。その頃から、自分の家庭を、私は愛してゐなかつた。そんな不幸な過去に就て、また私の頑な性質に就ては、別に一度、少し詳しく書いてみたい。それは兎に角、その時私が、そんな風に、私の見知らぬ遠い町へ、行くと答へたのには、そんな漠然とした氣持の外に、一寸奇妙な、直接な理由が別にあつた。
 その前一度、Sさんが私の家へ、籠に入れた河鹿を持つて、何かのついでに、一寸ひと足寄り道をしたことがあつた。私はその河鹿を、私の家へのお土產に、貰つたものと思つてゐた。私達兄弟は、その籠の周りに集まつて、額を寄せて、籠の中を覗きこんだ。その不思議な薄暗い小さな世界は、今も私の眼に殘つてゐる。しかしSさんは歸る時に、その籠を持つて歸つた、それには私は心の底からがつかりした。そんなことも、それからそのまま忘れてゐたが、この小父さんの家へ行くかい、さう問はれた時、私は遽に、先日のその河鹿のことを思ひ出した。その籠が、何より先に、眼に浮んだ。
 それから十日ばかりして私は家族の者と別れた。
 途中の汽車の中で、私は河鹿のことを尋ねた。Sさんは、怪訝な顏をして見せた。私は詳しく、先日の籠の話をして、相手にそれを思ひ出させた。
 ――ああさうか、その河鹿なら、ゐるよ、ゐるゐる……。
 Sさんはさう答へた。ある筈だ、ゐる筈ぢやないか、相手の顏を見つめながら、私はさう思つた。
 家に着いてみると、その籠は、しかしどこにも見當らなかつた。河鹿はどこにゐるの、私は幾度もさう尋ねた、その度に、新らしい私の父母は、要領を得ない答へを繰かへしていつも私をはぐらかした。

 

 

「小動物 二」

 

 先日鼦といふものを見かけた。
 何處へ行つた歸りであつたか、夕方、スキーを引ずつて宿の附近の急阪を登つてくると、その路の前方の雪の上に腰を下ろして、スキーは靴から離して脇に置いて、やや年輩の一人の男が休んでゐた。彼はやや小高いその位置から、顏は私の方を向いて、さうして片手をあげて私の背ろの方を指して、何か私に注意を促してゐるやうな風に見うけられた。その意味がも一つ嚥みこめないので、別段步を急がせるでもなく、私は遲々とした步き方で彼の方へ近づいていつた。そのうち、やがて彼の聲が聞きとれる距離に近づいた。
 ――狐! 狐!。
 彼はさう呼んでゐるのである。狐とは珍らしい、私はさう思つて、はじめてそこで步(あし)をとめて、背後をふりかへつた。脚もとの小さな澗を一つ隔てて、眼の先の山地の斜面に、もちろん雪の上を、小さな動物が一匹小走りに走つてゐるのを、すぐに私は眼にとめた。それは狐ではなかつた。
 ――鼦でせう。
 私はさうその旅人に答へた。それは狐よりもずつと小柄な、脚の短いそしてからだ全體の半ばに近い尾をもつた、走る時にその背中を一種特有のしなやかさで波うたせる、それらの風體から、疑ひもなく鼦であらうと、私はひとりぎめに決めてかかつたのである。鼦といふものを、(――かうきめてかかるのは、なほ多少早計だらうが、)私はこの時初めてその實物を見かけたのである。それは、その旅人がそれを狐と見間違へたのも多少どうかと思はれるが、とにかく毛色だけは狐に似た、狐色といふよりももつとうすい淡黃色の、なるほど襟卷にしてもよささうな色合なのが、あたりの雪との對照で、やつと薄暮のうす暗いうちにも認められた。その毛色だけが鼬とも違つて、聞き覺えの鼦の毛色にかなつてゐた。それだけではない、このあたり一帶の山地に、近ごろ鼦が跳梁してゐる評判は、かねがね私も聞き及んでるた。夏ごろこの宿に滯在してゐた山獵師は、今年はめつきり兎が減つてねつから姿を見かけない、鼦の野郞が騷いでやがるに違ひない、といふやうなことを云つてゐた。宿から十町ばかり下つた谿合の茶店の親爺は、生簀の鯉を二匹、すぐその茶店のそばを流れてゐる溪流から釣り上げた岩魚を二匹、これは盥に入れて炭俵で覆つた上に重しの石を載せて置いたのを、うまうまと鼦にしてやられたとこぼしてゐた。鯉の方は、小屋のまはりを方方探し𢌞つて、やつとその鼦の⻝ひ殘していつたのを見つけ出してそれでもそれを晩酌の肴にしたが、――ひどいことをしやがるもんでごわすぜ、おらどうにも業がわいてならないと云つてゐた。
 旅人に敎へられて私の見かけたその鼦は、樅の木立の間から、ちよろちよろと雪の斜面を走り下りて、一抱へにも餘る白樺の木の根方を、何のためかくるりと一まはりして、また斜にちときた方へ、樅の木の寄合つた木下闇へ引きかへしていつた。さうして姿を隱す前に、ちよつと立ちどまつて、私達の話聲をききとめたものか、その小さな顏をこちらの方へふり向けた、時間ぎめの出張敎授――と、ルナールがうまいことを云つた、あのせせつこましい分別顏である。
 もう五六年以前のこと、私は大阪の、阪神電車沿線の野田驛附近を、夜ふけに步いたことがある。阪神國道を圓タクに乘るだけの金もなくして、いやな氣持で、――ついでに深夜の場末の風景でも見物してやれといつた氣持で、浮浪者のやうに步いてゐた。國道電車はもうとまつてゐた、けれどもトラックとタクシーがひつきりなしに走つてゐたのは云ふまでもない。そしてそれらのタクシーが、うす暗い步道を步いてゐる私を見つけ出して、代る代る車をこちらへ驅け寄せて、うるさく乘車をすすめたのもまた云ふまでもない。私はそれらの勸誘者に、金がないんだといふことを一一答へた、これはこんな場合のいつもの私の流儀である、しかしそんな風に、自分の無一文を繰返し告白しながら冬の――さうだそれは冬だつた、路傍に櫛比してゐるコーヒー店、といつても軒店のコーヒー店、これは東京ではあまり見かけないやうに思ふが、(近年東京の樣子にうとい私のことだから、或はとんだ失言になるかもしれない、)自動車の運轉手助手を殆んど專門の顧客としてゐるそれらの深夜のコーヒー店も、みんな入口の硝子障子をしめ寄せてゐた――そんな冬の夜ふけの鋪道を、とぼとぼとお拾ひで行くのは、どうにも餘り感心した圖ではなかつた。
 前方から疾走してくる自動車のライトが、次々に現れて、それらの乘物のために磨きのかかつた路面や、ポプラか何かの冬枯れの並木を照らし出す、その矢繼早やな、闇と光明との入れ替りは、しかし虛心に眺めてゐると、一種都會的な、この場末にふさはしい情趣を帶て、その時の私のうらぶれた氣持と、互に呼應してでもゐるかのやうに、ひそかに諧和してさういふ折からの一種のリズムを奏でてゐるのが感ぜられた。
 その時私は、恐らく私一人がそれを認めたであらう、如何にも機敏な、印象的な、そんな夜ふけの小さな獸ものの動作を睹かけた。
 その道幅は何間ばかりあつたであらう、その中央を走つてゐる、電車線路のレールの上を、橫つとびに、私の行手の右から左へ、一匹の鼬が、鼬の道きりをしたのである。小さな頭と、薩摩芋ほどのその細長い胴體と、胴體より心持もち上つたその長い尻尾と、それらが一種美的なしなやかな波狀を描いて、全速力のギャロップで、丁度私の方へは、その洒落たシウルエットを見せながら、さらにその向ふから逼つてくる自動車のヘッド・ライトの光りの中を、多分それは承知で脇眼もふらず突つ切つた、――その颯爽とした小動物のさかしらを、その後私は折にふれて思ひ出すことがある。

 

 鼬といへば一度こんなこともあつた。
 その日私は、潮風の匂つてくる神崎川の河口に近い堤防の草の上に腰を下ろして、雜誌か何かを讀んでゐた。
 脚もとに何か動くものがあつた。私は雜誌の下から、投げだした自分の爪先の方に目をやつた。丁度そこのところへ、ひよつこり顏を出したものがある。こんな風にしてその時私は、一匹の鼬と對面した、それは對面といふ言葉にふさはしいほど、ほんのま近かに彼と私と、眞正面に顏と顏とを向き合つたのである。三分の一秒ばかり彼は私の顏を見つめてゐた。彼にとつても意外であつたに違ひない。それからくるりと身を飜して、失敬――と云つたかどうだか、それは聞き洩したが、急いで叢にかくれてしまつた。

 

 ある小春日和の暖い日、省線東中野驛の傍の陸橋の袂で、私はひと組の家族づれに出會つた。その家族づれに別段何の變つたところがあつた譯でもない。小肥りの働き者らしいお內儀さんは、絹ものではない質素なかいまきの中に赤ん坊を背負つてゐた。その左手に並んで、齡ごろの小娘が一人、風呂敷包みをかかへてゐた。それからお內儀さんの右手には、彼女に手をとられて、まだ學校へ上らない位の、頑是ない男の子が、頰つぺたの赤いむつつりとした顏をして、精いつぱいのちよこちよこ步きで、みんなに步並を合せてゐた。このひと組の家族づれを、その後永く私が忘れないでゐるのは、いや、やはりただ一つ、ただ一つ、ちよつとその服裝に變つたところがあつたからである。
 その小さい男の子が、ちよつと變つた襟卷をしてゐた。鼬の襟卷をしてゐたのである。鼬はそつくり一匹の、ただ一匹のそつくりそのままのものであつた。それはうまい具合に、その小さな子供の襟卷になつてゐた。眼玉のあとの二つの孔に紐をつけて、その紐が尻尾の端を結んでゐる。その輪がお誂へ向きに、餘裕もないが不足なしに、着ぶくれた厚着の中に隱れてしまつたその咽喉のところをとり卷いてゐるのである。それは一見して、餘計なお世話だが、手製の襟卷だといふことが推測された。
 彼等三人、かいまきの中の赤ん坊もいれて四人の背中に、小春日和の午後の陽ざしがふり注いでゐた。彼等の姿だけではない、その時彼等をとりかこんでゐたあたりの雰圍氣、陸橋の袂の風景と共に、私はそれを永く忘れないでゐる。

 

 

「小動物 三」

 

 故梶井基次郞君が、攝津伊丹町の近郊に假寓して宿痾を養つてゐた頃、私は度々彼の病床を見舞つたことがある。
 それはある盛夏の一日であつた。床の上に起き直つた梶井君と私とは、とりとめもない雜談を交へてゐたが、たまたま私達が同じやうにそちらへ顏を向けて、二人の視線をそこに落してゐた、その病室の前の小廣い前栽の、平らな石を程よく按配した飛石路の、一ところ、それらの石を三つばかり寄せ集めた、丁度庭の中ほどに當るそこのところへ、蜂が一匹下りたつて、いかにも身輕な走り方で、水の上を走る水馬よりももつと遙かに輕快に、强い光線の降り注いでゐる石の上を、夢のやうに走つて見せた。
 ――あの蜂……
 とか何とか梶井君が私に言葉をかけた、その時には、私も丁度その昆蟲に眼をとめてゐたところであつた。まるで重さなどのないほどの華車な體軀と、透明な刃物のやうな强い翼とをもつたその昆蟲は、彼の前一二尺の距離を、つと一走りに走ると見る間に、石と石との寄合つた、そこのところに何かの草の立つてゐる、私達の眼には見えなかつたわづかな隙間へ、そのままするりと走りこんで姿を隱した、――ほんの一瞬の間であつた。梶井君はその蜂の身ごなしの敏捷さを、何か洒落た言葉で私に說明したが、私はそれを忘れてしまつた。梶井君はまた、その蜂が時とすると獲物の蜘蛛を運んでくる、後ろ向きになつて引摺るやうにしてそれを運んでくる、その樣子をも私に說明した。私はファーブルの昆蟲記に、蜘蛛をその巢に運びこむ、そんな種類の蜂に就て面白い觀察の記されてゐるのを、かいつまんで物語つた。
 その庭の、私達の向つてゐた正面には、綺麗に鋏を入れたかなめ垣を越えた向ふに、靑田を隔てて、カンナの花の燃えるやうに咲き揃つてゐる、とある一つ家の後園を、私達の方からは、丁度その側面を眺めることになつてゐた。日暮れ時、その家の主人とその子供らしい男の子と、二人がそこに現れて、花園に水を撒く、――それを每日、ここから遠眼鏡で觀察して、一つの小說を書いてみたい、梶井君はそんなこともその折私に話して聞かせた。彼はもはや病床を離れることが出來なかつたのである。

 

 梶井君がなくなつてから、二年ばかりもたつた後、私はとある田舍の旅籠に、半年餘り滯在したことがある。その宿の私の部屋の窗には、櫻の花の咲き終つた初夏の候になつてあの腰の細い身輕な蜂が、時たま姿を現した。その昆蟲を見る度に、私は梶井君の病床と病室の前の前栽とを、彷彿と眼に見るやうに思ひ泛べた。やがてその蜂も、いつとはなく私の眼にとまらなくなつた、もうその頃は、窗のあたりを徘徊しなくなつたのである。
 それから暫くたつて、無精者の私のこととて、氣になり初めてからもなほ一週間もうつちやつておく、無精髭の伸びたのを、やうやくその日はあたる氣になつて、鏡臺の前に置いた安全剃刀を手にしてみると、これはまた、その剃刀の一寸ばかりの柄のところの、中空になつた內部の暗がりに、岱赭色の粘土がいつぱい塡まつてゐる。誰の惡戲だらう、初め私は一寸さう思ひ惑つたが、そのうち私には、その嫌疑者の目星はだいたい思ひ當つた。蜂だ、あの蜂に違ひない。
 私は湯殿に下りて、その剃刀で髭をあたつた。剃刀のその柄の中には、借家人が住まつてゐる、さう思ふと、やはりそれが私の氣がかりになりはじめた。せつかく丹精こめて作られたこの赭土の巢、なるほど堅固な場所を撰んだものである、昆蟲の智慧の賢さとその儚なさとが、暫く私の心を捉へた。それと共に私の好奇心が動きはじめたのは云ふまでもない。
 つひに私は私の好奇心にうち負かされて、盥に汲んだ湯の中へ、その剃刀を投げこんだ。待つ間もなく、その柄の口のところから、盥の底へ、少しばかり赭土が流れ出た。剃刀をつまみ上げてみると、一塊りの淤泥(どろ)になつて、可憐なその建ものは、流し場の上に滴り落ちた。さうしてその淤泥の中に、脚の長い小さな一匹の蜘蛛と、蜘蛛の五分の一ばかりの小さな毛蟲とが現れた。毛蟲の方は動いてゐた。好奇心にそそのかされて、こんな破壞をなし終ると、私は一寸暗い氣持に閉された。
 私はまた、なくなつた友人のことと、彼が書かずにしまつた小說のこととを聯想した。

 

 

「小動物 四」

 

 その日は、家族の者はみんなでどこかへ出かけてゐた。私は學校から歸つてきて、うす暗い屋敷の中に、さうして私一人が取殘されたのを、やり場のない、立腹に似た心持ちで顧みながら、幾つかの部屋を、足音の高い步き方でひと周り步いてまはつた。火鉢や座蒲團や、眼醒し時計や蠅帳や、机や硯や十露盤や、まるい火屋の竹洋燈や、等々々、それらの見慣れた古い品々が、それぞれのいつもの位置に置かれてゐる、日頃のままの室內が、私の眼には、何とはなし、普段とは樣子の違つた、少しばかり氣味の惡い、お噺しめいたものに見えた。そんな部屋の中に、暫くぼんやり立つてゐると、切戶の外の裏の畑で、爺やが何かを割つてゐる、斧の音が聞えてきた。しかし私は、なぜか、耳の遠いその爺やに聲をかけてみる氣にはならなかつた。
 私は窓のところに、椅子を一つ持出して、庭に向つて腰を下ろした。さうしてその時、子供心に、そんな風に自分一人でゐることの、うち寬いだ愉しさをしみじみと覺えたのを私は今もはつきりと記憶してゐる。もうやがて、三十年近く昔の話である。
 障子を開け放つた窓の閾に、肱を張つて兩手を重ね、その手の甲に顎を置いて、そのまま居睡りでもしさうな姿勢で、それから小半時も、私はそこでぼんやりと休息してゐた。
 窓の前の赤松には、いろんな種類の蟬が、松いつぱいに集つて、聲を揃へて鳴いてゐた。私はそれを、聞くともなしに聞いてゐた。
 するとその時、そのコーラスの調和を破つて、滅茶苦茶な聲で鳴きはじめた、一匹の蟬があつた。私は顏を上げた。見ると、その蟬は、地上に墜ちて鳴いてゐる。鳴いていると云ふよりも、そこの土に、頭を擦りつけるやうにして、力いつぱい羽搏きながら、藻搔いてゐる。――さうして鳴いてゐるのである。
 私はかねがね、信心家の祖母から、鳥蟲魚介すべて生き物と名のつくものは、殺生はもちろんただそれを捕へて遊ぶことさへも固く禁じられてゐた。そんな私の眼の前に、今、どうした譯か、空から舞ひ墜ちてきた一つの蟬。それがどんなに私の好奇心をそそつたかは、說明する要もあるまい。
 私は草履を突つかけて、夢中になつて驅けだした。蟬はまだそこに悶えてゐた。それは私達がその田舍で、小蟬といふ名で呼んでゐた、形の小さな蟬だつた。その小蟬は、大きな形の蟬よりも、子供達の間で、數倍も尊重されてゐた。私の喜びが、どんなに大きなものだつたか、一寸形容の言葉もない。
 私はそれを拾ひ上げた。と、途端に、私の拇指は、くさりと激しい痛みを覺えた。さうして私の手の中から、蜂が一匹飛びたつた。それに續いて、私の拾つたその蟬も、その時はもう鳴きやんで、羽音をたてて、私の手から飛び去つた。靑空の二つの方角へ、別れ別れに飛んでゆく、それら二つの昆蟲を、私は暫くとぼけた氣持で仰いでゐた。
私の指は、間なく大きく膨れてきた。先ほどの私の喜びは、そんな厭な苦痛に變つてしまつた。理由もなしに、蟬が墜ちてくる譯がない、――それだけのことを了解したのも、後の祭りといふものだつた。

 

 

三好達治「小動物」(『全集10』所収)