三好達治bot(全文)

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「路」

 鼠坂、そんな名の差かがどこか四谷の方にあつた、それをここにも假りてもいいやうな坂が、ふと電車の窓から見える。中年の人物が一人自轉車をおさへて降りてくるのが、ちらりと見えたきりで、それが眼にのこる。時刻は夕暮れであつたから、何やら風情があつた。

 坂とは限らぬ、道といふものは何やら情趣の深いものである。この道や――、と芭蕉もそれを率直にうたつて得心したことであらう。白秋の「落葉松」の詩も、あの小徑が林の奧に分け入つてゆく條りがいい。あれは格別お誂へむきのやうだが、それほど特色のない平凡な田舍道でも、こちらにその用意さへあれば、なかなか面白く眺められるのがたいていである。雜誌の口繪寫眞のやうなものでも、寫眞の主題の方は別として、どこからかそこまでつづいてきて先の方はすぐに見えなくなつてゐる道、道そのものの一コマとして、私はそれを暫らく眺めてゐるやうなことがある。そこに來かかつた步行者の一人として、ちよつと立ちどまつて、――といふ風な氣持で、寫眞を見ながら、暫くは旅情に似た、假りもののやうな一種の氣分を味ふことができる。

 いつぞやヘリコプターで伊勢灣を渡り、四日市市の高い煙突を左手に見送つて、坂は照る照るの鈴鹿山脈を越えたことがあつた。凡そ關西本線を道順の眼じるしとして、龜山、關、柘植といふやうな町々を空から眺めた。單線のひつそりとした鐡道線路、水量の少ない川筋、それにもつれあつて、白くくつきりとした綠の中に、丘を越え山を越え峠を越えてつづいてゐる街道が見えた複雜に枝分れしたりまた集つたりしながら、起伏の多い、耕地の乏しい地勢の間を、巧みに聯絡してゐるのが、地圖を見るのと何の變りもないけれども、いつまで眼で追つてゐても興趣のつきないほど面白く眺められた。うまいところに橋を渡し、うまいところで勾配をかはし、うまいぐあひに村と村とをつなぎ合してゐるのが、大きな山塊の重なり合つた意地の惡い地形、無慈悲な試驗問題に申分のなひ答へを出したやうに眺められるのが、面白く、美しく眺められた。伊賀から大和へかけての地形は、山嶽も小ぶりで、その山にも植林の行きとどいてゐるやうな、いはば開けた、見た眼も怪異な趣きのない國ぶりだけれども、それでもこの山國では、道普請は相當な骨折りでなければならない、それも察しられて、小學校のあるあたりに、細い小道の見え隱れするのなども、ついと飛び去る空中から、情趣ふかく眺められた。

 駱駝の足跡のつづく砂漠の路、そんなものは映畫か何かで見る外に、私はまだ見たことはないけれども、寢つきの惡い臥床の中で時たま、空想してみることはある。催眠用に效果のあるのを誰かから敎はつたのを實行してみると、なるほどいくらか效果はあるやうに覺える。無限の空間をまつ直ぐにつづいてゐる寂しい路。左右には何もない砂つ原で燒きつくやうに暑いと考へる。向ふの方の空は明るく、空いちめんに雲ともつかない薄靄のやうなものがひろがつてゐる、と考へる。私は駱駝にも乘らず、ひや飯草履のやうな足もとでひとりで、沙の上を踏んでゆく。いつも散步のやうなつもりで、とぼとぼ、步みはじめる、といふ空想である。

 そんな空想は、いつまでもつづくものではなく、いくらか努力をつづけて押し進めてゐるうち、風景は自然と變つて、日當りのいい築地の上に、色のいい木の實をたわわにつけた柿の木が傾きかかつてゐる、という風な、京都ならば嵯峨、奈良ならば高畑、あたりでいつか見かけたやうな光景に、間もなくすりかへられてしまふ。さうしてそれでもいいのである。私はひや飯草履で、築地のかげを步みつづける。向ふの方の、竹藪にむかつて、どうやらそれは春さきの、伊豆の、湯ヶ島の竹藪らしいのにむかつて……。

 

 

三好達治「路」(『全集10』所収)

「お花見日和」

 またお花見頃になつた。一月あまり仕事場に抑留されてゐた後久しぶりに東京に歸つて見るともうその季節であつた。抑留は人さまに約を果すためと己れ自身のお勝手向きのためとであつて、いささか引揚者めいた感慨を以てやうやく宅に歸つてほつとした折から、心はしきりと饑渴に促されてゐるのを覺えるのは、さういふ仕事が殆んど俗務にちかかつたせゐであらう。いつまでたつてもかういふ態たらくの繰りかへしである。手當りにそこらの書物を讀み漁つてみる。譯本の『ツアラトストラ』を開いたところから讀んでみる。鈴木虎雄先生譯註の『陶淵明詩解』をこの方はその日からの日課に讀みはじめる。二ヶ月越しにこじらせた風邪を持てあましてゐるので當分原稿用紙には向はないつもりでゐるとそれが許されない。窓外は申分のないお花見日和である。
 東京のお花見には每年懲りごりであるが、それでも私はお花見そのものにはたいへん食指の動く性分である。小田原にゐる時分にはお濠端の夜櫻を人混みの散じた時刻に存分に見て𢌞ることが出來た。サイカチ通りにはお化けが出るといふ噂があつて、そこの夜櫻は――さう月夜の晩などは殊にその陰森たる匂ひの漂ふ見事な花のトンネルが結構であつた。小田原といへば、櫻花にやや先んじて、ヅバイモモ――といふのは花桃の一種――の深紅の花の咲き盛る時分、お城跡のてつぺんに立つてそこから見下ろす閑院宮邸に、竹藪ぞひにその並木のつづいてゐるのを遠望するのは、これも格別結構であつた。小峰の梅林は昔日の面影もなく荒廢してゐたが、それでも今も記憶に殘つて忘れ難い名木が二三なほあるにはあつた。畫家の竹內栖鳳が湯河原から每年老軀寫生にやつて來たのは、そのうちことさら古怪な姿の一木であつて、それは葱畑の中に頽然と踏みとどまつて孤立してゐた。櫻に遲れては藤があつた。「御感の藤」といふのは、好奇の人にその季節に一見をお勸めしたい見事な花房の千年藤。――二宮神社に臨んでお濠端に架け渡した法外な藤棚はその一木のためのもので、まさかその季節にならこれを見落す人もありますまい。小田原案內記に亙るのはしか し差當り私の目的とするところではなかつた。つい懷舊談めいたのは風邪熱のせゐでもない。今年はお花見を斷念したのでやがてかう筆がそれたらしいのを覺える。俗事にかまけた後では何かしら夢のやうに美しいものをぼんやり頭においてゐたい。チュリップの花一輪のやうに單純なものでいい、それを一つ念頭に置いてゐたいのである。
 さういふ饑渴の感を懷いてゐると、きまつてそんな折ふし私の想像――追憶に浮んでくるのは、奇妙なことをいふやうだが、先年、霜の朝、佛國寺大雄殿の背後で聽いた栗鼠の聲である。栗鼠は鼠の族であるから、鼠のやうな鳴き方を多分心得てゐるであらう。そこまでは私は詳にしないが、 私の今いふのは、さういふ見すぼらしい地鳴きをいふのでは勿論ない。私は嘗てかういふ短いものを書いたことがある。

 

  霜紫に朝晴れて
  栗鼠の囀る佛國寺
  涸れたる井戸のおごそかに
  あれちのぎくの花咲きぬ

 

 栗鼠は囀るのである。これは誇張でない。それ一つが彼の持前の發聲であるかどうかは(――多分さうではあるまい)その後も私の詳にしないところで殘念だが、とにかく栗鼠の囀ること、それも羽族でいへば鳴禽類の相當優秀なのど自慢に比べて決して聞き劣りのしない美しい囀鳴、ルリとかコマドリとかのやうな節𢌞しのいい抑揚に富んだ技術で囀る――囀りうることは一寸意外のやうだが事實である。私は確かにそれを聽きとどけた。疑ふ人のために私はこれを念入りに斷つておきたい。佛國寺のお坊さんたちは或は每朝のやうにそれを聞き慣れてゐたであらうか。私は二度きり、その後再びは聞かなかつた。
 栗鼠は地上にちよこなんと坐つてゐた。大雄殿に向つて雜木林を背ろにしてその時彼は地上の枯芝の上に立膝のやうな姿勢でお行儀よく坐つてゐた。無論私はその彼を見出すまでに、暫くの間その囀りをそこらあたりの木立の梢に、空しく歌の主を探し求めてと見かう見してゐたのである。さうして私の眼と耳とがやがて確かに一致する位置に於て私は彼を見出した。私が彼を見出してからも、なほ暫くの間彼はその姿勢のままで彼の囀りを私にはお構ひなく繰りかへしてゐるのを私は見た。私は一寸呆氣にとられた形で步をとめた。私は聽きとれると同時に息を殺して見とれてゐた。彼がくるりと向きを變へて、やや徐ろに林にかけこんだのは、それから暫くたつてからであつた。
 栗鼠は囀るのである。地上にはわづかに霜が置いて、それはすがすがしい朝の空が爽やかに晴れ上つてゆく、五時すぎ六時にはまだ間のある時刻であつた。栗鼠もまた小鳥のやうに、さういふ朝の快感に浮かれ氣味に無心に囀つてゐたのであらうか。もしかすると、彼の歌はそれほど無邪氣な性質のものではなく、巧みな僞瞞で迂闊な相手を間近に呼び寄せておいて、すばやい次の動作に移らうとする狡猾な詭計であつたかも知れない、と私は推量した。私の推量は殺風景なものであつたが、それを含めてその朝ぜんたいは、――或はそれによつて一層いきいきと、今もなほ私には夢のやうに美しいものとして囘想される。
 佛國寺畔の小さな出來事を、瑣細な私の興味から、私は多分やや詳細に語りすぎたであらう。私があの南鮮の肌寒い霜の朝を、今も折につけ一つの甘美なものとして囘想するのは、それをいつも路づれにするとはいつても、しかし無論あの小動物のせゐではない。
 紫霞門、泛影樓、大雄殿、それらの伽藍を備へた佛國寺の堂宇は、その木造建築の部分はむろん近世の重修であつて誰の眼にもたいへん出來が惡い、無用のつけ足しといつてもいいくらゐに、その石壇や石塔石橋のいづれも蒼古として調和のいいのに比べて品位に甚だしい懸隔があつた。私はいつもその木造部分を想像の上では全く無視する見方を以て、朝夕境內をぶらぶらしながらこの環境を樂しむのを常とした。そこには靜かな廢墟の美があつた。「廢墟」こそは建築美を完成する一箇の形而上的な仕上げのやうにさへも、少しく辭を弄していへば考へられるくらゐに、私の自由勝手な見方のその世界には詩趣があつた。强力な風味があつた。扶餘の遺蹟にも慶州郊外の諸遺構にも常にそれがあつた。その甘美な夢のやうな惑はし多い魅力は、しかし佛國寺畔に於て比較的大かかりな規模と齊整とを以て――ほどよき見渡しの擴がりを以て感ぜられた。それは廢墟殿址といふもののそのまた纏まりのよさを以て一種調和的に靜謐に落ちつきよく感ぜられた。「栗鼠の囀る佛國寺」の霜の朝は、だから私にとつては一つのお誂へ向きの夢のやうな環境として歲月とともに一層忘れ難い感が深い。四圍の景物眺望とは別段關係なく、私の囘想の中ではただその一廓だけが――蕭然と。
 既に亡びしもの、なほ日日に亡びゆくもの、その大きな世界から寂しくとり殘された石組み――さうだ、あの高く築き上げられた城壁のやうな泛影樓下の石垣の裾𢌞りでは、白衣の老人が每日どこかからやつて來て小さな店を擴げてゐた。店といつても名ばかりの粒柿を並べたその露店。小春日和に遊覽客も稀れではなかつた。それらの人々の微かな營み、流れ、その背ろに高くそそり立つたあの居然たる石組み、蒼然たる意志、さういへば廢墟の美は、ある洗ひざらされた抵抗意志の骨格、さういふものの美感であるかも知れない。それは美の銳利なるもの、歲月の手に圓げられることによつて、いよいよ銳利に研ぎすまされた何かの切先のやうなものであらう。
 仕事場の俗務に疲れて歸つて來た私は、久しぶりに机邊の書を手當りに拾ひ讀みながら、窓外にお花見日和の陽光を見て、さすがに遊意が動かぬではなかつたが、每年の辛い眼に、眼を閉ぢて一輪のチュリップで彷彿させてゐよう、或は滿山霞の棚曳くやうな旺んな光景をでも空想してゐようとしたら、想念は手綱に從はぬ、はからずもかの銳利な切先にふと觸れることとなつた。
 一輪の鬱金香と、鷄林の廢刹と、しかし私にとつては、兩者はまことに近い距離に相隣りしてゐるのを覺える。

 

 

三好達治「お花見日和」(『全集10』所収)

「『檸檬』 ――梶井基次郎君に」

 君の本が出るのは何より喜しい、喜しいどころではない、僕は肩身の廣い誇りを感じる。僕らの時代の若い作家達の間で、君ほど最初から自信に滿ちた仕事をした人はない。最近君の原稿を整理しながら、僕はしみじみと君への敬意を新たにした。卷頭の「檸檬」の一作から、君は既に一家をなしてゐる。その作品が發表されてから、もう既に六年にもなるだらう。その間君は一圖に、一絲亂れない步なみで、君のレアリズムをつきつめた。君が多感だつた若い日に、君に及ぼした種々の影響も、君の秀れた把握力によつて、悉く正しい位置にまでつき戾され多彩な感興の交錯した結果から、年を經るに從つて、一層純粹な君の肖像が洗ひ出されてゐる。現在の我が文壇に於て、君ほど正確さを愛し、君ほど個性のレアリテを明らかに示した人はゐないだらう。君の藝術に就ては、なほ後日僕は多少の文章を費したい。
 君の本が出る。永久の本、確かにこれは永久に滅びない本だ。君の本が出ることは、僕の無上の喜びである。いささか蕪辭を連ねた罪は、許し給へ。

 

 

三好達治「『檸檬』 ――梶井基次郎君に」(『全集12』所収)

「寂光土」『百たびののち』以後

風の波 風の色 風の足音
その一陣 一陣
……………
羊の群れを逐(お)ふてゆく それも旅人
逐ふ人も 背(うし)ろの風に逐はれてゆく
……………
穢土寂光(ゑどじやくくわう)は 冬の日に
風の來て掃(は)いて淸めた庭だらう
ゆつくりとした步(あし)どりで
影のない羊の群れを逐ふてゆく
今日の日の私は移住者
草みな枯れた日の庭の 遊牧(いうぼく)の民(たみ)の一人だ
……………
戰さに敗けた遠い日の 激しい怒りと悲しみと
ふと心に泛(うか)び 空飛ぶ雲の飛ぶままにそれを見おくり
私の上を掠(かす)め去る姿さみしい鵯(ひよ)どりか
心はまたきりりと向きをかへ 彼方なる木立に沈む
……………
路にうつむく石ぼとけ
行路(かうろ)の人の名を知らぬ無緣(むえん)ぼとけの供養塔(くやうたふ)
見るものいづれも彩(あや)はないけれども

 

ただ華やかに
冬の日はいま暖かに肩にそそぎ
リュックは快い汗となる
穢土寂光は げにもこそ この枯草原をいふだらう
私の過去のいつさいも
いまこの孤獨な杖に 杖の先にたしかめながら踏(ふ)んでゆく
ゆるやかな土壤の起き伏し
ただ茫々(ばうばう)と枯生(かれふ)つづきの乏しい眺めに異るまい

 

林に沈んだ鵯どりは またその梢に泛(うか)び出て
きりりと鋭く向きをかへ 叫びかつ叫びて去るを………

 

 

三好達治「寂光土」『百たびののち』以後(『全集3』所収)

「繰言」「海風」

 深谷君から鄭重なお手紙を貰ひ、今度始める雜誌のために、何か隨筆のやうなもの「靑空」の思出でも書いてみないか、といふお話であるが、學生時代の思出話などするのに、私などまだ十年餘り年が若いやうでもあり、かたがた、好箇の話材も思ひ浮ばない。でも外に思案もないから、やはり同人雜誌に關して、――假に私が、これから雜誌を始めようとする諸君の立場、おつつけ一昔にもなる過去の自分に、もう一度この身を置き直してみるとして、やはり多少の感慨がないでもない、その感慨、後悔と希望とをつきまぜたやうな繰言を語ってみようか。丁度私達が雜誌を始めた時分から、同人雜誌の數は、雨後の筍といふ言葉の通り、急に目茶苦茶に激增した、その大勢は今日までずつと引績いてゐることであらうが、文運まことに目出度い傍ら、その必然の結果として、折角の月々の雜誌を、文壇の先輩も批評家も、あまり心切に顧みてはくれない、なかなか讀んではくれない のである。これは申すまでもなく、同人雜誌の執筆者諸君にとっては、頭痛の種に相違ない、けれども多分、これをどうする手段も方法も見つかるまい、やはりワンサワンサと目白押しに、月々の雜誌を刊行するより外はないであらう。ちと諸君の氣色を損じかねない云ひ分だが、實は諸君も先刻、この間の消息はとくと御存じに相違ない。困ったことだが、しかしそれでいいのである。同人雜誌は、とにかく勉强になるのだから。勉强になるといへば、これ位親身に勉强になる時期は、またと再びあるものではない。月々の雜誌を、文壇から假りに、百分の百の割合で默殺されたとしても、實はちっとも、頭痛にやむには當らないのだ、諸君の佳作傑作が、假りにそのやうな冷遇をうけたとしても、それ位いの割の惡さは、必ずや、一層幸福な結果となって取戾されるであらうから。現在の我國の文學界では、優秀な實力や卓拔した天分が、そのまゝ永らく認められないでゐるやうなことは、殆んど絶對にない、――と云っていいと私は信じてゐる。まことにこれは有がたい次第であるが、實はかうした抵抗の薄弱さは、一國文運のためには決して結構な仕組みではないと、併せて私は信じてさへもゐるのである。このやうな事情であつてみれば、何も先を急いで、折角の樂しい靑春時代を、つまらない焦燥のうちに過すなどといふ、馬鹿氣た法はないのである。大いに潤達な氣持で、將来に希望を繫ぎ、自信をもつてゐていいのである。自信を將来に置くのみではなく、文壇的反響の有無、また世上の流行などに順著せず、それこそ力いつぱい、現在の諸君に、最も緊切な興味で以て、自由な創作に沒頭することなど、張合ひのある歡びは、他に比類がないであらう。

 その時々の、その年齡ごとの、最も立派な果實を結んでゆくこと、これが唯一の心掛けであつていい筈だ。現に例へば、梶井基次郎君の「檸檬」などは、彼が始めて同人雜誌の、第一號に發表されたものである。世間がこの作品をもて囃したのは、それから七八年も後であった。

 私のこの短い文章は、期せずして、何か敎訓めいたものとなつた。それといふのも、私自ら過去を顧みて、日ごろ後悔するところが多いからであらう。さうしてまた諸君のために、或はこの繰言が、何かの役にたつかもしれないと思ひつつ、筆を擱くことにする。最後に云ひそへる、文學をやるのに最も大切な一事は。――やはり健康。

 

 

三好達治「繰言」「海風」第1年1号 (海風發行所・S10.12刊)

「青梅花」『百たびののち』

靑梅(せいばい)は 實の靑きにや……
またその花のほの靑き品種(しな)なりけらし
げに花靑き靑梅花
路のほとりの賤が家にさし出でて高きを見たり
つくねんと老婆は窓に出でて坐し
世間のさまをやをら見わたし眺めたり
そこらのさまは肅やかに
巷の塵もをさまりて今は淸らに暮れんとす
流れに濯ぐ乙女あり
自轉車に空氣を入れる若者あり
かかる靜けき人の世の人みな貧しき巷々を
たちもとほるはこの日ごろ我れにともしき心なぐさめの一つなり
おしなべて世には望みのなければなり
望みなしとや
さなり頑愚 甲斐もなければ今はほとほと
さるをこのほどどこやらでは
たかが女どもが頭(かうべ)に冠をのするとて
ことのほかなる市ぶりの騷々しげの取沙汰や
まことに神のおん手から玉冠(ぎよくくわん)を賜はりたまふものならば
ひとりひそかにつつましくみ厨子の前にたばらばこそ 目出度からうに
仰山な
この國のプリンスなどもうちまじり
世界中からシルクハットが集まるさうな
世の常かくもさうぞきてことごとしきはいづれそらごとなりけらし
空しきかな
人みな愚かしきにはあらねども
この愚かしき日のいつ果てるやら
問ふ勿れ
我れら如きがなんの知ろ
我れは邊土の頑愚なれば
ただゆくりなくふり仰ぐ巷の空に
氣まぐれの輪をゑがく鷗どり
たまたま海を遠く來し翼かろらに
梅花の天つぎゆけり はやく斜めに
ふくらなるましろの胸を淡つけき夕陽に染めて…… 

 

 

三好達治「青梅花」『百たびののち』(S50.7刊)

「詩碑」

 萩原さんの詩碑が、先日前橋市敷島公園に出來上つたので、その除幕式に參會した。近頃は方々にこの種の詩碑歌碑句碑が建設される。いさゝか流行の體で、少し煩はしいくらゐにも思はれるが、すぐとさう考へるのはどうやら中正を得ないやうにも感じられる。これらの碑碣の類は、それぞれその適宜な時期を得て造營されるのが好ましいであらう。上野から汽車に乘ると、遺兒の葉子さんや、小學三年生のその坊やや、緣邊の方々と乘合せた。この日は先生の十三周忌日に當つてゐて、まづはお目出たいといふのでせうといふ、同車の八木さんのご挨拶であつた。さう、まあ、お目出たいといふのでせう、と私も答えた。少しくお互ひ適切な言葉を得ない風であつた。はつきりお目出たいばかりだけといふのでなくて、それかといつてその反對の何かといふのでもなく、私にもこの經驗ははつであつただけ、うまくはいひ現せない感じが伴つた。私の分だけでいふと、どこやら寂寥の感に似通つたものが胸にあつた。もう一度萩原さんを、いつそう遠い場所に置きかへようとする、さういふ風の意味をもつた儀式にむかつて促されて車を急がせてゐるやうにも考へられた。
 詩碑は、受持ちの役所の方々その他の自讚の言葉のやうに、幕をとり除いて見るとなかなか見ごとであつた。立派すぎるといふのでなく、丁度の重量感があつて、簡素で清潔で、落ちつきがあつた。きりつとした直線の組合せが、年を經ても見あきはしないであらうと思はれた。周圍の松林ともうつりがよく、それがにはか作りの人工を施したものでないだけ、しつくりとして好ましく見えた。要するに上乘の出來であつた。感じは明るかつた。これなら萩原さんに見せてあげても、及第點の以上はあるであらうと思はれた。
 さう思ふと、萩原さんのあの飄々とした散步姿が眼の先に浮かぶやうにも思はれた。そんな空想に耽つてゐると、しかしながら私には次々奇妙な感想が起るのを禁じ得なかつた。市長さんや市會議員の某お婆ちやんの祝辭朗讀を聞きながら、私には始終二重の感想が湧き起つて、私自身としては甚だあいまいな、始末の惡い感じを伴つた。
 生前萩原さんは、こんなことを話されたことがあつた。芥川君は、藝術家は死後の名聲を考へないでは、創作に苦心を拂ふ張合ひがないといふが、死後の名聲、そんなものは僕には三文の値うちもない、云々。たしかに萩原さんはさういふ意味のことをいく度もいはれた。一時の放言ではなく持論であつたといつていい。思ふにそれは、萩原流の(いくらかの氣負つた)破壞的反時流的の主張持論であつて、主張そのものをまに受けるよりは、さういふ言辭口吻に自ら耽つていささか陶醉加減な點をこそ感受すべき意氣ぐあひの說であつた、といひ足しておく要があるであらう。芥川式にではなくとも、萩原は萩原式に、彼の創作に苦心を拂つて周密であつたことは、そのある時期の夥しい書きほぐし草稿の今日殘つてゐるものによつて明らかであるから、萩原は萩原式に死後の名聲を(意識的にはともかく)計算に充分入れてゐたといふのでなくては、あの極度の熱中細心さの說明はつかないであらう、といふことにもなるであらう。私どもは、萩原さんの持論の重點を少し く言辭の表面からは置き換へて受とる必要が屢々あるといふこと。――しかしながら、なほその上に、三文の値うちもない、といはれたのは、そのまま文字通りに萩原さんの思想であつたといふこと、それもまた私にははつきりとした事實として考へられる。詩碑のやうなものができて、晴々しい除幕式の行はれるのは、萩原さんにとつては、萩原さんの人格の重要なある部分にとつては、もともと風馬牛のよそよそしい出來事のやうにも考へられるのである。誰れの場合も、死後の行事はすべて死者に關聯しないが、この際はその上いくらか矛盾的意味合ひさへ感じられるやうなぐあひである。詩碑に刻すべき詩句の撰擇にも、通常の場合以上にひと骨折れたのは、もともと理由のないことではなかつた。伊藤信吉君がまづまづうまいぐあひに撰擇した、碑面の銅板の辭句は次のやうな數行である。

 

  わが故鄕に歸れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽笛は闇に吠え叫び
  火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。

 

 最後の一行を卒然と見る人は、萩原さんに思鄕の念の急なるもののあつたやうに受けとるかも知れないけれども、事實はそれとも少しく相違するのである。詩集『氷島』中の一章「歸鄕」と題するこの作の、省略された部分は次のやうに進行するのである。

 

  夜汽車の仄暗き車燈の影に
  母なき子供等は眠り泣き
  ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
  鳴呼また都を逃れ來て
  何所(いづこ)の家鄕に行かむとするぞ。
  過去は寂寥の谷に連なり
  未來は絕望の岸に向へり。
  砂礫(されき)の如き人生かな!
  われ旣に勇氣おとろへ
  暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
  いかんぞ故鄕に獨り歸り
  さびしくまた利根川の岸に立たんや。
  汽車は曠野を走り行き
  自然の荒寥たる意志の彼岸に
  人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

 

 碑面の打切りは當を得たといふべきであつて、同時に少しく彌縫的でもあつたといひ添へないと正しくない。それはやむを得なかつたのであつて、以前伊藤君から相談をうけた際にも、問題の困難なのはすぐと私に領解ができた。「鄕土望景詩」では困るだらうからねといふと、伊藤もうなづいて苦笑をもらした。祝辭の朗讀中、「深く鄕土を愛したわれらの詩人云々」といふ風の語が聞きとられたが、それは假そめの美辭麗句といふものにちかかつた。萩原さんには上州の風土を愛してゐられた樣子はない。自然や鄕里や、そこに見る季節や風景への、普通人のもつ愛着はあの人の書かれたものにも談話にも、見當らないし承つた記憶もない。その反對のものなら、たやすくいくらも見つかるだらうけれども。
 要するに、しかしながら私は詩碑の建設にケチをつける者でも不滿を覺える者でも決してない。あれほど高名な特異な偉大な詩人を、鄕里の市民がたとへ單なるお國自慢に似通つた心情に於てでも何かの形で表彰し記念しようとするのは、それも自然で、もしかするとこのささやかなモニュマンは、旅人やこの町の靑年たちに萩原文學への恰好な機緣を結ぶよすがとならうかとも考へられる。ドナルド・キーンさんは日本全國到るところ歌碑や句碑を見るのをけげんなことといふが(『紅毛奧の細道』)、さうはいはれても私ならこれを必ずしも不結構な風俗とは考へない。ただ萩原さんの場合、あの人の人格が、だいたいこの風俗に丁度でなく重要な點ではみ出してゐる、――私が先にいくらか矛盾的意味合ひさへ感じられるといつたもののあるのを、考へ併せて、私には二重の感想の交錯するのを禁じがたい、それを記しておくまでである。
 それはともあれ、私の感じだけでいふと、私どもが大正末期昭和初年頃にそれを讀み耽つたやうな風には、萩原さんの敍情詩その他が當節の靑年たちに受とられてゐるかどうか、時代的なこの變遷にも意外なもののありさうなふしが少くない。さういふ頃あひになつて、この度の建碑のやうな社會化の一つの現象を見るのは、奇異なやうでもありそれがまた自然なやうにも思へる。あれこれ思ひ併せると、萩原朔太郞といふ一箇の存在が、今後もさまざまな變遷を經るであらうことだけはまちがひなくたしかに推測される。
 附たしとして私の希望をいふと、さまざまな理由で、完本ともならず全集にも編入されなかつた(それが不可能であつた)先生の草稿の類、書きほごしや未定稿、判讀のできない程度のものまで、以上現存のものをとりまとめて前橋の市立圖書館にでも保存していただきたいといふこと。お世話でも建碑と併せてこれをお願ひしたい。遺族たちの手にあつてもたやすく散逸しさうに見うけられるからこれをお願ひしたい。異常な天才はそれぞれの時代にそれぞれの意味を生じ來るであらうから、今日さまでとも思はれないものまで保存していただきたい。これをいふのは必ずや望蜀といふのであるまい。

 

 

三好達治「詩碑」(『全集5』所収)