三好達治bot(全文)

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「上海雑観」

 十月○○日午後五時長崎出帆、翌󠄁○○○日正午頃船󠄁中に次の如き揭示が出された。

今日午○○時ヨリ敵機空襲區域ニ入リマスカラ本船󠄁自衞上燈火管制ヲ施行シマス。船󠄁客各位ハ右ニツキ充分御注󠄁意󠄁下サイ。上海丸

 同日午○○時頃吳淞沖に停船󠄁。風なく波も穩やかで空にはぎつしり星が出てゐる。その上やがて海上に大きな月が浮󠄁び出た。これでは折角の燈火管制も無效に近󠄁からうなどと案じながらふと顧󠄁みると船󠄁尾の方角間近󠄁な距󠄁離に○○○らしい浮󠄁城の姿󠄁を認󠄁め得てひと安心、なほ瞳をこらして見るとその後方に○○○らしきものの船󠄁影が幾つか數へられる。いづれもみな航行をやめてゐるのである。
 ――この間はここまで敵機がやつてきまして○○○から高射砲󠄁を射ちました。
 とボーイが話して行く。
 やがて數刻して夜が更󠄁けると、○○粁餘りの遠󠄁方に二た處火炎が起󠄁つた。一方は火勢が頗る旺んでいつまでも炎々と燃えつづき、一方は微かにそれと認󠄁められるばかりのものであつたがやがてに闇に沒してしまつた。砲󠄁聲が聞えてくる。靑白色の閃光が遙かな地平󠄁線の處々に明󠄁滅する。船󠄁客達は悉く半舷に集つて、とりどりの評󠄁定をしながらそれを見物してゐるのである。この見物人の間には、先に上海を逃󠄂げ出して○○あたりに避󠄁難してゐた人達のうち、恐󠄁らく生計のためであらう、再び海を渡つて彼の地に還󠄁らうとする者が少くない。通󠄁りすがりに彼らの雜談の一片を耳にしただけでもだいたい事情󠄁は推察が出來るのである。これらの人々は決して屈强な若者達壯者達ばかりではない。その身なりや擧止から一見して彼女達の職業を判󠄁斷するに難くないうら若い女性達もまじつてゐる。彼女達は彼女達の住󠄁み慣れた土地へ歸つてゆくのである。彼女達の職業を求めて還󠄁つてゆくのである。
 夜半を過󠄁ぎて、さしもに衰へを見せなかつた火炎もいつの間にか消󠄁滅して、砲󠄁聲も杜絕え、閃光もまた認󠄁められなくなつた。
 翌早朝󠄁停船󠄁地を發して約󠄁一時間の後、前󠄁方に濃霧の停頓󠄁せるため、船󠄁は再び航行をやめた。甲板には秋の陽ざしが一杯に照りつけて、頭上の空は眞靑に澄んでゐる。たいへん氣持のいい好晴日には相違󠄂ないが、上海へは初めての旅である私にとつては、前󠄁途󠄁の不案內が何とはなし私の氣持を騷がせるので、折角の陽ざしも妙に不安心なまぶしいものに思はれた。船󠄁は濁水滔々たる上に氣永に停つてゐたが、やがて進󠄁航。
 兩岸に建󠄁築󠄁物が見え始める頃には、右舷の方には進󠄁行中の○○○や休養󠄁中の兵士の姿󠄁が散見する。勿論その度に甲板には歡呼の聲が湧くのである。そこに斷續して見える建󠄁築󠄁物は一つの例外もなく悉く砲󠄁擊を蒙つて破壞してゐる。多くは倉庫や工場の類らしい建󠄁築󠄁であるが、それ位のことがわづかに想像のつく位の程󠄁度にまで根こそぎ破壞されてゐるのである。敵前󠄁上陸の敢行されたのはあそこであらうここであらうといふやうな評󠄁定が暫く續く。ある處では赤煉瓦の大きな煙突のそつくりそのまま孤立してゐるその眼三分位のところに砲󠄁彈が命中して、うまい工合に圓窓を穿つて、行過󠄁ぎに向ふの空がちらりと見えた。護岸工事の毀れたところや、敵軍の燒却した碼頭や、沈沒船󠄁や、壁だけになつた建󠄁物や、それから何とも譯の分らないものの堆積や、それらが次々に眼前󠄁を掠めてゆく。將校を乘せた馬が二頭堤防の上を步いてゐる、ゆつくりと尻尾を動かしてゐるのまで見えるのである。自動車を驅るのに最も快適󠄁だといはれてゐる軍工路の美しい並木はやはり七分まで薙ぎ倒されて、無殘な樹幹がぽつんぽつんと杭のやうに續いてゐる。これはまた私の眼をひとしほ痛ましめた。江南秋色空落落莫、と位の話ではない。
 反對側の左舷に向つた眺望󠄂は、ただ平凡に工場地帶らしい建󠄁物の散見するつまらないものであつたが、水邊近󠄁く手車を操つてゐる支那󠄁人の姿󠄁を見かけたのは、土地柄󠄁を辨へない私の眼には意󠄁外であつた。頭上に日本の飛行機が飛び眼前󠄁に日本の艦船󠄁が航行してゐる間近󠄁のところ――甚だ間近󠄁な眼と鼻󠄁の距󠄁離で、彼らは悠然と――少くとも打見たところは悠然と彼らの生業に就いてゐるのである……。なるほど支那󠄁人といふ者は大した國民である。私は何とはなしに彼らの姿󠄁に愕いた。私は若い頃ある種の老人の生き方に就ては屡々不氣味な愕きを感じたものであるが、それに似た一種不可解な愕きを今この國民の前󠄁で覺えるのである。ここではこれ以上詳しく說くまい。私の短い上海滯在中に、なほこの問題には恐󠄁らくきつと立戾る機會があるだらうから。
 午前󠄁十時上海着、同盟󠄁通󠄁信社の車に投じて同社記者溜り「新月」に到り、更󠄁に舊英租界太北ビル同社上海支局事務所󠄁に到る。支局長山上正義氏に刺を通󠄁ずるためである。
 晝食を喫󠄁してゐるとしきりに窓外に爆音󠄁が聞える。事務所󠄁內の人々は一瞬仕事をやめてただ顏つきだけで「やつとるぞ」といふやうな容子をする。私もそれに釣󠄁りこまれて「やつとるぞ」と思ふ、だが何をやつとるのか詳しい樣子は嚥みこめない。そこでただぽかんとして力めて落ちつき拂つた顏つきをしてゐると、
 ――屋上へ出て見ませう。
 と勸められる。乃ち人々の後に從つて屋上に出て見て漸く事情󠄁が嚥みこめた。
 閘北の空浦東の空に、前󠄁者には二機後者には四機の我が飛行機の旋囘してゐるのが、指呼の間に認󠄁められたのである。
 ――落しますよ、あすこで落しますよ。
 さう注󠄁意󠄁をされて瞳を凝らして眺めてゐると、閘北の空の編󠄁隊󠄁中の一機の腹から、キラリと何ものかが光つて落ちた。一直線に落ちると見る間に、すぐにそれは私の眼には見失はれてしまつた。一瞬二瞬、編󠄁隊󠄁は機首を揃へて大きな圓を描いて右に旋囘しようとする、さうしてなほ一二瞬を過󠄁ぎた頃、ドカンと轟音󠄁が空氣を顫はす。敵の機關銃がタンタンタンと連續音󠄁を轟かす。勿論我が飛行機を射擊してゐるのである。翼を連ねた攻擊機は既に機首を旋らし終つて先の地點には機尾を向けて次第に距󠄁離を增してゆく。その時分に爆擊地點――閘北一帶の方角から、黃褐色の砂塵が濛々と卷き起󠄁つて、ビルディング街の高層建󠄁築󠄁の櫛比した間に入道󠄁雲のやうに見え始める。その噴煙は天に冲しつつ風に靡き、やがて空一面に擴がつて霞のやうに薄れてゆく。攻擊機はと見ると、遙かの空に小さな機影を連ねて、整然とした編󠄁隊󠄁のまま、大圓形を描きながら再びこちらへ歸つてくる。
 ――歸つてきましたよ。
 と誰かが云ふ。機影は見る見る大きくなる。發動機の音󠄁が聞える。機影は目前󠄁に逼つてくる。
 ――落しますよ、あすこでまた落しますよ。
 さういふ私語が起󠄁ると間もなく、敵機關銃の音󠄁が聞え、先程󠄁と寸分違󠄂はない位置で編󠄁隊󠄁は徐ろに機首を轉ずる、爆彈は既に投じられたのである。今度は何も見えなかつた。しかし間もなく轟音󠄁が起󠄁り、砂塵の入道󠄁雲が、前󠄁囘と全󠄁く同じ方角、同じビルディングの肩󠄁のあたりから見え始める。
 ――高度はどれ位でせう。
 ――さあ、二千米位でせうかな、あれ位の上空から、針の孔で狙ふといふんですからね、たまりませんよ。――ダイヴィングはやらないんですか。
 ――近󠄁頃は餘りやらないやうですね、あれで結構󠄁命るんですから。
 そんなことを喋べりながら浦東の方の空を見ると、一機が今しも見事なダイヴィングを始めてゐる。六十度ばかりの急󠄁角度で、爆音󠄁をたてながら驀地に下ろしてくるのである。
 ――掃󠄁射です、敵陣地の掃󠄁射をやつてゐるのでせう。
 しかし機關銃の音󠄁は聞えない。距󠄁離が遠󠄁いためである。ただ掃󠄁射を終つて上空に引きかへす時の激しい爆音󠄁が大きな唸りとなつて聞えてくるばかりである。その空にゐる他の一機は、上空から爆彈を投じてゐる。砂煙が揚つてやがて轟音󠄁の聞えてくるのは、眼前󠄁の閘北のものと全󠄁く同じ要󠄁領である。
 閘北の方では、更󠄁に三囘爆擊が繰りかへされた。さうしてその○機編󠄁隊󠄁は、一直線に○○基地に向つて歸つて行つた。
 地圖で見ると、太北ビル閘北の距󠄁離は約󠄁二粁、全󠄁く眼と鼻󠄁との間である。
 同日午後山上氏の東道󠄁にてパレス・ホテルに投じ旅裝を解く。ホテルは例のカセイ・ホテルに向合つて南京路の街角を占めてゐる。窓から見ると、カセイ・ホテルの表玄關は既に全󠄁く修復されて慘禍の跡を止めてゐないが、六階あたりの石壁中補綴のあたつた部分があり、その一區劃の石材の眞新らしいのが異樣な形見を殘してゐる。爆彈は路上玄關前󠄁に墜󠄁ちたのだが、その餘波がそこまで及󠄁んだのであらう。當時の慘狀に就てはここに說くまでもあるまい。今私の眼前󠄁にある光景は、しかし全󠄁く平常に復して、電車、繹自動車、人力車等の交通󠄁機關も絡繹として織るが如くに行きかひ、徒步の通󠄁行者も陸續と踵を接して續いてゐる。その繁華の程󠄁度は、東京大阪等のどんな區劃にも比類のないものであり、何となしにその殷賑の性質が日本內地のものとは少からず趣きを異にしてゐるかのやうに見うけられた。上海は物慾の都である、ここは文化󠄁の都市ではない、さういふことが、土地不案內な私の眼に一見して直ちに看取されるのである。さうしてこの所󠄁謂ビジネス・センターの繁華殷賑も、その物慾葛藤󠄁の盛󠄁上りとしての外貌を露骨に示してゐるのである、――少くとも私の眼にはさう見えた。私は暫くの間、窓下の光景を飽󠄁かずに眺めてゐた。そこにはその地盤としての支那󠄁とその上に積み重ねられた近󠄁代商業主󠄁義との二重の幻影がこんがらかり合つて蠢動してゐるやうに思はれた。この時、私が日本といふ國を顧󠄁みてそれをたいへん淸潔󠄁な美しい國だと思つたのは事質である。私は支那󠄁や支那󠄁人やこの上海の都などに就て全󠄁く無智な一旅行者にすぎない、從つてここではこれ以上のことを追󠄁及󠄁する力は私にはない。しかし私の直感――杜撰であるかも間違󠄂つてゐるかも知れないがその直感を云はせて貰へるなら、支那󠄁全󠄁土或は上海に於て日支兩國人間に間隙不和の事のあるのは、支那󠄁の側にも一つの根本的󠄁な缺陷、日本人の一種單純な理想主󠄁義的󠄁な氣質を受󠄁入れるといふ點で全󠄁く盲󠄁目的󠄁不感症に近󠄁い缺陷があるのではないかと、推測せざるを得なかつた。私は唯街上一刻の風景を顧󠄁望󠄂しながら、これは日本人にとつては困つた相手であると思つたのである。さうして、もし果してさうなら、私達は相手を充分に理解することによつて相手の無理解を扶けてやらなければならないだらうとも考へたのである。さう考へると、私は支那󠄁人といふものに對して無限の興味の湧き來るを覺えた。勿論私の(――敢て云はせて貰へるなら、私達現代日本の靑年達の)無智や無關心を、永い間の怠慢の結果を孔に入りたいほど恥ぢながら。
 頃刻の後再び山上氏に伴󠄁はれて同盟󠄁社に到る。今度はバンドをぶらぶらと步いて行つたのである。街上に出てみると、流石に身邊の異樣な空氣が甚だ薄氣味惡く全󠄁身の上にのしかかつてくるやうに思はれる。私はまづなるべく眼立たないやうな態度で步かうと考へる。通󠄁行者にぶつかつたり、他人(ひと)の足を踏んだりしては大變だと思ふ。さう思ふとどうしてなかなか自然な氣持では步けない。この邊を日本人が步くやうになつたのは、つい最近󠄁のことですよと、先刻山上氏が話してきかせた、それを思ふと、たいへんなところへ伴󠄁れだされたものだと感ぜざるを得ない。「なあに大丈夫ですよ」と山上さんは云つてゐたが、どういふ風にどれ位の程󠄁度に大丈夫なのか私にはとんと腑に落ちない。私はさしづめ沈默を守つてゐることにした。うつかり私達の言葉を聞きとがめられたりなどしては、都合の惡いことになるだらう、喧嘩でも吹きかけられてはおしまひだ、さう思ふと路上の支那󠄁人が、悉く私達二人の方を白眼視してゐるやうに思はれる、事實さうに違󠄂ひあるまい、彼らは妙な眼つきをしてゐる、あれが彼らの普段の眼つきであらうか、それなら私の眼つきなどさしづめ異樣に見えるに違󠄂ひない、困つたことだがこいつは急󠄁にはどうにもならない、さういへば步き方だつて彼らのやうな步き方はとても私には出來さうもない、そんな埒もないことを考へながら、山上さんの樣子を見ると、落ちつき拂つて口笛などを吹いてゐる。私の氣持は益々ぎごちなくなる一方だつた。稅關の前󠄁まで來かかつた頃、河岸つぷちで何とも知れない騷ぎが起󠄁つた。激しい轟音󠄁が妙な方角に聞えてゐる。何だらう、私は一瞬驅け出したいやうな恐󠄁怖を覺えた。
 ――浦東を射つてゐるんです、あすこの敵が河つぷちまで出かけてきて、機關銃で○○を射擊するので、そいつを追󠄁つ拂つてゐるんです。
 さういはれて私にも事情󠄁が噓みこめた。それにしても○○の○○砲󠄁は、ほんの手を伸せば屆くほどの距󠄁離の、二百米突ばかりの前󠄁方の敵を射擊してゐるのである、奇妙な戰況といつてよからう。奇妙なのはそればかりではない、道󠄁路を橫切つて、こちら側の河岸――稅關前󠄁の碼頭に走せ集つた群衆たちは、これまた二三百米突の距󠄁離から、その奇妙な眼前󠄁の戰況を、奇聲をあげて見物してゐるのである。群衆といふのは、勿論悉く支那󠄁人である。さうしてその後ろの步道󠄁を、私たち敵國のジャーナリストは肩󠄁を並べてぶらぶらと步いてゐるのである。何といふ奇態な情󠄁景だらう、私には眼前󠄁の現實を信ずるのに骨が折れた、さうして私は私の恐󠄁怖心から逃󠄂れ出ることが出來なかつた。南京路から愛多亞路まで、自動車では一跨ぎだつた距󠄁離が、何とその時は果しもなく遠󠄁く思はれたことか。
 この夜敵の飛行機は數囘虹口上空を襲つてきた。その度に猛烈な防空射擊が開始される。旅の疲れでぐつすり睡つてゐる私は、眼をさますとすぐ、突嗟に「ここは戰地だぞ、上海だぞ」と自分に呼びかける、さうして窓際に馳けつけた。窓からは何も見えない、ただ軍艦○○の甲板から上空を射擊する銃砲󠄁火のその片鱗だけが、建󠄁物の間に見えるのである。さうしてそれも三分間とは續かない、敵機はすぐに爆擊を諦めて引かへしてしまふのである。あたりはまた森閑とした夜にかへる。私もまた寢床にかへつて、次の空襲までの幾時間かを、ぐつすりと深く睡りこんだ、遙かな砲󠄁聲を聞きながら。
 翌󠄁朝󠄁寢床を離れて、直ちに窓際に行つてみると、勿論○○は昨日のままの姿󠄁で昨日のままの位置に悠然と錨を下ろしてゐる――。
 この日一日私はホテルに籠居してゐた。上海日報社の後藤󠄁和夫氏日高淸磨󠄁磋氏と、已むを得ない理由のためにつひに聯絡するを得なかつたからである。ホテルのボ―イ達は居室のものも食堂のものも悉く皆支那󠄁人である。それを思ふと私はまた昨日の恐󠄁怖心にとりつかれさうである。止宿中の日本人達もみんなどこかへ出かけてしまつた。私もまた散步にでも出かけてみようか、さうは思ひついても到底帽子をとり上げる勇氣はない。窓下の風景を眺めてゐるだけでも甚だ心細いのである。仕方がないのでぐつすりと書寢をしたらいささか氣持が落ちついた。この夜は空襲もなく靜肅。
 翌󠄁二十四日乍浦路「おきな」にて晝食を喫󠄁す。干鱈󠄁と味噌汁と澤庵、飯は丼にて二杯を代ふ、甚だ美味、その上腹をこはしさうな心配も絕無、代價六十仙。「おきな」はもともと喫󠄁茶店の造󠄁りつけで、椅子卓子壁間の裝飾󠄁等よろしき設備になつてゐた。そこで兵隊󠄁さんや新聞記者が入れ代り立ち代り味噌汁飯を食つてゐるのである。震災直後の東京風景を御存知の方には、その雰󠄁圍氣は容易に想像がつくであらう。街上の騷然たる景況もまた震災當時に彷彿としてゐる。茲には詳しく說いてゐる暇がないが後に再說するであらう。
 午後海軍航空隊󠄁○○基地を訪ふ。○○大學脇の小ゴルフ場を充用した甚だ狹つ苦しい飛行場である。そこに約󠄁○○臺の精銳機が集つてゐるのである。機翼と機翼とが相觸れんばかりにぎつしりと押合つて屯してゐる風景は、廣々とした飛行場を豫想してゐた私の眼には甚だ意󠄁外であつた。作業服󠄁を着た兵士達が、それらの機體に油を差したり、部分品の修理をしたり、操縱を試みたりしてゐる一方、準備の成󠄁つたものは猛烈な砂塵を捲き起󠄁しながら、右に左に場內の隙間を縫󠄁つてのろのろとした步き方で出發點に向つてゆく、出發點になつた縱長の空地では、次々と爆音󠄁をあげて○機編󠄁隊󠄁の一組づつが、滑走離陸を續けてゐる。さうしてその合間々々に、歸還󠄁機が入つてくるのである。その混雜とその秩序とは、それを二時間ばかりも眺めてゐた私の眼をあかしめなかつた。勿論出發するものは、悉く翼下に爆彈を備へてゐるのである。
 ――戰爭がすんだら閘北に行つて鐵屑を掘り出し給へ、いい商賣になるぜ、○○噸󠄁位は落ちてゐるから。
 新聞記者席の天幕に姿󠄁を見せた某少佐は、戰況發表の合の手にそんな冗談を云つて若い記者達を笑はせてゐた。この日午前󠄁中に南京空爆を終つて歸還󠄁した南鄕大尉は、飛行服󠄁のまま記者達に簡單な戰況を說明󠄁した。時に午後三時半󠄁、さうしてその發表解說は、この日の夕方六時頃戰況ニュ―スとしてAKから放送󠄁されたのを、私は私の宿舍で再び聽取した、それらのニュースは一言一句全󠄁く精確に傳達されてゐるのに感心しながら。南京上空にたまたま飛來したノースロップ一機が我軍の包󠄁圍をうけて擊墜󠄁されたといふあのニュースである、――讀者の記憶にもまだ新らしいことであらう。
 二十五日は、珍らしく午後三時頃に、敵の迫󠄁擊砲󠄁彈が虹口地帶に飛來した。私はその時用たしに出て街上をぶらぶら步いてゐたが、日沒前󠄁は敵彈は來ないものと聞かされてゐたので、現在眼の先百米突ばかりの近󠄁距󠄁離に敵彈が爆發した時にも、味方の爆擊だとばかり信じてゐた、お蔭で肝をつぶさずにもすんだのである。
 ――危ない危ない、近󠄁いぞ。
 誰かが街角でさう呟いてゐるのを聞きながらも、私にはまだその意󠄁味が解らなかつた。そもそも閘北の戰線が、私の宿舍から數町とは距󠄁つてゐないのである、味方の爆擊がそれほど間近󠄁に聞えたところで、何も不思議はないではないか。私はひとりぎめにそんなことを考へながら、步度を早めるでもなしに悠然と宿舍に歸つてきた、それにしてもあたりの氣配が何だか變な風だとは思ひながら。
 宿に着いて、人々の話を聞いて初めて私は遲まきながら一驚した。砲󠄁擊はすぐにやんだが、五時頃食事のために外に出るのは、私のためには今度は特別の勇氣を要󠄁した。
 この日午後六時頃、大場鎭陷落の報あり、虹口一帶は夜に入つて國旗を揭ぐ。
 ――大場鎭はすつかり落ちたのでせうか。
 ――いや一部分でせう。
 ――全󠄁部落ちたのさ
 ――いやまだ敵は殘つてゐるんだよ。
 ――それにしたつてもう時間の問題さ。
 ――まだ二三日はかかるかもしれない、何しろ堅固な陣地だから。
 そんな會話が會ふ人ごとに交はされてゐる。さうしてもう到るところで祝盃があげられてゐるのである。深夜に及󠄁んで敵機の空襲數次。
 二十六日。「日軍占領大場鎭」のアドバルーンが民團の屋上から揚つてゐる。上海ではアドバルーンが空に揭げられたのは、この時が始めてださうである。アドバルーンは交通󠄁事故を起󠄁すといふので、工部局の禁ずるところとなつたとか。上空に氣をとられて自動車に轢かれる支那󠄁人が多いので、禁止をされたといふのである。そのアドバルーンが今日は靑空に揚つてゐる、舊英租界からも閘北の敵軍からも、見まいと欲しても見ないではゐられないに違󠄂ひない。
 ――お目出度う、お目出度う。
 會ふ人ごとに手をとり合はんばかりにして祝辭がとりかはされてゐる。早くも江灣鎭の陷落が噂にのぼる。眞茹の無電臺も昨夜のうちに我軍が占領したといふやうなニュースが飛ぶ。
 ――閘北の敵はもう袋の鼠さ、今晚あたりはありつたけの彈を射つてくるぞ。
 ――大場鎭の方へは行つてみられないでせうか。
 ――駄目駄目、この追󠄁擊がすむまではとても前󠄁線へは出られませんよ。閘北の敵が引こんだらその跡へ行つてみませう。
 私は日高さんとそんなことを話し合つた。虹口一帶の空氣に慣れると、妙なもので、私のやうな臆病者も一寸前󠄁線へ出てみたいやうな氣持がするのである。
 この夜は豫期󠄁に反して、敵の迫󠄁擊砲󠄁は聲をひそめ、ただ敵機の空襲數次を見たのみである。どこかの空地に爆彈が落ちたとか。終夜砲󠄁聲殷々。
 二十七日朝󠄁ピアス・アパートの屋上に昇つてみる。閘北一帶の敵軍は昨夜のうちに退󠄁却し、今朝󠄁六時半、陸戰隊󠄁は鐵道󠄁管理局を占領してその屋上に軍艦旗を揭揚し、更󠄁に敵を追󠄁つて北進󠄁中だといふやうな評󠄁判󠄁が、屋上の人々の間に擴まつてゐる。眼前󠄁の管理局の建󠄁物には、その軍艦旗が破壞し盡された尖塔の頂上に翩翻とひるがへつてゐるのである。瞳をこらして眺めてみると、管理局より更󠄁に一粁餘りの前󠄁方にも、二つ三つ日章旗が遠󠄁く小さく翻つてゐる。さうして眼の及󠄁ぶ限りの前󠄁面は濛々たる黑煙に包󠄁まれて、幾里に亘るとも知れない地域が無慘な焦土と化󠄁し、なほ次々に新らしく黑煙の捲き起󠄁るのが眺められる。風は舊英租界の方から吹いて、煙は空に捲き上りつつ吳淞鎭の方に流れてゐる。さうしてその煙の奧に夜來の砲󠄁聲がなほ續いてゐるのである。
 この日午後三時頃漸く上海每日新聞社の車を得て同社の藤󠄁田氏と共に八字橋西八字橋方面に赴く。路上に砲󠄁彈の跡、爆彈の跡、地雷の跡(――その一つは昨日私の乘つてゐるこの車の眼の前󠄁で遽かに爆發したものだとか、)等無數にあり、トーチカ、土囊陣地、地下室等のなほそつくり原形をとどめてゐるものは、破壞を蒙つたものと殆んど相半ばしてゐるやうに見うけられた。攻擊軍の苦戰のほども察せられる譯である。まつ黑焦げになつた敵屍體二を見る。手榴彈は路傍に到るところに轉がつてゐる。とある半壞家屋の壁上には、白墨にて記された長文の○○文字が讀みとられた。
 薄暮車をかへす。路上には物資󠄁の運󠄁搬に從ふ兵士、道󠄁路補修に從ふ兵士、行軍中の兵士の姿󠄁が三三五々と眺められた。それらの兵士の軍紀の蕭然たるは私の眼にはいささかも疑ふ餘地がなかつた。さうして讀者諸君に、私はこの數語をお傳へ出來るのを甚だ喜ぶものである。さういふ點に關して、私は內地でいかがはしいデマを耳にしたことが絶無ではなかつたから。
 この夜敵空襲數次。防空射擊を見んものと四階屋上に驅け上つた頃には、敵機は既に飛び去つて、從つてまた砲󠄁聲やむ――
 火炎は終夜天を焦し、凄慘壯絕言はん方なし。
 二十八日、この日も每日新聞社藤󠄁田氏の斡旋により、正午頃漸く同社の車を得て眞茹方面に向ふ。同社の靑年記者河野君の東道󠄁なり。
 鐵道󠄁管理局、北停車場を初めて間近󠄁に見る。管理局は屋上及󠄁び四壁に爆彈砲󠄁彈を蒙つて、完膚なきまでに破壞されながら、なほ倒壞を免がれて巍然として聳えてゐる。北停車場はまつ黑焦げに燒盡して、僅かにプラットフォ―ムをそれと認󠄁めうるのみ。このあたりより、異臭紛々、黑煙地に匍つて、車中にあつても呼吸󠄁に苦痛を覺える。昨終夜燃えつづいた火災は、この一帶の家屋を既に燒盡したが、なほ火炎は處々に殘り、小家屋の倒壞するものしきりである。車は火氣の薄氣味惡くなま暖󠄁かい中を、疾驅――してほしいところだが、ごつたがへした道󠄁路上のこととて障害󠄂物をよけよけ遲々として進󠄁んでゆくのである。步哨の兵士に許可を求め、道󠄁順を尋󠄁ねながら、虹江路中山路を經て、行けるものやら行けぬものやら、それも解らずなりに眞茹の方へ向つて行く。東道󠄁役の靑年記者は、地理に通󠄁じた、血氣の前󠄁線ボーイであるが、周󠄀圍の風物が根こそぎ革まつてゐるので、どうにも見當がつきかねるものか、時には不安な顏つきをする。路傍の灰󠄁燼中には敵兵や土民の○○が累々と轉つてゐる、それらの殆んどすべては、既に少からぬ時日を經て、全󠄁身腐爛し、すべて激しい死臭を放つて、時には無數の蠅がその上に集つてゐるのである。就中正視に耐へなかつたのは、それもまた命拾ひをして生き殘つたものであらう、襤褸切れのやうに瘦せこけた野良犬が一匹、とある○○の○○のところを橫咬へに咬へて、通󠄁りかかつた私たちの車にも恐󠄁れず、平然として彼の空腹を滿してゐる情󠄁景であつた。
 ――早く早く、もつと早く走つてくれ。
 私は思はず運󠄁轉手を促したが、ポルトガル人のザビエルとかいふ名のこの運󠄁轉手は、奇妙な聲を發しながら、ハンドルの方はお留守にして、ぼんやりそれに見とれてゐるらしい樣子であつた、私にもまた見物をすすめるつもりであつたのだらう……。
 慘鼻󠄁を極めた情󠄁景と異臭と黑煙とに惱まされながら、それでもやがて車はたまたま市街の杜絕えた空地に出た。畠には豆の花󠄁や向日葵の花󠄁が咲󠄁いてゐる。綠草の色が何と新鮮に見えたことか。一隊󠄁の兵士達は、そこで辨當をつかつてゐた。今日は戰後の休日とでもいふのであらう、彼らは悠々と、宿る家もない焦土の中でではあつたが、一かたまりに寄合つて、雜談に耽りながら、赤飯の辦當を開いてゐた。私たちもまたそこで暫く車をとめて、携行した海苔卷の包󠄁みを開いた。眞茹站――卽ち眞茹停車場は、殆んど無疵のままそつくりとした姿󠄁で殘つてゐた。そのベンチにも兵士達の姿󠄁が見えた。鐵道󠄁線路に沿󠄂つた街道󠄁には、向ふからもこちらからも行軍中の小部隊󠄁が陸續として續いてゐる。步騎砲󠄁工すべての兵種の小部隊󠄁が移動し整理されてゐるのである。最前󠄁線はどのやうな樣子か知る由もないが、この附近󠄁では、戰後の休養󠄁日にも靜かな活動が續けられてゐる模樣であつた。墍南大學の構󠄁內には○○○○の○○司令部が設けられてゐた。乃ち車を駐󠄁めて、藤󠄁田○○○を訪ひ、田代○○○に會見す。專ら同乘の靑年記者の望󠄂むところに從つたものである。藤󠄁田田代兩氏の談話の要󠄁領は、ここに記すべくもないから略す。ただ兩氏に就て見た陣中に於ける武人の風姿󠄁態度は、私の眼にはたいへん賴もしいものに思はれた。幸ひに兩氏の武運󠄁の永へならむことを。
 後許されて同校構󠄁內大講󠄁堂中に收容されてゐる俘虜の一群を瞥見する。老若の土民と正規軍兵士との相半ばした四五十名ばかりのものが、講󠄁堂の椅子に腰󠄁かけて、次々に取調󠄁べをうけてゐるところであつた。彼らの不安に滿された眼は、突然そこに入つて行つた私達の上に、響きのものに應ずるやうに集中された。私は彼らの心を騷がせるのを憐れに思つたが、しかし私には彼らに言葉をかける自由もなく、またその言葉を私はまるで知らなかつたから、私はただ彼らの蒼ざめた顏を正視するに耐へず瞥見しただけであつた。さうしてその兵士達の、甚だしく智能の低くさうな容貌を見て、ここには詳しく說き難い多くのことを深思せざるを得なかつた。(十月二十九日夜八時)

 

 

三好達治「上海雜觀」『全集9』(S40.4刊)

「むかしの詩人」

 もう二た昔の餘も以前のことになる、本鄕春日町の「大國」といふ家で尾崎喜八さんの詩集出版記念會があつた。私はさういふ會合へ出たのはその時がはじめてであつた。その頃大森にをられた萩原さんが近所の私に同行をすすめられたのに從つたのである。私は尾崎さんにも面識がなかつたし、その他の誰とも近づきはなかつたから、さういふ場所へ出席をするのも氣恥しい思ひで、終始窮屈に縮こまつてゐた。

 

 萩原さんの隣りに何か鷹揚な格幅のいい和服姿の仁を見うけた、それが高村さんであつた。高村光太郞さんの名はむろん私も承知をしてゐたから、紹介をされるといつそう窮屈な思ひをした。高村さんはくぐもり聲で始終とりとめもない平凡なことをぽつりぽつり萩原さんと話しあつてをられたのが、春日駘蕩たる風で、私には反つてそれが珍しかつた。そのうちあの大きな手でお酒をいただいたりしたのを忘れないが、記憶に殘つてゐるのはただそれだけで、この時の印象はたいへんはつきりとしてゐてまたとりとめがない。たぶん私は少しあがつてゐたのであらう。その高村さんあたりからテーブル・スピーチが始つて、代る代るいろんな人の小演說があつたが、それもまた私の記憶にはない。
 石川三四郞、江渡荻嶺といふやうな變つた人々を見かけたのもその席上であつた。そのうち佐藤八郞さんが、椅子の上に立ち上つて元氣のいい意見をのべ始めたのは面白かつた。紺絣の胸に大きな羽織の紐の結ばれてゐたのが眼にのこつてゐる。近頃の寫眞で見かける風貌も、話の泉で耳にする聲音も、私の記憶とはだいぶちぐはぐであつて、私の記憶の方はいつまでも詩集の『爪色の雨』と結びついて、あの紺絣のままである。
 高村さんとはその後戰爭中數囘お眼にかかつた。新橋あたりのつまらぬ店へも、誘ふと氣輕に同道されるといふ風で、この時はもう窮屈な思ひもせずにお話を承ることができた。戰爭中の高村さんはいろいろ迷惑の多い立場にゐられたので、私個人としては痛ましいやうな感じがいつもつきまとつたが、それでも見かけは駘蕩として機嫌がよかつた。何か深く期するところのあるやうな言葉を一度ふともらされたが、それもすぐに後は笑ひにまぎらはしてしまはれた。そんなこともあつたので、私には何か負ひ目のやうな氣持がなくはない。それで私は去年の四月岩手の山奧へ機會をえてお訪ねした。その山居のありさまは、一度雜誌へ記したからここには略する。
 あの山奧で、あの生活では、彫刻の方のお仕事に差つかへが多からうかと、私は今もかげながら案じてゐる。けれども先生は、もう永久に岩手を離れない決心ださうだから、私どもにはどうにも手のつけやうがない。頑固だなあと、嘆息まじりに考へるが、どうもやはり以前からの固い決心が底にあつて動かないのだらう、ともお察しする。秋のあとには冬が來る、每年每年――。あの岩手のきびしい冬と、七十翁の自炊生活と。ともあれ遙かに祝福しよう、あの華やかな才能の後のあの壯烈な何ものかを。

 

 北原さんは、その容貌も童顏であつたが、いつまでも茶目つ氣のぬけきれない無邪氣な明るい人柄であつた。大森の奧の屋敷を白秋城などと稱してゐたのも、今から思ふと罪がない。私は一度、やはりこれも萩原さんに伴はれて伺つたことがある。
 客間のイスにかしこまつて「からたちの花」か何かのレコードをつぎつぎにきかされたのは、開けつぴろげなもてなしだつたが、當時も少々變にきまりが惡かつた。ところが主人はそれがいささかご機嫌らしく見えたから、あてのはづれた感じといふよりも、私どもには何だかどうも明るすぎた。萩原さんとは、詩壇歌壇の世間ぱなしが暫くつづいた。
 ――S―は、おれのうちで、何のことはない、媾引をするんだから、けしからんよ、どうも、天下の詩人ともあらうものが。
 といふやうな話の出たのを忘れない。もちろん私は、座にあつたといふまでだつたが、萩原さんも北原さんには、たいへんといふほどではなかつたけれども、いくらか窮屈らしい應對ぶりだつたのがそれがあの人らしくいかにも無器用な應接ぶりで、私にはなかなか面白かつた。

 

 ――白秋は、どうもあの通り威張りたがつて、大家らしくもない、あの子供つぽい癖が、拔けきらないから、開口だ……。
 といふのは萩原さんの感想だつた。親切で、開けつぴろげで、おしやべりで、子供つぽくて、それでどこかしら威張つて見せる、そんなところが白秋城の主には、罪もない趣味としてたしかにあつた。手びろく仕事をひろげてゐるのが、そんな風にあの人に、働き者らしい餘分な活氣を與へてゐたのであらう。品位も惡くはなかつたし、あと味はさつぱりしてゐたけれども、座談の聽き手としての主ぶりには、もう一つ工夫が足りなかつた。讀書人の風はまづなかつた。と私のやうな書生輩にものみこめた。
 『近代風景』といふ手ごろな雜誌が、白秋の主宰で出てゐたのは、當時のことであつた蒲原有明さんの詩が、卷頭にのつてゐることが多かつた。その詩は以前の有明詩のやうな、厚手のものではもはやなかつた、それが私どもには不滿であつたが、白秋はあるとき私に、萩原君の書くものはつまらなくて、困る、といふ風な小言を漏した。
 萩原さんのはエッセイだつたがそれらは當時の私どもには決して面白くないものではなかつた。だから私はたいへんとんちんかんな思ひを覺えた。いつぞや大森驛附近のカフエで、私は少々醉つ拂つてゐたのにまかせて、
 ――白秋は、とてもわからずやで困る。
 といふ風な意見を發表した。そんな意見にはいつかうとり合はないのがこの人の日常らしく、微くんの上機嫌で、その時も北原さんは何かしきりに威張り散らしてゐた。
 そこの二階にはピアノがあつて、「幼稚園の先生」と私たちのよんでゐた神妙な女給さんが、その時も先生の童謠か何かを彈奏して聞かせた。兩先生は意氣投合してゐるらしい樣子であつた。

 

 島崎さんが麻布の飯倉にゐられたころ、昭和の二三年ころ私どももその近所の狸穴に暮してゐた。私どもの二階を借りてゐた堀口庄之助さんといふのは、唯心派十九世といふ肩書をもつた庭造りで、この人は島崎さんにも出入りをして前栽の世話をやいてゐた。
 今日は芭蕉の根を植ゑてきました、といふやうなことのあつた數日後にはまたそれを見囘りに行つたりなどしてゐたが、そのつど藤村先生の暮しぶりや仕事ぶりを少しづつ報吿の形で、私どもに傳へるのが庄之助さんの常であつた。
 私はその報吿にはさほど興味も覺えなかつたが、私と一緖に暮してゐた梶井基次郞君の方は、そんなささいな傳聞にも若干感興を動かしてゐるやうな風であつた。梶井君はまた茶目つ氣な眞似をするのが趣味であつて、板べいの節孔から通りすがりに一寸藤村邸の前庭をのぞきこんだりなどして、同行の友人たちを笑はせるやうなことをした。
 ――藤村は、ゐなかつた……
 などと罪もないことをいつてみんなを笑はせるのが、彼の思はくでは一種の敬意をささげて門前を通りすぎたつもりのやうであつた。
 かう書いてくると、私も一度その節孔をのぞいたやうな氣持がするのは、記憶の錯覺といふものだらうが妙だ。あれはたしかに梶井の一手販賣だつた……。

 

 そんな近所に暮らしてゐたから、町ではちよいちよい島崎さんの姿を見かけた。六本木の方から橡の並木をこちらへ急ぎ步でやつてくる、變つた姿だ、と眼をとめると、それが島崎さんだつた。何か遠方からでも眼にとまる、變つた樣子が、やはりあの人にはどこかにあつた。
 心もち胸だかにしめた帶、その外には服裝に何も變つたところはなかつたが、あの年齡の人としては普通でない樣子、ものの簡素に整理のついた何か一直線な感じがあつて、それがなかなか高雅に見えた。
 そのころ私は島崎さんと言葉を交へたことはなかつた。まだ筒そでの、小學生の鷄二君とは、いつとはなしに顏馴染にはなつたけれども。
 その後私は、事變の始つて間のないころ、ある文學會の賞をもらつて、その發表式に、久しぶりで藤村さんにお眼にかかつた。式の前の茶話會では、晴れがましく私は藤村さんの隣りに座つて、たいへん窮屈な思ひをした。
 藤村さんはそのころすつかり耳が遠くて、二三度私の申上げたことは、お返事のないままにまぎれてしまつた。そんな具合であつたから、席上の人々との應接も、いくらか不自由に見えたけれども、槪ね要領がよくて、その上なかなか才氣があつて、いつかう老人らしくは見えなかつたのに、私は實は舌をまいた。どうやらあの人には、もう一つほかに耳があつた。……

 

 數日後、私は麴町へお禮に上つた。さうしていろいろお話を承つたが、ここには略する。ただ一つ、島崎さんはこんなことをいはれた。
 ――詩壇も變りましたね、私なんかが詩を書いたころは、人には內證に、こつそりかくれて書いたものです。何か、恥かしいやうなことでしたうんぬん。

 

 

三好達治「むかしの詩人」(『全集4』所収)

「交遊錄」

 萩原朔太郞先生に初めて會つたのは丁度三年前の夏だつた。伊豆のある旅館で初めてこの有名な詩人と對坐した時は、子供の頃中學校の入學試驗をうけに行つたやうな氣持だつた。小說家の尾崎士郞氏がそこへ伴れて行つてくれたと覺えてゐる。窓には盛夏の綠があり、僕は少しあがつてゐたので落着かうと思つて重々しく薦められた茶を啜つた。最初に室生犀星の話しをしたやうに思ふ。梶井基次郞君も同坐してゐた。雜談の內容はもう忘れてしまつたが、この時の印象はいつも僕を子供のやうに明るくはにかませる。これより前まだ高等學校にゐた時分から、僕はこの詩人のものは殆んど一行殘らずと云つていいほど丁寧に讀んでゐた。一度は鎌󠄁倉の材木座へ手紙を送つて、訪問したい旨をしたためたが、返書がなかつたのでよした。この日は夜になつてみんなで酒をのんだ。醉つて代る代る歌をうたひ初め、僕は命ぜられて生れて初めてだつたが王維の詩を大聲で朗吟した。僕に詩吟が命ぜられたのは、僕が到底外に歌なんかうたへさうになく見えたからに違ひない。
 爾來、友情と云ふには相當しないが、敬愛の念をかへずに僕はこの大詩人に親炙しうる幸福をもつてゐる。最近屢りに不幸に遭遇してゐるこの先輩と、僕は近く東京に出て再び歡語しうる日を夢みてゐる。
 現在僕は大阪で、安つぽい飜譯の原稿料を稼ぎながらくすぶつてゐるが、この地には病を養つてゐる舊友の梶井基次郞君がゐる。時々僕の方から仕事の合間に彼を訪ねることにしてゐる。彼の方からは來ない、夜露にあたつてはいけないから。
 僕らは東京にゐた頃、麻布で同じ一つの家の二階に隣り合つて暮してゐた。その頃習󠄁慣のやうに夜をふかして雜談したのが、彼の宿痾を一層危險なものとしたのは爭はれない。でも僕らは今會つて、その頃の向ふ見ずな生活をお互に後悔してはゐないやうである。そして昔ほどにも微細な點に亙らない、極めて大ざつぱな文藝上の會話をして、彼が急いで僕の前に碁盤を持ち出してくる。
 「もしもAがBだつたら……」と考へる假定法は、凡その場合僕には感情の上でゼロに等しい。しかしながら僕は切に思ふ、もし彼が病身でなかつたなら!

 

 碁盤で思ひ出すのは、こんな聯想も失禮だが、川端康成氏である。碁は比較にならなく僕の方がまづい。
 年長者に會ふと過度に窮屈を感ずる僕も、銀座を步いてゐるときなどふと、この人に會はないかしらと思ふ。
 一と頃武田麟太郞君とよく銀座で出會つた。
 ――武田、かねをもつてゐるかい?
 ――もつてる。
 ――晩食が食ひたいんだがね。
 ――よし。

 

 麻布で梶井君と同居してゐた家へ、梶井が去つた後に北川冬彦君が移つてきて、僕は彼と日常を共にした。雜誌『亞』が終刊に近づいた頃だつたと思ふ。僕はその頃詩を書いてゐたのだが詩人の友達など少しもなく、彼は珍らしい異例であつた。從つて彼からいろんな刺戟をうけ、鞭韃されるところも多かつた。しかし今顧みてそれらのことはみな遠く漠然とし、何をここに記していいか解らない。彼を介して瀧口武士君や安西冬衞君などと友情を訂しえたのも、僕の喜びとするところである。現在東京で忙がしく僕らの雜誌の仕事に携はつてゐる彼に、僕は永らく御無沙汰してゐてまことに濟まない譯である。 

 

 僕がまだ詩など書かない頃から、僕には一人の詩人の友達があつた。丸山薰君である。この友人から僕は永い交遊の間に、いろんなことをたくさん敎はつた、彼に負ふところを僕は永く忘れないだらう。臺灣大學に赴いた詩人矢野峰人氏が、夙やく丸山君の詩才を愛してゐたことをここに誌して置かう。
 淀野隆三君と中谷孝雄君とは同人雜誌『靑空』以來の舊友で、今も最も無遠慮に亂暴な交際をつづけてゐる。僕は早く飜譯などの仕事を終り、東京へ歸つて彼等といつしよに勉强しよう。さうだ!

 

 

三好達治「交遊錄」(『全集4』所収)

「郊野の梅」『砂の砦』

逝くものはこゑもなくゆく
ささやかな流れの岸の梅の花
野の川の川波たてば
その花のかげもみだれて
そはしばしゆらぎさざめく日暮れどき
野はやがでほの昏けれど
その花の
もののあいろもさだめなく昏きあたりに
ただ一つその花のともす燈火(ともしび)
――微笑 囁き
世の外のひそかなる希望の合圖
神のおん手の器より溢れ落つ
美の幸福よ
はたはまた
底ひなき黄泉(よみ)の香氣よ
かかる夕べもやすみなくゆく野々川の
靑き水ただ弓一つへだてて眺む
槎枒たりや
くろがねの幹のこずゑに
はつはつにその花まれに
きのふけふにほふすがしさ 白さ 明るさ
暮れてゆく水のほとりに
ただのこる淡き燈火風ふけば
風にまかする
――微笑 囁き
世の外のひそかなる希望の合圖

 

 

三好達治「郊野の梅」『砂の砦』(S21.7刊)

「古松に倚る」『砂の砦』

天遠く晴れて
月影白くほのかなり
寂々として心を來り撲つは何
我れはわが行かんと欲りしところを忘れ
徘徊して古松の影に倚る
わが生の日はすでに久しく
あまたたび行路の轉變を見る
この心また落寞として
願ふところことごとく絕つ
來るものをして來るに任じ
行くものをして今は步(あし)ばやに行かしめよ
我はひとり老松の亭々たるに肩よせ
鐡よりも固きその意志の永く默然たるをよろこぶ
されどこの心には拙くも世に怒るにも似たらんかし
さらばとて我はひそかに口ずさむ詩(うた)のひとふし
かくてしばしは古き世の古き心をなつかしむ
陳子昂幽州の臺に登りてうたふ歌

 

  前不見古人(さきにこじんをみず
  後不見來者(のちにらいしゃをみず)
  念天地之悠々(てんちのいういうたるをおもうて
  獨愴然而涕下(ひとりそうぜんとしてなみだくだる)

 

いざさらばあへなきおのが言の葉に
うちかへしても嘆ずなれ

 

  古への聖(ひじり)はしらず
  後の世はその人もなし
  あめつちのただきはみなき
  かかれこそなみだおつは

 

 

三好達治「古松に倚る」『砂の砦』(S21.7刊)

「一葉舟」『砂の砦』

——ある一つの運命について

 

天に雪舞い
四方(よも)に烈風のこゑをきく
景や暗憺として涯(はて)なく
波浪かげくろく海を傾け來る
海は傾き去つて飛沫しろく
潮流激し鳴る
海鳥忽ち虛空より下り
みな翼にしづくたれて叫び啼けり
ああこゑあるものかくことごとく悲泣すれども
天日の影を見ず
暗雲脚白く垂れ
低徊してまた行くところを知らざるに似たり
かかる時しも
げにかかる極地の混迷と息苦しき虛無との情緖をさき
慘たる視野をつんざきて
舳(へさき)高き綠色の意志は駛らひ來るなり
帆綱みなきしり鳴り
帆布はたためき
砲手砲につき
舵手舵輪をとり
電信手キイをうち
哨者マストによぢて遠く眸を放ちて立てり
船は烈風に怒りたてゆれ
怒りまた橫ゆれて
ゆらめきゆらぎて蹣跚(まんさん)たれども
一にただ羅針の指さすところにむかひて急ぐなり
危ういかな
見えざる遠き目標を追いてかく疾航するもの
視界暗き薄暮の彼方に
極北の海を間(ま)ぎりて海獸の群れを追ひゆくもの
危ういかな
機關の音喘ぎため息つく一葉舟や
然れども景はために
忽ちに光彩を得て燦たる一幅の畫圖をなせり
乾坤は一の焦點の上に片脚立つが如くに緊張せり
かの危ふげなる墻頭暮景をかきみだすところに於て
はしなくも美の形而上學は誕生す
聞け
かのくるしげに喘ぎ息づく機關の音
何ものの扉をたたくこゑか
單調にただ單調に步なみ正しく
そは幻の音樂の端緖を織なしつづけつつ疾航するを

 

 

三好達治「一葉舟」『砂の砦』(S21.7刊)

「半宵記」

 先日女流作家のO・Kさんが突然他界された。私は朝の新聞でそれを知つた時、同女史の――ほんの數囘私がお眼にかかつた、その時々の風采や擧止動作を次々に思ひ泛べた。友人達大勢と一緖にお宅で御馳走になつた時、銀座のどこかで行會つて簡單なお辭儀をしあつた時、ある雜誌社の座談會で同座した時、そんな折ふしのただ何でもない女史の姿を囘想したのである。故人を偲ぶ、といつても、これはたださういふ、ふとした情景を思ひ泛べたにすぎないのだが、やはり何か肅然として身に逼るのを覺えた。
 ――もうあの人とも、銀座でばつたり行會ふこともないのだなあ……。
 いつてみれば、ただそれほどの數語にも盡きる感懷なのだが、交りが淺ければ淺いだけに、淡如としたものではあつても、やはり何かととりかへしのつかない氣持である。
 ――もうあの人に會はない……。
 この短い言葉は、初めの間は、いつもきまつて、ある錯覺的な感情を喚び起すものである。さうではない、そんなことがあるのか、心はいつもさう叫びかへすのである。いつかひよつこり、忘れてゐた時分に、どこかの停車場か、街角か、喫茶店か、そんな人混みの中で、やあと聲をかけあふ、そんなことが決してない、とは誰がきめたのだ、といふ風な理由のない疑問も浮ぶのである。
 ――やあ。
 ――やあ。
 ――あなたはおなくなりになつたさうぢやありませんか。
 ――いやなに、みんながそんなことを言ふんですよ、あれは間違ひでしたよ。
 といふやうなことで、大笑ひになりさうな場合も空想されるのである。愛兒をなくした親達が、あの淸楚な、この世のものではない身仕度をして、廻國巡禮に旅立つ心の隅にも、遠いどこかの村里で、かういふ偶然にめぐりあふ希望をかくしてゐないだらうか。
 ――お父さん、お母さん、私はこんな田舍で遊んでゐましたよ。
 子供はさういつて駈けよつてくる、さういふ理性の許さない空想も、空想さながらのリアリティーで、親達の心を動かす力をもつてゐるだらう。
 それはとにかく、けれどもやがて時間がたち、歲月を經るに從つて、もうあの人に會はない……は、そつくりその言葉のまま、人々の心に落着くやうになつてくる。さうして先の錯覺を、もう再び繰返さなくなつてしまふ。私にもさういふ思ひ出は幾つかある。さうしてさういふ思ひ出は年ごとに數を增してゆく。親しき者故人の中に在り、私は時々かういふ言葉を呟いてみることがある。若い身空で年寄ぶつたことをいふ譯ではない。若いといつても、私位の年齡になると、もう新らしく友達の出來る機會はない、殆んどないといつてもいい。私のやうな頑なな性分の者、世間の狹い者は特にさうなのであつて、これもまた致し方のないことと思つてゐる。さうしてその數の乏しい友人達が、年々更に減じてゆく。病弱な私の番もおつつけまはつてくるだらうが、己れを思ひ故人を思うて、半宵感をなすのは近頃の私の嗜癖である。仕事らしい仕事、華々しい働きの一つも示しえないで、このまま碌々と生を終るのは、流石に私としても遺憾でなくはないが、己れの分を思へばそれもまた當然のこととして必ずしも忍び難くはない。たださういふ感懷に耽るごとに、私には一つのやみ難い希望がある。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 私は殆んど神に祈りたい氣持になつて、さう呟かないではゐられない。こんなことをここに記すのは、文筆家などといふ(不幸にして私もさういふものの一人である)賣文稼業のわざくれとして、まことに時世にならはない、考へてみるとはしたない仕方であるが、それはまあそれとして、せつかく執りかかつた筆である、もう少し先を書くことにしよう。
 私は先年、いささか病を獲て、さる病院に三ヶ月ばかり入つてゐたことがある。もともと私の病氣は、そんな病院にかつぎこまれるほどのものではない、ほんの輕症にすぎなかつたことは、度々醫師からもいひ聽かされ、自分でも十分承知をしてゐたので、そこに入院した當初の間、私は極めて平靜な、といふよりも寧ろ氣樂な休暇を思ひがけなく與へられた人のやうな、ほつとした樂しい氣持でゐたのである。さうして私は日々に疲勞を恢復し、體重を增し、間もなく熱もひいてしまつた。私の病氣はさういふ風に、さしたる出來事もなく快方に赴いたのにも拘らず、私はそこで慘めな憂鬱病にとりつかれてしまつた。それまでにもその兆のあつた神經性心悸亢進症といふ不名譽な厄介な病氣に、まるで蜘蛛の巢にからまつた昆蟲か何かのやうに惱まされたのである。この神經病の苦痛はその經驗者でなければ到底想像も及ばない慘めな殘虐なものである、私がさういふ疾患に陷つたのは、積年の不攝生に根ざしてゐたのはいふまでもないが、一つにはその病院の環境が直接の原因にもなつてゐたもののやうに思はれる。
 その古風な小さな病院では、狹い廊下一つを隔てて、私の病室の斜め向ひが、丁度屍體室に當つてゐた。それを私は、そこへ入つて一週間もすると、いつとはなしに悟つてしまつた。勿論私は、ずつと病床に就いたきりで、一步も室外に出かける譯ではなかつたが、臥たきりでゐても、案外さういふことはすぐに解つてしまふのである。
 靜かな夜ふけに、忙がしく氷を碎く音が聞える、看護婦や附添ひがそそくさと廊下を往復する。重症患者が危篤に陷つたのだといふことは、それだけでもうすぐに推測されるのである。ぼそぼそと人聲がする、何か器具をとり落す音が聞える、歔欷の聲も聞えてくる。どこの部屋のどういふ職業のどういふ年齡の患者が、どういふ病狀だといふことは、誰にきくといふでもなく、日頃から詳しく解つてゐるので、その夜のさういふ騷ぎが、どの部屋で起つてゐるかといふことも、すぐに想像はつくのである。その病室の中の樣子まで、手にとるやうに、まるでその場に立會つてゐるやうに解つてしまふのである。病院といふところは、お互の患者が、ベッドに就いたまま、千里眼か何かのやうに、お互の生活を透視し合つて暮してゐるところである。
 さういふ騷ぎのあつた翌日は、私の部屋の筋向ひに、しきりに人の出入りがある。それがさういふ種類の部屋だといふことは、だからすぐに私にも解つてしまつた。そこではしめやかな話聲が一と晚中つづいてゐることがあつた。低い聲でお念佛か何かの始まることもあつた。また柩の蓋をうちつける荒々しい槌の音の聞えてくることもあつた。ある時ふと、私の部屋に來てゐる看護婦が、そちらの方を顎で示して、こんなことをいつた。
 ――馬鹿だね、歌なんかうたつて、法被を着てゐるんですよ、あの人……。
 なるほど先ほどから、さういへばその部屋からは、つまらぬ流行唄か何かが、暫く中斷しては、またしても思ひ出したやうに聞えてゐた。私はただ何氣もなく聞きながしてゐたが、樣子を聞いてみるとかうであつた。その男は一昨晚、突然女房を車にのせて、病院の玄關に乘りつけてきた、前ぶれもなしにやつてきたのである。女房は既に危篤の狀態だつたので、病院でも面喰つたが、何はともあれ受けとつて手當を加へた。女房はその次の晚に息を引とつた。その枕頭に、あの男はああして法被姿で一人坐りこんで、あんな風に歌をうたつてゐるのである、といふのである。
 ――馬鹿だねえ、歌なんかうたつて……。
 と看護婦はもう一度繰りかへしたが、私の耳にはその言葉は何か聞きづらいものに聞えた。その部屋に運びこまれ、その部屋から運び去られる人の數は、私がそこにゐた三月ばかりの間に、十人をなほ幾人か越えた。私はその都度、だから、それぞれ樣子の變つたそれらのお通夜に、蔭ながら立會つたやうな譯であつた。おかげで私はすつかり滅入つてしまつたのである。
 私達の日常生活といふのは、見榮や外聞や、洒落つ氣や乃至は身嗜みや、さういふ風な娑婆つ氣で、その大部分が支へられてゐるといつてもいいやうである。氣持に張りがある、といふのも、つまりたいていは、その姿婆つ氣の何かなので、一たびその娑婆つ氣の支へが失はれると、たいていの人物がどういふことになるだらうか、彼らの演ずる相當意外な、滑稽な、見つともよくない情景も想像するに難くないやうに思はれる。
 先年H・T君の小說が文壇の話題となつた時分、ある私の知人は、あのやうな誇りを失つた悲慘な生活記錄を、小說だなどと稱して麗々しく世間に示す位なら、自分はむしろ死を撰ぶ、自分ならああいふ醜惡な病氣に罹つておめおめと生きてゐようとは思はない、自分には何よりも血の誇りが必要だから、と言ひ放つた男があつた。その男はさる名家の出であつたが、なるほど彼なら、血の誇り家系の矜持といふやうなものを平素私かに覺えてゐるのも、さるありさうなことだと思はれた。私はさういふ誇りを覺え颯爽たる誇りを以て生きてゐる人物の氣持を羨望もし讚美もする、それは美しいことに違ひない。どうか他日天與の機會があつて、さういふ誇りの中身が果してどういふものか實踐の上で私達の前に示してほしいものである。これは厭味でいふのではない。たださういふ日の來るまで、私はその男の書く文章を一切讀まないことにひそかに決めたのもまた事質である……。
 誇りを以て生き、誇りを以て死す、實際それほど美しいことはない。私のやうな意氣地のない氣持に張りのない者も、さういふ境地の美しさを想像し讚美することは出來る。けれども、どうも自分が現在さういふしやつきりとした氣持、さういふ何かの誇りに生きてゐるとは思へない。これは私の憐れむべき打明け話の一つである。
 私は先ほどのその病院で、先ほどのその例のお通夜を繰りかへしてゐるうちに、私といふものの隨分他愛ないことをつくづく悟らざるを得なかつた。死の恐怖、その前で私の精神がどんなに卑怯に尻ごみをし、どんなに醜態の限りをつくしたことだらう。私の惱んだ神經症狀も、殆んどその慘めな恐怖の結果だつたといつていい。
 この世間に於ける私達の生活、娑婆の生活は、多かれ少かれ、娑婆つ氣の支へで支へられてゐるものである。その娑婆つ氣の旺んな間は、たとへ健康を失つて病院に身を橫へようとも、隣室で慌だしく柩に釘が打たれようとも、不思議とさほど骨身にこたへないものである。その時分はまだ、從容として死に就く立派な勇氣が、どうやら自分にもありさうな氣持がするのである。ところがさういふ病院生活の日數を重ねるに從つて、世間の騷音が次第に耳から遠ざかり、無念安逸に慣れるにつれて、不思議に孤獨な精神が蘇つてきて、例へば廊下を通つて厠に通ふのもこはかつた子供の頃のやうな、心細い氣持を覺えるものである。一たびさういふ氣持の虜となると、達者で活動してゐる人々の姿が奇怪な幻影のやうに見え、友達の親切な手紙や勵ましの言葉さへも、得體の知れないたぶらかし乃至は挑戰のやうにも受けとられるのである。何といふ呪はれた氣持であらうと、時に自ら反省もしてみるのだが、さういふ反省自身が既に世間的なよそ行きのものであつて、いつかう無力なのを悟る位が落ちである。
 さういふ困つた氣持に惱んでゐた、その私の病室の窓からは、空地を隔ててその病院に附屬してゐる醫學校の校舍が見え、校舍の影には小さな平屋の建物があつて、そこには七十歲ばかりの頭の禿げた一人の老人が住つてゐた。老人は古くから其の學校に傭はれてゐる小使であつて、解剖室で解剖のあつた時にその跡片づけをするのが彼の役目だといふのであつた。その老人は時とすると私の部屋の窓口のところまで遊びにきて、
 ――なあに、肉屋や魚屋をみてごらんなさい、あれとおんなじぢゃありませんか、人間だつて、死んでしまつて切りさばかれりゃ、俺はいつもさういふんだ、鷄や魚もおんなじことさ、何を氣持惡がることがあるものかい……
 などといつてさも平然と陽氣に笑つて見せた。その頭のつるつるに禿げた小柄な老人は、そんな老齡にも拘らずどこかのお內儀さんと私通をしてゐるといふ噂で、時たまその平屋の小使部屋に出入する、襟もとにハンカチをかけた女の姿が見うけられることもあつた。
 私にはその老人自身も、看護婦たちがまたしても口にするそのつまらぬ噂咄も、二つながら甚だ氣持が惡かつた。食慾を失ひ、不眠に陷つて、ひどく氣分の滅入りこんでゐた私には、その老人のなりはひや生活ぶりが、どうにも氣味の惡い、その上何かしら威嚇的なものに思はれてならなかつた。私はさういふつまらぬ身近な見聞から、ただ意氣地もなく日々脅やかされた。――死の恐怖、つまりはそれだけのことに根ざしてゐたのであるが。
 アンリ・ファーブルの『昆蟲記』第十卷の最後の結びの一句には、ただ「働け」といふ一語が記されてゐる。この地上に生を享けた生きとし生けるものは昆蟲も人間も、ただ働くことによつてその生を完うするより外に道はない、それが自然の最上の命令だ、といふほどの意味であらう。それはあれほど丹念に緻密に自然を凝視したファーブルの多年の思索を要約した一語だといつても間違ひのない言葉である。私はふとある夜その言葉を思ひ浮べた。さうして私がこのやうに慘めな姿で、死の前に濡れ鼠のやうな憐れな姿で戰き慄へてゐるのも外でもない、甚だ抽象的ないひ方だが、私が働かなかつたからであらうと考へた。「働け」と自然が命じてゐる以上、働いた者は安らかな生の終末に惠まれる筈である。死を怖れる者は、その者が實は自然の命ずる通りに働かなかつた證據でもあらう。私はさう考へて私の心を落ちつけようと力めたが、私はファーブルの哲理には承服しても、それと共に私の苦がい後悔から脫け出すことは容易に出來さうもなかつた。私はまたある時はいくらか自暴自棄に、自分のさういふ慘めな姿を、どう救ひ上げようとも試みないで、自分の心をそのまま放下して一層慘めに醜いものとすることに、無關心でゐてやらう、よそ眼にはどんなに無樣に見えようともかまはない、私も一つ見物人のつもりでそれを袖手傍觀してゐてやらう、そんな風にも惡く度胸をきめてみたが、さういふことでどうなる譯のものではなかつた。結果は益々虛無的な空想が私を苦しめ私を不幸にするばかりであつた。私はもはや自らを憐れんで淚を流すほどの感傷癖も失つてゐたので、ただ氣力のない眼を見開いて溜息をつくよりほかに手だてを知らなかつた。人生の修養とか死生の覺悟とかいふものも、氣力の衰へた病弱の體軀では工夫の出來るものではない。それは健康時のしつかりした精神の上に立つ平素の用意に俟つべきものであるのを、私といふ愚か者はそんな時にあつて初めて氣づいたやうな始末であつた。臨終のことを習つて餘事に及ぶべしとはさる高僧の言である。エセーのモンテーニュも、哲學とは死の用意をすることに外ならない、と前置きしてあの語錄をその彼の用意の手だてとして書き記した。達人賢人の言は槪ね軌を同じうしてゐるのを思ふにつけても、私は自分の平素の迂闊さや橫着さをつくづく後悔しないでゐられなかつた。
 當時のそのやうな苦澁な經驗を經て、その後私がどれほどの變化をとげたか、それは私自身にも解らない。その後既に七八年の歲月を隔てたが、今日の私も依然として昔日の舊阿蒙であらうかと思ふと、私は時にまた慄然として身內に惡感の走るのを覺える。私は私の精神のあの一つの惡い季節からは恢復した、それは私の肉體が私の病氣から恢復するのと步調を合せるやうにして恢復した。私は恢復したけれども、私は何ものを克服し何ものを新たに獲得した自信もない。私はただ時間の經過につれて一つの負傷が自ら癒着するやうに恢復したのである。さうして私は再び俗世間に立戾つて、俗世間のヴァニティー、何の賴りにもならない娑婆つ氣といふものを多分に身につけて、日常の行動をそれによつて支配されそれによつて支へられてゐるのを覺える。だから私といふものは、もう一度その支へを失へば再びどういふ世界に沈淪するか、これはもう既に試驗濟なのだからそれを思ふと大變いやな氣持がする。私は必ずしも死を、死によつて私といふものが空無に歸することを怖れる譯ではない。(まして來世といふものがあれば、それも大變結構である。)私自身といふものは、私の肉體も私の仕事も、さほど惜しくはないのである。ただ私は死の苦痛と、私達には正觀することの出來ないあの虛無と、それらを以て樣々な風に脅やかされるあの混亂した氣持とを怖れるのである。
 ――我をして靜かにゆかしめ給へ。
 これが私の希望であり私の祈りである。緩やかな坂路を下るやうに私は死の國へ下つてゆきたい。私は必ずしも長壽や老齡を希ふものではないが、それが死の國への緩徐な靜かな移行きである自然な通り路なら、私はそれをやはり自分の通り路としても撰びたいと思ふ者である。
 私の親しい友人達の幾人かは、この緩徐な手間のかかる、しかしながら靜かな自然な通り路をよそにして、彼らの急坂を遽だしげに驅け降りて、無慘な病魔󠄁にせきたてられて遠い地平に沒してしまつた。
 K君は、とある初夏の日の夕暮、ある街角で私の飛び乘つたバスに向つて、片手を擧げて微笑と共に別れの合圖を送つてゐたのが、そのままこの地上の最後の訣別となつてしまつた。
 T君は、ある夜ふけの橋の上でいやといふほど私の足先をふんづけて、私を不機嫌にしたのを記念にして、その後間もなく永遠に消息を絶つてしまつた。
 N君は、私の多年愛用したステッキの磨り減つて短くなつたのを、脊丈の低い彼には恰も手頃だと稱して所望してゐたが、そのうち私の宅まで受取りに來ると約束をしておいて、そのままたうとう來ずじまひになつてしまつた。ステッキは依然として拙宅の物置に殘つてゐる。
 またもう一人のK君は、眞夏の暑い日に私が病氣を見舞つて訪問すると、恰もその人らしく私の制止するのも聽き容れず枕許に端坐して、浴衣一枚の寢卷姿のままではあつたが、甚だ几帳面な應接ぶりで私を辟易させ、さうして彼といふ人物の印象を私のためにもはつきりと完成させて、その最後の終止符を打ちそへるやうに、玄關の閾際で極めて丁寧なお辭儀をした。
 O君は、ある田舍へ突然私を訪ねて來て、そのまま私の忠吿も聽かず更にその山奧の溫泉場へ傭ひ馬に搖すられながら入つて行つたが、その彼の何ものかに追はれるやうなせかせかとした後姿は、今日も私の眼底に殘つてゐる。
 このやうにして思ひ起してみると、これらの人々が私の記憶に殘していつた、それぞれのふとしたその最後の擧止や言動は、思ひなしか、みなそれぞれの深い運命の陰翳に隈どられた、何といつていいか、一種月光的なものとして思ひ起されるのである。死者らの姿の森嚴……それを森嚴と見る者は、多くの些事から成立つてゐる私達の日常生活をも、やはり同じやうに森嚴と見なければならない筈だらう。さう思ふと、暫くの間の病院生活ででも、あれほど心をとり紊した私のやうな凡愚の者の、日頃はどれ位迂闊に暮してゐるかといふことにも、小さからぬ且つは森嚴ならぬきを感ぜられるのである。

 

 

三好達治「半宵記」(『全集9』所収)