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三好達治bot(全文)

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「鳥語」『測量船』

 私の窓に吊された白い鸚鵡は、その片脚を古い鎻で繫がれた金環かなわのもうすつかり錆びた圓周を終日嚙りながら、時としてふと、何か氣紛れな遠い方角に空虛なものを感じたやうに、いつもきまつて同じ一つの言葉を叫ぶ。

 

 ——ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 

 實は、それは甲高く發音される佛蘭西語で、ただ J'ai tué……と云ふだけの、ほんの單純な言葉だから、こんな風に譯したのではすつかり私の空想になつてしまふのである。しかしまたこの私の空想にも理由がある。
 最初私は、私の工夫から試みにそれを J'ai tué……le temps と補つて見て、その下で、每日それを氣にもしないで、秩序のない私の讀書を續けてゐた。つまり、

 

 ——キノフモケフモワタシハムダニヒヲスゴス。

 

 と、さう云つて、彼女は私の窓で無邪氣に頸をかしげてゐたのである。そしてそれから後、ある日ふとした會話の機みから初めて、その言葉の不吉な意味を私に暗示したのは、この家の瘦せて背の高い女中のローズであつた。薔薇ローズと呼ばれる年とつたその女中は、今私のゐるここの一家の人人と共に、永い年月を、長崎から神戸を經て、こんな風に東京の郊外で住まふやうになるまで、彼女の運命と時間を、主家の住居の一隅でいつも正直に過ごして來たものらしい。
 「……けれど、どうも變ですわね。うちの人達はみんな、それを聞くのを、きつと厭やなのに違ひありません。」
 私は、それに就てはもう何も彼女から聞きたくなかつた。ただ新しく、云はばこの家族の𨻶間に、一室を借りただけの私にとつて、知らぬ他國から遠く移つて來た人達の、その𤨏々とした、歷史の永く變遷した昔の出來事の詳しい穿鑿などは、もはや趣味としても好ましくなかつたのである。何故なら、凡そどのやうな事の眞実も、所詮は自由なイデエの、私の空想よりも遙かに無力であつたから。

 

 —— J'ai tué……ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。J'ai tué……Jai' tué……。

 

 それにしても、しかしいつたい何のために、誰が誰を殺したのだらう? それも何時? どこで? どんな風にして? ――よろしい、消え去つた昔のことはどちらでもいい! それよりも先づ第一に、その言葉を信ずるなら、この金環に繫がれてゐる鳥が誰かを殺したのに相違ない。そこで一瞬の間に、私の想像がすぐに奇怪なデサンの織布を織りあげる。たとへば私はここの主婦にかう云つて尋ねるだらう。
 ——答へて下さい、きつとかうなんでせう。昔、あなたの家のお祖父さまが、あなたの良人マリに仰しやつたのです。どうかお前は、私がゐなくなつたなら、もうこの國には住まないで、遠い東の、日本の國へでも行つて暮してお呉れ、この私はもうそんな遠い旅行に耐へられない年齡としになつたが、しかしお前は行つてお呉れ。どうか、それの詳しい理由は訊かないで、私の唯一の賴みだから、もうすぐ私が死んでしまつたなら、早く、私のこの願ひを實行してお呉れ。と、きつとそんな風に仰しやつたのです。あなたの良人マリに。
 ——さうですわ。なくなつた良人のジャンが、いつかそんなことを私に敎へました。あなたもまた、それをあのジャンからいつかお聞きになつたのでせうか?
 ——いいえ、私はあなたのジャンを知りません。……そして、それからある日のこと、お祖父さまは朝のベッドの上で、誰も知らない間に冷めたくなつておしまひになつたのです。部屋の中には、何も平生と少しも變つたところがありませんでした。それにたつた一つお祖父さまの枕もとに吊されてあつたあの生きものの鸚鵡だけが、さうでせう、氣がついて見ればその朝から、あんなに不吉なことを叫び始めたのです。それでその當座は、どうかしてあれを捨ててしまひたいとも思つて見たのでせうが、破れ靴でさへ捨て方に困るものを、まして生きてゐる鳥の捨て場所もないし、鳥の言葉が單純に、その意味の通り、お祖父さまの生涯を早めたとは、たとへ子供にだつて、素直にさうと信じらるべきことでもなし、その上あんなにお祖父さまは、永い年月の間あの鸚鵡を可愛がつてゐらつしやつたのだから、それは今になつて見れば、あのお祖父さまの思出の、生き殘つてゐる唯一のものなんだし、それをこの家から失くすることは誰にも出來ないのでせう。
 ——さうです。それは事實と少しも違つて居りません。あなたの仰しやることは、私にとつても、この家族の誰にとつても、決して嬉しいことではありませんが、私は正直に答へませう。
 たとへこの會話が、私の想像の上であらうとも、私はもうここで、それを打切らなければならない禮儀を知つてゐる。
 事實はあまりに明瞭だ。夜明けに死んだジャンの父は、恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも祕密にした言葉を胸に抱いて、そのために不思議なほど無口な生活を續けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜を過したものに違ひない。實に、彼がこの世を去つた日の、その明方に到るまで、彼は豫感の、それが最後の夜となりさうなあはれな恐怖に戰きながら、遙かに遠く過ぎ去つた昔の日の、制しがたかつた情熱の、激しい悔恨を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱の堆積の、一夜の疲勞と入り混つて、僅かに慰められたやうに感じられたその明方に、もう窓硝子の白くなつてゐるのに氣づかずに、ふと彼は、追憶の壞れ落ちる胸から、祈りのやうに、吐息のやうに、心の忘れられない言葉を呟いたのである。すると枕もとから、まだ眠つてゐる筈のこの鸚鵡が、はつきりと、快活な夜明けの聲で、その言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。

 

 ——ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 

 然り、今度は鳥の言葉が彼を殺した。そしてこの鳥はそれから後、彼女のかたく繫がれた運命の、もうすつかり錆びた金環の圓周の中で、永くその言葉を叫び續けてゐる。私は日に幾度となく、この、嘗ては彼の悔恨であり、今はまた彼女の悔恨であるところの、さう思へば不思議に懷かしい言葉を聞くのである。

 

 ——ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 

 この言葉は、しかしいつとなくそれを聞く私の心に深く滲み入り、日に日に私の記憶と入り混つて了つた。そしてやがてもう今では、嘗て昔の日に、私が人を殺したのだと、さう云つて、誰かが私の上に罪をあばいたとしても、私は恐らくそれを否定しないであらう。今日も、私の無秩序な讀書と、窓に咲き誇るダーリアの上で、鳥はその同じ言葉を繰り返してゐるのである。――君も私の部屋に來て、この鳥の言葉を聞くがいい。もし君にして、人を殺した記憶がなく、なほかつその遠い悔恨が欲しいなら。

 

三好達治「鳥語」『測量船』(S5.12刊)