「涙をぬぐつて働かう」『砂の砦』
——丙戊歲首に
みんなで希望をとりもどして淚をぬぐつて働かう
忘れがたい悲しみは忘れがたいままにしておかう
苦しい心は苦しいままに
けれどもその心を今日は一たび寛がう
みんなで元氣をとりもどして淚をぬぐつて働かう
最も惡い運命の颱風の眼は過ぎ去つた
最も惡い熱病の時は過ぎ去つた
すべての惡い時は今日もう彼方に去つた
樂しい春の日はなほ地平に遠く
冬の日は暗い谷間をうなだれて步みつづける
今日はまだわれらの曆は快適の季節に遠く
小鳥の歌は氷のかげに沈默し
田野も霜にうら枯れて
空にはさびしい風の声が叫んでゐる
けれどもすでに
すべての惡い時は今日はもう彼方に去つた
かたい小さな草花の蕾は
地面の底のくら闇からしづかに生れ出ようとする
かたくとざされた死と沈默の氷の底から
希望は一心に働く者の呼聲にこたへて
それは新しい帆布をかかげて
明日の水平線にあらはれる
ああその遠くからしづかに来るものを信じよう
みんなで一心につつましく心をあつめて信じよう
みんなで希望をとりもどして淚をぬぐつて働かう
今年のはじめのこの苦しい日を
今年の終りのもつとよい日に置き代へよう
三好達治「淚をぬぐつて働かう」『砂の砦』(S21.7刊)