「蝙蝠と少年」『測量船拾遺』
丸山清に
少年よ、父母がお前を見喪つたのか、または、
お前が父母を見喪つたのか――。
靴の踵で古めかしく磨り減らされてゐる、海岸近い居留地の鋪道の上で、私はその夜支那人の一人の少年を拾つた。狹い額につり上つた眉をもち、皮膚に靑い脂肪の沈澱したこの少年は、よごれた淺葱の胴着 を着せられ、柳の影で、冷たい手のひらで泣いてゐた。
棧橋へ来たとき、眞白い月が、林立する帆檣の間に濡れてゐた。瞳があたりの風景に慣れると、澤山の蝙蝠が飛むでゐた。(微かにそれは鳴いてゐたやうだ。)そのとき、ふと顧みた四方に、どうしたことか、私は少年の姿を見喪つてゐた。呼ぶべきその名も知らなかつた。呼ぶべきその名も知らなかつた。そしてその瞬間、はたはた はたはたと、私の左右の
蝙蝠の鳴いてゐる海のほとりで、嘗て、と私は思ふのだ、その父母も私と同じやうに、あの少年を蝙蝠にしてしまつたのだと。そしてまた海近い街の柳の影で、今日もあの少年は、冷たい手のひらで泣いてゐると、私は思ふのだが――。
三好達治「蝙蝠と少年」『測量船拾遺』(『全集1』所収)