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「日本語の韻律」

      萩原朔太郞氏著『純正詩論』讀後の感想

 

 萩原朔太郞氏の近著『純正詩論』は、氏の前著『詩の原理』と全く同一系統に屬する、氏一流の浪漫派的詩論を縷說した、愉快な讀物である。この著者の書物は、一讀して甚だ氣持がいゝ、論鋒がテキパキしてゐて、頗る大膽であり、細節末梢の、まだ/\疑問や推究の餘地を存する部分を、さも面倒臭さうに、さもさも自明の事柄のやうに、さつさと脇へ押しやり切捨てゝしまつて、ともかくも論旨をおもふ存分のところまで導いてゆく、といふやり方である。甚だ亂暴專擅なやり方で、讀者の方で讀みながら、不安や疑惑を感じないでもない、私など、大へん心もとない氣持がするのである。ニイチェもトルストイもモウパッサンも十把一からげに援引され、見よ、かくのごとく西洋の文學は、總じて悲劇的である、といふ風な論斷が下される、その手際はまことに颯爽として、その著想は極めて警拔である。私など、いつもながら感服せざるを得ないのであるが、どうにもその推論の過程に、充分な滿足を覺える譯にはゆかない。結論の命題に就ては、だいたい讚意を表したいやうな場合にも、さうした結語に到るまでのプロセスを、そのまゝうけ容れるのには少からず躊躇を感ずる。恐らく著者は、最も結語を尊重し、それを求めるに急なる餘り、多く簡明な直觀の力にたより、論究のプロセスはやや二の次に考へてゐられるのであらうが、寧ろかかる文學論の、論究の眞面目は、最もその經過の途中に盡されるものの如く、私などは考へる。一つの讀書が、讀者に與へる感化や影響などといふものも、その終局の結論によつてよりも、寧ろその探索の途すがらに於て果されるもののやうに考へられるのである。かういふ見方よりすれば、この書物は處々(しよ/″\)に薄弱の個處を有し、また大小の瑕瑾を隨處に存してゐるかのやうに見うけられる。しかしながらまた、それらの疲弊瑕瑾の數〻にも拘らず、かいなでの凡庸人の手にかゝれば、到底法も形もつかないであらうやうな、その亂暴專擅な手法にも拘らず、なほこの書物は、銳く讀者の衷心に迫り來る、直觀的な秀れた機鋒を藏してゐる點で、人の胸に潛んでゐる、高貴な情感を搖り動かす、卓拔な詩情によつて一貫されてゐる點で、時代に比類のまれな長所をもまた備へてゐるのである。――さて次に、書中二三の問題にふれておかう。

 

 著者は、わが國現代の文化の混亂、言語の猥雜を指摘し、かゝる言語を以てしては、如何に天分の豐かな大詩人と雖も、到底西歐諸國の詩人に比肩すべき、秀詩をなすべくもない文化的地盤の惡條件を慨嘆し、我々の良き詩歌の成長は、かゝる粗野未熟の現代言語が多くの文學的努力によつて耕作され、精錬され、永い時間の後に、文學的の含蓄や陰影を附與された曉に於てのみ、漸く期待されるであらうと、一縷の希望を遠い未來に繫いでをられる。私もまた著者と共に現代文化の混亂、現代國語の猥雜を痛感し、詩歌の環境としての文化と、詩歌の素材としての言語との、基本的なこの二大要件の、甚だ非恩惠的なる現狀に就て、かねがね悲觀說を抱懷してゐるものである、この點で著者と私は意見を同うする。ところが著者はまた一方、詩歌の音韻的效果を最も尊重し拍節や韻律の、漢詩や西詩におけるが如き詩的效果を我等の詩歌の上にもまた期待してゐられる。さうして一方ではまた日本語の改良や成長を夢みてゐられるのである。甚だ悠久なる期待といはざるを得ない。この點、私は著者に同ずることを得ない。なるほど、詩歌における音韻的效果の尊重すべきは、もとより論を俟たない。漢詩や西詩における、その整齊の美感、その風韻の深情は他の何ものにも換難(かへがた)い藝術的效果をあげてゐる。しかしながらそれは、平仄や押韻の嚴しい法則に耐へうるだけの、資質を享けた言語にして始めて、期待さるべき效果であつて、わが日本語の如き、單なる押韻の法則のみにさへも、到底耐ふべくもない、脆弱の言語を以てしては、その點、西詩や漢詩の、詩法の重心を、そのまゝ拜借し踏襲する譯には到底參り難い。
 嘗て與謝野晶子女史らが、押韻詩の創作を試みられたが、ただにそれが初步的な試作であつたからといふだけでなく、その失敗の程度は、この眞面目な企てが全く滑稽に墮し了つたほどそれほど根本的に何か見當違ひの感を讀者に抱かせるものであつた。また例へば九鬼周造氏の如き、日本語に於ける、押韻の可能を究明し、自らもまたその試作を示してゐられる篤志家も存するが、その理論も、ひと通り辻褄を合せた程度にすぎず、その試作も何かしら語呂合せのやうな感が伴つて滑稽であり、何としても我等の母國語の、韻文として性能に缺けてゐる一事は、炳として覆ひ難い。

 

 著者萩原氏は、短歌における押韻の存在を例證し、その音韻的效果を力說してゐられる(――この論文は、本書中白眉のものである)が、なほそれも、眞の押韻と稱すべく、何らの確乎たる法則を有せず、極めて薄弱の、實は聲調と名稱すべき程度のものであらう。さうしてかゝる事情は、一に國語の性質の然らしめるものであつて、この性質たるや、如何なる文學的努力によるも、到底改變さるべき種類のものではない。如何なる文學的努力と雖も、この國語の性情の、標內において繰返さるゝが故である。さればさきにあげた、遠き未來に著者のかけてゐられる一縷の希望の如きも、かゝる基本的の問題に關しては、實は全く絶望的のものなることを知るのである。或は著者の希望も、西詩や漢詩におけるが如き韻律美を庶幾してゐられるのではなく、少くとも今日の蕪雜さに較べて比較的に雅馴な何かしら音樂的な感じのするといふ程度のものを期待してゐられるのであらうか、それならば私もまた、假りに讚意を表しておいてもいゝ。
 假りにといふのは私はまた著者とは別に、少しく考へるところがあるからである。實に、右に槪說したるが如き事情からして我らの母國語は、到底西詩や漢詩に倣つて、それらと等しなみの、音韻的な詩美を創造するには、根本の條件を異にした言語である。一言に云つて、我らの母國語は、最も非音樂的な言語である。然るが故に、俳句の如き、非音樂的な、單に印象的な特異の詩歌を產出したのであらう。
 俳句のあの短小な形式に、なほ進んでその音樂性を探り出さうとするのが、在來の鑑賞家の常套であるが、私はその細心な鑿穿に感嘆する前に、彼等がこの特異な詩歌の、最も重大の特質を見落してゐるのに驚くのである。檢微鏡的な鑿穿をしばらく措けば、あの短小な詩歌になほ音樂性を求めるのなどは全くの徒爾であらう。俳句はもともと、音樂的な效果などを企圖してゐるものではない、それは端的な詩的印象を、最も無表情な言葉で認識しようと心掛けてゐるのみである。その定型の如きも印象を最も手短に整理する、便宜の手段であつて、音樂的の、言語の反復を目的としてゐるものではない。(例外的事情に就ては、しばらく考慮を拂はない。)

 さて然らば、韻律を無視した、單に詩的印象を內在するのみの詩歌、そのやうなものが、そもそも詩歌として、心理的に成立するであらうか、これをまた別の場合に就て考へてみよう。かの、我國の漢詩人等の場合は、この間の消息の、奇妙な一例となるであらう。彼等は中華人等と全く等しなみの嚴格な作詩の法則を遵守し、その平仄ゃ押韻の規則に從つて、全く音樂的に組み立てられた定型詩を創作し、而も創作者自らは、その音樂を自身の耳をもつて聞きとることはしないで、甚だ散文的な日本讀みに之れを解讀し、恰も一種の不定型自由詩、嚴密にいへば散文詩の如くにこれを諷誦、吟味し、その上、月旦(げつたん)上下してゐたのである。かかる場合彼等が心理的に、一種整然たるポエジイを感得してゐたであらうことは、ほとんど、推察に難くはない。これを以てみれば、詩歌の、韻律的約束と離れたその意味、卽ちその詩的印象もまた、獨立して心理的に、一種のポエジイを構成しうるものなるを知るのである。我等が漢詩の日本讀み、あのプロザイックの日本讀みによつてすら、百の詩人を百の詩人として、味讀し判別しうるものは、その聲調によつてよりも、寧ろ主としてこの心理的の、詩的印象に依賴するのであらう。この詩的印象の存在によつてこそまた實に、所謂散文なるものの成立も可能とされるのではあるまいか。
 かく觀じ來れば、詩歌における音樂性は、勿論詩歌そのものでも、また詩的印象そのものでもなく、單なる二次的の屬性と見ることをうるのである。然るが故に、私は、詩歌に於ける音樂性を、强ちに輕視せざるも、また『純正詩論』の著者の如く、これを偏重しようとは考へない。從つてまた、日本語の將來に、西詩その他の如く、音韻的に完備した長詩を產しうる日の來るべしとも考へないし、それかと云つて、この永遠に非音樂的な日本語が、また直ちにその故を以て、詩語としての資格を致命的に缺如せるものとも考へない。
 ただ我らの詩歌は、われらの母國語の宿命に從つて、その獨自の途、私見を以てすれば、ともあれ詩的印象を把持せんとする、その意味で印象派的なる手法を追ふ、その獨自の途を開拓すべきであらうと愚考するのである。
 右は甚だ匇卒の文章で、不備の點は甚だ多いが、帝大新聞記者の需めに應じて、假りにこゝで筆を措く。

 

三好達治「日本語の韻律」(『全集5』所収)