「時雨の宿」『故郷の花』
かすかなる
かすかなる聲はすぐ
はらはらと今ふりいでし雨の音
ひそかに軒を走る夜
時雨ふるかかる夜頃を音もひくく
渡るは何の鳥ならん
かすかなる
かすかなる聲はすぐ
聲はかたみに呼びかはし
ちちとのみただひくくかすかに
かたみにつまをたのむらんこたへかわして
稻妻のかき消すごとく
闇の夜空をはや遠くかすめて去りぬ
深沈として風は落ち
燈火くらく人はみな眠れる巷
甍も寒き屋の棟を
時雨の雨にぬれぬれて
かすかなる
かすかなる聲はこなたにかへりくる
げにこぞの日のかかる夜も
時雨の宿のつれづれに
冬ちかき海の遠音にまじらひて
かすかなる
かすかなる
かかるすずしき音をききし
思出のいまはたあはれ
あはれかく古りゆくをただふりゆかしめて
あともなき
ひとむれの聲のゆくへや
三好達治「時雨の宿」『故鄕の花』(S21.4刊)