三好達治bot(全文)

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「花の香」『百たびののち』

私は思ふ 暖かい南をうけた遠い丘
そこに群がる水仙花 黑潮に突出た岬
かの群落を思ふのは
さうして旅仕度を思ふのは
この年ごろこの季節の私の習ひ 白晝夢
今日また爐邊にそれをくりかへす
芳香はもう鼻をうつて 部屋に漂ふ

 

噫 ある年の雪の朝
戰さに敗けて歸つてきた海軍さんから
梅を一枝もらつたけ 丈は丈餘
天井につかへ この部屋の半ばを領した
白晝夢は その芳香にもまたつながる
海軍さんは和尚さん 淡紅梅は後庭花(こうていくわ)
ずゐぶん氣前もよかつたが
法衣の肩にあれをかついで 町中(まちなか)を
ゆらりとござつた若法師
先年ぽつくり 道山(だうざん)に歸りたまふた
本意(ほい)ないことに思ふから あの芳香が
またしても ゆかしいものが鼻をうつ

 

霜の後(のち)なほ殘る軒端の菊 ほろ苦(にが)い香を
冬の薔薇(ばら) 甘い薰りを 私は思ふ
とりどりの思出の姿のやうに 聲のやうに
目方のやうに 私はそれを爐邊に受とる
すなはちそれが私を呼ぶ この
心一つを さてまた風にさらさうと
旅の仕度にとりかかる

 

三好達治「花の香」『百たびののち』(S50.7刊)