三好達治bot(全文)

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「涕涙行」『干戈永言』

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敵壘下咫尺の壕に
肉薄し夜を徹したり
拂曉に突撃せんとす……
かかる時四もは寂寞
星しげき阜(つかさ)のかげに
君が書を讀む兵ありと
君やよし詩人(うたびと)の想(そう)に富ますも
得ておもひ知りたまふまじ
君が書はわが行嚢(かうなう)に
門出の日負ひてひめたり
いくたびか死地に出て入り
硝煙にくんじたれども
ひと卷はただつつがなく
春秋(しゆんじう)をはや三たび經て
來しかたの山もはろけし
げにあはれ矢石(しせき)の境(きやう)は
うたかたのいのちなれこそうたありてこころは張りぬ

 

兵はみな遺書をしたため
しののめの空しろみなば
敵壘に突入せんとす
更(かう)たけし闇のさなかに
ここかしこはや鞘ばしる
三尺の靑き稻妻
いにしへは槊を橫たへ
詩を賦ししいくさの雅び
いまのこのわれは啞の
蟬にして歌なきたぐひ
嗚呼
老いて風寒し
うつそ身の戎衣ほころび
かなた流星とぶ
げに兵の身はかく
束の間ののちさへしらに
閑(かん)を得てみじかきひまや
なかなかに思ひはながし

 

いざさらば言(げん)を寄すなり
かへりごと待つ身にあらず
あいなしとうとみたまはん
はばかりもかつは忘れて
心頭(しんとう)を徂徠(そらい)す感の
ついでなきままをつづりつ
かへりみてはぢらふひまも
つきんとす再讀もせず
迫擊の砲鳴りいでん
突擊の時はせまれり
乞ひまつる餐(さん)を加へよ
さきくませ君
はたわれもけさのいくさに
もののふのおくれはとらじ

 

幸ひに君記(き)したまへ
ただ一事
(いまのこの刹那ののちは
神ひとりしろしたまはん)
胡地(こち)ふかく敵の壘下に
はるばるとわが負ひて來し
君が書のこれのひと卷
壕に踞(きよ)し光をつつみ
わが膝にわが手のうへに
つつがなく開かれたりと――

 

文(ふみ)はかく筆を擱(お)きたり
艸々(さうさう)の文字のはしらひ
かぐはしきこころのあとも
うらわかきみちの友垣(ともがき)
君によりわが垂老(すゐろう)の
情感も春のみづ枝を張らんとす
かしこし
友や
いくさ勝ちかへり來たまへ
酒くみてものがたりせん
その日はや
來よと
わりなく
爐の灰にわが淚おつ
――おつにまかせつ

 

 

三好達治「涕淚行」『干戈永言』(S20.6刊)