三好達治bot(全文)

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「むかしの詩人」

 もう二た昔の餘も以前のことになる、本鄕春日町の「大國」といふ家で尾崎喜八さんの詩集出版記念會があつた。私はさういふ會合へ出たのはその時がはじめてであつた。その頃大森にをられた萩原さんが近所の私に同行をすすめられたのに從つたのである。私は尾崎さんにも面識がなかつたし、その他の誰とも近づきはなかつたから、さういふ場所へ出席をするのも氣恥しい思ひで、終始窮屈に縮こまつてゐた。

 

 萩原さんの隣りに何か鷹揚な格幅のいい和服姿の仁を見うけた、それが高村さんであつた。高村光太郞さんの名はむろん私も承知をしてゐたから、紹介をされるといつそう窮屈な思ひをした。高村さんはくぐもり聲で始終とりとめもない平凡なことをぽつりぽつり萩原さんと話しあつてをられたのが、春日駘蕩たる風で、私には反つてそれが珍しかつた。そのうちあの大きな手でお酒をいただいたりしたのを忘れないが、記憶に殘つてゐるのはただそれだけで、この時の印象はたいへんはつきりとしてゐてまたとりとめがない。たぶん私は少しあがつてゐたのであらう。その高村さんあたりからテーブル・スピーチが始つて、代る代るいろんな人の小演說があつたが、それもまた私の記憶にはない。
 石川三四郞、江渡荻嶺といふやうな變つた人々を見かけたのもその席上であつた。そのうち佐藤八郞さんが、椅子の上に立ち上つて元氣のいい意見をのべ始めたのは面白かつた。紺絣の胸に大きな羽織の紐の結ばれてゐたのが眼にのこつてゐる。近頃の寫眞で見かける風貌も、話の泉で耳にする聲音も、私の記憶とはだいぶちぐはぐであつて、私の記憶の方はいつまでも詩集の『爪色の雨』と結びついて、あの紺絣のままである。
 高村さんとはその後戰爭中數囘お眼にかかつた。新橋あたりのつまらぬ店へも、誘ふと氣輕に同道されるといふ風で、この時はもう窮屈な思ひもせずにお話を承ることができた。戰爭中の高村さんはいろいろ迷惑の多い立場にゐられたので、私個人としては痛ましいやうな感じがいつもつきまとつたが、それでも見かけは駘蕩として機嫌がよかつた。何か深く期するところのあるやうな言葉を一度ふともらされたが、それもすぐに後は笑ひにまぎらはしてしまはれた。そんなこともあつたので、私には何か負ひ目のやうな氣持がなくはない。それで私は去年の四月岩手の山奧へ機會をえてお訪ねした。その山居のありさまは、一度雜誌へ記したからここには略する。
 あの山奧で、あの生活では、彫刻の方のお仕事に差つかへが多からうかと、私は今もかげながら案じてゐる。けれども先生は、もう永久に岩手を離れない決心ださうだから、私どもにはどうにも手のつけやうがない。頑固だなあと、嘆息まじりに考へるが、どうもやはり以前からの固い決心が底にあつて動かないのだらう、ともお察しする。秋のあとには冬が來る、每年每年――。あの岩手のきびしい冬と、七十翁の自炊生活と。ともあれ遙かに祝福しよう、あの華やかな才能の後のあの壯烈な何ものかを。

 

 北原さんは、その容貌も童顏であつたが、いつまでも茶目つ氣のぬけきれない無邪氣な明るい人柄であつた。大森の奧の屋敷を白秋城などと稱してゐたのも、今から思ふと罪がない。私は一度、やはりこれも萩原さんに伴はれて伺つたことがある。
 客間のイスにかしこまつて「からたちの花」か何かのレコードをつぎつぎにきかされたのは、開けつぴろげなもてなしだつたが、當時も少々變にきまりが惡かつた。ところが主人はそれがいささかご機嫌らしく見えたから、あてのはづれた感じといふよりも、私どもには何だかどうも明るすぎた。萩原さんとは、詩壇歌壇の世間ぱなしが暫くつづいた。
 ――S―は、おれのうちで、何のことはない、媾引をするんだから、けしからんよ、どうも、天下の詩人ともあらうものが。
 といふやうな話の出たのを忘れない。もちろん私は、座にあつたといふまでだつたが、萩原さんも北原さんには、たいへんといふほどではなかつたけれども、いくらか窮屈らしい應對ぶりだつたのがそれがあの人らしくいかにも無器用な應接ぶりで、私にはなかなか面白かつた。

 

 ――白秋は、どうもあの通り威張りたがつて、大家らしくもない、あの子供つぽい癖が、拔けきらないから、開口だ……。
 といふのは萩原さんの感想だつた。親切で、開けつぴろげで、おしやべりで、子供つぽくて、それでどこかしら威張つて見せる、そんなところが白秋城の主には、罪もない趣味としてたしかにあつた。手びろく仕事をひろげてゐるのが、そんな風にあの人に、働き者らしい餘分な活氣を與へてゐたのであらう。品位も惡くはなかつたし、あと味はさつぱりしてゐたけれども、座談の聽き手としての主ぶりには、もう一つ工夫が足りなかつた。讀書人の風はまづなかつた。と私のやうな書生輩にものみこめた。
 『近代風景』といふ手ごろな雜誌が、白秋の主宰で出てゐたのは、當時のことであつた蒲原有明さんの詩が、卷頭にのつてゐることが多かつた。その詩は以前の有明詩のやうな、厚手のものではもはやなかつた、それが私どもには不滿であつたが、白秋はあるとき私に、萩原君の書くものはつまらなくて、困る、といふ風な小言を漏した。
 萩原さんのはエッセイだつたがそれらは當時の私どもには決して面白くないものではなかつた。だから私はたいへんとんちんかんな思ひを覺えた。いつぞや大森驛附近のカフエで、私は少々醉つ拂つてゐたのにまかせて、
 ――白秋は、とてもわからずやで困る。
 といふ風な意見を發表した。そんな意見にはいつかうとり合はないのがこの人の日常らしく、微くんの上機嫌で、その時も北原さんは何かしきりに威張り散らしてゐた。
 そこの二階にはピアノがあつて、「幼稚園の先生」と私たちのよんでゐた神妙な女給さんが、その時も先生の童謠か何かを彈奏して聞かせた。兩先生は意氣投合してゐるらしい樣子であつた。

 

 島崎さんが麻布の飯倉にゐられたころ、昭和の二三年ころ私どももその近所の狸穴に暮してゐた。私どもの二階を借りてゐた堀口庄之助さんといふのは、唯心派十九世といふ肩書をもつた庭造りで、この人は島崎さんにも出入りをして前栽の世話をやいてゐた。
 今日は芭蕉の根を植ゑてきました、といふやうなことのあつた數日後にはまたそれを見囘りに行つたりなどしてゐたが、そのつど藤村先生の暮しぶりや仕事ぶりを少しづつ報吿の形で、私どもに傳へるのが庄之助さんの常であつた。
 私はその報吿にはさほど興味も覺えなかつたが、私と一緖に暮してゐた梶井基次郞君の方は、そんなささいな傳聞にも若干感興を動かしてゐるやうな風であつた。梶井君はまた茶目つ氣な眞似をするのが趣味であつて、板べいの節孔から通りすがりに一寸藤村邸の前庭をのぞきこんだりなどして、同行の友人たちを笑はせるやうなことをした。
 ――藤村は、ゐなかつた……
 などと罪もないことをいつてみんなを笑はせるのが、彼の思はくでは一種の敬意をささげて門前を通りすぎたつもりのやうであつた。
 かう書いてくると、私も一度その節孔をのぞいたやうな氣持がするのは、記憶の錯覺といふものだらうが妙だ。あれはたしかに梶井の一手販賣だつた……。

 

 そんな近所に暮らしてゐたから、町ではちよいちよい島崎さんの姿を見かけた。六本木の方から橡の並木をこちらへ急ぎ步でやつてくる、變つた姿だ、と眼をとめると、それが島崎さんだつた。何か遠方からでも眼にとまる、變つた樣子が、やはりあの人にはどこかにあつた。
 心もち胸だかにしめた帶、その外には服裝に何も變つたところはなかつたが、あの年齡の人としては普通でない樣子、ものの簡素に整理のついた何か一直線な感じがあつて、それがなかなか高雅に見えた。
 そのころ私は島崎さんと言葉を交へたことはなかつた。まだ筒そでの、小學生の鷄二君とは、いつとはなしに顏馴染にはなつたけれども。
 その後私は、事變の始つて間のないころ、ある文學會の賞をもらつて、その發表式に、久しぶりで藤村さんにお眼にかかつた。式の前の茶話會では、晴れがましく私は藤村さんの隣りに座つて、たいへん窮屈な思ひをした。
 藤村さんはそのころすつかり耳が遠くて、二三度私の申上げたことは、お返事のないままにまぎれてしまつた。そんな具合であつたから、席上の人々との應接も、いくらか不自由に見えたけれども、槪ね要領がよくて、その上なかなか才氣があつて、いつかう老人らしくは見えなかつたのに、私は實は舌をまいた。どうやらあの人には、もう一つほかに耳があつた。……

 

 數日後、私は麴町へお禮に上つた。さうしていろいろお話を承つたが、ここには略する。ただ一つ、島崎さんはこんなことをいはれた。
 ――詩壇も變りましたね、私なんかが詩を書いたころは、人には內證に、こつそりかくれて書いたものです。何か、恥かしいやうなことでしたうんぬん。

 

 

三好達治「むかしの詩人」(『全集4』所収)