三好達治bot(全文)

twitterで運転中の三好達治bot補完用ブログです。bot及びブログについては「三好達治botについて」をご覧ください

「交遊錄」

 萩原朔太郞先生に初めて會つたのは丁度三年前の夏だつた。伊豆のある旅館で初めてこの有名な詩人と對坐した時は、子供の頃中學校の入學試驗をうけに行つたやうな氣持だつた。小說家の尾崎士郞氏がそこへ伴れて行つてくれたと覺えてゐる。窓には盛夏の綠があり、僕は少しあがつてゐたので落着かうと思つて重々しく薦められた茶を啜つた。最初に室生犀星の話しをしたやうに思ふ。梶井基次郞君も同坐してゐた。雜談の內容はもう忘れてしまつたが、この時の印象はいつも僕を子供のやうに明るくはにかませる。これより前まだ高等學校にゐた時分から、僕はこの詩人のものは殆んど一行殘らずと云つていいほど丁寧に讀んでゐた。一度は鎌󠄁倉の材木座へ手紙を送つて、訪問したい旨をしたためたが、返書がなかつたのでよした。この日は夜になつてみんなで酒をのんだ。醉つて代る代る歌をうたひ初め、僕は命ぜられて生れて初めてだつたが王維の詩を大聲で朗吟した。僕に詩吟が命ぜられたのは、僕が到底外に歌なんかうたへさうになく見えたからに違ひない。
 爾來、友情と云ふには相當しないが、敬愛の念をかへずに僕はこの大詩人に親炙しうる幸福をもつてゐる。最近屢りに不幸に遭遇してゐるこの先輩と、僕は近く東京に出て再び歡語しうる日を夢みてゐる。
 現在僕は大阪で、安つぽい飜譯の原稿料を稼ぎながらくすぶつてゐるが、この地には病を養つてゐる舊友の梶井基次郞君がゐる。時々僕の方から仕事の合間に彼を訪ねることにしてゐる。彼の方からは來ない、夜露にあたつてはいけないから。
 僕らは東京にゐた頃、麻布で同じ一つの家の二階に隣り合つて暮してゐた。その頃習󠄁慣のやうに夜をふかして雜談したのが、彼の宿痾を一層危險なものとしたのは爭はれない。でも僕らは今會つて、その頃の向ふ見ずな生活をお互に後悔してはゐないやうである。そして昔ほどにも微細な點に亙らない、極めて大ざつぱな文藝上の會話をして、彼が急いで僕の前に碁盤を持ち出してくる。
 「もしもAがBだつたら……」と考へる假定法は、凡その場合僕には感情の上でゼロに等しい。しかしながら僕は切に思ふ、もし彼が病身でなかつたなら!

 

 碁盤で思ひ出すのは、こんな聯想も失禮だが、川端康成氏である。碁は比較にならなく僕の方がまづい。
 年長者に會ふと過度に窮屈を感ずる僕も、銀座を步いてゐるときなどふと、この人に會はないかしらと思ふ。
 一と頃武田麟太郞君とよく銀座で出會つた。
 ――武田、かねをもつてゐるかい?
 ――もつてる。
 ――晩食が食ひたいんだがね。
 ――よし。

 

 麻布で梶井君と同居してゐた家へ、梶井が去つた後に北川冬彦君が移つてきて、僕は彼と日常を共にした。雜誌『亞』が終刊に近づいた頃だつたと思ふ。僕はその頃詩を書いてゐたのだが詩人の友達など少しもなく、彼は珍らしい異例であつた。從つて彼からいろんな刺戟をうけ、鞭韃されるところも多かつた。しかし今顧みてそれらのことはみな遠く漠然とし、何をここに記していいか解らない。彼を介して瀧口武士君や安西冬衞君などと友情を訂しえたのも、僕の喜びとするところである。現在東京で忙がしく僕らの雜誌の仕事に携はつてゐる彼に、僕は永らく御無沙汰してゐてまことに濟まない譯である。 

 

 僕がまだ詩など書かない頃から、僕には一人の詩人の友達があつた。丸山薰君である。この友人から僕は永い交遊の間に、いろんなことをたくさん敎はつた、彼に負ふところを僕は永く忘れないだらう。臺灣大學に赴いた詩人矢野峰人氏が、夙やく丸山君の詩才を愛してゐたことをここに誌して置かう。
 淀野隆三君と中谷孝雄君とは同人雜誌『靑空』以來の舊友で、今も最も無遠慮に亂暴な交際をつづけてゐる。僕は早く飜譯などの仕事を終り、東京へ歸つて彼等といつしよに勉强しよう。さうだ!

 

 

三好達治「交遊錄」(『全集4』所収)