「古松に倚る」『砂の砦』
天遠く晴れて
月影白くほのかなり
寂々として心を來り撲つは何
我れはわが行かんと欲りしところを忘れ
徘徊して古松の影に倚る
わが生の日はすでに久しく
あまたたび行路の轉變を見る
この心また落寞として
願ふところことごとく絕つ
來るものをして來るに任じ
行くものをして今は步(あし)ばやに行かしめよ
我はひとり老松の亭々たるに肩よせ
鐡よりも固きその意志の永く默然たるをよろこぶ
されどこの心には拙くも世に怒るにも似たらんかし
さらばとて我はひそかに口ずさむ詩(うた)のひとふし
かくてしばしは古き世の古き心をなつかしむ
陳子昂幽州の臺に登りてうたふ歌
前不見古人(さきにこじんをみず
後不見來者(のちにらいしゃをみず)
念天地之悠々(てんちのいういうたるをおもうて
獨愴然而涕下(ひとりそうぜんとしてなみだくだる)
いざさらばあへなきおのが言の葉に
うちかへしても嘆ずなれ
古への聖(ひじり)はしらず
後の世はその人もなし
あめつちのただきはみなき
かかれこそなみだおつは
三好達治「古松に倚る」『砂の砦』(S21.7刊)