三好達治bot(全文)

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「自作について」

 


鹿は角に麻繩をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その靑い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。
そとでは櫻の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自轉車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黑いリボンをとめて。
 

 右は『測量船』(昭和五年刊)中の一篇、もう三十年近く以前の作。伊豆狩野郡湯ヶ島村での所見、ほとんど作意をまじへないスケッチで、手輕な散文詩のつもり、當時のいはゆる散文詩とは變つた趣向のつもりであつた。趣向らしきもののないところが、當人の趣向であつた。最も簡單なところを、最も單純な言葉で、ぽつりぽつりと並べただけで、これでも一箇の詩趣は捉へたつもりで、當時の作者はゐたのであつた。何か、少々氣どつたつもりでゐた、記憶がある。

 

鹿
 

午前の森に鹿が坐つている
その肩に その角の影
彈道を描いて 虻が一匹飛んでくる
はるかな谿川を聽いている その耳もとに

 

 同じく鹿を詩材としたが、この方は、實は作者の所見は、鹿ではなくて、山羊であつた。私の入院してゐた病院の庭に、年とつた山羊が一頭、木蔭につながれていつもメイメイ鳴いていた。ある時はだまつて坐りこんでゐた。それを眺めてゐると、伊豆の田園風景、村里まで鹿のとび出してくるその山間谿谷などが空想された。そこで山羊が一變して鹿となつたのがこの一篇。虻を點じたのは、いはば谿川を點出するための手段であつた。鹿の皮膚に、虻蜂の類が寄生蟲を生みつける、さういふ事實を以前に知つてゐた、この種の雜識がこの空想的手段を生み出す機緣となつたであらう。その邊は相互に關聯しあつてゐて、この種思ひつきは、一瞬にして成り立つものである。さうしてその幽邃(いうすゐ)の感じ(或は憧憬)は、貧しい病院の窓にあつて、作者が直感し得たものである。(實景はうすぎたなく殺風景であつた。)その他はすべて作詩上の末節的技法といふものに屬するであらう。第一作の「村」の餘響のやうなものが、作者の胸裏になほ當時ひきつづいてゐたやうな(その間數年)記憶がある。
 この作は後に(十餘年後)、第三行を

 

微風を間切(まぎ)つて 虻が一匹飛んでくる

 

 と改めた。「間切(まぎ)る」は水上生活者の用語、帆船などの逆風にむかつてジグザグに進行する航法(操帆法)をいふ。この用語は後に雜讀の間に知り得た。ここに適用してぐあひがよからうと考へる。これも雜識の一助である。作詩上、雜讀雜識が往々效のあることをここにいひ添へておく。

 

水聲

 

そはこの身いまだ若き日
よるべなき心ひとつをはこびつつ
あめつちは夏のさなかに
超えゆきし天城山みち
その谿のふかき底ひに
こゑのみをききし水聲(すゐせい)
そのこゑのなつかしきかな
我れはかく垂老の日に
心またかなしみにえたへじとして
ふともそのかの瀬の音を
そら耳のそらにききつつ
ゆくりなく憂ひを消しぬ
ゆゑいかにみづから知らず

 

 「鹿」の後、數年の作。作者は貧しき家庭をもち、二兒の父となつてゐた。「天城山みち」は第一作、第二作に、いはば歷史的にどこやら關聯する。書生時代の貧しき旅行を想ひ起してゐるのである。「垂老」は四十歲前後にあてはめてみた、やや誇張にきこえるかも知れぬ。「えたへじとして」は語法上少しいかがはしい。他にうまく言ひとれなかつたので、このへんで我慢をしておく。むろん作者は曾遊の地を想ふのであつて、ありていは机邊に欝々としてゐるさま。今度は鹿を假りず、自らの耳でもつて、遠い水聲をききとる思ひに耽る。その點どこやら前作によく似てゐるのは、ただ今これを書きながら初めて氣がついた。

 

遠き山見ゆ

 

遠き山見ゆ
遠き山見ゆ
ほのかなる霞のうへに
はるかにねむる遠き山
遠き山山
いま冬の日の
あたたかきわれも山路を
降りつつ見はるかすなり
かのはるかなる靑き山山
いづれの國の高山(たかやま)か
麓は消えて
高嶺(たかね)のみ靑くけむれるかの山山
彼方に遠き山は見ゆ
彼方に遠き山は見ゆ
ああなほ彼方に遠く
われはいまふとふるき日の思出のために
なつかしき淚あふれていでんとするににたる
心をおぼゆ ゆゑはわかたね
ああげにいはれなき人のけふのこころよ
いま冬の日の
あたたかきわれも山路を
降りつつ見はるかすなり
はるかなる霞の奧に
彼方に遠き山は見ゆ
彼方に遠き山は見ゆ

 

 「遠き山見ゆ」はその題意がすでに實景であり、それと同時に、比喩的な意味では、作者自らの過去をかへり見る「遠望」の意を寓してゐる。そのことは表面に明らかに示されてゐないが、作の調子にどこやら感じとられるやうな作ぶり、のつもりである。詩集『花筺』の序詩として草し、同書の卷頭に置いてあるから、同書一卷を通讀していただくと、その寓意も自らに見當がつかうかといふ風の仕組みであつた。さういふ創作動機意圖であつたから、ことさら地名の限定を要せず、それは省かれかくされてゐるが、事實は、これもまた伊豆地方に關聯してゐる。この度は、机邊の空想でなく、作の生れる少し以前に、久しぶりで同地方を旅行した記憶が、作のかげにかくれてゐる。作は現地にのぞんでのものではなく、いくらか後日の創作ではあつたけれども。

 

われはいまふとふるき日の思出のために
なつかしき淚あふれていでんとするににたる
 

 といふのは、だから、時間的(歷史的)にいふと、第一作、第二作、第三作にも、いくらか深部深層に於て關聯するものがあると見ていただいて差つかへない。「いづれの國の高山(たかやま)か」といふ風にいふのは、だから、ことさらの設問であつて、實は、作者は、この地方の地理にあらかた通じてゐないわけではない。そらとぼけていふといふのではないが、作詩上の「繪そらごと」といふのは、この邊のところをさすものと、これを見なしていただきたい。それは題意の、實景實事の側にはつかず、寓意比喩の側についてかくいふのである。詩は情をのべるもの、情の眞實を失はなければ、詩としてこのやうなおちゃらつぽこをいふこと、それが許されるといふより、手段としてそれが特に必要だといふことも、ついでに心得ておいてもらつてもよろしからう。
 「あたたかきわれも山路を」は、すなほにいへば、「あたたかき山路をわれも」である。こちらも山中にゐて、彼方に遠き山山を見るのである。語の位置を轉倒したのは、一に語調舌ざはりのためである。この一點、作者はいく度も考へ直し考へ直ししたのをつけ加へておく。讀者にとつてはさもなく、何でもないところに、作者は神經を勞するものである。我れながらをかしいくらゐである。その邊のところを讀みとつていただきたいが、むろんそれは、當方から要求がましく申すべき筋合ひではない。
 この一篇、第三作より後、また數年を隔ててゐる。第一作よりは、二十年ばかりを隔ててゐる。詩の形態、寓意はむろんそれだけ遠く隔たつてゐるが、主題の深部深層に於て、どこやら關聯し、相つながるものがあるやうに考へられる。今日かへり見てこれをいふのである。むろん作者は、各作の間に、その意識を、意識的にちつづけたわけでは決してない。その折々の、情の赴くままに、その折々の作品を書きつづけ、積み重ねたにすぎない。
 伊豆狩野郡湯ヶ島村には、往年梶井基次郞君が病を養つて逗留してゐた。私は度々彼を訪問して、附近の景物に接し、そこいらの山野をさまよひ步いた。ある夏、萩原朔太郞先生に初めてお目にかかつたのも、この山村であつた。伊豆は小國であつて、いく度か旅を重ねる間に、ほぼ一國の地理形勢がのみこめるやうな感じを覺えた。後年出かけることは稀になつたが、「ふるき日の思出」は、いつまでも私の心に巢くつてゐて忘れ難いやうである。それとは格別意識はしないが、そんな風のぐあひである。舊作をかへり見てみると、さういふことも我れながらはじめて氣がつくやうなわけである。
 詩は、意識無意識、二つの世界雙方から成熟し、醞釀されてゆくのが、自然で好ましくはなからうかしら。
 以上、自作に就て、問はず語りにこのやうな雜話を記すのは、私の好まざるところ、讀者に聞き苦しければお許しを願ひたい。問はず語りとはいへ、創元社の命ずるところ、罪は同社の編集室にあるかも知れない。

 

 

三好達治「自作について」(『全集6』所収)