三好達治bot(全文)

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「繰言」「海風」

 深谷君から鄭重なお手紙を貰ひ、今度始める雜誌のために、何か隨筆のやうなもの「靑空」の思出でも書いてみないか、といふお話であるが、學生時代の思出話などするのに、私などまだ十年餘り年が若いやうでもあり、かたがた、好箇の話材も思ひ浮ばない。でも外に思案もないから、やはり同人雜誌に關して、――假に私が、これから雜誌を始めようとする諸君の立場、おつつけ一昔にもなる過去の自分に、もう一度この身を置き直してみるとして、やはり多少の感慨がないでもない、その感慨、後悔と希望とをつきまぜたやうな繰言を語ってみようか。丁度私達が雜誌を始めた時分から、同人雜誌の數は、雨後の筍といふ言葉の通り、急に目茶苦茶に激增した、その大勢は今日までずつと引績いてゐることであらうが、文運まことに目出度い傍ら、その必然の結果として、折角の月々の雜誌を、文壇の先輩も批評家も、あまり心切に顧みてはくれない、なかなか讀んではくれない のである。これは申すまでもなく、同人雜誌の執筆者諸君にとっては、頭痛の種に相違ない、けれども多分、これをどうする手段も方法も見つかるまい、やはりワンサワンサと目白押しに、月々の雜誌を刊行するより外はないであらう。ちと諸君の氣色を損じかねない云ひ分だが、實は諸君も先刻、この間の消息はとくと御存じに相違ない。困ったことだが、しかしそれでいいのである。同人雜誌は、とにかく勉强になるのだから。勉强になるといへば、これ位親身に勉强になる時期は、またと再びあるものではない。月々の雜誌を、文壇から假りに、百分の百の割合で默殺されたとしても、實はちっとも、頭痛にやむには當らないのだ、諸君の佳作傑作が、假りにそのやうな冷遇をうけたとしても、それ位いの割の惡さは、必ずや、一層幸福な結果となって取戾されるであらうから。現在の我國の文學界では、優秀な實力や卓拔した天分が、そのまゝ永らく認められないでゐるやうなことは、殆んど絶對にない、――と云っていいと私は信じてゐる。まことにこれは有がたい次第であるが、實はかうした抵抗の薄弱さは、一國文運のためには決して結構な仕組みではないと、併せて私は信じてさへもゐるのである。このやうな事情であつてみれば、何も先を急いで、折角の樂しい靑春時代を、つまらない焦燥のうちに過すなどといふ、馬鹿氣た法はないのである。大いに潤達な氣持で、將来に希望を繫ぎ、自信をもつてゐていいのである。自信を將来に置くのみではなく、文壇的反響の有無、また世上の流行などに順著せず、それこそ力いつぱい、現在の諸君に、最も緊切な興味で以て、自由な創作に沒頭することなど、張合ひのある歡びは、他に比類がないであらう。

 その時々の、その年齡ごとの、最も立派な果實を結んでゆくこと、これが唯一の心掛けであつていい筈だ。現に例へば、梶井基次郎君の「檸檬」などは、彼が始めて同人雜誌の、第一號に發表されたものである。世間がこの作品をもて囃したのは、それから七八年も後であった。

 私のこの短い文章は、期せずして、何か敎訓めいたものとなつた。それといふのも、私自ら過去を顧みて、日ごろ後悔するところが多いからであらう。さうしてまた諸君のために、或はこの繰言が、何かの役にたつかもしれないと思ひつつ、筆を擱くことにする。最後に云ひそへる、文學をやるのに最も大切な一事は。――やはり健康。

 

 

三好達治「繰言」「海風」第1年1号 (海風發行所・S10.12刊)