三好達治bot(全文)

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「詩碑」

 萩原さんの詩碑が、先日前橋市敷島公園に出來上つたので、その除幕式に參會した。近頃は方々にこの種の詩碑歌碑句碑が建設される。いさゝか流行の體で、少し煩はしいくらゐにも思はれるが、すぐとさう考へるのはどうやら中正を得ないやうにも感じられる。これらの碑碣の類は、それぞれその適宜な時期を得て造營されるのが好ましいであらう。上野から汽車に乘ると、遺兒の葉子さんや、小學三年生のその坊やや、緣邊の方々と乘合せた。この日は先生の十三周忌日に當つてゐて、まづはお目出たいといふのでせうといふ、同車の八木さんのご挨拶であつた。さう、まあ、お目出たいといふのでせう、と私も答えた。少しくお互ひ適切な言葉を得ない風であつた。はつきりお目出たいばかりだけといふのでなくて、それかといつてその反對の何かといふのでもなく、私にもこの經驗ははつであつただけ、うまくはいひ現せない感じが伴つた。私の分だけでいふと、どこやら寂寥の感に似通つたものが胸にあつた。もう一度萩原さんを、いつそう遠い場所に置きかへようとする、さういふ風の意味をもつた儀式にむかつて促されて車を急がせてゐるやうにも考へられた。
 詩碑は、受持ちの役所の方々その他の自讚の言葉のやうに、幕をとり除いて見るとなかなか見ごとであつた。立派すぎるといふのでなく、丁度の重量感があつて、簡素で清潔で、落ちつきがあつた。きりつとした直線の組合せが、年を經ても見あきはしないであらうと思はれた。周圍の松林ともうつりがよく、それがにはか作りの人工を施したものでないだけ、しつくりとして好ましく見えた。要するに上乘の出來であつた。感じは明るかつた。これなら萩原さんに見せてあげても、及第點の以上はあるであらうと思はれた。
 さう思ふと、萩原さんのあの飄々とした散步姿が眼の先に浮かぶやうにも思はれた。そんな空想に耽つてゐると、しかしながら私には次々奇妙な感想が起るのを禁じ得なかつた。市長さんや市會議員の某お婆ちやんの祝辭朗讀を聞きながら、私には始終二重の感想が湧き起つて、私自身としては甚だあいまいな、始末の惡い感じを伴つた。
 生前萩原さんは、こんなことを話されたことがあつた。芥川君は、藝術家は死後の名聲を考へないでは、創作に苦心を拂ふ張合ひがないといふが、死後の名聲、そんなものは僕には三文の値うちもない、云々。たしかに萩原さんはさういふ意味のことをいく度もいはれた。一時の放言ではなく持論であつたといつていい。思ふにそれは、萩原流の(いくらかの氣負つた)破壞的反時流的の主張持論であつて、主張そのものをまに受けるよりは、さういふ言辭口吻に自ら耽つていささか陶醉加減な點をこそ感受すべき意氣ぐあひの說であつた、といひ足しておく要があるであらう。芥川式にではなくとも、萩原は萩原式に、彼の創作に苦心を拂つて周密であつたことは、そのある時期の夥しい書きほぐし草稿の今日殘つてゐるものによつて明らかであるから、萩原は萩原式に死後の名聲を(意識的にはともかく)計算に充分入れてゐたといふのでなくては、あの極度の熱中細心さの說明はつかないであらう、といふことにもなるであらう。私どもは、萩原さんの持論の重點を少し く言辭の表面からは置き換へて受とる必要が屢々あるといふこと。――しかしながら、なほその上に、三文の値うちもない、といはれたのは、そのまま文字通りに萩原さんの思想であつたといふこと、それもまた私にははつきりとした事實として考へられる。詩碑のやうなものができて、晴々しい除幕式の行はれるのは、萩原さんにとつては、萩原さんの人格の重要なある部分にとつては、もともと風馬牛のよそよそしい出來事のやうにも考へられるのである。誰れの場合も、死後の行事はすべて死者に關聯しないが、この際はその上いくらか矛盾的意味合ひさへ感じられるやうなぐあひである。詩碑に刻すべき詩句の撰擇にも、通常の場合以上にひと骨折れたのは、もともと理由のないことではなかつた。伊藤信吉君がまづまづうまいぐあひに撰擇した、碑面の銅板の辭句は次のやうな數行である。

 

  わが故鄕に歸れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽笛は闇に吠え叫び
  火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。

 

 最後の一行を卒然と見る人は、萩原さんに思鄕の念の急なるもののあつたやうに受けとるかも知れないけれども、事實はそれとも少しく相違するのである。詩集『氷島』中の一章「歸鄕」と題するこの作の、省略された部分は次のやうに進行するのである。

 

  夜汽車の仄暗き車燈の影に
  母なき子供等は眠り泣き
  ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
  鳴呼また都を逃れ來て
  何所(いづこ)の家鄕に行かむとするぞ。
  過去は寂寥の谷に連なり
  未來は絕望の岸に向へり。
  砂礫(されき)の如き人生かな!
  われ旣に勇氣おとろへ
  暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
  いかんぞ故鄕に獨り歸り
  さびしくまた利根川の岸に立たんや。
  汽車は曠野を走り行き
  自然の荒寥たる意志の彼岸に
  人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

 

 碑面の打切りは當を得たといふべきであつて、同時に少しく彌縫的でもあつたといひ添へないと正しくない。それはやむを得なかつたのであつて、以前伊藤君から相談をうけた際にも、問題の困難なのはすぐと私に領解ができた。「鄕土望景詩」では困るだらうからねといふと、伊藤もうなづいて苦笑をもらした。祝辭の朗讀中、「深く鄕土を愛したわれらの詩人云々」といふ風の語が聞きとられたが、それは假そめの美辭麗句といふものにちかかつた。萩原さんには上州の風土を愛してゐられた樣子はない。自然や鄕里や、そこに見る季節や風景への、普通人のもつ愛着はあの人の書かれたものにも談話にも、見當らないし承つた記憶もない。その反對のものなら、たやすくいくらも見つかるだらうけれども。
 要するに、しかしながら私は詩碑の建設にケチをつける者でも不滿を覺える者でも決してない。あれほど高名な特異な偉大な詩人を、鄕里の市民がたとへ單なるお國自慢に似通つた心情に於てでも何かの形で表彰し記念しようとするのは、それも自然で、もしかするとこのささやかなモニュマンは、旅人やこの町の靑年たちに萩原文學への恰好な機緣を結ぶよすがとならうかとも考へられる。ドナルド・キーンさんは日本全國到るところ歌碑や句碑を見るのをけげんなことといふが(『紅毛奧の細道』)、さうはいはれても私ならこれを必ずしも不結構な風俗とは考へない。ただ萩原さんの場合、あの人の人格が、だいたいこの風俗に丁度でなく重要な點ではみ出してゐる、――私が先にいくらか矛盾的意味合ひさへ感じられるといつたもののあるのを、考へ併せて、私には二重の感想の交錯するのを禁じがたい、それを記しておくまでである。
 それはともあれ、私の感じだけでいふと、私どもが大正末期昭和初年頃にそれを讀み耽つたやうな風には、萩原さんの敍情詩その他が當節の靑年たちに受とられてゐるかどうか、時代的なこの變遷にも意外なもののありさうなふしが少くない。さういふ頃あひになつて、この度の建碑のやうな社會化の一つの現象を見るのは、奇異なやうでもありそれがまた自然なやうにも思へる。あれこれ思ひ併せると、萩原朔太郞といふ一箇の存在が、今後もさまざまな變遷を經るであらうことだけはまちがひなくたしかに推測される。
 附たしとして私の希望をいふと、さまざまな理由で、完本ともならず全集にも編入されなかつた(それが不可能であつた)先生の草稿の類、書きほごしや未定稿、判讀のできない程度のものまで、以上現存のものをとりまとめて前橋の市立圖書館にでも保存していただきたいといふこと。お世話でも建碑と併せてこれをお願ひしたい。遺族たちの手にあつてもたやすく散逸しさうに見うけられるからこれをお願ひしたい。異常な天才はそれぞれの時代にそれぞれの意味を生じ來るであらうから、今日さまでとも思はれないものまで保存していただきたい。これをいふのは必ずや望蜀といふのであるまい。

 

 

三好達治「詩碑」(『全集5』所収)