三好達治bot(全文)

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「牛島の藤」

 地名の糟壁(かすかべ)というのは、なんだか洒落(しゃれ)た字面(じづら)のようにわたしは考えていたところ、ちかごろはこれが春日部と改められたようである。前者には雅趣があり、後者はただの平凡と思うのは、わたしのつむじ曲がりであろうか。そうかな。時世の変遷はこんな用字の一端にもあらわれて、どうやらわたしなどには受け取りにくい方向に移ってゆくらしい。それはともかく、箪笥屋(たんすや)さんの多い、その春日部の町を少し離れたところに、通称を牛島(うしじま)という一劃(いっかく)があって、そこに樹齢千年に近い古藤(ことう)がある。ただいまはだれやらの私邸内にとりかこまれているが、花どきのあいだは開放されて邸内に茶店なども出ているから、塩せんべいにビールなど傾けながら見物することができる。むろん天然記念物になっていて、樹勢はいまだ旺盛(おうせい)であるから、この先のこともまずわたし自身が心配することはない。開花のころには注意を怠らないでいると、新聞の片隅に至極簡単な消息ぐらいは出る。今年もそれを心待ちにわたしは待っているのである。桜のお花見は、いずこも同じ人出なのに辟易(へきえき)するのが例だけれども、牛島の藤(ふじ)はどういうものかそれほどの人出を見ない。それがまたありがたい。
 わたしは老樹を見るのが好きである。松杉欅(けやき)その他、亭々(ていてい)たる梢(こずえ)を仰ぎ見るのは、心気の遠くなるような感じがあって、気持ちの落ちつくものである。黙然(もくぜん)と対していると襟もとを正したいような思いもする。先年喪(うしな)った老母の上を、しぜんと回想しているようなことにもなる。命の久しく永いことは、そのことだけで尊敬に値する理由はないようなものだけれども、鬱然(うつぜん)たる老樹を見ているとしぜんと一種敬虔(けいけん)な気持を覚えるのをわたしはつねとしている。
 「牛島の藤」はその季節に美しい花をつける。上できの年には花房のたけは一メートルにもおよぶ。昨年は八十センチばかりでやや不作であったが、一昨年はたしかに一メートルに余る好成績であった。架け棚はテニスコート二つぶんくらいの面積である。その天井から揃(そろ)って豊かに垂れ下ったメートルまりの藤波は、あれはどうしてもあの濃紫(こいむらさき)でなければならない約束の納得のゆく美しさであった。虚空(こくう)にかけた美の洪水、とでも称していい、ふんだんなしっくりと落ちついた比類のない、壮観であった。
 「牛島」というのは、あの古藤にふさわしい、古樸(こぼく)な地名のようにわたしは覚える。春日部流儀にこの先も改字などしないがいいといい添えておこう。

 

 

三好達治「牛島の藤」

中野孝次編『三好達治随筆集』岩波文庫、1990年1月16日)