「狼」『駱駝の瘤にまたがつて』
ああこはかつた!
少女は私の膝に飛び込んできて、兩手でおほつた顏を私の膝にうづめながら、
ああこはかつた!
とくりかへした。つめたいからだをこはばらせて、みなし子のやうな、瘦せた肩で息をしてゐる。私は父親のやうな氣持になつて、兩手を彼女の背中においた。
ああこはかつたの、ほんとにこはかつたわ、いきなり狼に出會つたのよ、山で。
山には狼がゐたのかい。
金いろの眼の、まつ靑な毛並の、脚なんか宙にういて、火のやうな口からまつ赤な舌が燃えたつて、尻尾は…… 尻尾は風のやうだつたわ、ああこはかつた、いきなり叢からとび出してきたの、あの狼。
ああ、ああ。
と私はすなほな聽き手になつてうなづいた。
私はひとりで山へいつたの、お友達なんかないものね、ひとりでどんどん山の奧へ入つていつたわ。さんぽにいつたの、歌をうたつて。
ひとりで、歌をうたつて、そんな山奧へ……
ええ、いつでもさうよ、そしたら、そしたらね、金いろの眼の、まつ靑な毛並の……
狼が……
いきなり叢から、私、氣がつくと、もう眼の前に、鼻の先に、きてゐたわ。
焰の中に、燃えたつて、ね、靑い毛なみに火がついて、樂浪の、壁畫の中からぬけてきて、ね、あの繪のやうに、脚はもう、宙に浮いて、肩から大きな翼が生えて……、まつ赤な舌がまきあがつて……
私はさうひとりで先をつづけながら、少女の顔をのぞきこんだ。少女はもう、私の膝から顏をあげて、いつの間にか、私の肩にもたれてゐた。
ああこはかつた。ほんとにこはかつたの、私、後をも見ずにとんで歸つたわ、いちもくさん、いちもくさん、膝がもつれて、息がきれても、ほんとに後をも見ずにとんで來たわ、ああこはかつた、こはかつたわ……
こはかつたね、あの狼……
つて、おぢさん、あの狼、おぢさんも、ごぞんじ、山で、おあひになつて……
いいや、おぢさんは、山ではあはない。
私はなぜかうなだれてさう答へた。少女は全身で、その時、私の肩にもたれかかつてきた、いつも私の娘がするやうに。――どうやらこれは夢のやうだと、心の隅で、私はいくらか悟りはじめた。けれども私はかう答えた。
おぢさんは、おぢさんはね、山でぢゃ、ないんだ、でもおぢさんは、その狼なら、見たことがある、東京の、街の、まんなかで、銀座通りの、電車路で。
夢はそこでさめた。少女の言葉は、まだ私の耳にのこつてゐた。
……………
三好達治「狼」『駱駝の瘤にまたがつて』(S27.3刊)