三好達治bot(全文)

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「私の耳は聞いてゐる」『百たびののち』

ああ最後に 私の耳は聞いてゐる 極北の海の けふも大きな怒りをもたらして轟くのを
私には何も見えない 見えないけれども と彼は呟いた
何ごとの囘想にふけつてゐるのか 五萬年も古い人間の歷史よ
汝の貪慾に 汝はなほもあきないか
かく彼は呟いて 乏しい日ざしから腰をあげた
獨り者の 宿なしの 盲目の詩人が旅路のはてに
人の住まないツンドラの野をうしろにして
さうして耳を傾けた
ごめの歌 千鳥のつれ鳴き
怒りのすゑにそこにきて打ち上げる波浪の嘆息 小石のささやき
ああこんな日には 空には白い雲が流れてゐるだらう
めあてのない牧場(まきば)をもとめて なほ北方を指してゆく羊雲
五萬年の歷史は もの足りない束の間だつたか
汝の貪慾をすりへらすのに かく呟いて
彼は靜かに腰をあげた
さうして行き方知れずになつてしまつた
彼もまた天空一片の浮き雲のやうな人格だつた
(——つい先日の出來事である)
ごめの歌 千鳥のつれ鳴き 小石のささやき
耳ある者は聽け………
そのあとに無心の聲 無限の時が何を語るか

 

 

三好達治「私の耳は聞いてゐる」『百たびののち』(S50.7刊)