三好達治bot(全文)

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「砂上」『百たびののち』

むしやうにじやれつく仔羊どもにとりまかれて
お前のからだのはんぶんもある重たい乳房を含ませながら
うるさげに不精げに退屈げにけれども氣ながに――
お前はお前で何かを遠くに眺めてゐる牝羊
よごれてやつれていくらか老人めいて足もともたよりなげに
考へごとがあるでもあるまいそんな風つきでもつて分別げに
遠くの方を眺めてゐる牝羊よ
去年の草は枯れたきりまだ新しい綠は萌えない丘の上から
そこからは遠くに灰色の海が見える
風には粉雪が舞つてゐる
冬のをはり春といふ……
春といふちらちら雪は風にまぎれてあともないこんな陽ざしに
灰色の海はしきりに遠くの方で起ちあがらうとする
海は白い齒なみを見せて無限を嚙む 己(おの)れを嚙む 巖を嚥みこむ
あすこの斷崖(きりぎし)には白い飛沫がうちあがる
牝羊よ
それを見てゐるのはお前と私だ
何ごとの豫感であらう
かしこには何ごとがあるのだらう
ああこのつまらぬ丘の上からお前と私とから遠いかしこには――
お前はまたたき 私は耳をかたむけるが
お前とおなじく私が何を知つてゐよう
私どもは實は何も知らないのだ
もしかするとこのつつましい幸福は今日かぎりかとも思はれる
明日は惡魔の一匹が可愛いお前の腕白どもをさらつてゆくかもしれないのだ
いつもお前ももろともに
ああそのこんな丘の上でうるさくぢやれつく腕白どもをひとしきりお前は額であしらつてゐる
そんな無邪氣な力くらべそれすら何だか淚ぐましいくらゐのものだ
ああその戲ればかりではあるまい いまこの脆げな危かしい砂の上からすべり落ちようとするのは
げにげに一つのやさしい感情は永遠にいつもかうしてうけつがれるのか
この風景の上に見るお前の大きな重たい乳房は……

 

 

三好達治「落ち葉つきて」『百たびののち』(S50.7刊)