「月半輪」『駱駝の瘤にまたがつて拾遺』
月半輪、無風、航路燈、海は鏡のやうだ。私は疲れて町から歸つてきた。風景は藍碧、在るものはみな牛のやうにまつ黑だ。虛無、幽玄。
私はしばらく砂の上に腰を下ろしてゐた。
舷燈さみしく、沖を渡る發動機船。遠い闇から港にかへつてくるその音、正しい鼓動、脈搏、夜は大きな生き物だ。星のない暗い空と、朧ろな半月、鏡のやうな海。
私はしばらく理由もない感動(?)に沈んでゐた。この感動は何だらう。
彼方に一切の幸福をうしなつて、私は疲れて町から歸つてきた。幸福、ああかの私の夢見た幸福。
知れ、かしこにありしもの、あるべかりしものの實體だ、如何に、すべてこの夜のささやきは。
勇氣を要󠄁す。勇氣を要󠄁す。さらば起つて夜景の奧に步み入れ、汝!
三好達治「月半輪」『駱駝の瘤にまたがつて拾遺』(『全集3』所収)