「いただきに煙をあげて」『駱駝の瘤にまたがつて』
いただきに煙をあげて――
いただきに煙をあげて走つてくる大きな波
ああこの沖の方から惡夢のやうに額をおしつけてくる獸ものたち
起ち上り起ち上り 起ち上り
まつ暗な重たい空の重壓から無限におしよせてくる意志 厖大な獸ものの頭蓋
さうしてその碎け飛ぶ
束の間の丘陵とまたその谿間と
遠く遠くはてしない闇黑の四方に飜り揉みあふこゑ
いただきに煙をあげて 煙をあげて走つてくる大きな波
起ち上り起ち上り 起ち上る
まつしろなその穗がしら――
ながい時間のあひだ私の見つめてゐた
ああこの一つの展望から さやうなら 今はもう私のたち去る時だ
私の精神の上に 苦しく懷しい季節はかくして通りすぎた ――然り私はもうこの岩礁の上からたち去るだらう
ふたたびここに歸る時なく
飛沫にぬれた外套の中に凍りながら
彼方に促されてたち去るだらう
心ももと 自由ではない
――駒鳥も冬はうたはぬ
かくして彼方に遠のいてゆく遠雷のやうな海鳴りの上に
私はふたたび人の名を呼ばないでせう
三好達治「いただきに煙をあげて」『駱駝の瘤にまたがつて』(S27.3刊)