「曲浦吟」『羈旅十歳』
鷄鳴のこゑはるかなる
わがすまふ町はかなたに
波の上に夜明けそめたり
炊煙は白くたたずみ
靑霞み木の間になびく
をちかたは風起こるらし
たまくしげ函嶺の山に
よべの雲やうやく動く
勢ひのはやからんとす
なか空にとぶ鷗どり
川口にしら波たちて
橋わたる三輪車見ゆ
すなどりをすとて漕ぎいでし
わたつみのゆたのたゆたに
たゆたひつ舳(へ)にゐてみれば
靑波にたちまちかくる
あなちひさ町の聚落(じゅらく)の
いづこかに我が家は見えず
かしこなるわがなりはいの
なにはなくひとごとめきて
いまははた嘆ぜらるるに
折からや鳴りとよもしぬ
かの丘のふる寺の鐘
扁舟のかたむく空に
三好達治「曲浦吟」『覊旅十歲』(S17.6刊)