三好達治bot(全文)

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「とある小徑」『霾』

 そこには甍のゆるんだ低い築地がつづいてゐる。そのむかうに枝ぶりのいい柿の木が一本たつてゐる。それは晝すぎらしい時刻の、とある小徑のとある一劃である。――はてどこだつたかしら、どこだつただらう、とにかくこんなにはつきり記憶に殘つてゐるのが不思議である。まるで杖をあげてその路の面の小石の一つを敲いてみることもできるやうに思はれる。それだのにそれがどこであつたかはいつこうに思ひ出せない。
 私はいま、燈火を消した蚊帳の中で眠らうとしてゐる。
 どこだつたらう、いつの日、いづこにて見し路のくま、はて……。しかしそれは思ひ出せなくてもいいのである。私はただかうして、その幻しのつづいてゐる間、このまなかいのくう の空なるその空間スペース を眺めてゐればいいのである。それは別段とりたててどこに秀れた趣のある景色でもないが、私の趣味にあつた眺めである。私はそれをいつまでもかうして眺めてゐるのは決して厭でない。けれども、けれどもただそれを眺めてゐる私の氣持は理由もなくうら悲しい。なぜだらう。
 私は睡つてゐるのではない。とこ の下で啼いてゐる蟋蟀の聲も私の耳には聞えてゐる。
 私は夢を見てゐるのではない。それならこの譯もない悲しさは何だらう。それには理由がなくてはならない。それはすぐ手近なところにあるらしい感じがする。少し妙である。それがやはりはつきりとは解らない。もちろんそれが私の幻しと結びついてゐるのはいふまでもない。それで私はそれにむかつて私の仕方で問ひかける。


   築地あり
   柿の木あり
   いつの日
   いづこにて見し路のくま
   …………
   …………
   いまははや
   過ぎし日はかくも遠きか
   …………
   …………
   われまた千里を旅ゆきて
   かの小徑をふたたびは步むとも
   …………
   …………
   いかに
   そはただ
   わが愁ひを
   あたらしくするのみなるか


 私の問ひかけは、こんな風に、それもやはりどうもうまくは行かないうちに、やがて、私の幻しは、間もなくそれが消え去る前の、短い時間の、最も繊細な、最もブリリヤントとな、最も印象的なものとなる。私は少しもどかしい。はてさて、それはいつか遠いどこかの村里で、かつて私の眼にした、古い記憶の一頁、果してそのアルバムの忘れ去られた一頁だらうか。それともこれは私の盲膜のただ空の空なる戯れの幻影だらうか。それすら私には確かな判斷は下しがたい。私はそれをその何れかと決めようとして決めかねる、無駄な思案だ、どちらでもいいではないか、私はさうも自分にいつてきかせながら、依然として、理由のない――理由のわからないさきほどの悲しみを、我れながら訝らないではゐられない。さうして私は、たうとう混亂に陷ちてしまふ。
 睡りの國はまだ私には遠いのである。勝手の方で鼠が何かを覆す……。
 旣に私の幻しは混亂して、そのカルタの城は崩れてしまつた。それは全く雲散霧消して空無に歸した。さうしてそれにも拘らず、その幻しの醸しだした悲しみばかりが、不思議な後味としていつまでも私に殘される。故もないうら悲しさ、私は眞暗な蚊帳の中で、暫くそれに身を任せてゐるより外に仕方もない。あの美しい、あの平和な、あの何でもない平凡な風景が、なぜこんなに私の睡眠を妨げようとするのだらう。
 ああそれは、覊旅漂泊の幽靈だらうか、ただに――。

 

 

三好達治「とある小徑」『霾』(S14.4刊『春の岬: 詩集』所収)