「パン」『測量船』
パンをつれて、愛犬のパンザをつれて
私は曇り日の海へ行く
パン、脚の短い私のサンチョパンザよ
どうしたんだ、どうしてそんなに
パン、これが海だ
海がお前に樂しいか、それとも情けないのか
パン、海と私とは肖てゐるか
肖てゐると思ふなら、もう一度嚏をしてみろ
パンはあちらへ行つた、そして首をふつて嚏をした
木立の中の扶養院から、ラディオの喘息持ちのお談議が聞える
私は崖に立つて、
海、古い小さな海よ、人はお前に身を投げる、私はお前を眺めてゐる
追憶は歸つてくるか、雲と雲との間から
恐らくは萬事休矣、かうして歌も種切れだ
汽船が滑つてゆく、汽船が流れてゆく
艫を見せて、それは私の帽子のやうだ
私は帽子をま深にする
さあ歸らう、パン
私のサンチョパンザよ、お前のその短い脚で、もつと貴族的に步くのだ
さうだ首をあげて、さう尻尾もあげて
あわてものの蟹が、運河の水門から滑つて落ちた
その水音が氣に入つた、――腹をたてるな、パン、あれが批評だよ
三好達治「パン」『測量船』(S5.12刊)