三好達治bot(全文)

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「春の日の感想」『砂の砦』

庭に出て樂々と膝をのばさう
艸の上にでて疲れた脚をなげださう
ながいながい冬の日の後に來た
このゆるやかな感情
この暖かい陽ざし
この新らしい季節の贈ものをからだいつぱい
いそいでからだいつぱいにうけとらう
さうしてこのうち烟つた野山の間に
われらの心を獸もののやうに解き放たう
芝生の上でわれらの猫がするやうに
今日はお天道さまの誕生日
君ら若い娘たちも自由の姿勢で
いくらか行儀をわるくしよう
さうしてみんなで飾りけのない話をしよう
それが季節の禮儀にかなふやりかただ

 

春はなんと樂しいのだろう
地球はなんとゆるやかにめぐることだらう
不幸なながい闇夜のやうな戰爭の日は去つた
われらの額から惡魔の鐡の爪は去つた
われら今はかなしい敗北の日にあるが
今日古艸の上に坐つて
われらの前にそそがれる
一碗の茶の
なんと香ばしいことだらう

 

かくて新らしい季節ははじまつた
かくて新らしい出發の帆布は高くかかげられた
人はいふ 日の下に新らしきなし
われらはこたふ 日の下に古きこそなし

 

ゆるやかに白い雲の飛ぶ
春の日はしぼりたての牛乳のやうだ
まつ靑な空の下で
輝く海に降される新裝のヨットのやうだ
ああその舟降ろしの歌ごゑがとほくどこかから聞こえてくるやうだ
われらの耳を地面の方に近よせよう
その歌ごゑはまた地面の底の方からもはるかに聞こえてくるやうだ

 

時は再びかへらない
今日は再びかへらない
われらまたこの春の日を再び愛する時はない
怠け者のわれらの猫も
何か思いあまつた風で庭の地面をかいでみる
そこには萌えでたばかりのほろにがい艸の匂ひがある
弱々しげなすずしく細い艸の根の
白々とした
あはれに一途なよろこびとかなしみとがそこにかくれてゐる
それが今日の命だ
昨日を暗いうしろにすてて
明日の日を前方に夢みる今日の命だ
われらまたくろぐろとしてやはらかい
しつとりと水氣(すゐき)をふくんだ土の上に
氣まぐれなわれらの指さきで山や魚の繪をかいてみよう
いたづら好きなわれらの指さきでもつて
大地に文字をかいてみよう
さうだここにこの地球の上に文字を書いてみよう
それらがわれらの詩だ
それがわれらの歷史だ
それが人間のなしうることの一切だ

 

ああ春はわれらの呼吸をふかくし
春はわれらの心をふかくする
ながいながい冬の日の不如意の後で
堅い氷をおし破つて歸つてくる春の日は
われらの心をのびのびと
今日の烟つた野山の間へ
天の一方へ解き放つ
まだ歌うたふ日ではない小鳥たちも
枯木のままの枝の間で
なんと活潑な羽ばたきをすることだらう
われらみな芝生の上で
われらみなめいめいの夢をみながら
われらの心もまた
やがて明日は歌うたふ前の羽ばたきをしよう

 

 

三好達治「春の日の感想」『砂の砦』(S21.7刊)