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「池のほとりに柿の木あり」『故郷の花』

池のほとりに柿の木あり
幹かたむきて水ふりし堤のうへを
ゆきかよふ路もなつかし
艸靑き小徑の彼方
松高く築地は低き學び舍(や)に
われは年ごろ何ごとを學びたりけん
今は記(おぼ)えず
なべては時の死の箒(ははき)ははき消しゆく
をちかたのあとなきにただ
それさへやはやおぼろめく
師の君のおん影すがた……
額(ぬか)ひろく顎しじまり
髭みじかく
顏(かんばせつぶらにかがやきて
形やや辣韭(らつきょう)に似たまひき
おん聲は泉の如くすずしかりけり
四季つねに紺の詰襟折目たち
手に細き鞭一枝たづさへ給いき
ああわれはいま遠く消えゆくオルガンの聲に耳かすごとく
君がおん名のおのづから唇にのぼり來るをなつかしむ
君は一と日命を得て
故鄕丹波の國なにがしの郡(こほり)にしりぞき給ふとて
その日空晴れ雲飛びて陽ざし明るき教壇ゆ
ゆくりなき言葉かたちをいぶかしむ童(わらは)が耳に
霹靂(へきれき)の言(こと)をのらしぬ
はた壇を下り給ひてねんごろに
こはまみあげて聲もなき童が肩に手をおかし
つばらかに別辭(わかれごと)のらし給ひぬ
歔欷(きよき)のこゑ室(しつ)に滿ちたり
日頃はおそき春の日のひと時は束の間なりき
さらばとて君扉(と)を排し給ふとき
つと起ちてそは一たびただ一たび
鋭(と)ごゑに君が名を呼びしをみな子ありき
その聲のなほわが耳にのこれるよ
思ふにわれはかかる日に
さだめなき人の世の繪物語のひとしをり
げにあはれもふかくゆかしきを學びたりけん
かくてわれ人の世の半ばをすぎぬ――
ただ願はくばけふの日もふるさとの郡の村に
さきくいませとのみまつる
かの君やいまはたいかに老い給ひけん

 

 

三好達治「池のほとりに柿の木あり」『故鄕の花』(S21.4刊)