三好達治bot(全文)

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「出發」『駱駝の瘤にまたがつて』

 まんとの袖をひるがへし、夕陽の赤い驛前をいそぐ時、海のやうに襲つてくる一つの感情は甘くして、またその潮水のやうに苦がい。人はみな己れの影をおふてゆく、このひからびた砂礫の上に、彼方に遠く疲れた雄鷄の鳴く日暮れ時、私の見るのは一つの印象、谿間をへだてた谺のやうに、うすれゆく印象の呼びかへしだ。
 出發、――永い間私はこの出發を用意してゐた。私は今日この住みふるした私の町を出てゆきます。今その切迫した時間に驅けつける旅人、ぼろタクシーの間を縫つて、彼方に汽笛の叫びをきく時。
 空しく過ぎた歲月を越え、やくざな一切の記憶を越えて、ああまたあのなつかしい一体の人格は、まぼろしのやうに私の前をゆきすぎる。けれどもあなたはどこに往つてしまはれたか。あなたの住いをどこにたづねていいのでせう。忘却は、虛無は、かくして平板な明け暮れは、空しく四方から海のやうに襲つてくる時に。
 出發、出發、私の列車はもうあすこのプラットフォームに入りました。かしこにけたたましくベルは鳴り、かしこに機關の重壓は軋り出ようとする。
 出發。
 この人ごみの間にあつて、私はひとり希望もなく、膝においた鞄の上にうなだれて、彼方にさみしいシグナルのかげを旅立つでせう。これらの群衆と一つ列車にのりくみながら、けれども私は彼らと異る方角へ、一人の孤獨な旅人として。
 出發……、出發……。
 いまはとらへどころもない、あなたのなつかしい人格が、――かの一つ星が、高く萬物の上に輝きでる時に、遠く遠く、あなたのかへらぬ弟子として。

 

 

三好達治「出發」『駱駝の瘤にまたがつて』(S27.3刊)