「南の海」『一点鐘』
あの濱邉へ行つて、もう一度あの空の色が見たいものだ、――折にふれて、私はよくさう思ふ。
その空の色は、剃刀などの刄を合せる
その小松林の小徑をゆき、濱晝顏の花のしぼんだ雜草の上に腰を下ろして、私と私の友人とは、それからやがてとつぷりと日が暮れて、紀伊も淡路も、鷗の群れも初更の闇に消えてしまふまで、さうしてこの浦曲に泊てた和船の一つに炊爨の火であらう、あかあかと榾火の燃え上るのが物語りめいて水の面に映る頃まで、私達は、――私達は語り合つた。何に就て語り合つたのか今ではもう、すつかりそれは忘れてしまつた。肉親に就て、故鄕に就て、神に就て語り合つたことでもあらう、それはすつかり忘れてしまつた。ただ潮風にぬれて、麥藁帽子のしほれるまで私達は語り合つた、その胸いつぱいの氣持だけは今になほ、時たま私はそれを思ひ起す。
しかしそれから時がたつて、私は老い、私は變つた。あの樂しかつた夏のひと日を、私の過去の日と、ともすれば私は信じかねる、信じかねる。――。噫、あはれな私になつてしまつた。
三好達治「南の海」『一點鐘』(S16.10刊)