「蝉」『艸千里』
蟬といふ滑車がある。井戸の
今年五月十日、私は初めて、私の住む草舎の前の松林に、ひと聲蟬の鳴き出る聲を聞いた。折から空いちめんの薄雲が破れて、初夏といふにはまだ早い暮春の陽ざしが、こぼれるやうに斜めに林に落ちてきた、私はそれに氣をとられて讀んでゐた本を机の上に置かうとしてうなじを上げた、その時であつた、天上の重い扉が軋るやうに、ぎいいとひと聲、參差として松の梢の入組んだとある方に、珍らしや、ただひと聲あの懷かしい聲を風の間に放つものがあつた。
蟬! 新らしい季節の扉を押し開く者!
私がさうひそかに彼に呼びかけた時、空は再び灰色雲に閉ざされた。さうして蟬はその日はそのまま鳴かなかつた。三日ばかりうすら寒い日がつづいた。蟬はまた四日目の朝、同じやうに雲の斷れ目をちらりと零れ落ちる陽ざしに、いそいで應へかへすやうに、あのおしやべりの彼がしかし控へ目に、おづおづと、短い聲でぎいと鳴いた。さうしてひと息ついてもう一度念を押すやうにぎいいと鳴いた。それは何か重たいものを强い
私の祖母は蟬のことをセビセビと云つた。
――ああ、セビセビが喧ましくつてねられやしない……
晝寐の夢をこの騷々しい連中に妨げられて、そんな不平をこぼしてゐたのもまだつい昨日のやうである。私は丁度今時分の頃になつて、每年蟬の聲を聞きとめた最初の日に、きまつて祖母のことを思ひ出す、それからあのセビセビといふ妙な言葉を。
蟬が鳴いてゐる。蟬はその後ひきつづいて每日鳴いてゐる。そして今日は六月朔日である。私は今日外から歸つてきて、松林の丘を登りながら、その小徑の踏段の一つに、まつ黑に集つた數百匹の蟻によつて運ばれてゐる、小さな蟬の
三好達治「蟬」『艸千里』(S14.7刊)