三好達治bot(全文)

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「廃馬」『艸千里』

 遠く砲聲が轟ゐてゐる。聲もなく降りつづく雨の中に、遠く微かに、重砲の聲が轟ゐてゐる。一發また一發、間遠な間隔をおいて、漠然とした方角から、それは十里も向うから聞こえてくる。灰一色の空の下に、それは今朝から、いやそれは昨日からつづいゐる。雨は十日も降つてゐる。廣袤無限の平野の上に、雨は蕭々と降りつづいてゐる。
 ここは泥濘ぬかるみの路である。たわわに稔つた水田の間を、路はまつ直ぐ走つてゐる。黃熟した稻の穗は、空しく收穫の時期を逸して、風に打たれて旣に向き向きに仆れてゐる。見渡すかぎり路の左右にうちつづいた、その黃金色のほのかな反射の明るみは、密雲にとざされたこの日の太陽が、はや空の高みを渡り了つて吊瓶落しに落ちてゆく。午後の時刻を示してゐる。
 今ここに一頭の馬――癈馬が佇んでゐる。それは癈馬、すつかり馬具を取除かれて路の上に抛り出された廢馬である。それは蹄を泥に沒してきよとんとそこに立つてゐる。それは今うな埀れた馬首を南の方へ向けてゐる。恐らくそれは北の方から、今朝(それとも昨日……)この路の上を一群の仲間と共に南に向つて進軍をつづけてきたものであらう。さうしてここで、その重い軛から解き放たれて、
 ――たうたうこいつも駄目になつた、いいから棄てて行け。
 そんな言葉と一緒に、今彼の立つてゐるその泥濘の上に、すつかり裸にされた上で抛り出されたものであらう。そうして間もなく、その時まで彼もまたその一員だつたその一隊の軍隊は、再び南の方へと進軍を起して、やがて遠く彼の視界を越えて地平に沒し去つたのであらう。
 激しい掛聲も、容赦ない柏車も鞭打ちも、つひに彼を勵まし促し立てることの出來なくなつた時、彼はここに棄てられたのである。彼にも休息が與へられた。そうして最後に休息の與へられたその位置に、彼はいつまでも南を向いて立つてゐる、立ちつくしてゐる。尻尾一つ動かさうとするでもなく、ただぐつたりと頭を垂れて。
 見給へ、その高く聳えた腰骨を、露わはな助骨を、無慙な鞍傷を。膝のあたりを縛つた繃帶にも既に黝ずんだ血糊がにじんでいるではないか。
 たまたまそこへ一臺の自動車が通りかかつた。自動車はしきりに警笛の音をたてた。彼はそれにも無關心で、車の行手に立ち塞がつたまま、ただその視線の落ちたところの路面をじつと見つめていた。車はしずかに彼をよけて通りすぎなければならなかつた。
 廣漠とした平野の中の、彼はそうしていつまでも立ちつくしていた。勿論彼のためには飢えを滿すべき一束の枯草も、風雨を避くべき厩舎もない。それらのものが今彼に與えられたところで、もはやそれが何ならう、彼には既に食慾もなく、いたわるべき感覺もなくなつているに違いない。
 それは既に馬ではなかつた。ドラクロアの「病馬」よりも一層怪奇な姿をした、くぐつより雨に濡れたこの生き物は。この泥まみれの生き物は、生あるものの一切の意志を喪いつくして、そうしてこのことによつて、影の影なるものの一種森嚴な、神祕的な姿で、そこに淋しく佇んでいた。それは既に馬ではなかつた。その覺束ない脚の上にわずかに自らを支えている、この憐れな、孤獨な、平野の中の點景物は。
 折からまた二十人ばかりの小部隊が彼の傍らを過ぎていつた。兵士達は彼の上に軍帽のかげから憐憫の一瞥を投げ、何か短い言葉を口の中で呟いて、そうしてそのまま彼を見捨てて、もう一度彼の姿をふりかえろうともせず、蕭然と雨の中を進んでいた。
 雨は聲もなく降りつづいている。小止みもなく、雨は十日も降つている。
 やがて時が來るだろう、その傷ついた膝を、その虔ましい困憊しきつた兩膝を泥の上に跪いて、そうして彼がその勞苦から彼自身をとり戻して、最後の憩いに就く時がやがて間もなく來るだろう。
 遠く重砲の音、近く流彈の聲。

 

 

三好達治「廢馬」『艸千里』(S14.7刊)