三好達治bot(全文)

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「鴉」『霾』

 一日、私は窓外の築地の甍に、索索たる彼の跫音を聽いた。塵に曇つた玻璃窓の眞近に、彼は一羽、さも大事の使者のやうに注意深く、けれども何の臆面もなく降りたつてゐた。さも惶だしげに、けれどもまたさも所在なげに、彼は左右を顧み、わづかに場所を移り、さかしらで浮浪者染みた、その迂闊な、圓頂緇衣の法體を暫らくそこに憩はせてゐるのである、それは私にとつて、折から思ひがけない訪問者であつた。私は彼をもてなすすべはない。私はただ呼吸いきを殺して、彼の樣子を窺つてゐた。何か故あつて、恰も彼がこの窓を撰んで降りたつたかのやうに、ひそかに窓を隔てて、私はただ、その暫らくを貴重なものに感じてゐたのである。彼の肩に、太陽が光つてゐる。ふと彼は空を仰ぐ。彼は向きを更へる。彼はまた甍を飛ぶ。私に就ては、何の懸念もしてゐない……。
 けれども時旣に去つた。つと、この訪問者は、肩胛骨のあたりに音をたてて、羽風を殘して去つてしまつた。殘された私は、虛ろになつた心にひとり呟いた、「エトランジエ!」

 

 また一日、私は溪流に架けた橋に立つて、平和な風景の、晴れた日の山に飛んでゐる彼らを眺めてゐた。ほど近い枯萱山の傾斜を滑つて、彼等の影もまた靜かに旋回してゐた。ひとつ時、私はこの平凡な眺望を立去ることができなかつた。ある動物學者は、鴉は二百年も、二世紀も生きると云ふ。それは私に、一つの凄慘な幻影を抱かしめる。私は溪流の上に立つて、ぼんやりと欄干に手を置いてゐた。「刑罰! この星に、我等のこの空に、如何に、彼等が二百年も飢ゑてゐるとは!」

 

 けれどもまた、私はその流れに沿つた小徑を下つて行つた時に、彼等の一羽が、眞近の菜園から、私の逍遙に驚いて飛びたつのを見た。俳畫のやうな後ろ姿で、彼はまた、わづかに川を隔てたばかりの向ふ岸へ、すぐに落ちつき拂つて降りたのである。見れば、その彼の兩足に摑んで運び去つたのは、半ばばかりに折れた玉蜀黍であつた。私は終ひに微笑を禁じ得なかつた。そして輕やかに、樂しく呼びかけた、「友よ! ボンジユウル・モン・コルポウ」

 

三好達治「鴉」『霾』(S14.4刊『春の岬: 詩集』所収)