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三好達治bot(全文)

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「獅子」『測量船』

 彼れ、獅子は見た、快適の午睡の果てに、――彼はそこに洗はれて、深淵の午後に、また月のやうに浮び上つた白磁の皿であつた、――微かに見開いた睫毛の間に、汚臭に滿された認識の裂きがたいこの約束、コンクリートの王座の上に腕を組む鐵柵のこの空間、彼の楚囚の王國を、今そこに漸く明瞭する舊知の檻を、彼は見たのである、……巧緻に閃めきながら、世に最も輕快な、最も奔放な小さい一羽の天使が、羽ばたきながらそこを漂ひ過ぎさるのを。……蝶は、たとへば影の海から日向の沙漠へ、日向の砂濱から再び影の水そこへと、翩翻として、現實の隙間に、季節と光線の僅かな煌めく彫刻を施しながら、一瞬から一瞬へ、偶然から偶然への、その散策の途すがらに、彼の檻の一隅をも訪れたのである。彼は眼をしばたたいた。その眼を鼻筋によせて、浪うつ鬣の向日葵のやうに燃えあがる首を起こし、前肢を引寄せ、姿態を逞ましくすつくりとたち上つた。彼は鐵柵の前につめ寄つた。しかしその時、彼はふと寧ろ反つて自分の動作のあまりに緩慢なのに解きがたい不審を感じた。蝶はもとより、夙やく天の一方にその自由の飛翔を掠め消え去つた。彼は步行を促す後軀のために、餘儀なく前軀を一方にすばやくひんまげた。そして習慣の重い步どりで檻にそつて步き始めた。彼にとつての實に僅かな、ただ一飛躍にすぎない領土を、そこに描く屈從と倦怠の縱橫無盡の線條から、無限の距離に引き伸して彼は半日の旅程に就いた。しかしながら懶ものうく王者の項をうな垂れ、しみじみとその厚ぼつたい蹠裏に機む感覺に耐へ。彼は考へた、ああかの、彼の見る視覺に閃き、鐵柵の間から、墜ちんとして夙やく飛び去つたところのあの訪問者、あの花の如き一瞬は何であつたか? 彼の生命にまで溌剌たりし、かの明瞭の啓示、晴天をよぎつて早く消え去つた、かの輝やく情緒、それは今自らにまで、如何に解くべき謎であらうか? そして思はず彼は、彼の思索の無力を知つて、ただ奇蹟の再び繰返される周期にまで思慕をよせた。けれどもその時、檻の前に步みをとめた人々は小手を翳して、彼の憂欝の徘徊を眺めながら囁き交した。……運動してゐますね……こんなのに山の中で出遇つたら……いやまつたく、威勢のいい鬣ですな……。しかしながらこの時、彼――獅子は、その視線を落してゐた床の上に、更に一の新しい敵、最も單純にして最も不逞な懷疑の抗辯を讀みとつた。彼は床に爪をたてて引つかいた。彼は床をたたきつけた。錯覺! 錯覺であるか? 彼は自らの眼を疑つた。果してそれは錯覺であるか? 彼は猛然と項をあげた。鬣の周圍に激しく渦卷く焔を感じた。そして彼は突嗟のやみがたい欝憤から、好奇の眼を以て彼の仕草を眺めてゐた群衆にまで、自らをたたきつけ、咆哮して戰を挑んだ。苦しいまでに漲る氣魄にわななきながら、堅く皮膚を引き緊め、腱を張り、尾を槍のやうにして、四肢に千鈞の彈力を歪ませ、咆哮して銳く身構へた。柵外の群衆は、或は畏怖のしなをつくつて僞善者の額に袂をあげ、或は急いでそれに對抗して樂天家の下つ腹をつき出した。――そして見よ、ああしかしながら、ここに吼ゆるところの獅子は、一箇の實體する思想、呼吸する鞴であつたか? 眞に事實が、如何に一層悲痛ではなかつたか? この時、獅子の腦漿よりしてさへ、かの一羽の蝶はまた、再び夙やく天の一方に飛翔し去る時!

 

三好達治「獅子」『測量船』(S5.12刊)