三好達治bot(全文)

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「私と雪と」『測量船』

 今日私をして、なほ口笛を吹かせるのは何だらう?
 古い魅力がまた私を誘つた。私は靴を穿いて、壁から銃を下ろした。私は栖居を出た。折から雪が、わづかに、眩しくもつれて、はや遲い午後を降り重ねてゐた。犬は、しかし思ひ直してまた鎻にとめた。「私は一人で行かう。」そして雪こそ、霏霏として織るその輕い織ものから、私に路を敎へた。私はそれに從つた、――寧ろいさんで。
 私は林に入つた。はたと、續いて落ちる枯枝の音と鳥の羽搏きと。樹立の垂直はどこまでも重なりあつて、互に隱しあひ、それが冷めたく溜息つく雰圍氣で私を支配した。私から何ものかが喪はれた。(ここには、生命があつて燈火がない。)私はそれを好んだ。恐らく私は疲れてゐたから。
 やがて日没の空が見え、林がきれた。そこに時刻の波紋が現れた。私は靜かに銃器に裝塡した。(どこかで雪が落ちた。)私は額をあげ、眼深くした帽子の庇を反らし、樹立にぐつと肩を寄せた。射程が目測され、私の推測が疑ひのない一點の上に結ばれた。床尾の金具が、冷めたく肩に滲みた。私は息を殺した。緊張の中に鋼のやうな倦怠が味はれた。そして微かな最後の契機を、ただ輕く⻝指が殘したとき、――然り、獲物はそこに現れた。(しかも、この透視の瞬間にあつて、なほ私が如何に無智な者であつただらう!)獲物の步並あしなみは注視され、引鐡ひきがねが落ちた。泥とともに淺い雪が飛沫をあげた。硫黃の香りが流れた。この素早い嗅覺の現在が、まるで記憶の、漠とした遠い過去のやうに思はれた。
 私は獲物に向つて進んでいつた。しかし、それも狩獵者の喜びでではなかつた。獲物の野猪ししは、日暮に黝ずんだ肢体をなほ逞ましく橫たへてゐた。その下で、流れ出る血が泥に吸はれてゐた。ふと、私は促されるやうに背後を顧みた。そして私は總てを了解した!
 私の立つてゐた樹立の蔭に、今また私と同じ人影が、黃昏から彼の推測の一點に私を切り離して、狙擊者の眼深にした帽子の庇を反らし、私と同じ外套の襟を立て、その息を殺した照準の中に、旣に私を閉ぢこめてゐた。
 「よろしいもはや! 私は斃れるだらう! まるで何かの小説の中の……」
 ――早や、私は橫ざまに打ち倒れた。銃聲が轟いた……、記憶の遠い谺に。
 そして、しかし今一度意識が私に歸つてきた。私は力めて、ただ眼を强く見開いた。視覺の最後の印象に、恰もそこに私自身を見るやうに、暮色の曇り空を凝視した。その凝視を續けようとした。しかし間もなく瞼は落ちた。私は傷ついて私の獲物の上に折り重なつてゐた。(あの狙擊者が、私に近づいて來るだらう。彼は、あらゆる點で私と一致してゐたから。)そして私の下の野獸が、もはやそのとげに滿ちた死屍が、麻睡に入らうとする私にとつての、優しい魅力であつた。その時私は聽いたのである。私の下の死屍、寧ろ私と同じ靜物から、それの中に囁く聲を、「私と雪と……」

 

三好達治「私と雪と」『測量船』(S5.12刊)