「アヴェ・マリア」『測量船』
鏡に映る、この新しい夏帽子。林に蟬が啼いてゐる。私は椅子に腰を下ろす。私の靴は新しい。海が私を待つてゐる。
私は汽車に乘るだらう、夜が來たら。
私は山を越えるだらう、夜が明けたら。
私は何を見るだらう。
そして私は、何を思ふだらう。
ほんとに私は、どこへ行くのだらう。
窓に咲いたダーリア。窓から入つて來る蝶。私の眺めてゐる雲、高い雲。
雲は風に送られ
私は季節に送られ、
私は犬を呼ぶ。私は口笛を吹いて、樹影に睡つてゐる犬を呼ぶ。私は犬の手を握る。ジャッキーよ、ブブルよ。――まあこんなに、蟬はどこにも啼いてゐる。
私は急いで十字を切る、
落葉の積つた胸の、小徑の奧に。
アヴェ・マリア、マリアさま、
夜が來たら私は汽車に乘るのです、
私はどこへ行くのでせう。
私のハンカチは新しい。
それに私の淚はもう古い。
――もう一度會ふ日はないか。
――もう一度會ふ日はないだらう。
そして旅に出れば、知らない人ばかりを見、知らない海の音を聞くだらう。そしてもう誰にも會はないだらう。