三好達治bot(全文)

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「繰言」「海風」

 深谷君から鄭重なお手紙を貰ひ、今度始める雜誌のために、何か隨筆のやうなもの「靑空」の思出でも書いてみないか、といふお話であるが、學生時代の思出話などするのに、私などまだ十年餘り年が若いやうでもあり、かたがた、好箇の話材も思ひ浮ばない。でも外に思案もないから、やはり同人雜誌に關して、――假に私が、これから雜誌を始めようとする諸君の立場、おつつけ一昔にもなる過去の自分に、もう一度この身を置き直してみるとして、やはり多少の感慨がないでもない、その感慨、後悔と希望とをつきまぜたやうな繰言を語ってみようか。丁度私達が雜誌を始めた時分から、同人雜誌の數は、雨後の筍といふ言葉の通り、急に目茶苦茶に激增した、その大勢は今日までずつと引績いてゐることであらうが、文運まことに目出度い傍ら、その必然の結果として、折角の月々の雜誌を、文壇の先輩も批評家も、あまり心切に顧みてはくれない、なかなか讀んではくれない のである。これは申すまでもなく、同人雜誌の執筆者諸君にとっては、頭痛の種に相違ない、けれども多分、これをどうする手段も方法も見つかるまい、やはりワンサワンサと目白押しに、月々の雜誌を刊行するより外はないであらう。ちと諸君の氣色を損じかねない云ひ分だが、實は諸君も先刻、この間の消息はとくと御存じに相違ない。困ったことだが、しかしそれでいいのである。同人雜誌は、とにかく勉强になるのだから。勉强になるといへば、これ位親身に勉强になる時期は、またと再びあるものではない。月々の雜誌を、文壇から假りに、百分の百の割合で默殺されたとしても、實はちっとも、頭痛にやむには當らないのだ、諸君の佳作傑作が、假りにそのやうな冷遇をうけたとしても、それ位いの割の惡さは、必ずや、一層幸福な結果となって取戾されるであらうから。現在の我國の文學界では、優秀な實力や卓拔した天分が、そのまゝ永らく認められないでゐるやうなことは、殆んど絶對にない、――と云っていいと私は信じてゐる。まことにこれは有がたい次第であるが、實はかうした抵抗の薄弱さは、一國文運のためには決して結構な仕組みではないと、併せて私は信じてさへもゐるのである。このやうな事情であつてみれば、何も先を急いで、折角の樂しい靑春時代を、つまらない焦燥のうちに過すなどといふ、馬鹿氣た法はないのである。大いに潤達な氣持で、將来に希望を繫ぎ、自信をもつてゐていいのである。自信を將来に置くのみではなく、文壇的反響の有無、また世上の流行などに順著せず、それこそ力いつぱい、現在の諸君に、最も緊切な興味で以て、自由な創作に沒頭することなど、張合ひのある歡びは、他に比類がないであらう。

 その時々の、その年齡ごとの、最も立派な果實を結んでゆくこと、これが唯一の心掛けであつていい筈だ。現に例へば、梶井基次郎君の「檸檬」などは、彼が始めて同人雜誌の、第一號に發表されたものである。世間がこの作品をもて囃したのは、それから七八年も後であった。

 私のこの短い文章は、期せずして、何か敎訓めいたものとなつた。それといふのも、私自ら過去を顧みて、日ごろ後悔するところが多いからであらう。さうしてまた諸君のために、或はこの繰言が、何かの役にたつかもしれないと思ひつつ、筆を擱くことにする。最後に云ひそへる、文學をやるのに最も大切な一事は。――やはり健康。

 

 

三好達治「繰言」「海風」第1年1号 (海風發行所・S10.12刊)

「青梅花」『百たびののち』

靑梅(せいばい)は 實の靑きにや……
またその花のほの靑き品種(しな)なりけらし
げに花靑き靑梅花
路のほとりの賤が家にさし出でて高きを見たり
つくねんと老婆は窓に出でて坐し
世間のさまをやをら見わたし眺めたり
そこらのさまは肅やかに
巷の塵もをさまりて今は淸らに暮れんとす
流れに濯ぐ乙女あり
自轉車に空氣を入れる若者あり
かかる靜けき人の世の人みな貧しき巷々を
たちもとほるはこの日ごろ我れにともしき心なぐさめの一つなり
おしなべて世には望みのなければなり
望みなしとや
さなり頑愚 甲斐もなければ今はほとほと
さるをこのほどどこやらでは
たかが女どもが頭(かうべ)に冠をのするとて
ことのほかなる市ぶりの騷々しげの取沙汰や
まことに神のおん手から玉冠(ぎよくくわん)を賜はりたまふものならば
ひとりひそかにつつましくみ厨子の前にたばらばこそ 目出度からうに
仰山な
この國のプリンスなどもうちまじり
世界中からシルクハットが集まるさうな
世の常かくもさうぞきてことごとしきはいづれそらごとなりけらし
空しきかな
人みな愚かしきにはあらねども
この愚かしき日のいつ果てるやら
問ふ勿れ
我れら如きがなんの知ろ
我れは邊土の頑愚なれば
ただゆくりなくふり仰ぐ巷の空に
氣まぐれの輪をゑがく鷗どり
たまたま海を遠く來し翼かろらに
梅花の天つぎゆけり はやく斜めに
ふくらなるましろの胸を淡つけき夕陽に染めて…… 

 

 

三好達治「青梅花」『百たびののち』(S50.7刊)

「詩碑」

 萩原さんの詩碑が、先日前橋市敷島公園に出來上つたので、その除幕式に參會した。近頃は方々にこの種の詩碑歌碑句碑が建設される。いさゝか流行の體で、少し煩はしいくらゐにも思はれるが、すぐとさう考へるのはどうやら中正を得ないやうにも感じられる。これらの碑碣の類は、それぞれその適宜な時期を得て造營されるのが好ましいであらう。上野から汽車に乘ると、遺兒の葉子さんや、小學三年生のその坊やや、緣邊の方々と乘合せた。この日は先生の十三周忌日に當つてゐて、まづはお目出たいといふのでせうといふ、同車の八木さんのご挨拶であつた。さう、まあ、お目出たいといふのでせう、と私も答えた。少しくお互ひ適切な言葉を得ない風であつた。はつきりお目出たいばかりだけといふのでなくて、それかといつてその反對の何かといふのでもなく、私にもこの經驗ははつであつただけ、うまくはいひ現せない感じが伴つた。私の分だけでいふと、どこやら寂寥の感に似通つたものが胸にあつた。もう一度萩原さんを、いつそう遠い場所に置きかへようとする、さういふ風の意味をもつた儀式にむかつて促されて車を急がせてゐるやうにも考へられた。
 詩碑は、受持ちの役所の方々その他の自讚の言葉のやうに、幕をとり除いて見るとなかなか見ごとであつた。立派すぎるといふのでなく、丁度の重量感があつて、簡素で清潔で、落ちつきがあつた。きりつとした直線の組合せが、年を經ても見あきはしないであらうと思はれた。周圍の松林ともうつりがよく、それがにはか作りの人工を施したものでないだけ、しつくりとして好ましく見えた。要するに上乘の出來であつた。感じは明るかつた。これなら萩原さんに見せてあげても、及第點の以上はあるであらうと思はれた。
 さう思ふと、萩原さんのあの飄々とした散步姿が眼の先に浮かぶやうにも思はれた。そんな空想に耽つてゐると、しかしながら私には次々奇妙な感想が起るのを禁じ得なかつた。市長さんや市會議員の某お婆ちやんの祝辭朗讀を聞きながら、私には始終二重の感想が湧き起つて、私自身としては甚だあいまいな、始末の惡い感じを伴つた。
 生前萩原さんは、こんなことを話されたことがあつた。芥川君は、藝術家は死後の名聲を考へないでは、創作に苦心を拂ふ張合ひがないといふが、死後の名聲、そんなものは僕には三文の値うちもない、云々。たしかに萩原さんはさういふ意味のことをいく度もいはれた。一時の放言ではなく持論であつたといつていい。思ふにそれは、萩原流の(いくらかの氣負つた)破壞的反時流的の主張持論であつて、主張そのものをまに受けるよりは、さういふ言辭口吻に自ら耽つていささか陶醉加減な點をこそ感受すべき意氣ぐあひの說であつた、といひ足しておく要があるであらう。芥川式にではなくとも、萩原は萩原式に、彼の創作に苦心を拂つて周密であつたことは、そのある時期の夥しい書きほぐし草稿の今日殘つてゐるものによつて明らかであるから、萩原は萩原式に死後の名聲を(意識的にはともかく)計算に充分入れてゐたといふのでなくては、あの極度の熱中細心さの說明はつかないであらう、といふことにもなるであらう。私どもは、萩原さんの持論の重點を少し く言辭の表面からは置き換へて受とる必要が屢々あるといふこと。――しかしながら、なほその上に、三文の値うちもない、といはれたのは、そのまま文字通りに萩原さんの思想であつたといふこと、それもまた私にははつきりとした事實として考へられる。詩碑のやうなものができて、晴々しい除幕式の行はれるのは、萩原さんにとつては、萩原さんの人格の重要なある部分にとつては、もともと風馬牛のよそよそしい出來事のやうにも考へられるのである。誰れの場合も、死後の行事はすべて死者に關聯しないが、この際はその上いくらか矛盾的意味合ひさへ感じられるやうなぐあひである。詩碑に刻すべき詩句の撰擇にも、通常の場合以上にひと骨折れたのは、もともと理由のないことではなかつた。伊藤信吉君がまづまづうまいぐあひに撰擇した、碑面の銅板の辭句は次のやうな數行である。

 

  わが故鄕に歸れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽笛は闇に吠え叫び
  火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。

 

 最後の一行を卒然と見る人は、萩原さんに思鄕の念の急なるもののあつたやうに受けとるかも知れないけれども、事實はそれとも少しく相違するのである。詩集『氷島』中の一章「歸鄕」と題するこの作の、省略された部分は次のやうに進行するのである。

 

  夜汽車の仄暗き車燈の影に
  母なき子供等は眠り泣き
  ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
  鳴呼また都を逃れ來て
  何所(いづこ)の家鄕に行かむとするぞ。
  過去は寂寥の谷に連なり
  未來は絕望の岸に向へり。
  砂礫(されき)の如き人生かな!
  われ旣に勇氣おとろへ
  暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
  いかんぞ故鄕に獨り歸り
  さびしくまた利根川の岸に立たんや。
  汽車は曠野を走り行き
  自然の荒寥たる意志の彼岸に
  人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

 

 碑面の打切りは當を得たといふべきであつて、同時に少しく彌縫的でもあつたといひ添へないと正しくない。それはやむを得なかつたのであつて、以前伊藤君から相談をうけた際にも、問題の困難なのはすぐと私に領解ができた。「鄕土望景詩」では困るだらうからねといふと、伊藤もうなづいて苦笑をもらした。祝辭の朗讀中、「深く鄕土を愛したわれらの詩人云々」といふ風の語が聞きとられたが、それは假そめの美辭麗句といふものにちかかつた。萩原さんには上州の風土を愛してゐられた樣子はない。自然や鄕里や、そこに見る季節や風景への、普通人のもつ愛着はあの人の書かれたものにも談話にも、見當らないし承つた記憶もない。その反對のものなら、たやすくいくらも見つかるだらうけれども。
 要するに、しかしながら私は詩碑の建設にケチをつける者でも不滿を覺える者でも決してない。あれほど高名な特異な偉大な詩人を、鄕里の市民がたとへ單なるお國自慢に似通つた心情に於てでも何かの形で表彰し記念しようとするのは、それも自然で、もしかするとこのささやかなモニュマンは、旅人やこの町の靑年たちに萩原文學への恰好な機緣を結ぶよすがとならうかとも考へられる。ドナルド・キーンさんは日本全國到るところ歌碑や句碑を見るのをけげんなことといふが(『紅毛奧の細道』)、さうはいはれても私ならこれを必ずしも不結構な風俗とは考へない。ただ萩原さんの場合、あの人の人格が、だいたいこの風俗に丁度でなく重要な點ではみ出してゐる、――私が先にいくらか矛盾的意味合ひさへ感じられるといつたもののあるのを、考へ併せて、私には二重の感想の交錯するのを禁じがたい、それを記しておくまでである。
 それはともあれ、私の感じだけでいふと、私どもが大正末期昭和初年頃にそれを讀み耽つたやうな風には、萩原さんの敍情詩その他が當節の靑年たちに受とられてゐるかどうか、時代的なこの變遷にも意外なもののありさうなふしが少くない。さういふ頃あひになつて、この度の建碑のやうな社會化の一つの現象を見るのは、奇異なやうでもありそれがまた自然なやうにも思へる。あれこれ思ひ併せると、萩原朔太郞といふ一箇の存在が、今後もさまざまな變遷を經るであらうことだけはまちがひなくたしかに推測される。
 附たしとして私の希望をいふと、さまざまな理由で、完本ともならず全集にも編入されなかつた(それが不可能であつた)先生の草稿の類、書きほごしや未定稿、判讀のできない程度のものまで、以上現存のものをとりまとめて前橋の市立圖書館にでも保存していただきたいといふこと。お世話でも建碑と併せてこれをお願ひしたい。遺族たちの手にあつてもたやすく散逸しさうに見うけられるからこれをお願ひしたい。異常な天才はそれぞれの時代にそれぞれの意味を生じ來るであらうから、今日さまでとも思はれないものまで保存していただきたい。これをいふのは必ずや望蜀といふのであるまい。

 

 

三好達治「詩碑」(『全集5』所収)

「公園」『測量船拾遺』

 私は公園が欲しい。
 仄かな草の匂ひやしめやかな木立の薫りや眼には見えない虫の気配のある中を靜かに樹蔭を步いてゆくと時どきあちらにもこちらにも噴水が見えて、この人工の小自然は疲れて怡しさを喪つた人の心を絶えまなく水盤に落ちるそれの言葉で誘つてゐる。
 噴水の方へ行かう。そこへ行つてごらん。そこであなたが最初に聞くのは空から身を投げて砕けて落ちてくる小さい透明な数のボールが金属や石や水の面にあとかたもなく消え入る合圖の言葉でせう。そして円周や弧線の上に續いてゐる絶えまもないそれらの瞬間の風に揺いでゐる帷のやうな中心にやがてあなたの落ちついた耳は颯々と迸りただ一すぢに疾走するその健気な意志のありかを聞きとらないでせうか? そしてまたそれの努力の頂点に華やかな円天井の頂きに代るがはる立ち現れては死んでゆく水の作つた小さなオレンヂのころころと閃めいて觸れあふ微かな響をも間もなくあなたの心は捕へたいと願ふでせう。
 噴水はいつもその日の言葉できまつて私らに空を敎へる。青く澄んだ空の高いところをハイカラな小ささに切れた雲がゆつくり安心して一つづつ一つづつ流れてゆく。靜かに私らの午後が消えてゆく。手をとりあつて幸福な散步に步調を合せてゆく人はやさしい眼つきでふと無關心に私を眺めてゆく。ここでは女の子も男の子のやうに活溌であり男の子も女の子のやうにしとやかでありもとより芝生に落ちる鳥影などには頓着なくまた私の顏は知つてゐても私の名前は知つてゐない。そして緑の中にシーソーや鞦韆の水色のペンキが新しい。
 林は私の廊下であり花壇は私の絨毯であり耳を澄ませば鳥の音や木の葉のそよぐむかふから遠い自動車も聞えてくる。そこで私は指を組むで誰にも秘密な私の追憶に耽るだらう。たとへ私の心になにか人知れぬ名譽があるやうでほろりとしてもいいえ私は悲しくない。
 私は公園が欲しい。私の親しみがたい部屋を逃れて私はそこで行衞の知れなくなつた父のことや死んだ妹のことや噓つきだつた私の恋人のことを忘れよう。過ぎ去つた日の記憶や生活の努力から遁れてひとりで私は午後の日影をうつらうつらと睡りに落ちよう。けれども人人は絶えず私の周囲を散步してゐて私は決して淋しくないだらう。

 

三好達治「公園」『測量船拾遺』(『全集1』所収)

「太郎」『測量船拾遺』

「太郎さん舞鶴へは歸りたくないの?」
「歸りたいだよ姉さん。病気が癒つたら僕は迎ひにきて貰ふんだ。内緒だけれどもね、僕はこの間葉書を出して置いたんだよ」
と云つて太郎は飛白の膝で手の平を拭き拭きした。
「誰にも云つてはいけない!」
「云ひやしません。太郎さんはここよりも舞鶴の方が好きなんでせう。あちらではみんなしてあなたを可愛がるんだから――」
「それにあなたは悧巧だし、舞鶴のおうちはこんな村には一軒もないほどのお金持だつて、お祖母さんも云つてゐらつしやつたが、あんたは大きくなつたらきつと偉い人になれるわね」
「その葉書には何を書いたの?」
 太郎はだまつて人形の猿を縫つてゐた。内気な病身のこの少年には友達がなかつたので、こんな手なぐさみをいつかしら覺えてゐて、端布をねだつては日に幾つも樣々な色の小猿を作つた、秋の日あたりのいい障子を背中にして。
「葉書かね、云つてはいけないよ、僕は歸りたいから迎へにきてくれ。病気もよくなつて汽車には乘れると思ふ。毎日叱られるのがいやだから、そんなことを書いてやつたんだ」
 太郎は云ひ終ると額に相手の強い視線を感じて瞳をあげた。太郎はこの相手が自分に対して特別に親切にして呉れる時には、その前にかならずこの視線を感ずることを知つてゐた。そして太郎はそれを求めるためにときどき自分が拗ねてみせることのあるのもうつすら意識してゐた。
「お祖母さんはすぐ僕を叱るんだ、僕が悪くないときでも」
「お祖母さんは豐子ちやんの方がすきなんですよ。喧嘩なんかしない方がいいのに、あなたはすぐ怒るんだから、でも豐子ちやんは一寸ずるいわね」
 豐子はずるい、豐子はよく嘘を言ふ、と思ふと太郎はもう母家の方へ歸るのがいやになつた。いつまでもこの離れの狹い部屋で、一日中裁縫をしてゐるこの相手と、そこを自分の家と思つて一緒に自分も暮してゐたいと思つた。

 

 

三好達治「太郎」『測量船拾遺』(『全集1』所収)

「暮春記」

 

      1

 

 去年の、ちやうど今頃のことである。
 その頃私は信州のある山間で暮してゐた。私はそこで春を送り初夏を迎へた。病後の疎懶な生活が固癖になつて、たださへなまくらな私の心は、一寸制馭の法もない橫着なものになつてしまつた。それには私も、實は我れながら閉口しきつてゐたのである。去年から持越しの私の仕事は、眼の前に山積したまま、いつまでたつても、いつかうそれに手を着ける氣持は起らなかつた。私の嚢中が空しくなつてゐたのは云ふまでもない。窗の外には、新鮮な木木の綠が、山にも溪にも溢れてゐた。
 そんな頃のある一日、私は晝前に宿を出て、そこから一里ばかり奧に入つた、人けのない靜かな溪間を、自然にも親しみ難いむつとした心を抱いて、ただ無闇に步き𢌞つたことがある。小鳥の歌、若葉の色、溪流の聲、初夏の陽ざし、そんなものにとり圍まれて、私はぐつしより汗ばんだ。さうしてとある小橋の袂で、掌のひらばかりのそこの川原につくばつてゐる、臥牛石――といつた形の淡靑い一つの石に、私は暫く腰を下ろした。雜草の中に埋まつて、疲れた脚と疲れた心とを休ませた。
 杉の丸太を二三本針金でからんだ小橋、その丸木橋の面には、運搬の途中にこぼれ落ちたものであらう、木炭の小さな屑が、踏みにじられて殘つてゐた。炭燒きの渡る橋である。さういへば、そこの上手の溪間の奧に、時たま、ものとものとの觸れあふ音、大きなものの仆れる音が、その方角さだかでない遙かな響を、――たとへば、お勝手の板の間に馬鈴薯でもころがすほどの、間遠い響きをたててゐた。炭燒きの竈のまはりで、立木を伐り仆してゐるのであらう。
 私はその時、うつけた氣持でぼんやりと、つい眼のさきの溪流の面を眺めてゐた。その私の視野の中へ、忽然と、一匹の小さな河鹿が現れた。黝土のやうな色をしたその侏儒(こびと)は、激しい水勢に推されながら、上手の方から流れてきて、磊々と水流の中に轉がつてゐる石の一つに、それを目ざして來たやうに、兩手を伸べて、その水際にとりついた。さうして一寸、その鼻さきをそこの水面に現して、すつかり力を拔いた兩脚は自然な角度に踏み開いたまま、さものんきさうに、暫くさうして休んでゐた後、何か分別をきめたやうに、やがて彼はその水際を、するすると登りはじめた。さうしてその頭のまるい饅頭石の、そこのところは飛沫もうけずに白く乾いたてつぺんに、間もなく彼は登りつくと、一寸居ずまひを直してから、ちよこなんとそこに坐りこんだ。そんな展望のひらけた高みに登つて、さて彼は何をするつもりだらう、私は少し興味を覺えて、彼の姿を見まもつてゐた。しかし彼は、それからやがて三十分も、そこにぢつと坐つたまま、尖つた鼻を空ざまにして、無數の波が過ぎ來り過ぎ去る離れ小島の頂に、ただぽつねんと、それを見物してゐる私といふ愚か者と同じやうに、空しく時を銷してゐた。鳴くのでもない。獲物を窺つてゐるのでもない。遠い雲を眺めてゐたのでも、まさか日光浴をしてゐたのでもあるまい。そんな彼を相手にしてゐるのが、私は少し馬鹿らしくなつた。私はたうとう痺れをきらして、根氣較べには負けた形で、やがてそこから腰を上げた。不意に私の姿を認めて、彼が周章てて、溪流に跳びこんだのは云ふまでもない。
 私は宿に歸つてからも、彼の姿が眼に殘つた。あの溪間の、あの小さな石の頂に端坐して、四邊のものを領してゐた、一塊りの練り藥か何かのやうな、 ――あの仙客。あの小さな道士が、私の心を捉へたのは、考へてみると、三十年の昔もその日も同じことであつた、と云つてもいい。私は次のやうな古い記憶を思ひ起した。

 

      2

 

 私は一度、まだ小學校へも上らない子供の時分、裏日本のある小さな町へ、ふとしたことから、貰ひ子に貰はれていつたことがある。この出來事は、流石子供心にも感銘の深かつたものと見えて、その前後の模樣は、今もはつきり私の記憶に殘つてゐる。その記憶を、今になつてふりかへつてみると、少しばかり奇妙な節がなくもない。
 それはある盛夏の頃の、夕暮のことであつた。
 前栽に面した奧の部屋では、來客のS――さんを迎へて、父と祖母とが、晩餐の食卓をとり圍んで、私達には解らない大人の話を、賑やかに話しあつてゐた。私達四人の者、姉と私と弟と、田舍から祖母がつれてきた私達の妹と、私達四人の兄弟は、次の部屋に集つて、子供の智慧を寄せ集めて、何をして遊んでゐたのか、羽目をはづしてはしやいでゐた。久しぶりに田舍から祖母が出て來た、その上に、私達にも顏馴染の親しい知人のSさんが、たまたまそこへ來合した、そんな偶然の重なつた、それは特別の日であつた。私達子供の心は、ただ譯もなく浮き浮きとして、隣りの部屋とのとりあひの葭簀の障子一つを隔てて、その隙間越しに、見物人の眼ざしをも感じながら、ちよつと餘所行きの、張合ひのある愉しい氣持で、調子に乘つて騷いでゐた。まだ電燈のなかつた時分で、――或は私の家だけがさうだつたのかもしれないが、間もなく洋燈がともされた。母は洋燈をともしながら、言葉だけで困つたやうに、私達の騷々しいのを、しかし笑顏で、一言二言たしなめた。さうしてまた臺所の方に姿をかくした。いつもなら夜晩くまで騷がしい、裏の仕事場の機械の音が、その時はもうひつそりとしづまつてゐたのは、或はその日は、職工達の休日だつたためであらうか。
 それから暫くたつた頃、私は不意に、父の聲で、隣りの部屋に呼び入れられた。少し樣子が變だつた。何だらう、いづれお小言にきまつてゐる、それにしても、なぜまた私一人が、こんな風に呼ばれるのだらう、その譯が、私には腑に落ちかねた。私は隣りの部屋に入つた。部屋に入つて、閾を跨いだばかりのところに、父に向つて、ぽつねんと立ちどまつてゐた。私の後ろでは、それまでの遊びを急にやめて、兄弟達が、ひつそりと、私の方を、こちらの樣子を氣にしてゐる。
 その時父は、胸のところに、使つてゐた團扇をとめて、いつもの父の眞顏になつた、さうしてさも無造作に、出し拔けにこんなことを私に云つた。
 ――お前は、この小父さんのお家へ行くかい?
 私には、父の言葉が、何のことだか解らなかつた。
 ――え?
 ――お前はこの小父さんのお家へ行つて、小父さんところの子供になるかい?
 さう云はれて、やつと私にも、これは叱られてゐるのではない、これは別の話だ、それくらゐなことが解つた。しかし私は、安心をする隙もなかつた、そんな唐突な質問に出會つて、私は無闇に固くなつた。戲談だらうか……。普段から、戲談などを云ふ父ではない。父の隣りに坐つた祖母も、私の顏を見つめてゐる。いつもならこんな時、私に代つて、何とか口を利いてくれる祖母までが、やはり父と同じやうに、質問者の側に𢌞つて、私の答へを待ち設けてゐる樣子である、――一寸微笑を浮べたまま、やはりいつまでも默つてゐる。どうもをかしい。とても事情は、私には嚥みこめなかつた。さてそれなら、何と答へたものだらう。私の答への、結果などは、もとより想像できなかつた。私はただ、力いつぱい、父の言葉を、私なりに、まつ正直に考へてみるより外はなかつた。私は考へた。この小父さんの、お家へ、行く……、お家へ、行つて、子供に、なる……、それは何のことだらう。
 暫く時をおいてから、私はもう一度訊きかへした。
 ――え?
 父は重ねてかう云つた。
 ――この小父さんが、小父さんとこのお家へ、お前をつれて歸りたい、さう云つてゐなさるんぢや、小父さんのお家へ、お前をつれて歸りたい、さう云つてゐなさるんぢや、小父さんのお家は、五時間も六時間も、汽車に乘つて行くんだよ、ね、解つたかい、お前は小父さんと一緒に汽車に乘つて、小父さんのお家へ行くかい、小父さんの、お家へ行つて、小父さんとこの子供になるかい、いやならいや、行くなら行く、さあ、よう考へて、お前の好きなやうに返辭をしてみなさい。
 その時父は、きつと、いい加減醉つ拂つてゐたのに違ひない。酒客といつては父一人の、その晩餐の食卓の上にはビールの罎が並んでゐた。一つには、酒の上の氣まぐれから、父は私に、そんな難問を試みる氣にもなつたのだらう。私が行くと答へたら……。骰子の目よりも賴りない私の言葉に從つて、父は私を、Sさんに養子に上げる、そんなつもりでゐたのである。そんな奇妙な約束が、先刻からの雜談中に、出來上つてゐたのださうである。
 父にさう云ひ聽かされると、もうその上、私は愚圖々々逡巡してもゐられなかつた。私は返事に逼られて、一寸思案をめぐらした。しかし別段私には、何をどう、思案をするほどのこともなかつた。
 一つのことを思ひつくと、私はきつぱりかう答へた。
 ――行く……。
 ――行く? 行くのかい?
 ――行く。
 私は重ねてさう答へた。父は眞顏に聞いてから、初めて一寸笑顏をつくつた。祖母が私を手許に呼んで、同じ質問を繰りかへした。私はやはり行くと答へた。私の母は、この出來事の前後を通じて、相談に與つた樣子はなかつた。茶の間にでも下つてゐたのか、その時は、姿さへも見せなかつた。
 こんな單純な、奇妙な、さうして大膽な問答の後、私はほんとに、私の答へに從つて、それから十日ばかりたつてから、私の新らしい父のSさんにつれられて、汽車に乘つて出發した。
 出發までの、その十日ばかりの間に、父は私を伴つて、どこであつたか、今はもう私の記憶にない、二三の神社に參拜したり、親戚を訪問したり、さてはその頃遠くに住んでゐた、私の乳母の家にまで、車にのつて出かけたりした。今になつて考へるに、どうも父のやり方は、私には解せない節が少くない。
 お前が行くと云つたから、――と、これはずつと後になつて、父がある時、私に云つたことがある、――行くといふのなら、何かの緣といふものだらう、たとへさうして行つたところで、緣がなければ、戾つてくるに違ひない、自分はさう云ふ考へで、お前が行くと云つたから、それなら行つてみるのもいい、ともあれ一度、伴れて歸つてごらんなさい、さうSさんにも云つたのだ、どうせ子供のことだから、もしそちらへ行つてから、歸りたいとでも云ひだしたら、その時は、どうかつれてきて下さい。そんなこともないやうなら、そのままお宅へ差上げませう、ものは試しに、まあ一度つれて歸つてごらんなさい、さう云つたのだ、何もこちらから、貰つてほしいと賴みこんだ譯ではない、もともと向ふから懇望された話であつた、それで私は、お前を呼んで尋ねてみると、お前も覺えてゐるだらう、お前が行くと答へたから……。といふのが、私の父の意見であつた。一寸變つた意見である。
 ところで、私がその時、あんな風に答へたのは、外でもない、次のやうな、これもまた奇妙な理由によつてゐた。
 それより前、一年ばかりも前であつたか、一度父の留守に、Sさんが、やはり商用で田舍から出てきたついでに、私の家に、ちょつとひと足寄り路をしたことがあつた。さうしてその時は母を相手に、奧の部屋で、何か暫く話をしてゐた。
 玄關の上り口には、二三の小さな荷物と一緒に、Sさんの持つてきた、螢籠のやうな形をした、釣鐘形の金網が一つ、裸のままで置いてあつた。私達はそれを見つけて、その周りに寄り集つた、さうして額を寄せ集めて、その中を覗きこんだ。その金網の底の皿には、少しばかり水を湛へて、細かな砂利を敷いた上に、拳ほどのまるい形の石が一つ、そのまん中に置かれてあつた。暫く眸を凝らしてゐると、そのうす暗い籠の中には、そのまるい石の蔭に、一匹、二匹、三匹、小さな蛙が見つかつた。蛙――、何といふ可憐な珍らしい生き物だらう。都會育ちの私達は、その時初めて、そんな生き物を見たのである。
 別段何の理由もなしに、その時私は、いつの間にか、その金網を、私達の家庭に貰つた、Sさんのお土産ものだと、ひとりぎめにきめこんでゐた。私の歡びは一寸譬へるものもなかつた。
 睫毛がそれに觸れるほど、私は金網に顏を寄せて、夢中になつて、うす暗い世界を覗いてゐた。水の中にからだをつけて、ぢつと小さくしやがんだまま、生きてゐる證據のやうに、眼だけは時々瞬きながら、私達が、さうしていつまで待つてゐても、身じろぎ一つしようとしない、――しかし、今にも、不思議な動作をはじめさうな、そのうす黝い道化達、小さな蛙達は、それが生き物だといふことの微妙な魅力で、すつかり私達の心を奪つた。やがて間もなく、Sさんの歸る時になつた。Sさんは外の荷物と同じやうに、その金網をも携へて、私達の家を辭した。
 私はすつかり當てがはづれて、泣き出しさうな、遣り場のない氣持になつた。そんな氣持を壓し殺して、私は無闇に、部屋の中を步き𢌞つた。私は母に、私の氣持を告げようとした。どう打明けたらいいものか、しかし私には、話の繼穗が見つからなかつた。
 ――あの蛙は、何? 何をするの?
 私はそんな、つまらないことを質問した。
 ――あれかい、あれは河鹿、河鹿ですよ、蛙は蛙でも、いい聲で鳴く、山の奧の、溪川にゐる蛙ですよ。
 さう答へながら、母はそそくさと、部屋の中をあちこちしてゐた。
 ――……いい蛙だね?
 ――ああ、いい蛙だよ。
 それくらゐのことを云つたきりで、私はそのまま默つてしまつた。さうして私の悲しみは、夕方までは續かなかつた。もちろん翌る日は、もうけろりと、そんなことは忘れてゐた。
 この河鹿のことが、河鹿を容れたあの金網が、しかしその後、例のあの夜、この小父さんのお家へ行くかい、父にさう問はれた時に、私の心に、私の眼の前に、彷彿と浮び出たのを、私は今もはつきり記憶してゐる。
 ――行く。
 私がさう答へたのは、つまり、あの、小さな生き物のためだつた。
 そんなふとしたきつかけから、私がそんな答へをしたのは、輕はづみといへば、全く輕はづみに違ひない。しかし私は、私がさう答へた時に、そのきつかけは兎も角として、さてさう答へてみるといつそうはつきりと、それまで私の知らなかつた一つの氣持、一種明るい妙な氣持を覺えたのを、これこそ最もはつきりと、今もそれを覺えてゐる。
 採光の具合を變へたやうに、ほんの一瞬の間に、私の心は、その小さな內景をすつかり變へてしまつた。さうして私の眼には、私の身のまはり、私の棲居や家族の者が、私にとつて魅力もなく希望もない、退屈なもの、つまらないもの、變によそよそしいものに思へた。眼の前の父の顏も、何か間遠いものに見えた。今のさきまで一緒に遊んでゐた兄弟達も、たまたま路傍で邂ぐり會つた半日の遊び友達、そんな風なものとしか思へなかつた。母もやはり私の心を惹かなかつた。私はそんな孤獨な氣持を覺えたのに、泣き出さうともしなかつた。私は家を出る時も、汽車に乘る時も泣かなかつた。泣かなかつたばかりではない、私は子供心にも、私がそんな旅立ちを、いつからともなく待つてゐた、永い間待つてゐた、さうだその時が、つひに來たのだ、そんな風な明るい氣持にさへもなつてゐた。なぜだらう。私の見知らぬ遠い町が、魅力になつたためだらうか。どうもさうではないらしい。もともと私には、家庭を愛するやさしい感情、家庭に親しむ溫かい氣持、そんなものが缺けてゐたとでもいふのだらうか。これはいくらか當つてゐる、しかしまた、そのためばかりでもないらしい。なぜだらう、それでは。――放浪癖、そんなものの兆であらうか。過去もまた、旣に一つの謎である。私にも確かなことは解らない。

 

      3

 

 晝間の汽車で、私達は出發した。汽車の中でも、私の氣持は變らなかつた。汽車は私に珍らしかつた。やがてそれに退屈するまで、私は元氣にはしやいでゐた。私はその時初めてしみじみと、私の父の、新らしい私の父の顏をみた。人見知りなどしなかつた。さうして私は問いかけた。
 ――河鹿は、お家にゐる?
 大事のことを、うつかり今まで忘れてゐた、さう思つて、私はあわてて問ひかけた。父の肩にもたれかかつて、その橫顏を覗きこんだ。ああゐるよ、ゐるとも、父はさう云ふにきまつてゐる。私にはその返辭が、前からちやんと解つてゐた。ところが案に相違して、父には私の質問が、初めは容易に通じなかつた。父は怪訝な顏をした。私には、それが不審でならなかつた。私はやつと骨を折つて、私が何を尋ねてゐるのか、𢌞りくどい説明をした。
 ――ああさうさう、あの河鹿かい、あの河鹿なら、お家にゐますよ、ゐますゐます、ゐますよ。
 父はそんな返辭をした。それを聞いて、私もやうやく安心した。さうだとも、ゐるにきまつてゐるではないか、私はひとりさう思つた。
 しかしその河鹿の籠は、父の家に着いてみると、緣側にも、庭にも、床の間にも、いつかうどこにも見つからなかつた。私はそれのありかを尋ねた。ふつとそれが氣になる度に、私は繰りかへして問ひただした。その度に、新らしい私の兩親は、少し困つた顏をして、要領を得ない返事をした。さうしてまたいつとはなしに、私はその生き物のことを、けろりと忘れてしまつたまま、――今度はそれを思ひ出すまでに、二十年餘りの月日がたつた。

 

      4

  

 信州の田舍の宿で、私の思ひ出した「古い記憶」は、凡そ右で盡きてゐる。
 さうして今、もう一度こんな思出を辿りながら、私はまた、私の父(これは實父)の人となりを、いろいろと囘想してみて、やはり奇異の感に耐へない。
 父は晩年、私達の家庭を棄てて、殆んど浮浪者に近いやうな、不幸な境涯をつづけてゐた。その時々の、父の居所を知るのにも、私達は骨を折つた。それでも一年一度くらゐ、何かの機會に、私は父と顏を合せた。そんな折り、父は私に背中をむけて、口をきかうとしなかつた。これには私もむつとした。もともと私は、父と爭つたことはない。いくらどのやうなことがあつても、せめて顏を合せた時ぐらゐは、雜談の一つもしておきたい、そんな氣持は、私の方ではもつてゐた。しかし父に出會つてみると、とりつく島はまるでなかつた。
 そんな風な、父の態度は兎も角として、父は內心、私達家族に對して、たとえば私に對してでも、どんな氣持を抱いてゐたことであらうか。今になつて考へてみても、その當時と同じやうに、實は私には、それがどうも解しがたい。いろんな出來事の積み重なりから、父はあんな歪んだ態度を、無理にも力めてとつてゐた。それは私にも推察がつく、けれどもやはりそればかりではないらしい。どうもそこのところの消息が、變な風に入り組んでゐる。
 私達が、私達の家庭に再び父を迎へた時には、父は旣に、腦出血のために意識を失つて、殆んど言葉も通じなかつた。私は父の棲居から、やうやく父を車に乘せて、豪雨の中を歸つてきた。途々私は、飮みものなど含ませながら、
 ――もうすぐ家へ着くんだから、心配なことはないんだよ、解つたかね、お父さん。
 さう云つて、私の膝の上の、父の眼の中を覗きこんだ。「お父さん」そんな言葉で呼びかけるのが、やはり私には懷かしかつた。父は虛ろな眼つきをして、顏だけで返辭をした。
 五十日ばかり床に就いて、父はたうとうなくなつた。
 父のゐなくなるのと前後して、私もまた、一人の子供の父となつた。私にも、私の父の「父の氣持」を、忖度する資格ができたといふものである。けれどもやはり、私の父の「父の謎」は、私にはいつかう解けさうもない。私はある時、寢つきのいい臥床の中で、父の記憶を辿りながら、私が父に愛された、――父の愛の信じられる、そんな愉しい思出を、一つでもいい、搜し出さうと試みた。そんな思出が何か一つ、一つくらゐはありさうなものではないか。ところが私のその試みは、不幸にも、容易に成功しなかつた。私はまたあらためて、落寞たる氣持を味つた。翌日になつてからも、そのことが少し氣になつた。
 その後またある日のこと、――これはつい最近のことである、私は久しぶりに鎌倉の海岸を步いてゐて、ふと私の眼の先に、その後姿が私の父にそつくりの人影を認めて、思はずその場に步をとめた。その年輩の人物は、早春の浪打際に、ただぼんやりと沖に向つて佇んでゐた。角帶の前に両手を入れて、(父にもそんな癖があつた)そのために少し寂しく怒つて見える、その兩肩、帽子を戴かないその五分刈の頭と襟筋、帶から下の賴りなげな着物の着やう、それらのものが一つ一つ、父の俤にそつくりだつた。懷かしいものを見る氣持で、暫くの間、私はそこに立ちどまつてゐた。
 その日の夜、私はふとこんなことを、それまでつひぞ想ひ起したこともないこんなことを思ひ出した。

 

      5

 

 これもやはり暮春の頃のことである。
 その頃私は祖母のもとで暮してゐた。養父の許で重い病氣に罹つた私は、長男だつた私の籍が他家には移され難い理由もあつて、再び實家に戾つてきた。それから間もなく、その頃田舍で暮してゐた祖母の手許に移されて、そこで藥餌に親しんでゐたのである。
 ある時その田舍の家へ、父の許から店の者が使ひにきた。使ひの者は用件をすました後、汽車に乘るまでの僅かな時間を、私達二人、私と妹を相手にして、家の周りで何かの木に攀つてみせたり、緣側に腰を下ろして、父や母や姉や弟の、近況を話して聞かせたりした。さうして間もなく出發した。
 その後のことは、私には何も記憶がない。ただ私の記憶にあるのは、その町の、小さな停車場の人ごみの中で、もう一度その使ひの者を、私達が見つけ出した、――夕暮前の、そんな場景だけである。私達は申合せて、使ひの者の出發した後、すぐその跡を追ひかけて、その停車場まで、馳けつけたものに違ひない。私も妹も、めいめいの小さな財布に、切符を買ふに足るだけの、銀貨を幾枚かもつてゐた。私達はその銀貨を、私達の相手に差出して、これで二人の切符を買つて、一緒の汽車で、家まで伴れて行つてくれ、そんな意味のことを賴んだ。
 ――お祖母さんに、ちやんとこたへてきましたか?
 相手は少し怪訝な樣子で、私達に問ひかえした。
 ――いいや。
 ――そいぢやいけません、そんなことをしちやいけません。
 ――でも、いいんだよ。
 ――いいことはありません。私が叱られます、ね、もう一度私がお迎へにきますから、今日は默つてお歸んなさい、こんなことが知れたら叱られますよ、遲くなつたらいけません、さあさあ早く、早く早く、急いでお歸りなさい、歸るんですよ、まつすぐに歸るんですよ、早く歸らないと、お祖母さんが心配なさいます、心配なさいますとも。
そう云はれてみると、私達も、自分達のしたこと、自分達の考えが、少し怖ろしくなつてきた。やがて改札がはじまつた。もうその上、押問答もできなかつた。仕方がない。私達は、銀貨を財布にしまひこんで、灯ともし頃の田舍道を、一目散に駈けて歸つた。
 ただこれだけの出來事を、私は全く久しぶりに、その日の夜ふけに思ひ出した。もともとこれは、他愛もない話である。しかし私にも、こんな風に家族の者を、父を慕つたことがある、その思出は、私を少し悅ばせた。先日來の、落寞とした淋しい氣持が、こんな一つの反證から、少しは緩和されさうな、希望さへも覺えたから。
 しかしこれは、父の思出とは云い難い。この日頃、私が探し求めてゐる父の思出、懷かしい父の思出は、やはりいつかう私には想ひ起せない。

 

      6

 

  懷かしい父の思出――といふよりは、懷かしい父の姿――といつたものなら、これなら一つ、私の眼にも殘つてゐる。
 私がまだ學生だつた時分のこと、その頃旣に私達の家庭を棄てて、とある郊外で暮してゐた父の棲居を、私は一度訪ねていつたことがある。場末の町で乘り場を降りてから、地理に暗い郊外の道を、尋ね尋ねしてゐるうちに、一里ばかりも來たであらうか、私はたうとう野原の中に出てしまつた。私の敎えられた方角には、遙かの方に、そんな距離からうち見たところ、文化住宅か何かのやうな、勾配の急な赤瓦の屋根が一つ、木立の間に見えてゐた。それが父の棲居であらうか、私は一寸意外に思つた。しかし外には、住宅らしいものはなかつた。日頃の父の、趣味や性癖に考へ合はすと、その赤瓦は、まことに奇妙なものに思へた。しかし外には、住宅らしいものは見えない、私は半信半疑の氣持で、それに向つて進んでいつた。
 その棲居には、父の表札は出てゐなかつた。女名前の小さな名札が、門柱にかかげてあつた。私は一寸ためらつてから、案內を乞うた。家の中はしんとしてゐた。さうして拍子の拔けた時分に、聲といつしょに、二階から父が降りてきて、私の前の障子を開いた。
 晩夏の頃の、照りかへしの暑い二階の部屋で、私は父と暫くの間雜談をした。私はその日、父のために用だてた金子を持つて、母からの傳言をも傳へるために、云はばお使ひに行つたのである。金に關する內輪話を、私は手短かに終つた後、父の始めるつもりでゐる養鷄業など、しかし素人には危險な仕事だからよしてはどうかと、そんなことも話してゐた。もとより父が、私の意見などききいれる筈はなかつた。父は仕事の計畫を、私の前に説明して、私には無邪氣に見えた、父の希望を話してきかせた。父はやがて酒を命じた。隣りの部屋で、女の聲がそれに答へた。さうして彼女は間もなくそこから姿を見せて、私にはやや窮屈な、叮嚀な仕方で挨拶をした。夏の陽ざしの明るい部屋で、私は父と酒を飮んだ。父と二人で酒を飮むのは、隨分久しぶりのことでもあつたし、何かとぼけた、ささやかな酒もりは、當時の私の感傷癖に、打つてつけのものでもあつた。
 ――東京の大學の、お前の入つてゐるのは、何科だい?
 父はそんな、つかぬことを尋ねたりした。その頃父は、私の顏をみるごとに、一度は必ず、この質問を試みた。その度に、私はいつも、返辭をするのに先だつて、またかと思つてがつかりした。これだ、親父はこれだから――、私はひそかに嘆息した。
 ――街なかと違つて、この邊は空氣がいいから、朝なんぞの氣持のよさといつたら……
 父はまた、そんなのんきなことも云つた。そんな空々しいことを云ふ父の姿が、(父は私に、何も話すことがなかつた)私には痛ましかつた。
 ――お前も、今のうちに、しつかり勉强しとくんだね、やはり若いうちにやつとかなけや……
 そんな言葉も、空虚な響きをもつてゐた。父は頻りに酒を薦めた。
 ――私ももう飮めなくなつた、二合の晩酌が餘るんだから……、お前などは、まだこれからだ、ええと、お前は今年、幾つになつたい?
 私の年齡を尋ねるのは、機嫌のいい時の、父のいつもの癖である。父も私も、少しばかり酒を飮んだが、もうその上、寛いだ氣にもなれなかつた。
 間もなく私は腰を上げた。父も引きとめようとはしなかつた。別れの挨拶もそこそこに、私は戸外に出た。父も私の後に續いて、下駄を突つかけて外に出た。さうしてその前庭の、門柱のところに立ちどまつて、もう一度私に言葉をかけた。
 ――さやうなら。
 ――御機嫌よう。
 他人行儀な挨拶で、私達は會釋をした。
 それからやがて、五分ばかりも步いた後、その赤屋根を見るつもりで、私は後ろをふりかへつた。父の姿が眼に入つた。私は一寸會釋をした。それからまた暫くたつて、私の步いてゐた一筋路が、そこのところで、曲つてゐる、人家に近いあたりにきて、私はもう一度ふりかへつた。父はやはり立つてゐた。腰から下は荊棘か何かの垣根にかくれた、浴衣がけの父の姿が折からの暮色の中に、くつきりと浮んで見えた。父とは不釣合な赤屋根も、もう私には、をかしなものには見えなかつた。
 私は杖を擧げて合圖した。
 父のはじめた養鷄事業は、やはり間もなく失敗した。

 

      7

 

 最後の病床に就いてから、五十日ばかりの間、父は殆んど昏睡狀態を續けてゐた。それでもしかし、時とすると、ほんの僅かな短い時間、深い夢から醒めたやうに、微かな意識をとり戾してゐることもあつた。そんな時には、看とりの者と、何かの聯絡もない斷片的な、話を交えることもできた。
 ――お父さん、お水を上げませうか?
 ――うん。
 それくらゐの返辭はした。
 ある時私は、父の口に飮みものを含ませながら枕もとから、こんなことを尋ねてみた。
 ――おいしい、お父さん?
 ――はあ、ありがたう、おいしうございます。
 父ははつきり、そんな叮嚀な言葉で答へた。それを聞くと、私は一寸胸がふたいだ。私はその後、父に言葉をかけるのも、躊めらふことが多くなつた。父は何の考へもなしに、狂つた神經の反射作用で、そんなことを云つたのだらうか。それはさうに違ひあるまい。或はまた、父はその時、耳に聞えた私の言葉から、何か一つの情景を、空想してでもゐたのだらうか。そんな風にも、考へられないことはない。しかしまた、私の父の人となりには、あんな場合、あんな返辭をしかねない、さういふところがあつたとも、云つて云へないことはない。
 私の父は一寸變つた人物だつた。(奇話逸話は、ここに記す要もない。)
 父の樣子が、全く絕望になつた頃、ある日私は、父の古い手箱の中から、私達にも見覺えのある、燐寸を幾つか見つけだした。私達が子供の時分、父は家業を投げ出して、燐寸の發明に熱中した、その頃の遺品であつた。その燐寸の小箱のレッテルの意匠の一部が、發火のための磨擦面になつてゐる、――印刷用のインキがそのまま、摩擦面の塗料の代りになつてゐる、それが父の考案だつた。試みに擦つてみると、やはりそれは、うまい具合に火を發した。三十年も以前に作つた、父の手製の燐寸の焰、一穗のその焰に、私達は暫く私達の視線をあつめた。

 

三好達治「暮春記」(『全集9』所収)

「牛島の藤」

 地名の糟壁(かすかべ)というのは、なんだか洒落(しゃれ)た字面(じづら)のようにわたしは考えていたところ、ちかごろはこれが春日部と改められたようである。前者には雅趣があり、後者はただの平凡と思うのは、わたしのつむじ曲がりであろうか。そうかな。時世の変遷はこんな用字の一端にもあらわれて、どうやらわたしなどには受け取りにくい方向に移ってゆくらしい。それはともかく、箪笥屋(たんすや)さんの多い、その春日部の町を少し離れたところに、通称を牛島(うしじま)という一劃(いっかく)があって、そこに樹齢千年に近い古藤(ことう)がある。ただいまはだれやらの私邸内にとりかこまれているが、花どきのあいだは開放されて邸内に茶店なども出ているから、塩せんべいにビールなど傾けながら見物することができる。むろん天然記念物になっていて、樹勢はいまだ旺盛(おうせい)であるから、この先のこともまずわたし自身が心配することはない。開花のころには注意を怠らないでいると、新聞の片隅に至極簡単な消息ぐらいは出る。今年もそれを心待ちにわたしは待っているのである。桜のお花見は、いずこも同じ人出なのに辟易(へきえき)するのが例だけれども、牛島の藤(ふじ)はどういうものかそれほどの人出を見ない。それがまたありがたい。
 わたしは老樹を見るのが好きである。松杉欅(けやき)その他、亭々(ていてい)たる梢(こずえ)を仰ぎ見るのは、心気の遠くなるような感じがあって、気持ちの落ちつくものである。黙然(もくぜん)と対していると襟もとを正したいような思いもする。先年喪(うしな)った老母の上を、しぜんと回想しているようなことにもなる。命の久しく永いことは、そのことだけで尊敬に値する理由はないようなものだけれども、鬱然(うつぜん)たる老樹を見ているとしぜんと一種敬虔(けいけん)な気持を覚えるのをわたしはつねとしている。
 「牛島の藤」はその季節に美しい花をつける。上できの年には花房のたけは一メートルにもおよぶ。昨年は八十センチばかりでやや不作であったが、一昨年はたしかに一メートルに余る好成績であった。架け棚はテニスコート二つぶんくらいの面積である。その天井から揃(そろ)って豊かに垂れ下ったメートルまりの藤波は、あれはどうしてもあの濃紫(こいむらさき)でなければならない約束の納得のゆく美しさであった。虚空(こくう)にかけた美の洪水、とでも称していい、ふんだんなしっくりと落ちついた比類のない、壮観であった。
 「牛島」というのは、あの古藤にふさわしい、古樸(こぼく)な地名のようにわたしは覚える。春日部流儀にこの先も改字などしないがいいといい添えておこう。

 

 

三好達治「牛島の藤」

中野孝次編『三好達治随筆集』岩波文庫、1990年1月16日)